電脳筆写『心超臨界』へようこそ!
日本の歴史、伝統、文化を正しく学び次世代へつなぎたいと願っています。
20年間で約9千の記事を収めたブログは私の「人生ノート」になりました。
そのノートから少しずつ反芻学習することを日課にしています。
生涯学習にお付き合いいただき、ありがとうございます。
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東京裁判史観の虚妄を打ち砕き誇りある日本を取り戻そう!
そう願う心が臨界質量を超えるとき、思いは実現する
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◆村上春樹著『騎士団長殺し』の〈南京城内民間人の死者数40万人は間違いで「34人」だった〉
■超拡散『世界政治の崩壊過程に蘇れ日本政治の根幹とは』
■超拡散『日本の「月面着陸」をライヴ放送しないNHKの電波1本返却させよ◇この国会質疑を視聴しよう⁉️:https://youtube.com/watch?v=apyoi2KTMpA&si=I9x7DoDLgkcfESSc』
■超拡散記事『榎本武揚建立「小樽龍宮神社」にて執り行う「土方歳三慰霊祭」と「特別御朱印」の告知』
■超拡散『移民受入れを推進した安倍晋三総理の妄言』
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日本で「南京大虐殺」が大きな話題になったのは、1970年代以降である。しかし、それを否定する材料を含んだ当事者らの回想録は、それ以前に出揃っており、本稿のために参照した外国人の著作も、マクマリーの訳書以外は、おおむね同様である。日本の学界がまともなら、「南京大虐殺」は30~40年も前に完全に否定され、今さら日中歴史共同研究など不要だったのである。
いまさらの「日中歴史共同研究」――「南京大虐殺」はない
古荘光一・フリージャーナリスト
(『WiLL』2010年5月号、ワック出版、p231 )
(その5): その4よりつづく
◆支那人が支那人を虐殺(p240)
そこでこの際、支那事変とはどんな戦争だったかを振り返っておく。
戦争を仕掛けるにあたって蒋介石は、焦土作戦を採用した。戦後にこれを自慢のタネにさえする。1937年11月に南京を放棄する直前には、上海から南京にいたる場所で人家をことごとく焼き払い、何十万人もの被害者を出した。
蒋介石軍の残虐行為は枚挙にいとまがない。当時支那にいたアメリカ人ルポライター、ジャック・ベルデンの『中国は世界を揺るがす』には、支那人が支那人を虐殺する場面が相次いで登場する。
またベルデンは別の本で、蒋介石軍による黄河の堤防破壊を目撃して報告している。堤防破壊に伴う大洪水で数百万人が生き地獄に叩き込まれた。しばらくして被災地の河南省に入ったのがアメリカ人記者、セオドア・ホワイトである。『支那からの雷鳴』に描き出された鬼気迫る状況は、途中で読むのを投げ出したくなるほどだ。
その上、支那事変は途中から変質した。蒋介石軍は、日本軍と戦うより共産軍を殲滅(せんめつ)するほうに重点を置き始め、1940年10月には、両者の軍事的衝突は日常茶飯事となっていた。
なかでも酷い衝突は、1941年1月に起きた新四軍事件である。ホワイトによれば、発端は共産党の新四軍が揚子江の南に展開していたことにあった。蒋介石軍との小競り合いが絶えなかった。話し合いの結果、新四軍ははるか北方の黄河の北に撤退することが決まった。戦闘部隊が先行した。ところが、非戦闘員を多数抱えた司令部の約1万人が日本軍との衝突を避けるため、指定外の進路を取った。
その行く方を待ち伏せていたのが、国民党軍である。3日間の戦闘で、共産軍側の5千~6千人が虐殺され、さらに数千人が捕虜になった。
捕虜たちは過酷な扱いを受けた。女性たちは強姦され、性病をうつされて、自殺者が出た。戦場近くに1年半も抑留された後、別の収容所に移るため、地上640キロ以上を国民党軍の荷物を担って行進させられ、病気になると殴られ、射殺され、生き埋めにされた。数千人のうち生き残ったのは3百人ほどに過ぎなかった。
支那事変は支那を舞台に展開したから、現地民が被害を受けたことは疑えないが、実際は蒋介石軍の暴挙による被害がことのほか多かった。日中共同研究では「日本による侵略の被害を受けた中国民衆」という表現が出たそうだが、それは人民の敵、蒋介石をかばう作り話だ。蒋介石に残酷に殺された共産主義者の後輩たちに、かばう義理があるのか。
