電脳筆写『 心超臨界 』

勝つという意志はそれほど重要なことではない 
勝つために準備するという意志に比べたら
( ボビィ・ナイト )

誠は天の道なり 之を誠にするは人の道なり――伊與田覺

2024-08-01 | 03-自己・信念・努力
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『中庸』を貫く最も重要な徳目は至誠です。修養とは天の道である誠を我が道とするように努力することであり、ここに人間の尊い生き方があるのです。また、そうして真の誠の道に至った人は、「従容(しょうよう)として道に中(あた)る」、すなわち特別に意識せず、ゆったりと余裕を持ちながら正道を得ることができるとあります。


◎[巻頭の言葉〕伊與田覺・論語普及会学監
『致知』 2015年7月号、p8 )

  誠は天の道なり  
    之を誠にするは人の道なり       

◆善を擇(えら)びて固く之を執る

『中庸』という古典に、

「誠は天の道なり。之を誠にするは人の道なり」

という言葉があります。

誠とは自分にとっても他人にとっても嘘偽(うそいつわ)りのない心、いわば真心のことです。天には道=ルールがありますが、誠こそが天の道であり、天の道を素直に受けて誠にしていくのが人の道である、と説かれています。

『中庸』を貫く最も重要な徳目は至誠です。修養とは天の道である誠を我が道とするように努力することであり、ここに人間の尊い生き方があるのです。また、そうして真の誠の道に至った人は、「従容(しょうよう)として道に中(あた)る」、すなわち特別に意識せず、ゆったりと余裕を持ちながら正道を得ることができるとあります。

「七十にして心の欲する所に従えども矩(のり)を踰(こ)えず」

という言葉を残した孔子は、十有五にして立派な人物になることを志し、様々な過ちを犯しながらも修行を続けました。そして七十になってようやく、自分の思いのままに行動してもそれが決して道理に背かないようになったというのです。若い時分から努力を続けてきた結果そういう境地に至ることができたのであり、忽然としてそういう状態になったわけではありません。

『中庸』では先ほどの言葉の少し後に、

「之を誠にするは、善を擇(えら)びて固(かた)く之を執(と)る者なり」

とあり、自分というものを誠にする者は、善を選んでそれを頑ななくらいに継続実行していこうとする者である、と説かれています。

◆倒れる時まで歩み続ける

聖賢(せいけん)という言葉を耳にされたことがあるでしょうか。先ほどの従容として道に中る人が聖であり、聖人となるべく努力をしている人のことを賢といいます。賢はまだ努力中ですから、うっかりすると退転して元の木阿弥になることもあります。

仏教には十界という教えがあり、人間の心の有り様を地獄界、餓鬼界、畜生(ちくしょう)界、修羅(しゅら)界、天上界、声聞(しょうもん)界、縁覚(えんがく)界、菩薩界、仏界の十段階で表しています。一般の人は地獄界から天上界までの六道をくるくると行き来し、上に抜けられずに悩み苦しんでいます。これを哀れに思い、救済を願ってまつられている六人のお地蔵さんが六地蔵だそうです。

そこから抜け出す第一歩が声聞であり、仏の声を聞きたいという気が心から起こってきます。孔子でいえば、聖賢になりたいと志を立てた十有五の時といえるでしょう。そこから、どうすれば悟ることができるかというその道筋が分かるのが縁覚。いまでいえば学者の世界のようなもので、いろいろ研究をして、この道を通ればいいというのを知る世界です。

しかし知っただけでは不十分で、それを行動に移していく必要があります。例えば富士山に登る時、どの道を通ったら頂上に登れるかが分かっただけでは登れません。努力してそれを実行していくことが大事です。道筋を知って実行に移していくのが菩薩であり、最後に本当の仏になるのです。

これはまさしく、天の道である誠を我が道とする過程を表しているともいえるでしょう。

私たちは表向きはとても弱小な存在のように見受けられますが、天の命によってここに生まれてきており、天と一なる存在なのです。ですから至誠というものは外から来るものではなく、私たちは誰もが生まれた時から天地の心を受けている。これをいかにして発揮していくかということが人生ではないかと思います。

私は図らずも百歳という年齢になりましたが、人生は年を取ったからもうこのへんでいいというものではありません。命とは働きであり、生きている限り天の道を体現すべく努力を続けることが、この世に生まれてきた意味だと思います。

倒れる時までは歩み続けるものだと思えば、さほどの負担は感じません。終わりの終わりまで己を磨き、誠の道を歩き続けたいと願っております。

  私たちは誰もが生まれた時から
    天地の心を受けている。これをいかにして
      発揮していくかということが人生ではないか
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