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Cioranを読む(13)


■旧暦1月26日、

(写真)道・ベルン

今日は、叔母の緊急入院で、疲れた。昨日から激痛を訴え、今朝、救急車で搬送。退院しても車椅子になる可能性が高いので、施設入居を考えないと仕方ない。介護も新たな局面に来たかという気がしている。今日は、ときおりの春の雪である。病院から戻って、各方面に連絡して、ようやく一段落。まぶたを閉じると、なぜが凍った湖面の凍鶴の姿が、しーんと浮かんだ。

いよいよ、深蒸茶の中毒になってきたようである。飲まないといられなくなるのは、塩分が足りなくなるためか。魂が渇くのか。さて、一杯淹れて、じっくりと行くか。



Épouvantement ― quel dommage que le mot ait disparu avec les grands prédicateurs! Cioran Aveux et Anathèmes p. 13

Épouvantement(底なしの恐怖に突き落とすこと)― この言葉が、偉大な説教師たちとともに、消えてしまったのは、なんとも残念なことである。

■説教に行動を従わせる手段として、恐怖を用いるのは、キリスト教や仏教にあるので、そうおどろかないが、問題は、この恐喝が効かなくなった理由である。一つは科学技術の進展によって、彼岸の存在が希薄になったことによるだろうが、科学技術は、今後、彼岸/此岸の境界をますますあいまいにしてゆくと思う。これは、現実に起きていることが地獄さながらであることと歩みを伴にしてゆくはずである。「地獄」の観念が現実によって無効化されてゆくプロセスは、「永遠」という古い観念が、新たな恐怖として浮上してくる可能性を秘めている。





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