◆ギャングと一体の国民党(p241)
蒋介石は、1927年4月、上海で共産主義者を大量虐殺し、これを契機に政客として登場した。虐殺を実行したのは、蒋介石を支援するギャングの青帮(チンパン)だった。これは戦後の日本で、親中国共産党勢力によって喧伝された。有名な話だ。
この事件以降、それまで麻薬密売と人身売買をなりわいにしていたギャングは、労働争議に介入し、共産主義者を殺すようになった。
その様子を当時支那に滞在していたアメリカの女性作家、ニム・ウェールズは『支那の労働運動』で次のように述べている。
《……上海とその近辺の主たるスト破りの組織である青帮、紅帮(ホンパン)のギャングとスパイを使うのである。通常これらは、いかなる深刻な労働争議でも手際よく片付け、たっぷりと報酬を受け取っていた。かれらは雇用者と労働者の双方を恐喝した。これらは、国民党と警察の手先と協同していたが、多くは青帮、紅帮の一員であった。労働運動の指導者は誘拐され失踪し、また証拠もなしに、共産主義の容疑で合法を装った逮捕が行われた。ストライキの現場に、武装したごろつきが、時には軽機関銃を持って駆けつけた》
ここにいう「労働運動の指導者」とは共産主義者ないしその同調者のことだ。
蒋介石がしでかした悪行の数々を、なかったことまで含めて日本の仕業と言いくるめるのが日中歴史共同研究に臨んだ支那側の思惑らしい。
しかし残念なことに、このゴリ押しを退ける力が日本側参加者に欠けていた。日本で「南京大虐殺」が大きな話題になったのは、1970年代以降である。しかし、それを否定する材料を含んだ当事者らの回想録は、それ以前に出揃っており、本稿のために参照した外国人の著作も、マクマリーの訳書以外は、おおむね同様である。
日本の学界がまともなら、「南京大虐殺」は30~40年も前に完全に否定され、今さら日中歴史共同研究など不要だったのである。
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古荘光一(ふるそう・こういち)
1940年、大阪市生まれ。兵庫県立大学を卒業。新聞記者を経て、
フリージャーナリスト。支那事変を研究中。
………………………………………………………………………………
=おわり
日本の歴史、伝統、文化を正しく学び次世代へつなぎたいと願っています。
20年間で約9千の記事を収めたブログは私の「人生ノート」になりました。
そのノートから少しずつ反芻学習することを日課にしています。
生涯学習にお付き合いいただき、ありがとうございます。
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東京裁判史観の虚妄を打ち砕き誇りある日本を取り戻そう!
そう願う心が臨界質量を超えるとき、思いは実現する
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◆村上春樹著『騎士団長殺し』の〈南京城内民間人の死者数40万人は間違いで「34人」だった〉
■超拡散『世界政治の崩壊過程に蘇れ日本政治の根幹とは』
■超拡散『日本の「月面着陸」をライヴ放送しないNHKの電波1本返却させよ◇この国会質疑を視聴しよう⁉️:https://youtube.com/watch?v=apyoi2KTMpA&si=I9x7DoDLgkcfESSc』
■超拡散記事『榎本武揚建立「小樽龍宮神社」にて執り行う「土方歳三慰霊祭」と「特別御朱印」の告知』
■超拡散『移民受入れを推進した安倍晋三総理の妄言』
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日本で「南京大虐殺」が大きな話題になったのは、1970年代以降である。しかし、それを否定する材料を含んだ当事者らの回想録は、それ以前に出揃っており、本稿のために参照した外国人の著作も、マクマリーの訳書以外は、おおむね同様である。日本の学界がまともなら、「南京大虐殺」は30~40年も前に完全に否定され、今さら日中歴史共同研究など不要だったのである。
いまさらの「日中歴史共同研究」――「南京大虐殺」はない
古荘光一・フリージャーナリスト
(『WiLL』2010年5月号、ワック出版、p231 )
(その5): その4よりつづく
◆支那人が支那人を虐殺(p240)
そこでこの際、支那事変とはどんな戦争だったかを振り返っておく。
