電脳筆写『 心超臨界 』

計画に失敗すれば、失敗を計画したことになる
( アラン・ラケイン )

§3 日米戦争によってアメリカは日本を侵略した

2024-07-15 | 心が臨界質量を超える
§3 日米戦争によってアメリカは日本を侵略した


戦争は誰が正義であるかを決めない
ただ生き残る者を決めるだけである
( バートランド・ラッセル )
War does not determine who is right - only who is left.
( Bertrand Russell )


◆日米戦争のあらまし
この戦争は、19世紀以来、満洲進出を狙っていた米国に対し、日本が日露戦争以降、満洲に勢力を伸ばしたため、米国が日本を強引に挑発し、日本の反撃を利用して滅ぼしたものである。米国は同じ目的で、4年前からソ連の起こした支那事変に参加し、蒋介石に莫大な軍事援助を与えていた。日本にとって対米戦は反撃であり、敗戦したが東條英機の主張したように正当な自存自衛戦争であったことを確認したい。米国は戦後、日本を破壊し植民地化したが、ソ連の進出でアジア政策に失敗し、対日方針を日本再建利用に180度転換して今日に至る。戦死者は日本軍が戦争全体で230万人、米軍は対日戦だけで17万人に上る。米国では最も評判の悪い戦争であるという。

◆ドゥーリトル空襲が海軍に甚大な衝撃を与える
ドゥーリトル空襲が海軍に与えた衝撃は甚大で、山本長官のプライドは大きく傷つき、一方で「空襲を防ぐにはミッドウェー島占領が必要だ」という彼の主張に弾みが付いてしまいました。ミッドウェー作戦は狙いと成果に疑問が多く、海軍内において作戦発動時期などについて議論がありペンディング状態であったのですが、不幸にもドゥーリトル空襲を背景に議論が一気に収束してしまったのです。

◆世紀の愚将・山本五十六
ハワイを占領したところで補給が続かないのなら、最初からハワイ攻撃をやるべきではありませんでした。逆に、どうしてもハワイに行くなら占領しなければいけません。単に叩いて帰ってくるだけなら、いったい何のためにハワイまで行ったのか。アメリカを怒らせてあげただけです。

◆第二撃準備完了
南雲がもしここで燃料施設に攻撃を加えていれば、その後の日本とアメリカの戦争の展開はドロンゲームになった公算が大きいのです。このことはチェスター・ウィリアム・ニミッツという大東亜戦争中のアメリカ太平洋艦隊司令長官がその回想録で「あの時、真珠湾の燃料施設を爆破されていたら、太平洋で動ける艦船は半年はなかった」と述べていることでも明らかです。

◆戦力は根拠地から戦場への距離の2乗に反比例する
日本海軍の伝統的な作戦は、敵艦隊をマリアナの近海に引きつけて迎え撃つ、というものでした。「昭和16年度、帝国海軍作戦計画」はこの考えに基づいたもので、西太平洋における不敗持久の戦略態勢という思想がベースになっています。

◆ミッドウェー海戦はまさに第二次大戦全体の分水嶺となった
もし日本がミッドウェーで勝っていたら、米陸軍は西海岸に終結せざるを得ず、イギリスを援護するどころではなくなっていた。となればドイツがヨーロッパの覇者となっていたであろう。ミッドウェー海戦はまさに第二次大戦全体の分水嶺となったのである。

◆「海軍が善玉で、陸軍が悪玉だ」と思わされてきた日本人
真珠湾攻撃については、東條英機首相ですら知らなかったと言われています。日本には統合参謀本部がありませんでしたから、海軍は独自に作戦を立てており、陸軍に伝えていなかったようです。さらに、真珠湾攻撃から半年後には、こちらからミッドウェーにまで出かけていって惨敗を喫しています。ミッドウェー・アリューシャン作戦についても大きな疑問が残ります。

◆硫黄島で栗林中将が禁じた二つのこと
爆撃の目的はもはや本土で女と子供(こども)を殺すことだ。女と子供を殺す、すなわち民族を根絶(ねだ)やしにされると日本に恐れさせて降伏(こうふく)に導(みちび)くのが、アメリカ軍が硫黄島を取る本当の理由である。だから今から穴を掘ろう、穴を掘って立てこもって、やがて、みな死ぬ。みな死に、故郷には帰れない、家族にはあえない。しかし穴を掘って立てこもったら一日戦いを引き延(の)ばせるかもしれない、最後は負けても、一日引き延ばしたら爆撃が一日、遅れて一日分、本土で女と子供が生き延びる、二日延ばしたら二日分、本土で女と子供が生き残る。そこから祖国は甦る。だから穴を掘ろう。

