電脳筆写『 心超臨界 』

人格は自らを守る守護神
( ヘラクリトス )

生きるための杖ことば 《 白日青天怒雷走——松原泰道 》

2024-07-22 | 03-自己・信念・努力
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怒雷は、利休の怒りではなく晴天白日の清涼さの助詞だ。この例に「一鳥啼山更幽(一鳥啼(な)いて山更(さら)に幽なり)」がある。「一鳥啼かず山幽なり」では山中の静寂は十二分に表わされていない。一鳥の声で、かえって静寂さを深める禅語のニュアンスを思うべきであろう。怒雷は、利休の静寂に沈潜した心情に外ならない。


◆白日青天怒雷走
 はくじつせいてん どらいはしる――補庵稿

『生きるための杖ことば』
( 松原泰道、全国青少年教化協議会 (2001/04)、p26 )

「白日青天」は、晴れわたった日和。白日はくもりのない太陽・白昼。転じて少しも包み隠すところのない明白さや、無罪である事実が明らかになるときなどに使われる。「怒雷」は烈しい雷鳴で、同義語に「青天の霹靂(へきれき=にわかに起こる雷鳴)がある。また、ときとして人間感情の激変をいう。これで辞書的な説明は尽きよう。

千家流茶道の祖、千利休(宗易(そうえき))は京都紫野の大徳寺の古渓(こけい)和尚に参禅をつづけ、「わがもとで三十年の飽参(ほうさん=十二分に禅を学んだ)の徒だ」と古渓から禅の印可を許された禅者でもある。

利休は秀吉の厚い信頼を得ていたが、利休が自分の木像を大徳寺の山門上に置いたことなどから、秀吉の激怒を買い自刃(じじん)して果てた。その死の直前に、古渓と利休が別離の茶事をもつ。茶を喫しつつ、古渓は「末期の一句(覚悟の一言)は如何に」と、この場に臨んでの平素の禅のこころを尋ねる。利休が全身を挙げて師に答えたのが「白日青天怒雷走」であった。古渓もその心境に満足して、二人して最後の別れの茶味を喫し終わった(古渓、補庵稿)。

白日青天怒雷走の字義の解釈は最初に記した。利休の答えも、常識的にはどの項にもあてはまる。秀吉の心境の変化・利休にとっては環境の突然の変異・利休の無実や怒りの心情等のすべてがこの語に盛られよう。

しかしそれでは古渓が満足するわけがない。利休があえてこの語を末期の窮極の一句としたのは、字義を超える命の躍動がなければならぬ。恩讐(おんしゅう)や生死(しょうじ)の執着を乗り超え、一片のよどみの雲もない白日青天の心情の声だ。

怒雷は、利休の怒りではなく晴天白日の清涼さの助詞だ。この例に「一鳥啼山更幽(一鳥啼(な)いて山更(さら)に幽なり)」がある。「一鳥啼かず山幽なり」では山中の静寂は十二分に表わされていない。一鳥の声で、かえって静寂さを深める禅語のニュアンスを思うべきであろう。怒雷は、利休の静寂に沈潜した心情に外ならない。
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