戦争を仕掛けるにあたって蒋介石は、焦土作戦を採用した。戦後にこれを自慢のタネにさえする。1937年11月に南京を放棄する直前には、上海から南京にいたる場所で人家をことごとく焼き払い、何十万人もの被害者を出した。
蒋介石軍の残虐行為は枚挙にいとまがない。当時支那にいたアメリカ人ルポライター、ジャック・ベルデンの『中国は世界を揺るがす』には、支那人が支那人を虐殺する場面が相次いで登場する。
またベルデンは別の本で、蒋介石軍による黄河の堤防破壊を目撃して報告している。堤防破壊に伴う大洪水で数百万人が生き地獄に叩き込まれた。しばらくして被災地の河南省に入ったのがアメリカ人記者、セオドア・ホワイトである。『支那からの雷鳴』に描き出された鬼気迫る状況は、途中で読むのを投げ出したくなるほどだ。
その上、支那事変は途中から変質した。蒋介石軍は、日本軍と戦うより共産軍を殲滅(せんめつ)するほうに重点を置き始め、1940年10月には、両者の軍事的衝突は日常茶飯事となっていた。
なかでも酷い衝突は、1941年1月に起きた新四軍事件である。ホワイトによれば、発端は共産党の新四軍が揚子江の南に展開していたことにあった。蒋介石軍との小競り合いが絶えなかった。話し合いの結果、新四軍ははるか北方の黄河の北に撤退することが決まった。戦闘部隊が先行した。ところが、非戦闘員を多数抱えた司令部の約1万人が日本軍との衝突を避けるため、指定外の進路を取った。
その行く方を待ち伏せていたのが、国民党軍である。3日間の戦闘で、共産軍側の5千~6千人が虐殺され、さらに数千人が捕虜になった。
捕虜たちは過酷な扱いを受けた。女性たちは強姦され、性病をうつされて、自殺者が出た。戦場近くに1年半も抑留された後、別の収容所に移るため、地上640キロ以上を国民党軍の荷物を担って行進させられ、病気になると殴られ、射殺され、生き埋めにされた。数千人のうち生き残ったのは3百人ほどに過ぎなかった。
支那事変は支那を舞台に展開したから、現地民が被害を受けたことは疑えないが、実際は蒋介石軍の暴挙による被害がことのほか多かった。日中共同研究では「日本による侵略の被害を受けた中国民衆」という表現が出たそうだが、それは人民の敵、蒋介石をかばう作り話だ。蒋介石に残酷に殺された共産主義者の後輩たちに、かばう義理があるのか。
◆ギャングと一体の国民党(p241)
蒋介石は、1927年4月、上海で共産主義者を大量虐殺し、これを契機に政客として登場した。虐殺を実行したのは、蒋介石を支援するギャングの青帮(チンパン)だった。これは戦後の日本で、親中国共産党勢力によって喧伝された。有名な話だ。
この事件以降、それまで麻薬密売と人身売買をなりわいにしていたギャングは、労働争議に介入し、共産主義者を殺すようになった。
その様子を当時支那に滞在していたアメリカの女性作家、ニム・ウェールズは『支那の労働運動』で次のように述べている。
《……上海とその近辺の主たるスト破りの組織である青帮、紅帮(ホンパン)のギャングとスパイを使うのである。通常これらは、いかなる深刻な労働争議でも手際よく片付け、たっぷりと報酬を受け取っていた。かれらは雇用者と労働者の双方を恐喝した。これらは、国民党と警察の手先と協同していたが、多くは青帮、紅帮の一員であった。労働運動の指導者は誘拐され失踪し、また証拠もなしに、共産主義の容疑で合法を装った逮捕が行われた。ストライキの現場に、武装したごろつきが、時には軽機関銃を持って駆けつけた》
ここにいう「労働運動の指導者」とは共産主義者ないしその同調者のことだ。
蒋介石がしでかした悪行の数々を、なかったことまで含めて日本の仕業と言いくるめるのが日中歴史共同研究に臨んだ支那側の思惑らしい。
しかし残念なことに、このゴリ押しを退ける力が日本側参加者に欠けていた。日本で「南京大虐殺」が大きな話題になったのは、1970年代以降である。しかし、それを否定する材料を含んだ当事者らの回想録は、それ以前に出揃っており、本稿のために参照した外国人の著作も、マクマリーの訳書以外は、おおむね同様である。
日本の学界がまともなら、「南京大虐殺」は30~40年も前に完全に否定され、今さら日中歴史共同研究など不要だったのである。
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古荘光一(ふるそう・こういち)
1940年、大阪市生まれ。兵庫県立大学を卒業。新聞記者を経て、
フリージャーナリスト。支那事変を研究中。
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=おわり