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クリスマス


■旧暦11月20日、土曜日、、クリスマス、猛烈に寒い晩

(写真)Basler Muenster

クリスマスを詠んだもっとも古い句は、このあたりか。

クリスマスに小さき会堂のあはれなる  子規

物くれる和蘭人やクリスマス  虚子

好きなクリスマスの句は、

黒人の掌の桃色にクリスマス   三鬼

面白いと思うのは、

へろへろとワンタンすするクリスマス   不死男

■今年のクリスマスは、家で、ケーキを焼き料理を食する。ぼくは、もっぱら片づけ係。



Sound and Vision

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12月22日(水)のつぶやき

00:03 from goo
芥川龍之介の俳句(10) #goo_delfini2 http://bit.ly/hEzh1y
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芥川龍之介の俳句(10)


■旧暦11月16日、火曜日、

(写真)Augusta Raurica

介護は、時間と労力を取られる。しかも、体調の変化は、予想がつかない。関係者との連絡だけで、午前中、振りまわされていては、仕事にならないので、連絡を取る時間帯を決めることにした。メールがあれば、一番いいのだが、介護事業所には、パソコンが入っていないという。驚いてしまった。個人情報の管理などが、介護の現場では難しいのだろうが、情報通信機器を使わずに介護活動をすることは、今後は不可能になるのではないか。連絡に必要なだけでなく、パソコンに親しんだ世代が高齢化すれば、多様な使い方が現れるに違いない。体制を整えてほしいものである。

第一詩集の日本語訳をワンラウンド終了させた。あとがきと略歴も簡単に書いてみた。これで、年内に初校が出るので、正月は校正に専念できる。年末は、いったん、詩集から手を離して、翻訳と資料読解に専念する。明日からは、兼業の冬期講習が始まるので、夕方から夜の時間が使えなくなる。準備も入れれば、午後の時間もある程度、取られてしまうので、時間のやりくりが勝負どころである。



飯食ひにござれ田端は梅の花   大正7年

■こういう俳句は大好きで、一人にだけ向けて書く、個人的な俳句は、なかなか趣深い。こんな俳句をもらうと嬉しいだろうなと思う。この俳句、友人との関係の親しさが、「飯食ひに」に現れていて、惹かれた。飯を喰うのは、コミュニケーションの原点である。「梅の花」が効果的に斡旋されている。花見と食事。最高の挨拶ではないだろうか。もう一つ、この俳句を読んで思うのは、男同士の友情ということで、こういう言い回しや俳句は、女性同士では、なかなか、成り立たないのではないだろうか。女性の場合、どういう俳句になるか、もうちょっと、虚栄が入るような気がするのだが…。調べていないが、もし女性に向けて書いたとしたら、実に暖かい感じになると思う。






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12月20日(月)のつぶやき

02:00 from goo
芥川龍之介の俳句(9) #goo_delfini2 http://bit.ly/iksS6z
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芥川龍之介の俳句(9)

■旧暦11月14日、日曜日、

(写真)ローマ帝国の松(Augusta Raurica)

土曜日は、朝から4時間、Coal Sack社の詩人、鈴木比佐雄氏と、第一詩集の打ち合わせを行う。ぼくが考えていたイメージよりも数段素晴らしい編集案を提示していただき、一も二もなく、そちらに変更。村松武司関連の仕事も話し合い、進展と展望がみられた。この仕事は、一人村松武司について書けば終わりという簡単な問題ではなく、ライフワークとして、植民地問題やライの問題に取り組む必要があると感じ始めている。家で、ひと休みしてから、夕方、哲学塾に出る。ここでの、「ユダヤ人問題」の議論や、ルカーチの社会的存在の存在論の「社会的媒介」あるいは「社会のアプリオリティ」といった観点は、植民地やライを考える上で、非常に参考になる。その後の忘年会でもいろいろ議論。

今日は、朝方、叔母からの緊急通報で、慌てたが、A句会へ半年ぶりに出席。櫂先生を除けば、俳壇で唯一の理解者と言っていい、主宰の浅生田圭史氏ほか、懐かしい人々と会うことができた。第二句座の席題で、入選。もう一句、かなり連衆の支持を集めたけれど、自分としては、季語のあっせんが不満足だった。その後、忘年会。みなさん、まったく変わらないので、嬉しいやら懐かしいやらだった。今日は、それほど酔っていない。酒に弱いぼくとしてはめずらしいことである。また、「一日一句」を自分なりに再開するきっかけとしたいと考えている。



