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L・Wノート:断片(Zettel)(5)


■旧暦12月21日、月曜日、、大逆事件百周年

(写真)ワイン畑

坂の白梅が7分咲き。これが花開くと、春が来たという実感がわく。

今日は、やたらに忙しかった。皓星社のF巻さんから村松関連記事の掲載誌情報を送ってもらったので、近いうちに国会図書館まで調べに行く予定。国会図書館には、一時期よく調べもので通っていたが、最後に入ったのは、今から、20年前。なんと、そのとき、爆破予告の電話がかかり、全員退去させられたのである。嘘みたいだが、当時は、その手のいたずらが何回か連続してあったのである。眠いので、夕方、一時間じっくりウォーキング。このままいけば、ランに移行できる日も来るのではないか、と予感させるような快適なウォークであった。



植民地の問題とマイノリティの問題は、ただ、実証的に検討すればいい問題だとは思っていない。そもそも、実証主義は、資本による存在の物象化を正当化するイデオロギーだと、僕は考えている。もちろん、それも、使い方によっては、有効な武器になるとは思う。L/Wノートは、「時間・空間・イデオロギー・身体」といったテーマをめぐる、理論的な考察のためのノートの一つという位置づけでいる。こうした考察と植民地問題、マイノリティー問題がどうリンクするかは、まだ、よく見えないが、いずれ、根本的な形で交差してくるはずである。

55. Wie alles Metaphysische ist die Harmonie zwischen Gedanken und Wirklichkeit in der Grammatik der Sprache aufzufinden. Wittgenstein Werkausgabe Band 8 Zettel Suhrkamp Verlag 1984

あらゆる形而上学的なものにも言えることだが、思考と現実は、言語の文法の中で一致する。

■断片55のメモは、思考の現実化、現実の思考化は、その言語の文法に規定されるということだろうと思う。それはわかるが、ヴィトゲンシュタインを読むと、感じることの一つに、詩をどう考えていたのか、というのがある。文法的に誤っていると理解不能になるだけなのだろうか。詩的言語と思考の関係はどうなのだろうか。

たとえば、「神を微分せよ」という文はどうか。これは、詩として理解されるのだろうか。



Sound and Vision







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1月23日(日)のつぶやき

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一日一句(5)




深蒸しのほのかに甘き小春かな





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