電脳筆写『 心超臨界 』

知識の泉の水を飲む者もいれば、ただうがいする者もいる
( ロバート・アンソニー )

民間事業は公器であり奉仕でなければならない――岩崎弥太郎

2024-09-04 | 08-経済・企業・リーダーシップ
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日経新聞「やさしい経済学」で日本の企業家を特集している。一人8回のシリーズで、作家や大学教授が紹介文を担当している。今回の企業家は岩崎弥太郎。紹介者は作家の童門冬二さん。以下に、8回シリーズのダイジェストを記す。

年表・岩崎弥太郎
1835 土佐に生まれる(旧暦天保5年)
1854 江戸にでる(その後、安積艮斎の門人に)
1859 藩の職を得る。長崎出発
1867 開成館長崎出張所に勤務
1870 九十九商会発足
1873 前年九十九商会から改名した三川商会をさらに三菱商会に改称
1874 政府から台湾出兵に関連して軍事輸送の大型発注を受ける
1877 西南戦争が起きその軍事輸送も大量に引き受ける
1881 三菱を支援する大隈重信が下野(その後、ライバルとなる共同運輸が発足)
1885 死去(その後、三菱・共同が合併し日本郵船が発足)

[1] 詩人の精神 2005.10.17
岩崎弥太郎は、1835年1月に、土佐(高知県)で生まれた。父は地下(じげ)浪人。下級武士の一種である郷士格を売ってしまっていたため、弥太郎の幼少期は「赤貧洗うがごとし」に近い状況だった。それでも父は「武士は食わねど高楊子(たかようじ)だ」とうそぶいていた。収入を得るとすぐに酒をのみ、酔っぱらって村を大言壮語(たいげんそうご)して歩く。村中のきらわれ者だったという。こうした家庭で育った弥太郎は、やがて学問の道を選ぶ。母の実家は医者で、彼はここから伯母が嫁いだ高知の儒学者、岡本寧浦(おかもとねいほ)の塾にはいり、藩士奥宮慥斎(おくみやぞうさい)の従者となって江戸に出た。そして幕末の著名学者、安積艮斎(あさかごんさい)の門にはいった。1855年のことだ。のちに「日本の海運王」として、実業界にらつ腕をふるう弥太郎は、実は詩人の資質を多分に持つ神経の繊細な文学青年だったのである。

[2] 不条理と人工社会 2005.10.18
安積艮斎の門人になったのには、いい大名家に推せんしてもらおうという気持ちがあったことはたしかで、一生懸命勉強した。師の艮斎も弥太郎の学才を認め、とくにその詩才を愛した。ところがある日、父が大けがを負ったという知らせが届く。帰郷した弥太郎は、事情を知らされる。村の庄屋で宴があった。父がそこで大酒をのみ大言壮語した揚げ句、なぐられほうり出されたのだという。弥太郎は持ち前の詩人的資質からくる正義感が爆発し、抗議した。父の行為の真因は、藩の地下浪人差別と、賄賂(わいろ)で庄屋と結託した奉行所の腐敗にある、と糾弾した。ところが役人は、藩を誹謗(ひぼう)する不届き者として弥太郎を投獄してしまった。牢のなかで弥太郎は考えた。こうした不合理や不条理がまかりとおるのは、社会にそういう合意があるからにほかならない。つまり「現実」という「人工社会」だ。その現実でもっとも力を振っているのが権力とカネ。弥太郎は、理想と詩だけではこのふたつはブチ破れない、と気がつく。

[3] 長崎と貿易 2005.10.19
出獄した弥太郎は、高知の城下町のはずれで私塾をひらいた。門人もふえ、学者岩崎弥太郎の名は知られていった。そこに吉田東洋の親せきの後藤が訪ねてくる。用件は東洋に出す貿易などに関する論文の添削だった。その縁で、弥太郎は東洋の門下に入る。やがて東洋は藩政に復帰し、弥太郎は1859年、西洋事情調査のため長崎への出張を命じられる。弥太郎は長崎で、西洋列強と清(中国)との関係や、土佐と外国との貿易の可能性などを調べはじめた。このとき経営感覚が湧きはじめたことに気づき、自ら驚かされる。その後、勤皇党員により東洋が暗殺され、やがて後藤が藩の要職に就く。弥太郎は呼び出され、こんどは、「開成館長崎出張所(土佐商会)」の主任として再び長崎行きを求められる。この組織は藩立の商社・貿易会社である。ところが後藤には財政感覚がまるでなく、目茶苦茶な経営で膨大な債務を背負い込んでしまった。後藤は弥太郎に始末させようと企てたのである。東洋にも後藤にも、カネに対する感覚がまるでない。ところがおれにはその感覚がある、と弥太郎は感じた。さらに、カネを有力な武器にするには、それをバカにしないことだ、と思い立つ。