老骨をばさと包むや革羽織   大正7年

■「ばさ」に惹かれた。このタイプの句は、今も類句が多いと思うが、この句あたりが、源流ではなかろうか。


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12月17日(金)のつぶやき

09:55 from goo
L・Wノート:断片(Zettel)(4)noncommunicativeをめぐって #goo_delfini2 http://blog.goo.ne.jp/delfini2/e/70b895e0dc421b597dcdcc482b1d621d
16:17 from goo
芥川龍之介の俳句(8) #goo_delfini2 http://bit.ly/eLsnfy
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芥川龍之介の俳句(8)


■旧暦11月12日、金曜日、、歳の市、羽子板市(ともに浅草寺)

(写真)シャルル・ドゴール

冬の月猫の宴に入るべく

誕生日である。50回目。いやはや。その感慨を俳句にしてみた。もろもろ、50歳からの挑戦である。遅きに失したが、諸般の事情があったのだから、致し方ない。



杉凍てゝ声あらんとす峡間哉   大正7年

■ムンクの「叫び」を思い出して惹かれた。この感じは、谷間の世界の緊張が頂点に達していることを表しているように思う。世界の緊張は、ムンクは人間の姿を取っているが、芥川は冬の谷間の杉である。両者とも、世界の崩壊感覚があるように思う。そして、その感覚は、現代的であるとともに、分裂症的でもある。



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L・Wノート:断片(Zettel)(4)noncommunicativeをめぐって


■旧暦11月11日、木曜日、

(写真)スイス国有鉄道

朝から、仕事に入る。介護関係の手配や連絡、立ち会いなど。老人の体調は日々変化し、それに対応して手を打っていかなければならない。ケアマネやヘルパーさんたちの協力が有り難い。午後、久しぶりにウォーキング。気分が良かった。夕方、少し、眠る。夜、仕事。



32. Stell dir einen deiner Bekannten vor! Nun sag, wer es war! - Manchmal kommt das Bild zuerst und der Name danach. Aber errate ich den Namen nach der Ähnlichkeit des Bildes? - Und wenn nun der Namen dem Bild erst nachfolgt, - war die Vorstellung jenes Menschen schon mit dem bild da, oder war sie erst mit dem Namen vollständig? Ich habe ja auf den Namen nicht aus dem Bild geschlossen; und eben darum kann ich sagen, die Vorstellung von ihm sei schon mit dem Bild gekommen. Werkausgabe Band 8 suhrkamp 1984

きみの知り合いを一人思い浮かべてくれ。思い浮かべたら、それが誰なのか言ってみてくれ。顔が最初に浮かんで、名前は後から出てくることもあるだろう。このとき、名前が出てくるのは、その人がその顔に似ているからなのか。顔が先で、名前が後から浮かんでくる場合、その人の観念は、顔と同時に存在するのか、それとも、名前が出て来て初めてその人の観念となるのか。わたしは、その顔から、名前を導き出したわけではない。まさにこの理由から、その人の観念は、顔が浮かんだときにすでに存在していたと言えるのである。


■このメモは、はじめ、ぼくには、よく理解できなかった。ヴィトゲンシュタインの「言語ゲーム論」を踏まえれば、名前が浮かんだときに当の観念が完成されると考えるはずだからだ。このメモは、ヴィトゲンシュタインの理論形成プロセスの揺らぎの一つなのだろうと、考えて、しばらく放っておいた。最近、大森荘蔵の『時は流れず』を読んでいて、このメモの意味を再度考える機会を得た。大森荘蔵は、「過去」を問題にする。大森の考え方を端的に言えば、「過去は社会的制作物」ということになる。このとき、その制作物が、個人的なものではなく社会的なものになるには、二つの条件をクリアする必要がある。一つは、複数の人間の想起が一致すること、二つは、現在世界への整合的接続があること。大森荘蔵の時間論は、今、関心を持っている「植民地の問題」や「ライ病の問題」との関連で、重要な論点を含むので、別途、ここで、詳しく検討する予定だが、今は、深く立ち入らない。

今、問題にしたいのは、大森荘蔵の概念、「知覚的図解」である。過去は、われわれの想起と切り離して考えられないが、実在する過去がアプリオリに存在して、それを後から、われわれが想起するのだという常識論を、大森は否定する。過去は、想起すると同時に作られるからだ。このとき、過去が過去になるのは、一人の想起ではなく、先の二つの真理条件を満たすことで、はじめて社会的な過去となる。過去とは、そもそも、社会的な過去である。この議論は、非常によくわかる。

