電脳筆写『 心超臨界 』

人生は歎き悲しむよりも
笑いとばすほうが人には合っている
( セネカ )

◆戦勝国の「戦争犯罪」――捕虜を殺して戦果としたアメリカ

2024-07-28 | 05-真相・背景・経緯

§3 日米戦争によってアメリカは日本を侵略した
◆戦勝国の「戦争犯罪」――捕虜を殺して戦果としたアメリカ


戦後の捕虜問題のほかに、戦時中の捕虜問題がある。捕虜として投降した者をも、捕虜として認めず、殺してしまう方法である。これは捕虜問題を起こさない一つの方法と言えよう。捕虜になるつもりで降伏した兵士を皆殺しにすれば、戦場における戦果であり、捕虜ではないのだ。この方法をよく用いたのはアメリカ軍である。


『日本史から見た日本人 昭和編』
( 渡部昇一、祥伝社 (2000/02)、p416 )

戦後の捕虜問題のほかに、戦時中の捕虜問題がある。捕虜として投降した者をも、捕虜として認めず、殺してしまう方法である。

これは捕虜問題を起こさない一つの方法と言えよう。捕虜になるつもりで降伏した兵士を皆殺しにすれば、戦場における戦果であり、捕虜ではないのだ。

この方法をよく用いたのはアメリカ軍である。この点に関しては『チャールズ・リンドバーグの戦時日記』(The Wartime journals of Charles Lindbergh, 1970)が、最も信頼できる証言となるであろう。(田上憲治ほか『日本人が虐殺された日本史』新人物往来社・昭和48年・21-39ページ参照)

リンドバーグは、1927年(昭和2)に、ニューヨークからパリまで、スピリット・オブ・セントルイス号に乗り、世界最初の単独無着陸飛行に成功した空の英雄である。『翼よ、あれがパリの灯だ』で広く知られている。

彼は第二次大戦にアメリカが参入することに反対であった。ルーズベルト大統領と対立する立場にあったため、空軍士官を辞めるに至った。しかし、ひとたびアメリカが大戦に突入すると、ユーナイテッド航空機会社(エアークラフト・コーポレーション)にコンサルタントとして勤務し、その資格で太平洋の各基地を回る機会があり、実際、50回も空中戦に参加したという。しかし、ルーズベルトに反対した人間ということで人目につかず、戦後もパンナムや国防総省のコンサルタントということで、ひっそり暮らしていた。

彼の功績が再認識されたのは、アイゼンハウワー大統領になってからであり、本国政府は彼を予備空軍少将に任じた。彼こそは、よき時代のよきアメリカ人的偉人であると言えよう。

その彼の日記にしばしば出てくるのは、「アメリカ軍は日本兵を捕虜にしようとしなかった」という事実である。例えば、次のような個所もある。

  「わが砲兵隊は、この島の日本軍の降服をめったに受けつけなかっ
  た。戦闘は厳しいもので、わが軍兵士の損失も甚大だった。それゆ
  え、みなの欲するところは、日本兵はすべて殺害してしまって、け
  っして捕虜にはせぬ、ということだった。たとえ捕虜として連行し
  てきたときでも、彼らを一列に並ばせ、誰か英語を話せるものはい
  ないかと質問し、もし話せるものがいたら彼らだけひきぬいて、尋
  問のための捕虜とした。残りの者は捕虜にもしなかった」
  (田上ほか・前掲書・26ページ)

このような記述が並んでいるのを見てゆくと、日本軍が玉砕したというのも、捕虜になろうとしたら鏖殺(おうさつ)(みな殺し)された、というにすぎない場合が多かったようである。

また、日本兵の死体に対する取り扱い方も、リンドバーグを憤慨させた一つである。

日本兵の死体に金歯があると、靴で踏みつけたり、棒でつついてその歯を取り出して集めて、小さい袋に貯めこんでいる兵士が何人もいる。砲弾で出来た穴の中に日本兵の死体を投げこむ。その上をゴミ捨て場にする例もある。死体処理はブルドーザーでなされ、墓標が立てられることは、けっしてない。

一方、アメリカ兵の死体に対しては、一人一人別の墓が作られ丁重に埋葬し、十字架を立てる。

日本兵の場合は、4-5000人の死体を埋めた所にも墓標一つない。ちょうどその頃、日本軍は泰緬鉄道の捕虜犠牲者のために4メートルの大理石の慰霊碑を立てていたことを考え合わせてみよ。

捕虜虐待による戦争犯罪の裁判を受けなければならなかったのは、どちら側か。死者に対する敬意の念を保持していたのは、いずれの側であったか。

一般市民の住む軍事施設のあまりない市街地に、一晩に何十万発の爆弾を落としたり、原爆を落としたりするセンスは、われわれの持ち合わせていないものであったが、戦争中に捕虜を認めずに殺すことを方針にするセンスもなかった。しかも、彼らは補給に困ることはないから、捕虜にしても食わせるものに苦労はしなかったはずなのである。

逆説的な話になるが、日本軍が捕虜虐待問題を起こしたのは、補給も足りない状況なのに、国際法に従って捕虜を受け入れたからであった。チャーチルも言っているように、マレーでは10万人のイギリス兵が3万4000人の日本軍に降伏するという異常事態が起こったため、日本軍はその管理に当惑した。自分たちの食糧補給も充分でなかったのだから。

南の島のアメリカ兵やオーストラリア兵のようにしておれば、「戦果」はあっても「捕虜虐待」はなかったことになる。

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