電脳筆写『 心超臨界 』

人の長所はその人の特別な功績ではなく
日頃の習慣によって評価されなければならない
( パスカル )

不都合な真実 《 津田梅子の苦しみ――山本夏彦 》

2024-10-08 | 04-歴史・文化・社会
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我々はみんな津田梅子になったのです。梅子には英語があったが私たちには何もない。大正7年小学校4年生の国語の時間は週14時間、年々歳々減らしていま週6時間です。文部省は削った時間を英会話にあてるそうです。文部省の役人は国語がすべてだと知らないのです。津田梅子の苦しみを知らないのです。


◆津田梅子の苦しみ

『誰か「戦前」を知らないか』
( 山本夏彦、文藝春秋 (1999/10)、p182 )

【山本】 津田梅子は明治4年7歳でアメリカ留学させられて敬虔なキリスト教徒ランマン夫妻に育てられて小中高校を出て日本へ帰ったのが明治15年。日本には洋行帰りの男子は出世の道はあったが女子には絶無だった。窮して華族女学校の先生にしたが、梅子はデモクラットです。良妻賢母教育はできない。自分の理想の教育がしたい。それで自分で私塾を始めた。津田英学塾です。最初は生徒10人からはじめたが、それが今の津田塾大になった。早稲田学校だって、ながく専門学校で大学にしてくれなかった。官は民に意地悪する。

 ―― 今も昔も「意地悪は死なず」ですね。

【山本】 ここで言いたいのは梅子はとうとう日本人になれなかったということ、かりにも日本人を教えるのだから茶、花、手習い、日本の娘のするお稽古ごとのすべてを遅ればせながら習ったが日本人にはなれなかった。その悩みを養い親のランマン夫人に訴えた無数の手紙が残っている。かんじんなことは英語でなければ書けない。

 ―― いつぞや狼に育てられた子供の例で書いてらっしゃいましたね。

【山本】 アマラとカマラ以外にフランスにも例がある。とうとう死ぬまで言語をおぼえなかった。言葉というものは子が胎内にいるときから雨あられと降りそそがれている。1歳半くらいになると片ことを言うが、あれは氷山の一角でその裾には言いたいことが山ほどひかえている。その機を逸したら、あとからいくら教えてもはいらないのが言葉です。巻紙で筆で書くまねごとまでしたがついに日本人になれなかったという。

 ―― 私たちがそうだと仰有りたいのですね。

【山本】 そうだよ。佐藤春夫は明治25年生まれだから中学生のときは明治30年代の末だった。当時の教科書は和文漢文の古典の抜粋ばかりで現代文は皆無に近かった。文語文で育った最後のひとの一人だから、筆をとればおのずと和漢の出典ある字句が出てきたことは佐藤の詩文を見れば分る。佐藤以後の教科書はみるみる現代文がふえ、10年を待たずして口語文ばかりになった。文は原則として黙読するようになった。音読はお座なりになった。暗誦に堪える口語文というものはない。我々はみんな津田梅子になったのです。梅子には英語があったが私たちには何もない。大正7年小学校4年生の国語の時間は週14時間、年々歳々減らしていま週6時間です。文部省は削った時間を英会話にあてるそうです。文部省の役人は国語がすべてだと知らないのです。津田梅子の苦しみを知らないのです。
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