大森は、このときの「想起の仕方」を問題にする。たとえば、昨日の天気を想起するとする。「昨日は雨だった」このとき、過去の想起とは、雨が降っている知覚映像が想起されるが、それは、常に、現在形であり、雨の匂いや、雨粒の様子を、知覚として、詳しく検討することはできない。過去の想起に伴い発生する知覚イメージを大森は「知覚的図解」と呼んでいる。この特徴は、夢の想起と同じように、画像は補助的なもので、過去の想起は、「昨日は雨だった」という言語命題で、初めて成立する。われわれが過去を想起する時、生々しい画像イメージが生じるのは、この言語命題を説明補助する役割を持つもので、過去の想起とは、言語命題の集合体だというものである。

大森荘蔵が、「知覚的図解」は過去ではない、とする論拠は、映像が現在形であること、知覚的映像の詳細を、目の前にあるように、詳しく検討できないこと(夢の在り方に対応している)がおもだが、こう言われても、なかなか、知覚的想起が過去ではない、とする議論は受け入れにくい。あれほど、昨日のようになまなましく、思い出せるのに、なぜ、これが過去ではないのか、あれほどの心の痛みをともなって映像が浮かぶのに、なぜ、過去ではないのか。

大森の議論の大筋は、納得できるが、知覚的想起が過去ではない、という説明が納得できない。そう思いながら読んでいた。問題は、その説明の仕方にある。知覚的想起が過去ではないのは、夢と同じように、noncommunicativeだからだ。それとしては伝達不可能だからだ。イメージはどこまでも鮮明だが、言語に変換することなく、そのまま、他者に伝えることができない。夢が、言語化されたときに、初めて夢として存在するように、知覚的想起は、言語化されて初めて、先の二つの真理条件をクリアする条件を整える。もし、人類が、言語ではなく、知覚で直接コミュニケーションできる生物だったら、知覚的想起は、即、真理条件の対象になるはずである。

知覚的想起は、noncommunicativeという点を、とりあえず、指摘しておきたい。さて、ヴィトゲンシュタインの断章に戻ると、ここで言われているdas Bild(像)やdie Vorstellung(観念)が、大森の云う知覚的想起に対応し、der Name(名前)が、命題に対応することは、比較的に見て取りやすいだろう。ヴィトゲンシュタインの問題は、どの時点で、観念が完成するのか、という問題だった。これを大森の問題意識で、言いかえれば、どの時点で、過去として完成するか、ということである。ヴィトゲンシュタインの答えは、観念が浮かんだとき。その理由は、像から名前を推理しなかったから。つまり、知覚的想起が起きたときに、過去は完成している。なぜなら、知覚的想起から命題を推理したわけではないから。知覚的想起と命題は切れている。云いかえると、ここでの、ヴィトゲンシュタインの議論は、観念がアプリオリに存在する、というプラトンの観念論に近い。

大森は、この反対である。名前が浮かんだとき、過去が完成する。理由は、観念や像は常に「現在形」であり、また、観念や像の詳細を想起することはできないから(ちょうど夢の中のように、花の匂いは思い出せない)。ただ、この理由は、なかなか、納得できる論拠ではないように思う。子どもの頃の自分や若かりし父の知覚想起など、過去の知覚的想起もあるし、「現在形」と言った時点で、知覚は命題化されてしまう。つまり、知覚と命題の関係を議論するときに、関係そのものが先に前提されてしまっている(そもそも、当該の命題(知覚的想起)が過去なのか現在なのかは、命題(知覚的想起)の時制が決定するというよりも、その命題(知覚的想起)の場面や文脈が決定するではないだろうか)。また、花の匂いのような知覚的想起もあるではないかと思えるからである。

知覚的想起は、それだけではnoncommunicativeであり、命題に変換されてはじめてcommunicativeになると説明された方が納得しやすい。大森の議論には、人間は社会集団の中で、活動するという前提があり、その意味では、現実的な議論であるが、ヴィトゲンシュタインの断章に出てくる人間は、単独者である。つまり、観念を伝達する必要のない人間が前提されている。この意味では、ここに登場した人間は、いかなる観念共同体にも属さない。その意味では「哲学者」なのだと思う。これは、また、マルクスが批判した意味での「哲学者」であり、ヴィトゲンシュタインその人のスタンスを現わしているのだろう。


