景子ちゃんは、ピンクの浴衣(ゆかた)を着て、髪の毛のない頭にタスキをしばって、ナレーター役と「野菜いらんかね、安いよ」と大きな声で野菜を売りました。淳子は、景子ちゃんの出番を待つ間、ちゃんと台詞が言えるか、自分の立つ位置を忘れないかと心配していました。発表会が終わり、皆から「頑張ったね」と言われると、景子ちゃんは「いやあ、それほどでも」とおとぼけをして、皆を笑わせていました。 . . . 本文を読む
半導体産業にはチップの集積度が18―24カ月ごとに倍増する「ムーアの法則」がある。1チップに1個のコアを持つ現行技術で同法則を維持しようとすると、放熱やコストの問題が生じると指摘されていた。バレットCEOは「(複数コア技術で)ムーアの法則はこの先10年以上は維持できる」と強調した。 . . . 本文を読む
化石燃料とは、太古の太陽のエネルギーを集めて、地球が長い時間をかけてつくった「エネルギーの缶詰」ともいわれます。産業革命以来の社会は、この缶詰をつぎつぎに開けて利用することで恩恵を受けてきたといえるでしょう。私たちはこの地中の宝を、より無駄なく使うこと、そして排出ガスなど環境への負荷を抑えることも、考えなければならない時代にきています。 . . . 本文を読む
オランダ系ブーア人と英国人が政権を握る南アは一番上の白人が二番目の黒人と白人の混血児を使ってその下の黒人を支配してきた。マンデラはこの体制を崩すのにアラモ方式を採ったと言われる。彼は共産主義者を装い、東側に接近し、国内でアパルトヘイトへの戦いを始め、ソウエトで負け戦を繰り返させ多くの犠牲者を出し続けた。 . . . 本文を読む
当時の共産主義ソ連は、すなわちスターリンは、諸国がソ連に攻めかかる際に、日本こそがその尖兵の役割を担うと信じていたのですね。その見通しが当たっていたかどうかはさておくとして、ソ連が日本をひじょうに恐れていたことは事実のようです。それは、おそらく身の毛もよだつ怖ろしさだったでしょう。ゆえにソ連を防衛し安全を確保するためには、なにがなんでも日本の国内を大混乱におとしいれ、できることなら革命を惹き起こさせなければなりません。したがって、日本共産党が性根をすえて階級闘争を闘ってくれる大波瀾が、祖国を守りぬくため絶対に必要な第一の課題となりました。 . . . 本文を読む
日本人はどこから来たか。これについては、最近、山ほどいろいろな説がだされているが、われわれはどうしても『古事記』や『日本書紀』の記述をていねいに考えたうえで、いろいろのことを考えなければならない。戦後は妙な啓蒙思想が流行して、記紀などは問題にしないのが科学的と考えられたこともあったが、これは先に述べた解禁現象に伴う勇み足とでも言うべきもので、少なくとも世界の歴史学の大勢からも、ずれている。 . . . 本文を読む
礼儀は美術品と同じで、感動を与え、見た目にはきわめて心地のよいものである。しかし人が「持っていない美徳をさもあるかのように見せかける」ように、礼儀もただの仮面がわりに使われる可能性がある。それは目に見える外面的なよい行ないのしるしではあるが、うわっつらだけの薄っぺらなものかもしれない。洗練された身のこなしを見せても、心の中は腐り切っているかもしれないし、一分の隙もない礼儀正しさも、結局はにこやかなゼスチュアと美辞麗句を並べてただけにすぎないかもしれない。 . . . 本文を読む
怒りの感情は取り除くことができる。そのためにはものの考え方を大幅に変えていかなければならないが、そのつど実行していけばできないことはない。腹の立つ人間やできごとにあったら、これまでのようにすぐに怒るのではなく、違った感情を抱くように自分を導き、より建設的な行動をとるように促すのである。 . . . 本文を読む
富や地位は、立派な人格とは何ら関係がない。いくら貧しい人間でも真の人格者の心を備えているかもしれない。毎日を金に追われて暮らしても、すぐれた人柄は保ちつづけられる。誠実と礼節を忘れず、節度と勇気を持ち、自尊心と自助の精神にのっとって生きる人は、貧富のいかんを問わす新の人格者なのだ。 . . . 本文を読む
知識も大事、才能も大事。しかし、それがなければ、ほんとうに仕事ができないというものでもない。たとえ知識乏しく、才能が劣っていても、なんとかしてこの仕事をやりとげよう、なんとしてでもこの仕事をやりとげたい、そういう誠実な熱意にあふれていたならば、そこから必ずよい仕事が生まれてくる。 . . . 本文を読む
人間の気持ちは誠におそろしいものである。たとえ医学上からみれば助からないような病人の枕元に行っても、こちらが元気で積極的態度のときには、その人間の状態がずうっと良くなってしまうものだ。私はそれで、どれほど危篤になっている人間を助けてきたかわからない。 . . . 本文を読む
「ありがとう」は滅多にないということ、稀有(けう)の事実であります。いまお互いがここに生きているということは、考えてみれば稀有の事実です。私なんか、後期高齢者を越えてしまって、もう末期高齢者ですよね。孫が挨拶代わりに「おじいちゃん、いつ死ぬんですか」なんてことを聞いてきます(笑)。 . . . 本文を読む
私たちが、実際に「ある」と思っている実体は、実は無常と無我の法による現象に外ならないから、一切の事象を、仏教思想では“物質的現象”と名づけています。仮に無常でない永遠に不変なものや、他と無関係で単独に存在できるものがあるとするならば、それを“実体”と呼びますが、こうした実体はあるわけがない、とするのが仏教思想であることは、これまでの説明で明らかになったと思います。 . . . 本文を読む
仏教思想は、真理を自分の外、例えば天のように高いところに求めない。真理は必ず自分の中にあると教える。人間は誰しも、生まれながらに真人(しんじん=仏)となるべき可能性の種子を心中に備えている。この種子を仏性(ぶっしょう)とも仏心とも、また仏のいのちともいう。この事実を知らずに、自分を忘れて遠いところに真理を求めるのを迷いという。 . . . 本文を読む