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◆パール判事の日本無罪論 《 アメリカの最後通牒(ハル・ノート)》

2024-05-31 | 05-真相・背景・経緯
§4 東京裁判――日本に犯罪国家の烙印を押すために演じられた政治ショー
◆パール判事の日本無罪論 《 アメリカの最後通牒(ハル・ノート)》


交渉の土壇場にきて、いままで提案されなかった事項まで持ちだし、従来の弾力性ある態度を捨てて、一方的にいままでにない苛酷な条件を押しつけて来たのである。これでは8カ月にわたる交渉は何のために行なわれてきたのか、日本側は理解に苦しんだ。パール博士が指摘したように、むしろアメリカ側こそ、この日まで戦争準備を整えるための時間稼ぎをやっていたものと推測されても、それだけの理由はあったのである。「それはもはや交渉ではなくして、日本に対して全面降伏を迫る最後通牒を意味するもの」であった。


『パール判事の日本無罪論』
( 田中正明、小学館 (2001/10/5)、p150 )

日米交渉の終止符を打ったのは、11月26日のハル・ノートであった。

このハル覚書は、今日、冷静に考えてみても、明らかに外交上の暴挙といえよう。

公平な目で、日米交渉のいきさつを通覧するとき、アメリカが突如として日本に突きつけたこの文書は、まさに“挑戦的”といっていいすぎではなかろう。なぜなら、8カ月にわたる交渉の全期間を通じて、アメリカ自身が提案してきた以上の厳しい過激な条項を、日本に呑めと迫ったのである。その概要はつぎのごときものである。


  合衆国及ビ日本政府ニ依(よ)ッテ執ラルベキ措置

1、両国政府ハ、日本並ビニ英帝国、中華民国、和蘭、蘇連邦及ビ泰国間ニ多辺的不可侵協定ヲ締結スルニ努力ス。

2、両国政府ハ、日米並ビニ英、蘭、支、泰各政府間ニ、仏領印度支那ノ領土保全ヲ尊重シ、ソレニ脅威ヲモタラスベキ事態発生セバ、ソレニ対処スベク必要ナル措置ヲ執ルタメノ共同協議ヲ開始シ、マタ仏領印度支那ニオケル通商上ノ均等待遇ヲ維持スベキ協定ノ締結ニ努力ス。

3、日本ハ中国及ビ仏印ヨリ全陸海軍及ビ警察力ヲ撤退ス。

4、両国政府ハ、重慶政府以外ノ中国ニオケル如何ナル政府モシクハ政権ヲモ支持セズ。

5、両国政府ハ、団匪(だんぴ)事件議定書ニ基ヅク権利並ビニ居留地権ヲ含ミ中国ニオケル一切ノ治外法権ヲ放棄シ、他国政府モ同様ノ措置ヲ執ルトノ同意ヲ得ベク努力ス。

6、両国政府ハ、最恵国待遇及ビ貿易障壁の軽減ニ基ヅク通商協定締結ノタメノ交渉ヲ開始ス。

7、両国政府ハ、資産凍結ヲ撤回ス。

8、弗(ドル)円比率安定ノ計画ニ同意シ、ソノ資金ヲ設定ス。

9、両国政府ハ、何レモ第三国ト締結シタル協定ハ本協定ノ基本的意図タル太平洋地域ヲ通ジテノ平和ノ確立及ビ維持ト衝突スルガ如ク解釈サレルコトナキニ同意ス。

10、両国政府ハ、他ノ諸国ヲシテ協定ノ基本的政治上及ビ経済上ノ諸原則ニ同意シ、コレヲ実際ニ適用セシメルガ如ク勧誘スベシ。


これを受け取った日本政府は、愕然(がくぜん)とし、色を失った。

まず第一に、第1項の多数国間の不可侵条約などということは、日米交渉期間中一度も出なかった新しい問題である。今さらこのような難問題をもちだすということは、日本側にとって全く理解しがたいところであった。ことに日米交渉の中にソ連までも加えた多数国間の不可侵条約をこれから締結しようなどという対案は、交渉をいたずらに長びかせるための手段であるとしか考えることができない。先にも述べたとおり、検察側は、ことさらに日米交渉を引き延ばして、開戦準備したのは日本であると決めつけたが、事実はかくのごとく、米国側こそ逆の態度に出てたのである。

