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12月13日(月)のつぶやき

05:28 from goo
芥川龍之介の俳句(7) #goo_delfini2 http://bit.ly/e3hMS6
09:45 from web
poetic fragments 23 #poem #poetry >>> http://bit.ly/fUhrRj
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12月12日(日)のつぶやき

18:34 from web
Vielen Dank Angelika fuer RT :-) @haiku_shelf
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芥川龍之介の俳句(7)

■旧暦11月7日、日曜日、

(写真)シャルル・ドゴール

仕事部屋を掃除してから、やっとヘーゲル全集のケースから、『精神の現象学』上下巻を出す。金子武蔵訳である。これと長谷川宏訳を参照し、円高で安くなっている原書で確認しながら、マイペースで、検討を進めていきたいと考えている。ヘーゲルのドイツ語は、もっとも難しいドイツ語の一つ(社会哲学者 石塚省二)ということなので、興味津々である。

午後、ぶらり、図書館へ。以前から関心のあった『撰集抄』を借りる。これは、西行の作として、700年にわたって読み継がれてきた本(13世紀半ばに成立)だが、後代の擬作であることが現在でははっきりしている(700年も、騙されてきたのは、内容的にも面白かったからに違いない)。なぜ、この本に興味があるのかと言えば、第15段に「西行、高野の奥において人を造る事」というとんでもない話が載っているからである。わりと、言及されることも多い段なのだが、借りてすぐに、いつもの喫茶店で読んだ。文庫で3ページ足らずの分量なのに、情報量が意外に多いことに驚いた。西行が、風流を解する友を欲して「反魂の秘術」で人を造った話。その造り方。しかし、心がなかった話。どうすれば心ある人ができるかの具体的な話。西行以外にも人を造った事例が二つなど。なかなか、楽しめるのである。他の話も面白いのでは、と期待している。



癆痎の頬美しや冬帽子   大正7年

■一読印象に残る。癆痎(ろうがい)は結核のこと。病めるものに美を見出すのは、近代の感受性だろう。文学が一人宗教に近いもので、自己救済の手段でもあるのは、否定できない。自分を救うことで他者も救う。そのとき、自己は、貧・病・争・老などの否定的な環境にいる。救済の方向としては、そのまま、嘆く。価値を逆転させる。資質の似た先人にidentifyする、笑いで対抗する。などがありえるが、芥川の句は、病める対象に美を見出している(蕪村にもこういう句があり驚いたことがある)。このとき、芥川自身は、病者ではないが、病者へとまなざしが向う内的必然はあったはずである。

「結核」は、近代の病気というイメージがあるが、明治以前は、漢方で言う「肺労・労瘵」という病気に含まれていた。面白い事に、言葉として見れば、「肺労・労瘵」が文献に初出するのは、1862年の「七新薬」であるが、「結核」という言葉自体は、1565年の「全九集」にすでに見られる。「結核」は言葉としては古いのである。「肺労・労瘵」が「肺結核」と呼ばれるようになるのは、明治以降、病理が明らかになってからである。芥川がここで使用している「癆痎」という言葉は、なんと、1024年の「小右記」にすでにある。病理が不明だったとは言え、結核を表す言葉としてはもっとも古いのである。




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12月11日(土)のつぶやき

10:02 from web
poetic fragments 22 Going mad #poem #poetry >>> http://bit.ly/f0Mi7p
19:53 from goo
植民者の生活世界:村松武司をめぐって(1) #goo_delfini2 http://blog.goo.ne.jp/delfini2/e/b1d0e51a3fcb33418d65cb6553aced6e
21:19 from web
Thank you very much @apwpoet for #ff. I write plain English poems recently. That's a try to apply haiku's methods to poems.
23:20 from web
Vielen Dank Angerika fuer #followsaturday. Ich versuche einmal deutsche Gedichte zu machen. Aber es ist mir sher diffizil.
23:28 from web
@robinmarchesi I've read your "Law of Three." So interesting. It's a still poem, I think. I feel an oriental feeling.
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植民者の生活世界:村松武司をめぐって(1)

■旧暦11月6日、土曜日、

(写真)in Basel

今日は、朝から、阿佐ヶ谷の皓星社へ出かける。詩人・編集者の村松武司に関する書き下ろしのための資料を見せてもらうためである。事務所にあるだけでも、4、5箱分のノートやメモの資料。このほかに、貴重な詩誌『純粋詩』、『造形文学』、『列島』の束。これ以外に、JR高架下に借りた倉庫に、雑誌書籍の箱が15、6箱。相当な資料の山に嬉しくなる。

