電脳筆写『 心超臨界 』

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( ソルジェニツイン )

金銭を見ること爵位より尊し――安田善次郎

2024-09-06 | 08-経済・企業・リーダーシップ
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日経新聞「やさしい経済学」が日本の企業家を特集しています。今回の企業家は、四大財閥の一角、安田財閥を築いた安田善次郎。解説は、一橋大学教授・寺西重郎さん。以下にダイジェストを記します。

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寺西重郎(てらにし・じゅうろう)
42年生まれ。一橋大卒。同博士。専門は金融論
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年表・安田善次郎
1838 現在の富山県に生まれる
1858 江戸に出て両替商などに奉公
1864 日本橋人形町通り乗物町に乾物兼両替商の安田屋を開く
1866 日本橋小舟町に移転、両替商に専念、安田商店と改称
1876 第三国立銀行設立
1880 合本安田銀行を開業
1882 日本銀行の創設に参加、開業にともない理事に
1904 百三十銀行を救済
1907 日本電気鉄道設立を申請
1908 浅野らと鶴見埋立組合を結成
1910 東京湾築港計画が脚下される
1921 東京帝国大学への講堂寄付が受理される。大磯の別荘で凶刃にたおれ死去


[1] 銀行家と個性 2006.01.16
四大財閥の一角、安田財閥の創始者安田善次郎の生涯をたどることによって、金融のあり方を考えるためのヒントをさぐってみたい。

安田善次郎は、富山の下級武士の子として生まれたが、その類まれな才能と努力で財閥を築き上げた。その中核は戦後富士銀行と名前をかえる安田銀行であり、安田銀行と関連する保険・信託・系列銀行などを合わせたグループ資産の4割超は金融関係であった。

また1928(昭和3)年ごろのグループ企業の払込資本額の合計(概数)は、三井の8億5千万円、三菱の5億9千万円に次ぐ3億6千万円であったが、傘下の金融機関の資金力では三井の9億8千万円、三菱の9億2千万円をはるかにしのぐ14億3千万円に達していた(高橋亀吉『日本財閥の解剖』)。

こうした巨大な金融コングロマリットの誕生の背景には、「根っからの銀行家」と評される善次郎の卓越した銀行経営能力とともに彼の事業の進め方の個性がある。彼の金融資本市場とのかかわりは単なる銀行家の域を超えており、いわば市場を知りつくした銀行家であった。

また善次郎は、ひたすら自己の事業の拡大に専念した人であった。勤倹と克己に徹し、ときには大胆にリスクをとった。しかし、彼の後半生は、金融的支配力に対する世間の強い反発への対応に追われるようになっていく。


[2] 露天両替商から 2006.01.17
善次郎は、20歳のとき江戸に出る。日本橋の両替商などに奉公したのち、銭両替商として独立。しばらくは戸板に銭を並べた露天商だったという。しかし、25両の元手で始めた安田屋(後に安田商店に改称)の資産は1868年初めには約2千両、70年初めには1万4千両超にも膨らんだ。

当時の両替商の業務は、金貨、銀貨、銭の三貨間の両替、相場取引、古金銀の鑑定、預金貸し付けなど多岐にわたった。

幕府が天保以前の金を多く含む古金貨の回収に動くと、新参者の善次郎にも金含有量が少ない新金貨との引き換えの業務が依頼された。治安の悪化から従来の金座と本両替商では十分応じられなかったからである。これにより善次郎は多額の手数料収入を手にした。

維新後、新政府は太政官札(金札)の発行と流通を両替商に依頼した。日本橋の両替商組合は10万両を引き受け、その一部が善次郎の担当となった。金札の金貨に対する相対価格は大幅に下落していたが、その後政府の「正金金札等価通用令」などで市価は上昇に転じ、善次郎はここからも利益を得た。

さらに、彼は維新政府の発行した各種公債の価格下落をみて大量に買い付け、巨利を得たことが近年の研究で明らかになった。

[3] 投資銀行業務 2006.01.18
善次郎は1876(明治9)年、第三国立銀行の設立に参加し、筆頭株主として頭取となる。80年には安田銀行を設立。資本金20万円の私立銀行であった。

銀行家として善次郎は、その細心な注意と怜悧(れいり)な計算による貸出行動によって、高い名声を博す。貸出審査報告を受けても、最後は必ず自分で実地検分した後に可否を決定した。融資に際し情実をはさまなかったのも有名である。

