統合の象徴であった天皇が二つも出来れば、どうしても安っぽくなる。さすがに尊氏(たかうじ)やその弟の直義(ただよし)は、「錦(にしき)の御旗(みはた)」の価値を知っていたから、天皇に敬意を払っていたが、部下の武士になると、天皇の意味はあんまりわからなくなる。俗な言葉で言うと「穀(ごく)つぶし」に見えてくるらしいのだ。 . . . 本文を読む
一時、建武の中興(1334年)があって、2年間ばかり天皇親政の原理に返ってみたが、また主権在民にもどり、そのまま明治維新を迎え、立憲君主制になり、そして戦後再び、主権在民の憲法による立憲君主と規定された。これは承久以来の原則を近代的な文章で確認したと見られなくもない。 . . . 本文を読む
人間が生涯をかけて最も強く追い求め欲しがるものはなにか。詰まるところはただ一筋、自分が世間から少しでも高く認められる評価である。測りしれぬ財宝を蓄えて深山の洞窟(どうくつ)に埋めこみ、ぜったい誰にも知れぬよう隠し通した者はいないであろう。
. . . 本文を読む
実務能力を身につけた人は働くことが習慣になっているので、何もせずにいることに耐えられない。何かの事情で専門の仕事を捨てざるを得なくなっても、ただちにまた他の仕事に自分の居場所を見つける。勤勉な人は、余暇の貴重さを味わうためにすぐさま仕事を見つける。勤勉な人には余暇があるが、怠け者には仕事も余暇も何もない。 . . . 本文を読む
完全主義的な「ベストを尽くせ」というたわごとのために、自分自身麻痺してしまうことがある。おそらく自分の人生で、本当にベストを尽くしたいと思うような大切な部分は、自分で選び出すことができるだろう。しかし、大多数の行動については、ベストを尽くさなければならないということ、のみならず、よくやるということさえ、行動の邪魔になるのである。 . . . 本文を読む
一つひとつに入念に取り組まねばならない。そして、繰り返しこれを実行していれば、自然と速くやれるようになる。この習慣がないばかりに、読み方が下手で、しかもつまらないものしか読まない読者がなんと多いことか。貧弱な内容のものをたどたどしく書いている作家たちがなんと多いことか。エウリピデス(前485頃-406頃、ギリシアの悲劇詩人)がわずか3行の詩を書く間に、ある流行詩人は300行も書いた。しかし、前者は永遠に残る詩を書き、後者は一日経てば消え去ってしまうような詩を書いたにすぎない。 . . . 本文を読む
学校教育は、本当の教育のほんの手はじめにすぎず、精神を鍛え、勉強の習慣をつけるという意味でのみ価値がある。他人から押しつけられた教育は、自分で熱心に努力して得たものほどは身につかない。自らの汗と涙で勝ち取った知識だけが、完全に自分の所有となるのだ。 . . . 本文を読む
この世の中、見方によっては、すべて人と人との約束のうえに成り立っているといってもよい。友人との待ち合わせの時間の約束から、金銭物品の貸借の約束、さらには社則や国家の法律というものも、おたがいの生活を秩序だて円滑にするための、一つの大事な約束ごとであるといってよい。 . . . 本文を読む
いわゆる自主自立の、人間としての尊い大精神がその心のなかで働いている人間には、健康的な出来事であろうと、運命的な出来事であろうと、すべて自分の生命の力で解決して生きる方法も手段も知っていますから、救われたいとか、すがりたいとかいう気持ちは断然ないに相違ないのであります。 . . . 本文を読む
新元号が発表されたよく晴れた春の日。「よし。今日しかない」とずっとあの日のままだった母の部屋の片付けを始めた。最後に着ていた服を洗濯し、桜の花びらが時折舞い散ってくるベランダに干すと、母の姿がそこにあるようで涙があふれた。 . . . 本文を読む
ときは1933年、おりからの不況で、私はパート先から一時解雇を言い渡され、家に食費を入れることができなくなりました。私たち一家は、母が裁縫の内職で稼ぐわずかなお金で生活するほかありませんでした。 . . . 本文を読む
オギャーと生まれた時から、母親のおっぱいを飲んで快い思いをしたり、たまたま着物に紛れ込んでいた針が体に刺さって、不快な思いをして泣くというような体験を、それぞれの人が次々と重ねていくわけです。阿頼耶識というのはそうした過去をすべて蓄積し、それを素材として未来を創りだしてしまう記憶の貯蔵庫であって、それを西田先生は「記憶データ」という分かりやすい現代語でズバッと言われた。これには私もわが意を得たりという思いがするんです。 . . . 本文を読む
過去にあったことを覚えていることは、どちらかと言えば「後ろ向き」のことのように思われます。その一方で、新しいことを生み出すことは、未来志向の、「前向き」のことのように思われます。果たして、そうでしょうか? . . . 本文を読む
手眼(千手千眼)を言い換えると“こころのカメラ・アイ”です。「手眼」の二字は「看」の一字にまとめられるでしょう。「看」の字形は、目の上に手があります。つまり目の上に手をかざして遠方を観察するさまを示す象形文字で、観察する点で「看」と「観」とは通じあいます。先に、私の孫の発熱を、嫁が自分の手を子どもの額に当てて知った例を申しましたが、看には「看病・看護」など、病人を〈みとる・みまもる〉観察の意味があるのは周知のとおりです。 . . . 本文を読む
花も蝶も、無心の随縁のままに精いっぱい生きている。無心とは、いわゆる心なきことでもなければ、たんなる無邪気でもない。物をねだることでもなければ、いわゆる妄念を去ることでもない。また、言動をつくろわぬということでもない。自然(じねん)のままである。自然とは、因縁の法則のままに生き、生かされ、因縁の出会いを生かす生き方をいう。 . . . 本文を読む