電脳筆写『 心超臨界 』

心地よいサマーレインのように
ユーモアは一瞬にして大地と空気とあなたを洗い清める
( ラングストン・ヒューズ )

般若心経 《 心のカメラ・アイ――松原泰道 》

2024-05-28 | 03-自己・信念・努力
電脳筆写『心超臨界』へようこそ!
日本の歴史、伝統、文化を正しく学び次世代へつなぎたいと願っています。
20年間で約9千の記事を収めたブログは私の「人生ノート」になりました。
そのノートから少しずつ反芻学習することを日課にしています。
生涯学習にお付き合いいただき、ありがとうございます。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
東京裁判史観の虚妄を打ち砕き誇りある日本を取り戻そう!
そう願う心が臨界質量を超えるとき、思いは実現する
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
■超拡散『世界政治の崩壊過程に蘇れ日本政治の根幹とは』
■超拡散『日本の「月面着陸」をライヴ放送しないNHKの電波1本返却させよ◇この国会質疑を視聴しよう⁉️:https://youtube.com/watch?v=apyoi2KTMpA&si=I9x7DoDLgkcfESSc』
■超拡散記事『榎本武揚建立「小樽龍宮神社」にて執り行う「土方歳三慰霊祭」と「特別御朱印」の告知』
■超拡散『南京問題終結宣言がYouTubeより削除されました』
■超拡散『移民受入れを推進した安倍晋三総理の妄言』
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━


観自在菩薩とは、自由自在の角度で宇宙や人生を見ることのできる心のカメラ・アイを、開眼されたお方であると知りました。そしてカメラ・アイの開眼は、観自在菩薩に限らず、誰でもが開こうと思えば開けるとの教えでもあります。少し熱心になれば、誰もが、ちょっとしたカメラマンになれるように――。


『わたしの般若心経』
( 松原泰道、祥伝社 (1991/07)、p104 )
3章 「心のカメラ・アイ」を持て――観自在菩薩が教える妙観察智の智慧
観自在菩薩
(1) 音を感じる智慧

◆心のカメラ・アイ

以上で「観自在」の観についての学習を一応止(や)めて、次に「自在」を学びましょう。自在は、〈自由自在〉の約です。一般に「自由・自在」というと、〈思いのままにできたり、すること〉に解されます。しかし仏教思想では、もう少し深い意味に自由と自在を解釈します。

すなわち「自由」は他から束縛を受けないことです。さしずめ現代の私たちは、言論や結婚の自由など、外側からの制約を受けずにすみます。

「自在」は、自由と語感を異にし、人間の内部からの突きあげから解放されることです。つまり、私たちの心身を悩ませ苦しませる好ましくないさまざまの精神現象(煩悩)から解放されることです。煩悩に縛られずに煩悩を超えるのが自在です。

言い換えると、煩悩を捨てようとせずに(捨てられるものではない)、煩悩を正しく思いのままに整理・整頓できることを、自在とも解脱(げだつ)ともいうのです。

したがって、仏教用語の「自由人・自在者」は世間の通念と異なり、人間自身を内外から束縛するすべての障害を超えた真人(しんにん)の意味です。つまるところ、先の仏陀や菩薩と同じ意味になります。いかにすれば、自分を苦しめるすべての障害から解放されて、そうした真人となれるかを、具体的に説くのが心経です。

また観自在菩薩といっても、大空を思うままに飛べるような魔術を持つ仏ではありません。生命をはじめ、いろいろと制限された私たちの狭くて不自由な人生も、観察の智慧によっては、ひろびろと見えてくる、という生き方を教えてくれる智慧のことです。

たとえば、旅館やホテルから送られてくるダイレクトメールを見ると“百畳敷の宴会場”とか“千人風呂”とかの歌い文句で、広々とした宴会場や浴場が写真で紹介されています。しかし実際にそのホテルや旅館へ行ってみると、案内書で見たスケールよりも、はるかに狭いことが多いでしょう。

しかし、それはけっして不正な宣伝ではないのです。いわばカメラの角度(アングル)の操作によるものです。ということは、私たちも物ごとの考え方や見方のアングルを、自分中心に執(とら)われることなく自由に使いこなすなら、人生の眺めも広がるし、別な考え方も開発もできる道理だ、と気づくでしょう。

私たちは写真を撮るとき、必ず被写体をどの角度でとらえるかと狙いを定めます。この狙い方をカメラの目(アイ)といいます。同時に、カメラ・アイがとらえて写し出す映像が、私たちの肉眼で見るのとは異なるものであることを、あらかじめ想像することができます。この感覚もまたカメラ・アイと呼んでいます。

私たちは撮影するとき、まずファインダーを通じて、被写体との距離や光線の具合を肉眼であれこれと照合し、それから後はカメラ・アイの性能に任せます。

私は今はやめていますが、学生のころはカメラに熱中して写しまくりました。また現像も焼付けも自分でやりました。

部屋の押入れを暗室にして、乾板を現像液に浸して、電光を当てて印画紙に焼きつけるのは楽しいものです。冬は手が凍るほど冷たく、夏は暑いから現像液に氷塊をいれて現像液の温度の上昇を防ぐなど、苦心して焼き上がった作品を見るとき、胸がときめきます。しかし同じ風景でもプロの作品と比べると、自分のカメラ・アイの未熟さにがっかりします。

しかし、今になってカメラ・アイは写真の撮影だけでなく、生きていくうえでも肉眼の外(ほか)に、もう一つ開いておかねばならない“人生観察の眼”だと思い当たるのです。

観自在菩薩とは、自由自在の角度で宇宙や人生を見ることのできる心のカメラ・アイを、開眼されたお方であると知りました。そしてカメラ・アイの開眼は、観自在菩薩に限らず、誰でもが開こうと思えば開けるとの教えでもあります。少し熱心になれば、誰もが、ちょっとしたカメラマンになれるように――。
この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 生きるための杖ことば 《 近... | トップ | セレンディビティの予感 《 ... »
最新の画像もっと見る

03-自己・信念・努力」カテゴリの最新記事