当面、月に一度のペースで通って、資料の読解から始めようと考えているが、キーコンセプトは「植民者の世界」である。村松武司は、1924年京城生まれ。戦後詩の出発点となった詩誌『純粋詩』や『造形文学』、『列島』に参加した詩人であるばかりか、自ら出版社も経営した編集者。

祖父の代からの朝鮮の植民者だった村松の生活世界とはどんなものだったのか、また、その周囲の人々はどんな人々だったのか。イデオロギー的な洗脳は、どう行われたのか、そもそも植民地とは何だったのか。そんなことを、村松の弟子にあたる皓星社社長、F巻さんと話していて、村松は、その点にも自覚的で、『朝鮮植民者』という本を1960年に出していることがわかった。まずは、この本の元になった資料を、先の資料の山から探し出すことが、先決である。

村松さんの奥さん方の系譜もなかなか、興味深く、奥さんの祖父に当たる人は、若いころ、大杉栄や山本飼山などと無政府主義運動に関わった人物。奥さんの名前は、大杉栄から取っている。

村松武司を語る上で、もう一つ、欠かせないのが、ハンセン氏病との関わりである。どうも、朝鮮にいた頃に、すでに、ライ病者との接触があったらしい。ハンセン氏病は、国との和解成立後、患者の高齢化が進み、規模的には、小さくなっているが、差別構造や国家と差別構造との関わりといった、より一般的なレベルで、アクチャルな問題を提起し続けている。この問題をどう考えるか。これも、村松武司を考える上で、避けて通れない大きなテーマだと考えている。

村松さんは、F巻さんにこんなことを言ったらしい。「朝鮮を懐かしがってはならない」





東明王陵への道行きで




                               村松武司







高速道路は元山へ
赤土の膚は地平に消え
われらもまた地平のなかに沈みつつ。
疾走するボルボの疼き腰を浮かせて
呉委員はしずかに語る
指一本立てるしぐさ
高句麗建国、朱蒙の説話
その王陵へ行く道で。

ポプラ並木 すべて葉は落ち
陽だまりの赤蜻蛉むれて舞いあがる
昨夜来の討論の辛い刺激は舌にのこり
なおも叢に伏して栄光煙草に火を点ける
呉委員 あなたも過去を語らず
齢相応の戦歴が
しずかな声のなかにしずむ
内戦は中学を卒えたころ
おそらく志願したのだろう
そのまま西部戦線
少年の足が踏んだ 仁川 ソウル
落ちた橋梁 枯れた川石
そして石はすべて炎を浴び
白い膚を失っていたのだろう

ウスリイの鶴のように
戦い終わって北に帰れば 瓦礫の故郷
落ちた橋梁 枯れた川石
そして石はすべて炎を浴びる…

松の丘陵に立ってあなたは指を一本立てる
不意に時がとまる/あれが定陵寺の跡
三国時代の回廊 石と炭がみえます。

秋の陽 滾々とあふれ
王陵から開く西への平野
ピョンヤンにゆっくり流れてゆく
流れのなか 統一国家を語り継ぎ
あなたも化石のように
陽を浴びる。







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12月9日(木)のつぶやき

18:14 from goo
知識と民主主義(Nico Stehr's lecture) #goo_delfini2 http://bit.ly/fzoQVj
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知識と民主主義(Nico Stehr's lecture)

■旧暦11月3日、木曜日、、太平洋戦争開戦日

(写真)古代ローマの遺物(アウグスタ・ラウリカ)

寒くなってきて、腰痛が出始めた。要警戒である。さて、運動を再開しないと。

夕食のとき、等時帯について、いろいろ話していて、標準時間とは別に独立に時間を設定する「独立時間帯」というゾーンが、地球上にあることがわかって、興味を持った。インドやアフガニスタン、イラン、オーストラリア中央部などがそうで、どういう経緯で、こういう地域に、このタイムゾーンができたのか、面白いことだなと思っている。調べてみたが、よくわからないのである。何か、歴史的な理由があるのかもしれない。



昨日は、ドイツのZeppelin universityNico Stehr教授のレクチャーに出る。テーマは「知識と民主主義」。教授は、この15年ほど、カール・マンハイムの研究に従事してきているが、もともと、科学知識や日常知識など、知識をめぐる問題に興味があって、それを体現しているのが、カール・マンハイムだったという。現在、ツェペリン大学カール・マイハイム講座教授。

知識が専門高度化することで、大衆の参加形態であるはずの民主主義に、参加することが、しにくくなっているという一般論を批判する形で、レクチャーは進んだ。地球温暖化問題にしても、交通システムの改革問題にしても、当該の問題について、高度な知識がなければ、政治的な判断は下せない。政治家も、民衆も、結局は、専門家の意見に従わざるを得なくなる。知識の専門化が民主主義への参加を拒む。これが一般的な「知識と民主主義」をめぐる問題のアウトラインである。

