電脳筆写『 心超臨界 』

苦労に対する最大の報酬は
その引き換えに得るものではない
苦労したことで形成される人物である
ジョン・ラスキン

自分を鍛える! 《 不幸な生い立ち・環境で鍛えられた不屈の精神――渡部昇一 》

2024-05-05 | 03-自己・信念・努力
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ピッツフィールドにおもむいた時、彼はまさに脂(あぶら)ののった盛りであって、ただちに西部マサチューセッツの指導的な地位に就き、その影響力は自分の教会の内外に広く及んだのであった。宗教的な立場から言えば、彼はジョナサン・エドワーズの知的カルビン主義から少しもはずれることはなかったが、教義にこだわることはまずなく、その説教には熱が込もっていて、非常に魅力的なものだったと伝えられている。彼が熱心に推進した多くの改革を経て、教会の信者数は増した。絶えず節制・禁酒をすすめ、また海外への布教をも熱心に支持した。


『自分を鍛える!』
( ジョン・トッド、三笠書房(2002/02)、p241 )
訳者解説――渡部昇一

◆不幸な生い立ち・環境で鍛えられた不屈の精神

今、自分も同じ大学の教壇に立ち、私にこの本を与えてくださった時の神藤先生とちょうど同じ立場になって振り返ってみると、もし人生について真面目に考えている人がいて、私に生き方、勉強の仕方に対する忠告を求めてきたとするならば、やはりトッドは、ぜひすすめたい大事な本の1冊になると思う。

では、ジョン・トッドとはどういう人物で、その著書はどのようなものであったろうか。まず伝記的な側面を、フレデリック・T・パーソンズの伝記にしたがって簡単に述べてみよう。

ジョン・トッドは1800年10月9日に、アメリカのニューイングランド地方に生まれた。彼の先祖は、17世紀初頭にボストン地方に入植したカルビン派牧師クリストファー・トッドであり、その一家はニューヘイブンの植民地の最初の頃の入植者であった。したがって、「名門」という言い方が適当かどうかはわからないが、当時としてはニューイングランドにおける草分け的な一種の名門といえる家柄であった。

トッドは家庭的には恵まれず、彼の父は彼が6歳の時に亡くなり、母親は彼を産むとすぐに精神異常を起こし、長い間正気を回復することがなかった。そのためトッド少年は、幼い頃、さまざまなところを転々としている。詳しいことはわかっていないが、おそらく親戚をたらい回しされていたのではないかと推測される。

牧師の子であったのでたぶん教会から奨学金を得てのことと思われるが、彼は18歳でイエール大学に入った。イエール大学は当時、牧師の後継者を育てることを主たる目的としてつくられた大学という色彩が濃かったのである。すでに述べたような家庭の状況のために、入学の準備も充分にできず、また金もなく、しかも絶えず病気に悩まされながらも、彼は22歳の時に大学を優等で卒業した。それから、アンドーヴァーで神学を学び、次にマサチューセッツ州グロートンで説教をし始めた。そしてカルビン派の組合教会の正統派から牧師になるように呼び掛けられたが、教区に受け入れられなかったため、新しい教会をつくり、1827年1月3日、27歳の時に牧師に任命されたのであった。ここで彼は33年まで働いたが、それからマサチューセッツ州ノーサンプトンに移り、そこで新しくできた教会の牧師になった。

彼は新しい教区の人々を説得して、彼の尊敬する、ニューイングランドのかの有名な神学者ジョナサン・エドワーズの名前をとり、その教会をエドワーズ教会と命名した。エドワーズはトッドより約百年前に生まれ、イエール大学の卒業生で、しかもプリンストン大学の学長になる前は、このノーサンプトンで牧師をしていたことがあるから、特に親近感があったのであろう。このことからも、彼が新しい哲学を考慮した知的なカルビン主義を保持していたことがわかるであろう。

エドワーズ教会で3年間牧師をしたのち、彼はその頃できたばかりのフィラデルフィアのクリントン・ストリートにある組合教会に呼ばれた。これは、その町ではその宗派の最初の教会であった。その教会が設立された時に行なわれた彼の説教は、『組合主義の原理と結果』というタイトルで出版されたが、他の宗派をかなり厳しく批判していたので、いろいろ反感を買うということもあったようである。この新しい仕事は始めはうまくいっていたのだが、しかし意見の対立が生じたり、当時の経済的な不景気などのために失敗し、トッドは1842年にマサチューセッツ州のピッツフィールドにある第一組合教会に着任することになり、そのまま生涯そこにとどまることとなった。

彼がピッツフィールドにおいていかに重要な人物であったかは、たとえばブリタニカ百科事典第11版の「ピッツフィールド」の項目を引けばわかる。そこには、こう書かれている。

「1842年から72年までの30年間、ピッツフィールドには、多数の著作家であるジョン・トッド師の住居があった。彼の主著には『子供への説教』(Lectures to Children, 1834; 2nd series, 1858)、『自分を鍛える!』(Todd’s Student’s Manual, 1835)などがあり、広く読まれている」

アメリカの田舎の小都市の項目に4行にもわたって名前が出てくること自体、いかに彼がニューイングランドの名士であったか、またその著作が、当時いかに広く読まれ、影響力を持っていたかを示すものと言ってよいだろう。

ピッツフィールドにおもむいた時、彼はまさに脂(あぶら)ののった盛りであって、ただちに西部マサチューセッツの指導的な地位に就き、その影響力は自分の教会の内外に広く及んだのであった。宗教的な立場から言えば、彼はジョナサン・エドワーズの知的カルビン主義から少しもはずれることはなかったが、教義にこだわることはまずなく、その説教には熱が込もっていて、非常に魅力的なものだったと伝えられている。彼が熱心に推進した多くの改革を経て、教会の信者数は増した。絶えず節制・禁酒をすすめ、また海外への布教をも熱心に支持した。

バークシャー医学教会は彼を名誉会長とした。彼はまたマウント・ホーリオーク神学校の設立者の一人であり、多年にわたりウィリアムズ・カレッジの理事でもあった。
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