電脳筆写『 心超臨界 』

憎しみを鎮めるのは憎しみではない
愛のみによって鎮まるのだ
それが永遠のルールである
( お釈迦さま )

日本史 鎌倉編 《 「一所懸命」より大義を選んだ楠木正成――渡部昇一 》

2024-05-13 | 04-歴史・文化・社会
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ひとたび建武の中興(1334年)が成功し、その論功行賞がなされ、公家とか、天皇の側の女たちとか、口の達者な僧侶などに多くの土地が与えられ、自分たちは比較的少ししか恩恵に与(あずか)らないことを知ったとき、これらの武士は足利方について後醍醐天皇に敵対するのである。武士の目に理想はない。所領のみであり、そこに命をかける、つまり“一所懸命”なのであった。ここに異質な武士が一人現われた。それが楠木正成なのである。彼は所領よりは彼の信じた大義に目を向けた。そのために損をしたり、生命を失うことも躊躇しなかった。


『日本史から見た日本人 鎌倉編』
( 渡部昇一、祥伝社 (2000/02)、p76 )
1章 鎌倉幕府――近代国家意識の誕生 = 元寇が促した「一所懸命」からの脱却
(3) 楠木正成――日本型「大義名分」の発明

◆「一所懸命」より大義を選んだ楠木正成

古いところはともかくとして、近世のヨーロッパでは、まず宗教戦争があった。ともかく自分の信仰のために徹底的に戦うという時代が相当期間あったわけだが、30年戦争の悲惨さに懲りて、もうそういう戦争はなくなった。これが17世紀の中ごろである。

その後約150年間、ヨーロッパでは傭兵の戦争ばっかりだった。これは戦争で給料をもらう人たちの話で、自分たちが戦争しているときに、ほかの市民がもうけても、いっこうに腹が立たない連中である。これなら話がわかる。ひじょうに危険なプロ・スポーツ選手みたいなものだからである。

ところがフランス革命以来、戦争の様相ががらりと変わる。徴兵制が発明されたからである。徴兵は、かならず「お国のため」であった。だからこの種の兵士たちには、「自分たちが戦っている間に、家で商売していた奴がうまい汁を吸っていた」という感情が起こってもおかしくないことになる。

実際、そういう感情を持つ人もあったが、「民族のため」「お国のため」が圧倒的であって、その感情を抑制してきていたようである。しかし、第二次大戦後は、かなり露骨に出てくる場合も見受けられるようになった。

まだ、その感情が出るのが許されていないところは共産圏であるが、ここには「民族と国家のため」のほかに、「主義のため」があるから、犠牲を甘受する気風が自由主義圏よりも、まだ強いのかもしれない。

このように見た場合、元寇は、それまでは主として血族の繋がりだけで戦争してきた鎌倉武士が、はじめてより大きな「国のため」という旗印で戦うという経験を持ったことになる。

しかし、彼らは、フランス革命以後の近代国家の兵士のように、「国家のため」という意識が、まだまだ根づいていない。所領を守ったり、所領を増やすためにのみ戦うという、旧来の発想から抜け切れないのである。戦争に行く場合、損得抜きにして、国家のために、あるいは大義のためにやるのだ、という発想ができるところまで、鎌倉武士は意識の準備がされていなかった。

鎌倉幕府が武士の心を摑みそこねたところを見て、後醍醐天皇(第九十六代)が、幕府征伐の兵を挙げられたとき、これに参加した多くの武士は、主義というよりは所領を得たり増したりするために戦ったのであろう。

それで、ひとたび建武の中興(1334年)が成功し、その論功行賞がなされ、公家とか、天皇の側の女たちとか、口の達者な僧侶などに多くの土地が与えられ、自分たちは比較的少ししか恩恵に与(あずか)らないことを知ったとき、これらの武士は足利方について後醍醐天皇に敵対するのである。

武士の目に理想はない。所領のみであり、そこに命をかける、つまり“一所懸命”なのであった。

ここに異質な武士が一人現われた。それが楠木正成なのである。彼は所領よりは彼の信じた大義に目を向けた。そのために損をしたり、生命を失うことも躊躇しなかった。当時の武士一般には理解されにくいビヘイビア・パタンである。

だから、彼はその後長い間、武家時代には忘れられていたのだった。楠木正成が再発見されたことこそ、日本が近代国家としての意識に目覚めたということの確かな指標なのである。

維新の志士は彼を尊敬し、明治以後の日本人も生き方の手本とした。彼こそ、近代国家の軍人のあり方の先駆なのであり、それが神風特別攻撃隊菊水隊(菊水は楠木家の紋)まで続いているのを見るのだ。

そして、戦後の子どもたちが楠木正成の名前を知らなくなったのは、「国のため」という思想が稀薄になっていることの指標と考えてよいであろう。
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