電脳筆写『 心超臨界 』

明日への最大の準備はきょう最善を尽くすことである
( H・ジャクソン・ブラウン・Jr. )

◆原爆被害の主原因は放射線被爆ではない

2024-06-04 | 05-真相・背景・経緯
◆原爆被害の主原因は放射線被爆ではない


私はなんとなく永井博士の奥さんの死は放射線被曝によるものだとばかり思い込んでいました。そう思い込んで放射線への恐怖を募らせていました。しかし、永井博士の描写を見ると、明らかに原爆破裂の熱線と火災による焼死です。博士はそのことをきちんと捉えています。


 連載 第195回「歴史の教訓」――渡部昇一・上智大学名誉教授
『致知』 2013年6月号、p127 )

■永井博士は放射線をどのように捉えたか

いまの中年から若年層にかけては、その書名は聞いたことさえないかもしれません。読んだという人でも、その内容はおぼろなのではないでしょうか。終戦直後、昭和23年から26年あたりにかけ、連続してベストセラーになった本がありました『ロザリオの鎖』『長崎の鐘』『この子を残して』などです。

書いたのは永井隆。長崎医科大学(現・長崎大学医学部)で放射線研究を専門にする医学博士です。本の内容は、長崎原爆投下による被曝体験、家族への愛情、カトリック信仰などを柱に日常を綴ったものです。私は父親がこれらの本を購入していたので読み、感銘を受けた記憶があります。

福島第一原発事故のことがきっかけになって、永井博士は放射線をどのように書いていただろうかと思い、読み直してみました。

受けた感銘は若い頃に劣るものではありませんでした。はっきり覚えている部分もあれば、すっかり忘れてしまっていた部分もあります。そして、永井博士は事実を誤りなく書いていると改めて感じました。同時に勝手な先入観で事実を違ったものに思い込んでいたことも知りました。

放射線研究を専門にする永井博士は、研究中に誤って高線量を被曝し、原爆以前にすでに白血病を発病していました。実際によろめいたり目まいがしたりといった症状が現れていました。

昭和20年8月9日、永井博士は爆心地から7百メートルの大学の診察室で原爆を受け、頭に重症を負いました。それでも頭にタオルを巻きつけて止血し、被災者の救護活動にあたります。

永井博士が帰宅したのは三日後、もちろん家は跡形もありません。台所があったところに黒い塊がありました。触れてみると、それは愛妻の骨盤と腰椎(ようつい)でした。それを拾ってバケツに入れると、焼けた熱がまだ残っていました。

このあたりの描写は実に淡々としています。だが、それが却って愛する者を失った悲しみを掻き立てて胸に迫ってきます。

それはそれとして、私はなんとなく永井博士の奥さんの死は放射線被曝によるものだとばかり思い込んでいました。そう思い込んで放射線への恐怖を募らせていました。しかし、永井博士の描写を見ると、明らかに原爆破裂の熱線と火災による焼死です。博士はそのことをきちんと捉えています。

そう言えば、私は永井博士の白血病も原爆によるものと思い込んで本を読んでいたことにきがつきます。もちろん、爆心地から7百メートルという至近距離ですから、原爆の放射線が症状に影響したということはあったでしょう。だが、博士は研究中の被曝と原爆によるそれを冷静に区分けしています。
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