電脳筆写『 心超臨界 』

一般に外交では紛争は解決しない
戦争が終るのは平和のプロセスとしてではなく
一方が降伏するからである
D・パイプス

自分を鍛える! 《 先人の知恵に自分の知恵を重ねるには――ジョン・トッド 》

2024-08-19 | 03-自己・信念・努力
電脳筆写『心超臨界』へようこそ!
日本の歴史、伝統、文化を正しく学び次世代へつなぎたいと願っています。
20年間で約9千の記事を収めたブログは私の「人生ノート」になりました。
そのノートから少しずつ反芻学習することを日課にしています。
生涯学習にお付き合いいただき、ありがとうございます。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
東京裁判史観の虚妄を打ち砕き誇りある日本を取り戻そう!
そう願う心が臨界質量を超えるとき、思いは実現する
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
■『小樽龍宮神社「土方歳三慰霊祭祭文」全文
◆村上春樹著『騎士団長殺し』の〈南京城内民間人の死者数40万人は間違いで「34人」だった〉
■超拡散『世界政治の崩壊過程に蘇れ日本政治の根幹とは』
■超拡散『日本の「月面着陸」をライヴ放送しないNHKの電波1本返却させよ◇この国会質疑を視聴しよう⁉️:https://youtube.com/watch?v=apyoi2KTMpA&si=I9x7DoDLgkcfESSc』
■超拡散『移民受入れを推進した安倍晋三総理の妄言』
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━


勉学の目的は、あらゆる面において頭脳を鍛えることである。道具のありかを知り、その利用の仕方を知ることである。われわれの頭にある知識の量は、どんな場合にせよ膨大であるはずもなく、またその必要もない。いかにすぐれたポンプでも、もしそれが尽きることなく水の湧く水源に達していなければ、あるいはカラになってもすぐにいっぱいにする装置が備わっていなければ、たちまち使いものにならなくなってしまう。それと同じことだ。たとえ今持っている知識が蒸発してしまったとしても、それは海からのぼる水蒸気のように、他の経路からきっとまた勤勉な人間のもとに戻ってくるはずである。


『自分を鍛える!』
( ジョン・トッド、三笠書房(2002/02)、p38 )
1章 ものを「考える頭」には限界がない!

◆先人の知恵に自分の知恵を重ねるには

われわれは、ややもすると記憶力を馬鹿にしがちである。記憶力はすこぶる重要なものであり、軽んずるべきではない。と言うのは、記憶力のおかげで驚嘆するようなことが成し遂げられることがあるからである。一つひとつの言葉はともかく、自分の読んだ本の内容や思想をしっかりと把握して脳裏に刻み込む記憶力と、比較検討する判断力を持っている人物が、頭角をあらわさないということはまずありえない。

記憶力がよすぎると独創的なアイデアを生みだすきっかけや能力が駄目にされやしまいかと恐れるあまり、記憶力を伸ばすことに危惧を抱いている人が大勢いる。借りものの発想しかできなくなるのではないかとおそれるのである。しかし、私にはさほど恐るるに足る危険はないように思われる。なぜならば、すぐれて記憶力を持つことに危惧を抱いているような人間で、うらやむべき独創性を持っているような人間は見あたらないからである。

多くの先達によって書物の中につづられている膨大な量の思想や観察、経験も、もしわれわれがそれらを踏み台として利用し、高い地点に立ち、知識の限界や領域をさらに拡大していくのでなければ、いったい何の意味があるだろうか。それに、われわれの住んでいるような暗い世界では、たとえ借りものの光にすぎなくても、とにかく光を投げかけてくれる惑星が姿を見せてくれるということは実にありがたいことではないだろうか。何だかんだと言っても、一人の人間の頭に浮かぶ独創的なアイデアといのは、思ったよりずっと少ないものなのである。

若い時の読書には心が躍るような新鮮さがあることを知らない者はいまい。若者にとって世界は未知のことでいっぱいである。真新しく魅惑的な大地へ足を踏み入れているのだ。分別盛りの年齢に達した人間が、若い時のように新鮮な感動を持って本を読めたらなあ、とつぶやくのを耳にしたことがある。どうしてそうできないのだろうか。それは、新しく手にとる本がもはや新しくないからである。すでに同じ考えや似たような考えを何度も目にしてきたし、それに、それぞれの本が次に読む本の独創性を減じてしまうからである。

では、最初に思っていたほど多くの独創性が人間にも書物にもないのであれば、人から人へと知識を伝えていく手段である記憶力は、きわめて大切なものであるということになる。記憶力を伸ばすことも、はなはだ重要だということになる。ここでこの点にふれたのは、今その具体的な方法を示すためだけではなく、ただその計りしれない重要性を述べておきたかったからである。

以上述べてきたことからおわかりいただけるだろうが、勉学の目的は、あらゆる面において頭脳を鍛えることである。道具のありかを知り、その利用の仕方を知ることである。

われわれの頭にある知識の量は、どんな場合にせよ膨大であるはずもなく、またその必要もない。いかにすぐれたポンプでも、もしそれが尽きることなく水の湧く水源に達していなければ、あるいはカラになってもすぐにいっぱいにする装置が備わっていなければ、たちまち使いものにならなくなってしまう。それと同じことだ。たとえ今持っている知識が蒸発してしまったとしても、それは海からのぼる水蒸気のように、他の経路からきっとまた勤勉な人間のもとに戻ってくるはずである。
この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 自助論 《 「働け! 働け!... | トップ | 自分のための人生 《 言葉の... »
最新の画像もっと見る

03-自己・信念・努力」カテゴリの最新記事