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芥川龍之介の俳句(14)

■旧暦12月1日、火曜日、

(写真)in the burbs of Basel

今日は、朝から、叔母をA神経内科病院へ連れて行く。面談・診察・検査でほぼ、一日がかり。車いすの老人に付き添うのは、いつものことながら、著しく疲労する。結果は、2月になるが、このときには、ぼく一人で行くことにした。帰宅後、ヘルパーさんの代わりに、洗濯物を干し、食事の用意をしてから、仕事。夕方から夜にかけて、冬期講習。今日は、フラフラである。風呂でも入って寝よう。



頓服の新薬白し今朝の秋   大正7年

■怖い俳句だと思った。俳句の「俳」は、白川静によれば、「二人並んで戯れ演じること」であり、「たわむれる、たわむれ、おどけ」の意味に用いる。この話から、こういうことを感じる。俳句は、言葉だけの世界ではなく、演じるという行動も射程に含んいること。また、社会や共同性のapriorityが前提であり、挨拶(人だけではなく自然に対しても)が、その重要な具体化であること。さらに、それらすべてを「笑い」が貫いていること。芥川さんの俳句は、よくも悪くも、近代俳句のエッセンスが実験的に詰まっており、そのため、惹かれることも多いのだが、逆にまた、近代俳句が、何を見失ってきたのかも、明瞭に示しているように思う。ポストモダン状況を踏まえると、「時代」という名の後期資本主義を追いかけて行くよりも、それが見失ってきた要素を丹念に掘り返しながら詠む方が、あるいは、アクチャルな鉱脈にぶつかっていくのではなかろうか。











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