電脳筆写『 心超臨界 』

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( ガンジー )

日本史 古代編 《 武士に自信を与えた禅宗の教え――渡部昇一 》

2024-10-06 | 04-歴史・文化・社会
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宋の蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)が弟子数人を率いて渡来したとき、執権時頼が歓迎して建長寺を建立してやったのは、時頼が禅を信じていたわけでなく、政治的・宗教的に平安仏教を忌避(きひ)して、鎌倉に新風を入れたかったからである。蘭渓のあと、二代目の住持(じゅうじ)として建長寺に迎えられたのはやはり宋から来た兀菴(ごったん)和尚である。この方はひじょうに厳しく、いろいろのことに文句を言ったので、「ゴタツク」という言葉は、ここから出た、という説があるくらいであった。この和尚が仏殿に地蔵菩薩があるのを見て、さっそくゴタツイた。


『日本史から見た日本人 古代編』
( 渡部昇一、祥伝社 (2000/04)、p318 )
4章 鎌倉期――男性原理の成立
――この時代、日本社会は「柔から剛」へと激変した
(4) 禅宗が広めた自助・自立の精神

◆武士に自信を与えた禅宗の教え

この絶対に受身を嫌うという根本的な精神態度――これが平安朝的護摩(ごま)焚きオカルテズムから、鎌倉武士仏教とも言うべき禅宗に代わった理由である。

前に述べたように伝教(でんぎょう)大師最澄の四種相承(ししゅそうじょう)の中には円・密・禅・戒があり、すでに最澄のころにも、義空(ぎくう)とか道助(どうじょ)とかいう禅僧が唐から来ていたのであるが、密教的平安朝には志を得ることができず、空(むな)しく帰国した。

その後、覚阿(かくあ)、能忍(のうにん)、栄西(ようさい)などという天台宗の僧たちで、禅にウエイトを掛けようとした人たちがいたが、いずれもうまくいかない。能忍は最後には殺されてしまったし、栄西も延暦寺の強訴(ごうそ)で禅を説くことを禁じられて、鎌倉に逃げてきて幕府の保護を受けた。それから道元や辨円(べんえん)も、宋から帰ってきたが、この二人も元来は天台宗の僧であって、禅ができる自分の寺や道場があったわけではない。

禅宗が一宗として独立するのは、まったく鎌倉幕府の力、それも時頼と時宗の力である。

密教と禅は、もはや相容れることのできないほど乖離していたが、それにさらに政治的理由が絡まった。というのは承久(じょうきゅう)の変で政治的には幕府が完全に支配的な立場になったが、御門跡(ごもんぜき)と言われる天台宗や真言宗の大寺には、依然として幕府を敵とされた法皇がたや、天皇の皇子たちが入っていて、宗教的には、まだ京都に対して鎌倉は頭が上がらない状態であった。それに鎌倉武士と護摩焚きは肌が合わない。

宋の蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)が弟子数人を率いて渡来したとき、執権時頼が歓迎して建長寺を建立してやったのは、時頼が禅を信じていたわけでなく、政治的・宗教的に平安仏教を忌避(きひ)して、鎌倉に新風を入れたかったからである。

蘭渓のあと、二代目の住持(じゅうじ)として建長寺に迎えられたのはやはり宋から来た兀菴(ごったん)和尚である。この方はひじょうに厳しく、いろいろのことに文句を言ったので、「ゴタツク」という言葉は、ここから出た、という説があるくらいであった。

この和尚が仏殿に地蔵菩薩があるのを見て、さっそくゴタツイた。

「この菩薩は山僧より位が低いのであるから、山僧が礼拝すべきものではない。むしろ菩薩のほうがこっちを礼拝すべきものである」

と言って、寺に上がったとき、本尊を礼拝しなかったのである。

この自信に満ちた颯爽たる態度は、時頼以下の鎌倉武士に電撃のようなショックを与えたのである。当時の日本人は、僧侶も俗人も、仏像や菩薩像の前に護摩を焚いて平伏し、ひたすらそのご利益(りやく)とご加護を哀願していたのであるから、それが今、はじめて武士の気質にふさわしい宗教を見たのである。

時頼は深くこの和尚に帰依し、晩年は、ほとんど禅宗の高僧のごとき生活であった。謡曲『鉢木(はちのき)』に出てくる最明寺入道(さいみょうじにゅうどう)というのが彼であるが、こういう伝説が出来るほどに時頼は、当時の武士の尊敬を受けていたので、彼が武士間の禅宗流布に及ぼした影響は絶大であった。

特に、時頼の臨終の堂々としていたことは、宋から来ていた禅僧が帰ってからその国に伝えたため無学祖元(むがくそげん)のような人も、早くから日本を憧憬(どうけい)していた。例の峻厳な兀菴(ごったん)和尚も時頼には感服していて、時頼のことを、

「大根器(ダイコンキ)大力量ニシテ、再来ノ菩薩モ、マサニヨク、カクノゴトシ」

とか、

「上古ノ聖人ヲ超越スルコト一頭地ナリ」と絶賛しているのである。
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