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Pascal 『Pensées』を読む(8)


■旧暦11月29日、月曜日、

(写真)in the burbs of Basel

ゲラの戻し。年賀状書き。初詣。日が傾くと、急に寒くなる。そう言えば、モスのココアがやけに美味かった。年頭所感。



ヴィトゲンシュタインの言語ゲーム論の基本は、意味はなにが決めるのか、という問題だった。言葉と物の関係で、言葉が指し示す物が、その言葉の意味を決める。これが外山滋比古氏をはじめとする、常識的な考え方である。たとえば、犬という言葉と、それが指す生物の犬と。指示される物がその言葉の意味を決める。ヴィトゲンシュタインは、その言葉が使用される具体的な場面が、その言葉の意味を決めると考える。子どもが、白い犬を指さしながら「犬」と言えば、その白い犬のことを意味しているが、その子どもが「犬!」と言ったらどうか。それは、家で、今度飼う動物のリクエストかもしれないし、友だち同士のクイズの答えかもしれない。

ところで、パスカルは、断章654で次のようなことを述べている。

Les sens.
Un même sens change selon les paroles qui l'expriment.
Les sens reçoivent des paroles leur dignité au lieu de la leur donner. Il en faut chercher des exemples.



意味。
同じ意味でも、それを表す言葉が違えば、違ったものになる。
言葉が意味に品を与えるのであり、意味が言葉に品を与えるのではない。
その例をさがしてみなければならない


■言葉の使い方や使われる場面が、その言葉に品を与えるのであり、何らかの所与の意味内容が言葉に品を与えるのではない、と考えることができるように思う。言語ゲーム論という一般理論は、パスカルは構築していないが、ヴィトゲンシュタインにかなり近いところまで来ていると思う。



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