一方で、善次郎は新しい金融業務に積極的に挑戦した。その中心は公社債の引き受け分売、すなわち米国流の投資銀行業務であった。安田銀行における証券課の設置は99年で、三井銀行の1926年などよりかなり早い。徳島鉄道会社債をはじめグループによる社債の引き受けも、銀行界では先発組だった。しかも05年に担保付社債信託法が施行されると、普通銀行の先陣を切って免許を取得している。

社債引き受けにあたり善次郎は将来の新株発行時の引き受けを約束させたり、安田銀行から取締役を送り込んだりして、企業と密接な関係を築いていった。

もっとも、安田銀行グループの高成長の原動力は、危機に瀕した銀行の救済と合併によるM&A(合併・買収)戦略であった。当時は短期間に何十も銀行の破綻や設立があった時代で、善次郎の銀行家としての名声が広がるにつれ、救済の申し入れは後をたたなかった。救済要請の多くは、県知事、日銀総裁、蔵相或いは政界の要人を介して安田に寄せられた。彼はきわめて用心深くそれらから取捨選択したとみられる。


[4] M&A路線 2006.01.19
善次郎は、銀行の救済活動を「一片の慈悲心」と「産業上の悪影響をみるに忍びぬという国家的観念」に基づいて行ったと述べているが、その活動が、安田グループの地方金融網の拡大という戦略的目的に沿ったものであったことは明らかであろう。

傘下に有力な事業会社をもたない安田グループとしては、比較的高金利の地方金融市場は資産運用市場として貴重な価値をもったと考えられる(浅井良夫氏による)。ただし、必ずしも世間受けのよいものではなかった。

たとえば、日露戦争がはじまった1904(明治37)年、百三十銀行が経営困難から臨時休業に至った。善次郎は桂首相などから依頼を受けるが、あまりの資産内容の悪さに救援を断る。しかし放置できずに6百万円の資金支援(日銀経由)を条件に救済を引き受け、数年で再建に成功した。ところが、全国の新聞の多くが「国家の危機存亡の折に巧みに政府に取り入り国庫から資金を引き出して私腹を肥やした」などと誹謗した。

安田銀行は、その巨大な資金力を背景に積極的な株式取引で大規模な投機利益を得た可能性がある。

たとえば1910年代には実に受け取り利息の2割超もの株式売買益を計上した時期もあった。あの第一次大戦後には、安田系銀行が売り方に立ったことが株価の大暴落につながったといった記事もみられる。


[5] 一握りの成功者 2006.01.20
善次郎の人生訓と経験をとりまとめた『富の礎』に、彼自身の手になる「明治成功録」と題する一文がある。このなかで彼は、成功した実業家として自らを含むトップ24人を挙げている。

ここからは、露天の両替商から身をおこした善次郎が決して例外的な成功者でないことがわかる。たとえば、古河財閥をつくりあげた古河市兵衛は小野組の番頭にまでなったが、かつては豆腐売りであり、大倉財閥の大倉喜八郎は越後から出てきて乾物屋から身をおこした。川崎財閥の川崎八右衛門も、もとは茨城の商人であった。森村グループの森村市左衛門は江戸京橋の袋物商人であったし、村井グループをつくった村井吉兵衛も元々、京都の煙草商であった、等々である。

このなかには、渋沢栄一のように近代産業の育成による日本の富国化を生涯の目標とした者もいたし、岩崎弥太郎のように政治・行政の世界で進めた国造りを実業の世界において実践しようとした者もいた。しかしながら、おそらく大部分の当時の財界リーダーは善次郎と同様に、単に「千両の分限者」となることをめざした結果、その財をなし、日本を代表する実業人となったのであろう。

善次郎の成功の裏には二つの弱点があった。そのひとつは、その事業が彼の個人的能力にあまりに依存していたため、専門的経営者、特に非金融事業を担うスタッフが育たなかったことである。いまひとつは、ひたすら自己の信念に従って生きる生き方が、「民」主導から「官」中心へと時代が大きく変化しようという状況にあったなかで、多大な批判と軋轢を生んだこととである。


[6] 個人の力と情報 2006.01.23
善次郎は、主要な銀行貸し出し、案件の処理、公社債の引き受け先の選定や大規模な株式投機まで、おそらくすべて自身で行ったと考えられる。その手法は、当時の資産家、事業家間に広く発達していた情報ネットワークの活用であった。事業の拡大とともに中央・地方のあらゆる代表的財界人との間に濃密な情報ネットワークが構築されていった。

