電脳筆写『 心超臨界 』

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( ウジェーヌ・イヨネスコ )

オランダ安楽死の発端は71年の「ポストマ事件」――三井美奈

2024-05-24 | 04-歴史・文化・社会
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73年2月、判決が下った2日後、「自発的安楽死協会」が、1600人で設立され、延命治療の拒否や将来の安楽死希望を表明するアドバンス・ディレクティブ(事前指示)の普及活動を開始した。5年後には、会員数は1万人を突破。「安楽死宣言書」の協会への預託者数は2万人に達し、オランダ安楽死運動の中心的存在に成長する。


◆オランダ安楽死の発端は「ポストマ事件」

『安楽死のできる国』
( 三井美奈、新潮社 (2003/7/1)、p27 )

オランダといえば、チューリップや風車、運河のそばで牛が草をはむ豊かな牧場を連想する人が多いだろう。だが、オランダ、特に北海沿岸は、短い夏をのぞき1年の4分の3はどんよりと暗い雲に覆われる。真冬となれば運河は凍り、北海からの潮風にあおられるみぞれに打たれながら、人々はひたすら春を待つ。一昔前までは、産業といえば暖炉の燃料用泥炭(でいたん)や酪農しかなかった。

こうしたオランダ最北フリースラント州の小都市オストステリングベルフで1971年に起きた安楽死事件が、オランダの安楽死合法化運動の発端となった。

事件の主人公は、この地で開業するヘルトルイダ・ポストマ女医。脳溢血(のういっけつ)のため半身マヒ状態にあった78歳の母親に請われ、2百ミリグラムのモルヒネを注射して安楽死させた。

母の求めに対し、ポストマ医師は最初、「そんなことはできないわ。犯罪よ」と断った。母は絶望から、何度もベッドから落ちて自殺を試み、病室に運ばれた食事を床に投げ落として看護を拒んだ。女医は、死を求める母の姿にいたたまれなくなり、決意をした。母親が入居していた看護ホームが、女医の行動を見て、「いかに母親でも殺人は許されない」として告発し、女医は嘱託殺人で起訴された。

裁判は意外な展開をたどる。女医に日ごろ世話になっていた村人たちが裁判の行われたレーウワールデン地裁の前で、女医の救援運動を行った。「先生はいい方です。やむを得ない事件だったんです。どうか助けて」と、女医の無罪を訴え2千の署名を集めた村人の姿は、新聞やテレビで大きく報じられた。やがて、女医と同様に患者に請われて安楽死を行ったと告白する医師や、安楽死容認を訴える法律家も出現。裁判は、一気に「安楽死の是非」を問う国民論議に発展してしまった。

裁判は結局2年を要した。1973年、レーウワールデン地裁判決は、患者の死期を早めても、患者の苦痛をとるための鎮痛剤投与は容認されるという立場を示し、その要件として、

  (1) 患者は不治の病にある
  (2) 耐え難い苦痛がある
  (3) 患者は死にたいと希望している
  (4) 実施するのは医師で、他の医師と相談した

の4つを示した。ポストマ医師は、患者を即死させる致死量のモルヒネを使ったことがとがめられ、1年間の執行猶予付き禁固1週間という「形式刑」が下った。

秘密裏に行われていた安楽死に、「違法だが理解可能」というお墨付きを与えたのだ。「ポストマ裁判」の反響は、一過性に終わらなかった。女医の救援運動は、医師や弁護士も加わって、安楽死合法化を求める市民運動に変わった。

73年2月、判決が下った2日後、「自発的安楽死協会」が、1600人で設立され、延命治療の拒否や将来の安楽死希望を表明するアドバンス・ディレクティブ(事前指示)の普及活動を開始した。5年後には、会員数は1万人を突破。「安楽死宣言書」の協会への預託者数は2万人に達し、オランダ安楽死運動の中心的存在に成長する。

また、ポストマ裁判判決を受けて、オランダ王立医師会は73年、患者が不治の病にあり、本人が自発的に要請したことを前提に、生命を縮めるおそれがあっても患者にモルヒネなどの苦痛緩和薬を与えることを認める立場を打ち出した。

安楽死容認に向け、突破口が開かれた。
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