[4] 柔軟な思考 2005.10.20
1867年、開成館長崎出張所の赴いた弥太郎は、後藤象二郎が外国商人たちから膨大な額の借金をしていることを知り、改革に着手する。対策は収入増と支出減以外にない。藩内統制を強めて、木材、樟脳(しょうのう)、かつお節、紙原料などを外国に積極的に輸出し、その一方では、藩庁の倹約をさらに強めてもらうよう後藤に頼んだ。やりくりや金策を迫られるのには、ほかにも理由があった。1860年代半ば、理想を追い求めて土佐藩を脱藩した坂本龍馬が長崎にきて、同志で政治・軍事的、経済結社をつくっていた。長崎の亀山を拠点としたので「亀山社中」(やがて土佐藩の外郭組織「海援隊」に改編)と称していた。龍馬は、吉田東洋を殺した土佐勤王党に入っていた。ところが、後藤が突然、龍馬と国家論などをめぐり肝胆相照らすことになる。そして弥太郎は、龍馬への多額の資金融通を求められる。後藤は「政治の世界では、きのうの敵はきょうの友ということが起こるのだ。おぬしのようにソロバン勘定ばかりしていては政治はわからん」という。一方、龍馬は弥太郎に「海に国境はないよ。おれは世界の海を自由に走りまわりたいんだ」という思いを伝える。「きのうの敵をきょうの友にする」という後藤の政治観は、弥太郎に柔軟思考法を教えた。また「海に国境はない」という龍馬の思想は「詩精神(夢)を現実のなかで生かせる」という希望を与えた。

[5] 貨幣価値の変動 2005.10.21
1867年、大政奉還が実現する。弥太郎は長崎のあと、1869年に開成館大阪出張所の幹部に任命され、藩の幹部としても活躍する。地下浪人の息子からの大出世である。そのころ藩は彼に大難題をおしつけた。藩札を新政府発行の太政官札などと交換せよ、というのだ。江戸時代の藩(大名家)は、正貨のほかに藩内で通用する藩札を発行していた。藩内の支払いは藩札でおこない、藩外に輸出したときの代金は正貨でうけとって、あくまでも藩庫を正貨で満たそうとする巧妙なやりかたが横行していた。本来なら藩札は正貨との兌換性を確保するため、発行額を正貨の範囲内にとどめなければならない。ところが各藩とも財政難で藩札発行額は膨れあがっていた。土佐藩も同じである。弥太郎がそこそこの準備金を用意して交換を始めようとすると、人々が大変な額の藩札を抱え行列をつくって並んだ。用意した準備金ではとても足りず、暴動寸前になった。弥太郎は必死に、きょうは中断する、改めて交換の機会を設けると叫んで、何とかその場を切り抜ける。藩札の交換作業で痛いめに遭って、弥太郎は大きな教訓を得た。「武士は食わねど高楊子」という金銭蔑視(べっし)観は、時代遅れだったということ、さらに、金銭(貨幣)そのものがつねに価格変動を起こしていること、そして、これを知るには経済情報の機敏な入手が大切だということだ。


