下関作家の田中慎弥作「共喰い」を読んだ。マスメディアやネット上では受賞後の、主に田中氏の受賞インタビューが主に報道されていて、作品についての話題は少ない。私が周りの人々から作品の読書感想を聞くと「印象が悪い」という。小説の舞台は下関の川の下流と海の岸辺に暴力的な父親の本妻、後妻、浮気、セックスなどが社会的倫理や血縁関係を超えて行われることは印象悪い。そこに17歳の少年自身も強い性欲をもってまきこまれていて、その内面を描いたものである。母(本妻)が父親を殺す。父と息子の関係が小説のテーマになっている。その場面を大雨の中で父親は母親の義手によって殺されたのは「気持ち悪い」と読者たちは言っている。しかしそれは大衆探偵小説のようにスリルを描いたものではない。象徴的な重厚な文体で暗示的に書いている。
作日の本欄で指摘したのち毎日新聞の三嶋さんから電話があった。彼は故郷の熊本の農村とは異なって、下関は文化交流によって刺激が多く作家がよく出ると話した。しかし「印象悪い」という住民の感想とはどう相応するものか。グスーヨン監督の映画「ハードロマンチッカー」「ブルコギー」などとも通じる舞台として下関はどうでろうか。やくざや暴力の町、その上、野蛮化しているセックスの町ということを表すのではないか。父親像は在日作家李恢成の小説から受ける印象に近い。しかしそれは下関という舞台の社会分析ではない。自由恋愛思想の普及により人間が動物化、野蛮化していく人間への反省を訴えるものである。田中はインタビューで「一つの時代が終わって一人の男が死ぬ」といったのがそれであろう。田中さんには「はがきエッセイ」の審査を依頼などして会って知っているという三嶋氏を通して、会って直接話をしてみたいと思った。