第2項の問題も然りである。日本はすでに乙案によって、仏印における特殊権利の主張を放棄している。しかるに米国は、この問題を多辺的協定にもち込むべく新提案をしている。これまた仏印問題の解決をいたずらに複雑化、または遷延化するものである。

第3項にいたっては、全く米国の豹変(ひょうへん)といえよう。日本軍隊の中国からの撤退については、その地域や時期や条件をどうするかという交渉が8カ月間続いたのである。アメリカも今後の討議に待つという態度で、焦点を絞ってきたのである。ところが、ハル・ノートにおいて、突如即時かつ無条件の撤退を要求してきたのである。検察側のいう「一歩も妥協をしようとはしなかった」のは、日本ではなくして、米国である。この条項は、とうてい日本側の忍びうるところではなかった。

第4項の、重慶政府以外には、中国におけるどのような政府または政権をも支持してはならないという提案は、裏を返せば、汪政権の廃棄はもとより、満洲国の存在さえも否定し去ろうとするものである。これまた日本政府としてはとうてい忍びうるところではなかった。アメリカは日米交渉期間中、初めから日本の満洲国は暗黙にこれを認めるという態度をとり、満洲国問題には触れていなかったのである。しかるにハル・ノートは、無謀にも、満洲国放棄を日本に迫ったのである。

第5項の、中国における治外法権、租界および団匪事件に基づく権利の放棄も、全く新しい提案であった。

第9項の、日独伊三国同盟を対象としたこの条項は、従来の米国の主張の範囲を越えたものであり、要するに、三国同盟の廃棄を要求するに等しいものである。かつてハル長官自身も、日本が三国同盟を自主的に解釈することによって、米国の自衛行動に対しては三国同盟を発動しない旨の約束をとりつけたとして満足の意を表したことがある。しかるに、ここにあらためて三国同盟条約は破棄せよと迫ってきたのである。

過去8カ月、日本政府の譲歩によって交渉は遅々たる足どりではあったが、次第に煮つまっていた。日本軍隊の中国からの撤退問題、仏印問題、日独伊三国同盟に対する日本側の態度など、アメリカ自身が満足の意を表し、話し合いの余地は残されているものと信ぜられていた。しかるに交渉の土壇場にきて、いままで提案されなかった事項まで持ちだし、従来の弾力性ある態度を捨てて、一方的にいままでにない苛酷な条件を押しつけて来たのである。これでは8カ月にわたる交渉は何のために行なわれてきたのか、日本側は理解に苦しんだ。パール博士が指摘したように、むしろアメリカ側こそ、この日まで戦争準備を整えるための時間稼ぎをやっていたものと推測されても、それだけの理由はあったのである。「それはもはや交渉ではなくして、日本に対して全面降伏を迫る最後通牒を意味するもの」であった。

日本の指導者たちは、このハル・ノートをいかに受け取ったか、嶋田被告の陳述がこれを示している。

「それはまさに青天の霹靂(へきれき)であった。アメリカにおいて日本のした譲歩がいかなるものにせよ、余はそれを戦争回避のための真剣な努力と解し、かつアメリカもこれに対し歩み寄りを示し、もって全局が収拾されんことを祈っていた。しかるにこのアメリカの回答は、頑強不屈にして、冷酷なものであった。それは、われわれの示した交渉への真剣な努力は少しも認めていなかった。ハル・ノートの受諾を主張したものは、政府部内にも統帥部内にも一人もいなかった。その受諾は不可能であり、その通告は我が国の存立を脅かす一種の最後通牒であると解せられた。この通告の条件を受諾することは、日本の敗退に等しいというのが全般的意見であった」

東郷被告(当時の外相)も、ハル・ノートを野村大使から電報で受け取ったときに、「眼もくらむばかりの失望に撃たれた」と告白し、「日本がかくまで日米交渉の成立に努力したにもかかわらず、アメリカはハル・ノートのごとき最後通牒を送って、わが方を挑発し、さらに武力的弾圧をも加えんとする以上、自衛のため戦うの外(ほか)なしとするに意見一致した」(東郷茂徳著『時代の一面』)と述べている。

被告の全部が、いずれもこれと同じ感懐を述べている。日本の指導者がそう受け取ったばかりでなく、後日アメリカにおいても、このハル・ノートに対する非難の声は、日を追って高まった。セオボルト海軍少将は「まさしくハル・ノートは、日本を鉄棒で殴りつけた挑発であった」と、これを激しく非難した。グルー駐日大使も「このとき、開戦のボタンは押されたのである」と、その回顧録の中で述べている。
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