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12月14日(火)のつぶやき

00:12 from web
Thank you so much @BeyondRoses for introducing my poem on your charming blog :-)
23:18 from goo
Pierre-Laurent Aimard Piano Recital 2010 #goo_delfini2 http://blog.goo.ne.jp/delfini2/e/0d5aae8f652201549883358248776d63
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Pierre-Laurent Aimard Piano Recital 2010

■旧暦11月9日、火曜日、

(写真)Einstein Haus in Bern

昨夜は、ピエール=ロラン・エマールのリサイタルへ行く。プログラムは、以下のとおり。

バルトーク 四つの哀歌 op.9aから第4番

リスト 巡礼の年第3年から「エステ荘の糸杉に寄せて―葬送歌第1」

メシアン 鳥のカタログから「カオグロヒタキ」

リスト 巡礼の年第1年「スイス」から「オーベルマンの谷」



リスト 巡礼の年第3年から「エステ荘の噴水」

ラヴェル 鏡

悲しい鳥たち
洋上の小舟
道化師の朝の歌
鐘の谷



アンコール

クルターク:「ピアノのための遊び」より フェレンツ・ベレーニ70歳へのオマージュ
バートウィッスル:Harrison's Clocks
ブーレーズ:ノタシオン第9、10、11、12番
ベンジャミン:「ピアノ・フィギュアズ」から 第6、8、9、10番
メシアン:8つの前奏曲から 第3番「軽やかな数」
カーター:Matribute
シェーンベルク:6つのピアノ小品 op.19

■よく考え抜かれたプログラムだと思った。リスト晩年の現代音楽に通じる「巡礼の年」を基礎にして、リストの水の音楽的な描写から強い影響を受けたラヴェルと、同じように、鳥の世界を全体的に、音楽で描写しようとしたメシアンの「鳥のカタログ」を配し、一番初めに、バルトーク初期の過渡期の作品を持ってきている。プログラムが、現代音楽の源泉を提示しているのに対し、アンコールは、そこから出てきた現代音楽そのものを提示してくれた。これだけで、優に一つのプログラムであった。アンコールの多さからわかるように、絶賛の嵐で、現代音楽のアンコールを一曲弾くごとに、まさに本領発揮といった感じで、すばらしいので、また、拍手が鳴りやまなくなり、次のアンコールを誘発するといった感じだった。

プログラムでは、一曲目のバルトークが一番面白かった。バルトークは、どの曲を聴いても、バルトークとしか言いようがない何かを持っていて、現代的でありながら、それが、上滑りしないのは、同時に深く民俗的だからだと思う。メシアンは、好きな作曲家だが、「鳥のカタログ」を聴いて考え込んでしまった。いや、エマールのピアノと相まって、実に素晴らしいのだが、その素晴らしさをどう表現していいのか、困るのである。メシアンの意図は、「カオグロヒタキ」の声だけをピアノで再現するのではなく、その周囲の、小鳥たちや、風の音や光の感じ、海の情景など、いわば、「カオグロヒタキ」の世界全体をピアノで再現することにあったと思うが、その意図自体が、きわめて、近代的というか、科学的な感じを受けるのである。つまり、その場に立って、カオグロヒタキの世界を享受することに勝てるのだろうか、という疑問がどうしても湧いてくるのである。自分の外部の世界を音で写し取ろうという意図は、フランス系音楽に特徴的だと思うが、メシアンの「鳥のカタログ」に関して言えば、名称が表現しているように、「カタログ」であって、ドビュッシーやラヴェルのように成功しているとは思えないのである。これに関連して、リストの「エステ荘の噴水」は水の感じを音で表現しているのだが、春の噴水のように甘く平和で、ラヴェルの「水の戯れ」と比べると、対照的で興味深い。

アンコールの現代音楽は、知らない作曲家も多く、楽しめたが、一曲目のクルタークが一番印象に残った。小さな音で、沈黙がにじり寄って来るような音楽。

現代音楽は、主客が分裂して物象化された音楽、理論的な展開からのみ作られた音楽、笑いがない音楽、パフォーマンスを意識しすぎた音楽といったイメージが強く、どうも積極的に聴く気になれないでいるが、エマールのプレイなら、聴いてみたいと思った。ベートーヴェン、バッハと現代音楽を組み合わせたプログラムを、いつか聴いてみたいものである。



Sound and Vision
















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