この問題は、知識と権力というテーマにも関連する。「知は力」であると訳されるベーコンの言葉は、「sciencia est potencia」であり、もともと、知識は可能性である、という意味だった。「知は力」というテーマは、二重の意味があって、一つは、知識は自然をコントロールする力になりえるというものであり、もう一つは、知識が民衆を抑圧する権力装置になるというものである。後者は、フーコーによって展開されたが、知識と権力の結びつきは、フーコーが言うほど、強いものではない。Nico Stehr教授は、知識の肯定的な側面に注意を促す。知識は、基本的にだれにでも開かれている。使い方によっては、プロテストの手段ともなりえる。こう展開した上で、教授は、一つのテーゼを打ち出した。

knowledge's a capacity for action.

知識は行動を生む力である。

これはすべての知識について言えるとしている。

※※※

楽観的と言えば楽観的だが、知識と行動を結びつけている点は、マルクシズムのpraxisの概念にも通じるし、ヴィトゲンシュタインの考え方とも非常に近いものがある。知識の専門化は、もはや、止められない事態であるから、知識の肯定的な側面に注意を喚起する議論は、意味のあることだろうと思う。

レクチャーの前後に、いくつか、質問してみた。第一に、ヴィトゲンシュタインの「言語ゲーム論」は、マンハイムの知識社会学と近い発想があり、言語ゲームの変化の要因に集団成員の「必要」をあげている。これは、「社会的利害」と言い換えてもいいもので、その意味では、マンハイムの「知識は社会集団が規定する」という考え方とも、「知識は利害関係に規定される」というマルクス・エンゲルスの考え方とも、接合できる可能性を秘めている。これについて、どう考えるか。

これは、難しい問題で、すぐに返答できる問題ではないという回答だったが、レクチャーの最後で、教授は、ヴィトゲンシュタインの「専門知識を知らなくても、われわれは幸福に生きて行ける」という言葉を引用して、回答してくれたように思う。それは、ヴィトゲンシュタインの言う「needs」というのは、全体としての人間のneedsであり、そこには、幸福も含まれるのではないかと。

二つめは、レクチャーに関する質問だが、高度な専門知識と日常知識は区分した方がいいのではないか、と言ったところ、うなずいていた。また、教授は、情報をoutcome、知識をprocessとして、この二つを区分したのだが、この二つは、概念上分けることはできても、現実的に分けることは難しいのではないか、という話をしてみた。というのは、知識は、商品化された知識として、パッケージで売られており、情報と区分がつけにくいからである。プロセスとしての知の生産に関与できるのは、現在では、科学者など、一部の知的エリートに限られる。知識と情報を区分するよりも、知の生産と消費という観点で区分した方が、あるいは、いいのかもしれない。また、知識がだれにでも開かれているというテーゼの前提には、教育の役割があるが、教育が市場の要請に方向づけられ、プロセスとしての知識ではなく、結果としての情報を提供する機関になりがちな点も、われわれが、良かれ悪しかれ、市場化された社会で生きていかざるを得ない点と関連するのだろう。

分析だけに終わらず、知識の肯定的な側面に留意し、行動と知識を結びつける教授の話は、悲観的な展望で終わりがちな社会分析にとって、今、もっとも必要なことなのかもしれない。



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12月6日(月)のつぶやき

01:17 from goo
L・Wノート:断片(Zettel)(3) #goo_delfini2 http://bit.ly/gS3J1v
12:59 from web
poetic fragments 21 Late life #poem #poetry >>> http://bit.ly/hPxL24
23:16 from goo
芥川龍之介の俳句(6) #goo_delfini2 http://blog.goo.ne.jp/delfini2/e/96b5d3bd67f643786af69d1c98828332
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芥川龍之介の俳句(6)


■旧暦11月1日、月曜日、、新月

(写真)in Basel

オールブラン+バナナ2本+キリマンジェロ一杯の朝食。昼、味噌けんちんうどん、夜、雑炊。今日は、終日、雑用に振りまわされた。懸案事項はだいたい片づいてきた。小平邦彦の『怠け数学者の記』を読み始める。

BSで吉田類の「酒場放浪記」を観る。妙に飲みたくなるなあ。家族で観ていたら、みんな同じ意見になったので居酒屋で忘年会をすることに。



胸中の凩咳となりにけり   大正7年

■説得力を感じた。確かに、咳には、そんな感じがある。



Sound and Vision






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12月5日(日)のつぶやき

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