◆国と沖縄を救うために必死の攻撃を行った神風特攻隊
大和と連合艦隊の残存部隊9隻は航空機の援護もなく、帰還用の重油も持たずに米艦隊に包囲されている沖縄に向かった(帰還用まで積んだという説も出ているが、信じ難い。大和は沖縄の海岸に乗り上げて艦砲射撃する予定だったというほうが正しいだろう)。そして、翌4月7日、鹿児島県南方の東シナ海で、米軍機のべ350機の猛攻を受けて大爆発を起こし、沈没した。カミカゼも戦艦大和も沖縄を救うことはできなかった。しかし、救うために必死の攻撃を繰り返したことはたしかである。日本の最後の戦艦「大和」も3千機に近い特攻機も、沖縄のために出撃したのであり、沖縄の犠牲になったのだ。

◆日本軍の兵士たちの耐えた困苦は、圧倒的な感動を呼び起こした――ドナルド・キーン
「ガダルカナルを餓島と呼んだ日本軍の兵士たちの耐えた困苦は、圧倒的な感動を呼び起こした。アメリカ軍の兵士の手紙には何の理想もなく、ただ元の生活に戻りたいとだけ書かれていた」「大義のために滅私奉公する日本人と、帰郷以外のことにはまったく関心を持たない大部分のアメリカ人。日本の兵に対して賛嘆を禁じえなかった。そして結局、日本人こそ勝利に値するのではないかと信じるようになった」。日本軍は補給を完全に断たれ、餓死する兵士が続出した。だがキーンは、まさに超人的な精神力で戦った日本兵を目の当たりにした。

◆喫茶去・喫茶来(きっさこ・きっさらい)
去る第二次世界大戦のときである。シドニー湾内に特殊潜航艇で進入する命を受けた一人の若い海軍の水兵がいた。母艦を去るとき、彼は母の丹精の梅ぼしを細かくさいて、友人と別離の茶を服するのである。そのときの彼の辞世二首を紹介する。「喫茶」の厳粛なこころを読みとってほしい。

  敵の地に深く入りける艦内に ふくささばきの音のしずけさ

  つつましく薄茶をたてるたたかいの そのひとときのひまのなごやか

◆戦勝国の「戦争犯罪」――捕虜を殺して戦果としたアメリカ
戦後の捕虜問題のほかに、戦時中の捕虜問題がある。捕虜として投降した者をも、捕虜として認めず、殺してしまう方法である。これは捕虜問題を起こさない一つの方法と言えよう。捕虜になるつもりで降伏した兵士を皆殺しにすれば、戦場における戦果であり、捕虜ではないのだ。この方法をよく用いたのはアメリカ軍である。

◆一般市民大虐殺の思想はイギリスとアメリカの発明である
それまでの日本人の通念によれば、爆弾自体が貴重なのであり、狙って軍事施設に落とすものだった。民間家屋に落としては価格的にも間尺に合わないし、第一、絨毯爆撃するほど豊富に爆弾はなかったのである。それに、民間人を組織的に殺すという発想は日本人には欠けていた。しかし、それまでの世界の知らなかった生産力をフルに働かせたアメリカと、そこから豊かな援助を受けたイギリスは、空から民間人を大量に、組織的に殺すことを考えつき、それを実行したのである。

◆無差別爆撃焼殺を入念に計画し実施したアメリカ
最初の東京空襲は下町の民家密集地帯を狙ったものだったが、この空襲のためにアメリカ軍は事前に砂漠に日本の町を作り上げた。日本の木造家屋を作るため、ハワイから日系人の畳職人や襖(ふすま)職人を呼び寄せたほどだ。その家と町を燃やすにはどんな爆弾が効果的かまで実験しているのだ。

◆昭和20年3月10日の東京大空襲で十万人超の命奪ったM69焼夷弾
昭和20年3月10日の東京大空襲で米軍B29爆撃機が主に投下したのは「M69油脂焼夷弾」だった。六角形の焼夷弾(直径7・6センチ、長さ50・8センチ)には、ナフサ(粗製ガソリン)と薬品を混ぜたナパーム剤が注入されており、着地と同時に引火する。すると1300度で燃え上がり、30メートル四方に火炎を発散させる。この焼夷弾計38発が集束型爆弾内に収められ、投下後数秒で散解する仕組みだった。3月10日の大空襲を米軍は「ミーティングハウス2号作戦」と名付け、M69焼夷弾をB29に1機平均で6・6トン積み込み、計325機が出撃し、東京に計1600トンを投下した。

◆無差別殺戮に転じた米国
東京が初めて本格的空襲を受けたのは昭和19年11月24日、88機のB26が武蔵野町(現武蔵野市)の中島飛行機武蔵工場などを爆撃、550人の死傷者を出した。この時点での空襲は昼間、1万メートルほどの高さから軍需工場を中心に狙った。時に精度が狂い、一般民家などにも被害が出た。だがマリアナの米軍B29爆撃兵団の指揮官が20年1月、カーチス・ルメイ少将に代わってからは、夜間低空から焼夷弾を使う無差別じゅんたん爆撃が採られ、非戦闘員も対象とされた。その最初が3月10日の東京で、大阪を経て17日にはB29が309機神戸に来襲した。

