映画的・絵画的・音楽的

映画を見た後にネタバレOKで映画を、展覧会を見たら絵画を、など様々のことについて気楽に話しましょう。

スーパー!

2011年09月10日 | 洋画(11年)
 『スーパー!』を渋谷のシアターNで見てきました。

(1)ブログ「蚊取り線香は蚊を取らないよ」の“つぶあんこ”氏が、本作品を「★★★★★+★★★」と非常に高く評価しており、また他に見るべきものが見当たらなかったので、映画館に出かけてきました。

 本作は、妻を街のならず者に連れて行かれてしまった男が、神の啓示を受け、ヒーローのコスチュームをまとってその男の家に乗り込み、妻を救いだす、といったところがそのおおまかなストーリー(注1)。コメディでもあり、96分の映画を大層愉しく見ることが出来ました。

 もう少し初めの部分を、クローズアップしてみましょう。
 まず映画の冒頭では、人生において完璧だったのは、妻サラリヴ・タイラー)との結婚の瞬間と、巡査に犯人の逃げた方向を教えてやったことの二つだけで、あとは苦痛であり屈辱だったとか何とかと主人公フランクレイン・ウィルソン)が語り、小さい時分に父親に尻を叩かれたりしているシーンも映し出されます。

 ついで、ベッドで目覚めた主人公は、この完璧だった瞬間を2枚の紙に描いて、それを壁に貼ります。ただ、描かれているフランクの手が大き過ぎるとサラに指摘されたため、それをすぐに修正するものの、逆にサラはフランクから遠ざかってしまうのです。
 そうなると、家でドラッグパーティーが行われているのを見た際に、勇気がなくて彼女をそこから救いだせなかったのがいけなかったと後悔しても、最早後の祭り(元々、サラは、フランクが働くダイナーのウエイトレスで、ドラッグをやって刑務所に入っていたこともあるようです)。
 フランクが一人で卵料理を作っていると、突如、男(ケヴィン・ベーコン)が台所に現れ、一緒にそれを食べた挙句、「うまい、これは神が授けた才能だ」などと褒め上げ、「ジョックが来た、とサラに伝えてくれ」と言って立ち去りますが、その5日後にサラは家から消えてしまい、フランクは涙に暮れます(注2)。

 ジョックがサラを誘拐したのだとして、フランクは警察に訴えるものの、現実を受け入れることが必要だと、担当の刑事は取り合ってくれませんし(街のならず者と悶着を起こしたくないのかもしれません)、それならとフランクは、自分でジョックが営む店に乗り込んだところ、部下にボコボコにされる始末。

 そこで、フランクは、絶望した挙げ句、一生懸命に神に祈りを捧げることになります。
 自分は、不細工な顔、言うことをきかない髪の毛、悪い性格以外に何も持っておらず、これではどうしようもありません、どうか一つの願を聴いてください、サラをもう一度僕のサラにしてください、というわけです。
 その願いが神に聞き届けられたのでしょうか、フランクが寝ていると、あちこちから巨大な蛸の足のようなものが伸びてきて、ついにはフランクの頭蓋骨を斬り、脳を露出させます。
 それから、巨大な指が伸びてきて、その脳を撫でるのです(注3)。
 さらに、「ホーリー・アベンジャー」(Holy Avenger:ネイサン・フィリオン)までも現れ、“神が現れた、ほんの少しだけだが神の手が触れた、神に選ばれた者がいる”などと話します(注4)。
 そして、空中には、赤色をした仮面が浮かんでいます。

 ここら辺りは、すべてフランクの夢の中の話なのでしょう。ただ、それをフランクは、神の啓示と受け取り、壁に「神に選ばれし者(Some of His Children Are Chosen)」と書いた紙を貼り付け、さらに、自分で裁断して作り上げた赤色のコスチュームを身に着けて、「クリムゾンボルト(Crimson Bolt)」と名乗って、様々の悪に立ち向かうのです。



 初めは、フランク一人で、街の悪に立ち向かっていたところ、途中からはコミック・ショップで働くリビーエレン・ペイジ)が、ヒーローのコスチュームを着、「ボルティー(Boltie)」と名乗って応援するようになります(注5)。