[6] 能力の掛け算 2005.10.24
1869(明治2)年、明治政府は藩営の商会所が民業を妨害するとして藩営事業の規制に乗り出した。自藩の衰退を恐れた土佐藩は、郷土人に形式的な私的組織をつくらせ、そこに藩営事業を移していった。弥太郎が切り盛りしていた開成大阪出張所(大阪商会)は1970年、「九十九商会(つくもしょうかい:土佐の湾名に由来する名称)」という新組織に移行する。ただしその運営は引き続き藩の官僚であった弥太郎が行なった。九十九商会は主な事業を海運とし、藩から2、3隻の船を引き継いだ。「海に国境はない」と言った龍馬のチャレンジ精神が弥太郎を刺激したのだ。船旗には「三角菱」(主家山内家の三柏と岩崎家の三階菱の紋の組み合わせといわれる)を考えた。九十九商会は実質的に土佐藩の会社であり、経営幹部も藩から派遣された中川亀之助・石川七座衛門(七財)・川田小一郎(のちに日銀総裁)たちで固められた。弥太郎は、そうした藩から派遣された経営幹部たちに対して、「まもなく大名家も武士もなくなるぞ。これからは実業の時代だ。虚業なんかやめておれの事業を手伝え」といい放つ。そして弥太郎と彼らは、能力の「足し算」ではなく、「掛け算」をし、その相乗効果で会社の成長力を高めていった。「風度」という言葉がある。接する人に「この人のためなら」と思わせてしまう。一種のオーラ(気)のことだ。弥太郎に接する人間はすべてこの風度に魅了された。それは彼の企業精神の底に、表面の剛毅(ごうき)さとはまったく逆の、ソフトでやさしい詩人の精神が存在していたからだ。

[7] 活躍の舞台 2005.10.25
1871(明治4)年、明治政府は「廃藩置県」を断行した。これで弥太郎は藩の官僚ではなくなり、名実ともに実業家の道を歩むことを決める。当時高知県(旧土佐藩)の幹部からも、県庁などとはなんの関係もないようにして、九十九商会の経営に頑張ってほしい、と頼まれる。1972年には「三川商会」と改称した。幹部である中川亀之助・石川七財・川田小一郎の三人の「川」の字から命名したといわれる。弥太郎は、この三川商会が独立した民間企業であると天下に表明し、その承認を得たかった。それには、この組織にふさわしい事業を充実させなければならない。しかし海運業はまだ本格軌道に乗っていなかった。当時、日本の海運は外国船にかきまわされていた。さすがに、海運を日本人の手にとりもどせ、という機運が盛りあがり、政府も関与して三井などの連合による日本国郵便蒸気船(汽船)会社が起ちあがった。弥太郎もじっとしていられなくなり、海運を拡張する方針を決める。商会内部では日本一の海運王を目指す、と宣言し、外部には三菱商会に改名するとともに海運を拡大すると告げている。弥太郎には廃藩置県を歓迎するふたつの理由があった。ひとつは藩の廃止によって、こどもの時から彼を苦しめてきた身分制がなくなり、武士もなくなるからだ。もうひとつはその武士が蔑視してきた金銭が、社会で大きな役割を占めるようになっていくことが明らかだったからだ。

[8] すべては一身に 2005.10.26
1873(明治6)年、弥太郎は三川商会をさらに変革するために次のような方針を示した。
一、 三川商会を三菱商会と改める
一、事業は主に海運である
一、船にかかげる旗は三菱である
一、三菱商会は純然たる独立した民間企業である
一、三菱商会は日本一の海運王をめざす
こうして三菱商会は、旧土佐藩などとのしがらみをすべて断ち切って、弥太郎主導のもと大海にのり出すことになる。弥太郎は競争相手の日本国郵便蒸気船(汽船)の実態を調べさせていた。「サービスが悪い」「運賃が高い」ということを知った弥太郎は、逆に「親切なサービス」「安い運賃」という戦略を固め実行した。この顧客重視の戦略は経営を圧迫するも、その後、日本の台湾出兵(1874年)や西南戦争(1877年)などの際に、軍事輸送を大量に引き受けたことなどで大きく成長し、三菱は事実上の政府御用となる。一方の日本国郵便蒸気船は1875年に解散。弥太郎はその後、三井などが新たに政府の支援をうけ発足させた共同運輸会社との熾烈(しれつ)な競争のさなかに倒れ、1885年に死去した。(その後三菱と共同運輸は合併し日本郵船が発足)。弥太郎は、こんな趣旨のことをいっている。「会社の利益は全く社長の一身に帰し、会社の損失もまた社長の一身に帰すべし」。藩営組織は私心私欲の集合体であった。それだけに民間の事業は公器であり人びとへの奉仕でなければならないという。弥太郎をそれをまず近代化する日本のなかで、自身が全くの個人の資格で実現しようと志した。「一身に帰す」というのは、この社会的責任表明の逆説なのだ。
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