◆戦略爆撃という新思想
戦略爆撃というのも新思想であって、初めから軍事目的を限定せず、意図的に市民を大がかりな爆撃の対象にしたのは第二次世界大戦中のイギリスとアメリカが初めてである。日本はハワイなどを空襲したが、それは厳密に軍艦と軍事施設に限られていた。日本には市民を意図的に大量に殺すという思想がなかったのである。ヒトラーも、はじめはロンドン市街地空襲を禁じていたぐらいである。

◆封印された「5・25東京大空襲」の被害
「3・10」の東京無差別爆撃の死傷者11万4711人と同「5・25(24日含む)」の死傷者7415人の被害者状況を単純比較できないのは、1945年5月24日~25日のほうが焼夷弾や被災した町の数でも比較できないほど甚大だったににもかかわらず、「5・25」の被害は今現在もほとんど封印されたままになっているからです。

◆東京はホロコーストされた都市だ
とりわけ酷(ひど)かったのが昭和20年3月10日の東京爆撃です。日本の本土空襲の指揮をとっていたカーチス・ルメイという将軍は東京を碁盤の目のように区切り、タテに何度となく爆撃を行い、次はヨコに爆撃を繰り返し、さらにはナナメの線に沿って爆撃をつづけたのです。その一日だけで約十万人の一般人が殺されました。

◆日本が終戦を望んでいることを知りながら原爆を使用したトルーマン大統領
日本との戦争を終わらせるための四つの選択肢とは、A案「原爆使用」、B案「ソ連参戦」、C案「降伏条件緩和の声明」、D案「本土侵攻作戦」である。D案の本土侵攻作戦は多くの米兵の犠牲者が生じるため、最悪の選択肢として留保されていた。そして、既に示したように、アメリカの国家指導者たちのほとんどが統一した見解は、C案を早期に実施することが最良の策というもので、そのことを大統領に勧告していた。しかし大統領は、C案よりも常にA案「原爆使用」とB案「ソ連参戦」の選択肢を優先させたのである。

◆原爆を落としたのはチャーチル?
スチムソンが「無警告で都市に使用する」ことを決定するのですが、実際の投下に迷いを見せていたトルーマンにチャーチルは「日本は真珠湾を警告もなく攻撃し、貴国の若者を殺したではないか」と言ったといいます。

◆猩々蠅(しょうじょうばえ)が放射線の恐怖を煽った
彼(ハーマン・マラー)は放射線の生物への影響を担当した。実は彼は1920年代に猩々蠅にX線を当てたら面白いように奇形や突然変異が起きる事を発見していた。ただそれは猩々蠅だけの話。別の生き物でそれは観測されてはいなかった。日本に原爆が投下された翌年、彼の研究にノーベル賞が与えられ、放射線がいかに生物に危険なものかが世界に喧伝(けんでん)された。

◆福島原発事故でも放射線の虚妄が大手を振って罷り通っている
こんな愚かなことはありません。研究者が詳細に調べた結果、原発事故で放出された放射線量は広島の原爆のそれの1千8百万分の1だということがはっきりしています。1千8百分の1ではありません。1千8百万分の1です。事実、検出される放射線量は、最も高い地域の数字を見ても、とるに足らないものです。事故をおこした原発の構内と至近の周辺を除いて、危険な地域は全くないと断言できます。

◆原爆被害の主原因は放射線被爆ではない
私はなんとなく永井博士の奥さんの死は放射線被曝によるものだとばかり思い込んでいました。そう思い込んで放射線への恐怖を募らせていました。しかし、永井博士の描写を見ると、明らかに原爆破裂の熱線と火災による焼死です。博士はそのことをきちんと捉えています。

◆ポツダム宣言受諾——日本の敗戦は「無条件降伏」ではなかった
日本が「無条件降伏(むじょうけんこうふく)した」と誤解している人がいるが、そうではない。ポツダム宣言は「我らの条件以下の如(ごと)し」という提案(オファー)である。日本政府に対しての「日本の陸海軍に無条件降伏させよ」という条件を含むオファーであって、日本は「有条件」の下で降伏したのである。


◆ポツダム宣言とは何だつたか――天皇制の維持保証と原爆使用に触れず
日本外務省が受信したポツダム宣言に謂(い)ふ停戦条件は慥(たしか)に苛酷極まるといふほどではなかつたが、日本国に対して最後的打撃を加へる事になる軍事力はドイツ全土を荒廃させた力と比べ様もない原子爆弾使用の暗示を読み取る事はできなかつた。そしてもしその条件を明示してくれてあれば、日本国政府が少なくとも考慮検討するという程の回答を返し得たであろう最重要案件、天皇の地位の安泰を保証するといふ文言はそこになかつた。グルー氏の切実な提言はこの宣言文には遂に採られてゐなかつた。


 
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