こうした情報インフラに基づいた事業展開は、濃厚な個人情報網の上に機能するシリコンバレー・モデルがそうであるのと同じ意味でおそろしく効率的であった。しかしながら、それは巨大な資金の運用であったため、情報ネットワークの外部にいる一般人には、すこぶる独占的専制的行動として映ったと思われる。

善次郎は忠実な使用人としてのスタッフを集めることに力を入れ、現場スタッフを強化することにも強い意欲をもっていた。自分の敷地に寄宿舎を設け、家塾制度で当時の中卒者を教育・訓練したのもその表れである。

自己の情報網と能力にのみ基づいた事業展開は、専門的経営者を欠く結果となった。三井や三菱のように高等教育を受けた人材を高給でスカウトすることには消極的で、「安田家に人無し」ともいわれた。


[7] 産業からの遊離 2006.01.24
善次郎は銀行業で得た巨額の資金と信用をもとに、当初は、非金融的事業に積極的に乗り出していった。直営事業では、北海道の硫黄鉱、釘製造業などに関与したし、鉄道、船舶、電力関連などさまざまな事業に投資した。しかし、これらは少数の例外を除き、いずれも十分な成功をおさめなかった。最大の理由は非金融事業の各専門分野をカバーして善次郎を支える人材が全般的に不足していたことであろう。

大正期以降、善次郎は同じ富山出身の浅野総一郎の事業への関与を強め、両者は次第に一体化したかのような状況になる。しかし、善次郎の没後、このことは一時安田そのものの経営にも響いていく。東洋汽船などの浅野への支援が不可避になり。一方、安田銀行の預金は、世界恐慌などの余波もあって次第に減少し、賞与の支払いにも困るほどの状況に立ち至ったこともあるといわれる。

善次郎は浅野の手腕と人柄を見込んでその事業にコミットしたようだが、その際、浅野の行う近代的事業をどれだけ深く理解していたかは疑問である。善次郎にはそれを補佐する人材もいなかった。当時の安田に関してエコノミストで経済史家の高橋亀吉はつぎの二つの問題点を指摘している(『日本財閥の解剖』)。

第一に、三井銀行があるモスリン会社に貸し付けを行う際に不安視する向きがあったが、三井の池田成彬(のちに日銀総裁・蔵相)は「三井物産が入念に調査したから大丈夫」と答えた。安田にはこうした非金融の視点から事業を審査するシステムがない。

第二に万一貸し付けが固定になったばあい、その事業を引き受け再生させざるをえないことがありうるが、安田はそうした産業経営のスタッフを擁していない。


[8] 国家と個人 2006.01.25
善次郎の個人主義に徹した生き方はある意味ですがすがしく痛快である。

何よりも安田には官辺にとり入るため官金取扱権の代価を提供した形跡がほとんどないことが、油井常彦氏の研究などで確かめられている。これは安田とは比較にならないほどの官金預金を導入した三井銀行が、政府関係への断りきれない貸し出しを増やし不良債権に悩んだのと対照的である。

また善次郎は公的な栄誉や財界活動についておそろしく淡白だった。周囲に担がれ衆院議員に当選したが、結局辞退したし、日銀についても設立に尽力したものの、理事の職は早めに退いている。政府の音頭で進められたある社会事業では、百万円の寄付を条件に爵位授与の可能性を示されたが、寄付額は30万円にとどめた。世間は「金銭を見ること爵位より尊し」と陰口をたたいたといわれる。

善次郎の生き方は、二つの背景から批判の対象となっていった。第一は、官と公を重視する国家主義的気風の台頭であり、第二は、金融インフラが十分に整っておらず、いまだマイノリティー投資家の保護が十分でなかった時代にあって、巨大資金の運用者の社会的責任が問われはじめていたと考えられる点である。

彼は1921年に大磯の別邸で凶漢に襲われ不慮の死をとげるが、訃報に接した渋沢栄一の談話が興味深い。

「あるとき、善次郎にある事業への寄付を勧誘したところ、その6千円の事業が本当に国家の為の事業ならば、日本国民が1人1円拠金すれば立所に6千円集まるではないかと言われ、それが出来ぬからこうして頼んでいるのだと言い合いになった」というのである。渋沢は善次郎が「其資金力と勢力を今少し国家のために用ひて呉れたならば、と痛切に感じさせられるものがある」と結んでいる。
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