電脳筆写『 心超臨界 』

人の心はいかなる限界にも閉じ込められるものではない
( ゲーテ )

正力松太郎は百戦錬磨の後藤のこの言葉に感激し、「風評」の打ち消し役に徹した――工藤美代子

2024-08-18 | 04-歴史・文化・社会
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「正力君、朝鮮人の暴動があったことは事実だし、自分は知らないわけではない。だがな、このまま自警団に任せて力で押し潰せは、彼らとてそのまま引き下がらないだろう。必ずその報復がくる。報復の矢先が万が一にも御上に向けられるようなことがあったら、腹を切ったくらいでは済まされない。だからここは、自警団には気の毒だが、引いてもらう。ねぎらいはするつもりだがね」(後藤新平)


◆正力松太郎は百戦錬磨の後藤のこの言葉に感激し、「風評」の打ち消し役に徹した

『関東大震災「朝鮮人虐殺」の真実』
( 工藤美代子、産経新聞出版 (2009/12/2)、p172 )

「正力君、朝鮮人の暴動があったことは事実だし、自分は知らないわけではない。だがな、このまま自警団に任せて力で押し潰せは、彼らとてそのまま引き下がらないだろう。必ずその報復がくる。報復の矢先が万が一にも御上に向けられるようなことがあったら、腹を切ったくらいでは済まされない。だからここは、自警団には気の毒だが、引いてもらう。ねぎらいはするつもりだがね」

38歳の正力は百戦錬磨の後藤のこの言葉に感激し、以後、顔には出さずに「風評」の打ち消し役に徹した。これが後藤が打ち明けた腹の内だった。

越中富山に生まれた正力の古い友人に品川主計(しながわかずえ)がいる。生年は正力の2年あとだが旧制第四高等学校(四校)で同級、警視庁で官房主事にもなり、晩年は読売巨人軍代表を務めたことでよく知られる。

さてその品川主計が残した回想録に後藤と正力の関係も登場する。品川は後藤と正力の関係の裏を知るもう一人の重要人物である。

「正力君は、後藤新平内務大臣に非常に信用があった。何故かというと、彼は貴族院の操縦がうまかった。私が官房主事になってみると、すぐ、水野直という子爵から『ひとつ君に頼みがある。近衛公爵の私行を調べて呉れ』との話でした。私は『犯罪ならばだが私行の類を調べることは、私には出来ません』と言って拒(こと)わった。これで初めて判ったんです。正力君は水野さんのそうした類の頼みを受けてやっていたから、貴族院操縦の腕を揮(ふる)うことが出来た」(『叛骨の人生』)

後藤は正力を非常に信用して、警察官としての領分をも越えた素行調査、いわば汚れ役にも巧みに使おうとしていた背景がうかがえる。

国難ともいえる朝鮮人襲来とそれに武装して対抗せざるを得なかった自警団との争いは9月5日あたりをもって終息する。

こうした後藤の腹芸と正力の奔走がその陰にはあった。後藤の腹の中には、左翼とも右翼とも平気で付き合うという芸当があった。

後藤はレーニンやトロツキーと密接な関係にあった外交官ヨッフェを熱海に招待し、将来のソ連邦との国交正常化交渉の場を用意した。

さらに、後藤は国内の社会主義者に知己が多く、大杉栄に資金援助をしたことは有名な話だ。フランス語が達者な大杉に仏典のフランス語訳をさせて、毎月何がしかの資金を援助した。(杉森久英著『大風呂敷』)

このほか社会主義者との関係は数え上げればきりがなく、縁戚にも有名な社会主義者の大物がいた。杉森久英によれば、

「第二次共産党の巨頭佐野学は、彼の女婿(養女静子の夫)佐野彪太博士の弟である。そして彪太の長男、つまり新平の孫に当る碩(ひろし)もまた共産党員であった」(前傾書)

そういう人間関係が背後にあるから社会主義者と朝鮮独立運動家たちの狙いがどこにあるかをいち早く察知していたともいえるし、彼の情報源がどこからどう流れていたのか、摑みどころがなく危ういともいえる。

「なあに正力君、そのくらいの芸当ができなければ国家なんて維持できないよ」

そういって後藤は笑っていたに違いない。彼は日本が社会主義国になる恐れはないものと考えていたのだろう。熱心な皇室崇拝者であったゆえに、ロシアのようなことになるはずはない、と安心していたとも考えられる。彼の書斎には大正天皇の御真影が掲げられていて、朝夕、決まって拝していた。後藤新平は国体護持を信じてさえいれば、社会主義者と親しんでも感染はしないと確信していたのだろう。

その後藤新平と妻和子の間の娘愛子の夫が戦前戦後を通じて厚生大臣など政治家として活躍した鶴見祐輔である。祐輔の長女は祖母の名をそのまま継いだ比較社会学者の鶴見和子、弟は哲学者の鶴見俊輔という血縁を形成している。いずれも通常の定規では測りにくい器を持った姉弟であり、まさしく後藤新平の大風呂敷にさえ包みきれない綾(あや)を成している血族だともいえる。
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