 サア、このあと映画はどのように展開していくのでしょうか、……。

 主役のレイン・ウィルソンは、クマネズミにとっては始めて見る俳優ですが、気が弱く腕力も劣っていながらもヒーローのコスチュームを付けて何とかサラを救出しようと健気に振る舞う中年男を大層滑稽に演じていて、その実力は相当なものがあると感じました。
 ヒロインのエレン・ペイジも、画面狭しと大活躍していて(性的欲求が強く、またすぐに度を越した悪乗りをしてしまう様子を、実に滑稽に演じています)、これからが期待されます。
 また、悪役のケヴィン・ベーコンは、最近『X-MEN:ファースト・ジェネレーション』で人類を支配しようとするショウを演じているのを見たばかりながら、本作においても悪役としての本領をいかんなく発揮しています。

 なお、この映画を見ると、どうしても『キック・アス』と比較したくなってくるところ(注6)、今更そんなことをしてみても2番煎じに過ぎず、なおかつできの悪いシロモノになってしまうだけで何の意味もないでしょうから、ここでは控えておきましょう。

(2)さて、上で初めの方の場面を少しばかり立ち入って書きましたのは、劇場用パンフレットに掲載されているインタビューにおいて、脚本・監督のジェームズ・ガン氏が、「ウィリアム・ジェームズが1902年に著した『宗教的経験の諸相』にもかなりの影響を受けたよ。『スーパー!』はその本を映画化した作品とも言える」とか、「僕にとって、この映画は1人の男と神との関係を表している。そして彼は自分側に与えられた役割を満たすための旅をするんだ。他人の目から見ると、ぶっとんでいて道徳的に見て怪しいと思うような旅をね」などと述べていることに関係しています。

 この点については、さらに下記の映画評論家・前田有一氏も、「本作は宗教的側面からの考察も可能であ」る、と述べています。ただ、これでは何のことかわからないので、「そのあたりは別媒体でちょいと書いた」とあるの手掛かりに探してみると、同氏は、雑誌『男の隠れ家』8月号の「エンターテインメント」欄に、「チープな見た目の裏に隠された過激な宗教観」と題するエッセイを掲載しているのです。
 そのエッセイで前田氏は、本作が醸し出す「ホラー映画以上の直接的な残酷描写もいとわぬこの不気味な雰囲気」は、「19世紀の哲学者ウィリアム・ジェームズの名著『宗教的経験の諸相』の内容を、かなりのところなぞっている」からだとしています(注7)。
 すなわち、「W・ジェームズは、宗教や神秘主義は信ずる当人にとってはリアリズムそのものであり、外部の者が合理主義で判断できるものではないと看破した。そのうえで、そうした人々と彼らのリアリティを肯定した。この映画の言わんとする主張もまったく同じだ」と前田氏は述べます(注8)。

 従って、この映画においては、フランクが“神の啓示”を受けて、クリムゾンボルトに変身するところにまずは重点が置かれているように考えられるところです。
 というのも、W・ジュームズの『宗教的経験の諸相』においては、「回心」を巡る議論にかなりの重点が置かれているように思われるからです(注9)。
 そこで、ここでは、フランクが神の啓示を受けるに至るまでを、この映画の魅力がそこまでで十分出ていると思われることもあり、少々クローズアップしてみました。

 とはいえ、ジェームズ・ガン監督の話しぶりや前田氏の書きぶりからすれば、むしろフランクがクリムゾンボルトになってからの行動の方に、W・ジュームズの著書に倣ったものがうかがえるようにも思われます。
 そうだとすると、かなり拡大解釈気味ながら、例えば次のように、もしかしたら考えられるのでしょうか(注10)?

a.クリムゾンボルトになったフランクは、映画館前の行列に途中から割り込んでくる男とか、麻薬の売人とかの悪人に対して、かなり手荒な振る舞いをしますが(スパナであんなに人の頭を殴りつけたら、死んでしまうのではないでしょうか)、すべて神の怒りの現れと見るべきなのかもしれません。

b.クリムゾンボルトは、郊外にある広大な邸宅でマフィアと大量の麻薬取引をしようとする極悪人ジョッグを殺してしまいますが、神の道に背いた者に対する報復というわけなのでしょうか(その際にジョッグが、「自分を殺しても悪はなくならないぞ」と言ったのに対して、クリムゾンボルトは、「世界がどうなるか自分にも分からないから、試してみることにしよう」などと冷静に答えてから嬲り殺すのです)。

c.ヒロインのリビーが、クライマックスでジョックの屋敷にフランクと一緒に乗り込みますが、ジョッキ一味の銃撃でいとも簡単に頭の半分を吹き飛ばされてしまうのです。
 これは、神の啓示なしに、外見だけヒーローの格好をしても何の意味もないのだよということを表しているのかもしれません。

d.フランクにサラの救出を頼まれたものの相手にしなかった刑事が、街で大騒ぎになっているクリムゾンボルトの正体を暴こうとして、フランクの家に乗り込んだところ、逆に、ジョックの部下の銃撃を受けて一瞬のうちに殺されてしまいます。
 これは、フランクの真摯な要請を無下に断っただけでなく、神の啓示に従って行動しているフランクに対して犯罪容疑者の疑いをかけたことに対する神の報復なのかもしれません。

(3)ですが、仮にこんな風に考えられるにしても(注11)、宗教に格別の関心を持たないクマネズミにとっては、そんな説明をいくらしたところで、だから何なのかという感じが付きまとってしまいます。

 だったら、もうW・ジュームズなど脇にどけておいて、様々にハチャメチャで過激なところをそのまま楽しんで見れば、それで十分ではないでしょうか。

 強いて考えるとしたら、誰もが考え付くような通り一遍のものにすぎないものですが、むしろ次のように見てはどうかな、と思っています。
 すなわち、この映画は、神の啓示を受けたとされるブッシュ大統領が、9.11事件で一時は追い詰められるものの(注12)、すぐに立ち直って悪の枢軸たるイラクを攻撃し、その中心人物たるフセイン大統領を倒してしまう、というイラク戦争(注13)をパロディ風に描いた映画ではないでしょうか(要すれば、ブッシュ大統領=クリムゾンボルト、フセイン大統領=ジョックといった感じです。とすると、ボルティーは日本?!)。
 そして、この映画でジョックは、上で述べたように「自分を殺しても悪はなくならないぞ」とフランクに言いますが、現実もまさにその通りであって、イラクやアフガニスタンから米軍はなかなか足を洗えずにもがいているところです。

 いずれにせよ、様々の点で実に風変わりな映画であり、色々なことも考えさせつつも、コメディとして十分笑わせてもくれて、出色の作品ではないかと思いました。

(4)前田有一氏は、「これだけ現実の汚さを描きながら、それでも「スーパー!」はヒロイズムを高らかに肯定しているのである。かっこ悪いし、犯罪者だし、キモい。ヒーロー映画なんて、本当は不謹慎お下劣ホラーなんだと喝破しつつ、それでもこの映画は感動的で、希望にあふれている。まさに、オトナのヒーロー映画と評したくなるゆえんだ。 /キャストでは、コミック店員役のエレン・ペイジが光る。オタ少女からキレ少女、エロ少女へと目まぐるしく変わる姿は実にかわいらしい。爆笑必至のあのシーンの面白さといったら、一人でも多くの映画ファンに見てほしいと思わず願ってしまうほどだ」として85点もの高得点をつけています。



(注1)この映画は、コスチューム面などからヒーロー物とされますが、内容からすれば、『すべて彼女のために』(それをリメイクした『スリーデイズ』)と同じような映画(愛する妻を悲惨な境遇から救出する類いの作品)と考えた方がいいのかもしれません。

(注2)映画では、ここで手描きアニメによる実にお洒落なオープニングとなります。

(注3)前半部分は、フランクが寝る前に見ていたTV番組の延長のようです。また、後半部分については、インタビューでジェームズ・ガン監督は、自分のリアルな実体験だと話しています。

(注4)これも、フランクが寝る前に見たTVのキリスト教宣伝番組の延長と言えるでしょう。
 その番組では、「悪はあらゆるところに潜んでいる」、「悪に屈服するのはたやすい」、「だが、神が助けてくれる」などなどと番組の主人公のホーリー・アベンジャー(これもヒーローのコスチュームを身にまとっています)が言うのですが、それをフランクは食い入るように見ています。

(注5)フランクが、コミック版の「ホーリー・アベンジャー」をコミックショップに買い求めに行った時に、そこの店員のリビーと知りあいになり、その後、フランクがジョックの屋敷に単身で乗り込んだ際に受けた銃創を、リビーが手当てしてあげたりします。

(注6)『キック・アス』の主役のアーロン・ジョンソンが21歳で、こちらの主役のレイン・ウィルソンが45歳であるのにそれぞれ対応して、クロエ・モレッツは11歳で、こちらのエレン・ペイジは24歳というように、違っている面が相当あります。
 この映画を楽しむには、どちらでもかまわないことながら、別物と考えた方がいいのではないでしょうか?
 一部では、映画公開の順番などから『キック・アス』のパクリと見る向きもあるようですが、ジェームズ・ガン監督の話では、脚本はずっと前(2003年)に出来上がっていたとのことです。
 また、実際には、フランクがクリムゾンボルトとしてやったことは、サラの救出ということだけであり、確かにドラッグの売人などを懲らしめたり、ジョック一味を倒したりはしますが、それは行がけの駄賃といった塩梅で、サラを救出したら、フランクは2度とクリムゾンボルトには変身しないでしょう!

(注7)ジェームズ・ガン監督は、あちこちのインタービューで(たとえば、この記事)、劇場用パンフレット掲載のインタビューにあるのと同じような趣旨を述べていますから、前田氏もそうしたものを読んでこの記事を書いていることと推測されます。

(注8)たとえば、もしかしたら次のような個所が対応するのかもしれません。
 「神秘的状態は、ただ神秘的状態であると言うだけの理由で、権威を振るうものではない。……その状態は私たちに仮説を与えてくれる。その仮説を私たちが無視するのは自由であるが、思考者としての私たちにはそれを覆すことはできない。それが私たちに信じさせようとする超自然主義と楽観論とは、どう解釈されるにせよ、結局、この人生の意味をもっとも真実に洞察したものであろう」〔『宗教的経験の諸相』(枡田啓三郎訳、岩波文庫・下P.258)〕。

(注9)『宗教的経験の諸相』において、W・ジェームズが、スターバック教授の所説やら、「人間が窮地に陥るときこそ.神の働き給う機会である」と言った言葉を引用したりして、「自己放棄による」回心の型について縷々説明しているところ(同書、岩波文庫・上P.312~)が相当するのでしょうか。
 なお、このブログの記事も参考になるかもしれません。

(注10)前田氏は、例示として、「微罪のチンピラの頭をたたき割り再起不能にする残虐ぶり」を挙げ、さらに「明るいエンディングこそ、ジェームズ・ガン監督がW・ジェームズから受け継いだ過激な宗教観そのものだ」と述べています。

(注11)前田氏は、上記「注9」で触れたように「W・ジェームズから受け継いだ過激な宗教観」と述べていて、W・ジェームズの「宗教観」が「過激」であると考えているようです。
 ですが、W・ジェームズは、「宗教的経験も、ほかのすべての人間的な現象と同じように、黄金の中庸の法則に従うべきものである」〔『宗教的経験の諸相』(岩波文庫・下P.128)〕とか、「宗教の果実は、常識によって判決されなければならない」(同P.129)などと述べていて、十字軍遠征などの狂信的な行為を非難しています(同P.133)。
 したがって、前田氏が、クリムゾンボルトとしてのフランクの過激な行為があたかもW・ジェームズに由来しているように述べているのは(「明るいエンディング」は別として)、どうも行き過ぎではないか、と考えられるところです。
 さらに、こうしてみると、ジェームズ・ガン監督がW・ジェームズを持ち出すのは、半分は冗談であり、それを前田氏のように真面目に受け取る必要もないのではないか、とも思われるところです。

(注12)9月4日の朝日新聞「ザ・コラム」に掲載されている山中季広・ニューヨーク支局長のエッセイによれば、9・11の「テロ初日、ブッシュ氏は朝から晩まで逃げてばかりいた。まるでパニックに陥っていたかのようだ」とのこと。

(注13)たとえば、このブログの記事を参照してください。




★★★★☆






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