『セールスマン』を渋谷のル・シネマで見ました。
(1)アカデミー賞外国語映画賞を受賞した作品ということで、映画館に行ってきました。
本作(注1)の冒頭は、テヘランの小劇場における戯曲『セールスマンの死』の舞台風景。
あるアパートの一室が前面に広がっていて、寝室や居間が見え、背景には「CASINO」や「BOWLING」などを表示するネオン看板が見えます。舞台には、誰もおりません。
場面は変わって、主人公のエマッド(シャハブ・ホセイニ)とその妻ラナ(タラネ・アリドゥスティ)の夫婦が住むテヘランのアパート。
人々が大声で、「みんな逃げて!」「早く、とにかく逃げて」「アパートが壊れる」と言っています。エマッドが窓を開けて、「何があったんです?」と尋ねると、男が、「わからん。とにかく逃げるんだ!」と答えるものですから、エマッドは「ラナ、ラナ、急げ」と家の中に向かって叫びます。
どうも、このアパートの隣の工事によって、エマッドらが住むアパートが倒壊しそうな様子です。
家の中でエマッドが、「全部は持ち出せない。必要なものだけにしろ」と言うと、ラナは、「ガスの臭がする、ここは危険だわ」と応じます。
次いで、エマッドが国語を教えている学校のクラス。
生徒が教科書の小説を読むと(注2)、他の生徒が「真実の話?」と質問します。エマッドは、「真実ではないが、雰囲気とか人間関係といったものがリアルなのだ」などと答えます。
次いで、生徒がエマッドに、「先生の芝居は?」と質問すると、エマッドは、「来週からだ」と答え、逆に「『セールスマンの死』は読んだか?」と訊いたりします。
さらに生徒が、「先生の役は?」と尋ねると、エマッドは「セールスマンだ」と答えます。
そして、終リの合図があったので、エマッドは「次回までに、小説の内容をまとめてくるように」と言います。
さらに、小劇場における『セールスマンの死』の稽古の場面。
その劇の主人公ウィリー(エマッドが演じます)の情婦役のサナム(ミナ・サダティ)が、ウィリーから「出て行け」と言われると、「裸のままじゃ、出ていけないわ」と返事をしながら(注3)、ウィリーの息子・ビフ役のシヤワシュ(メーディ・クシュキ)の前に、浴室から現れるところを演じています。
ですが、サナムが、「裸」と言っているにもかかわらずコートを着て現れるので(注4)、シヤワシュが我慢しきれずに笑ってしまいます。すると、サナムは猛烈に怒り、劇場に来ていた息子の手を引いて帰ってしまい、稽古は中断してしまいます。
次の場面では、劇団仲間のババク(ババク・カリミ)の案内で、エマッドとラナが、引越し先のアパートを見に来ます。
ババクが「2人には広いだろ」と言うと、エマッドは「もうすぐ3人になるぞ」と返します。
エマッドが「いつから空き家に?」と訊くと、ババクは「3週間前」と答えます。
ババクが「駐車は外に」と言うので、エマッドが「礼金を作るために車は売る」と答えると、ババクは「礼金はいらない」と応じます。
早速、エマッドとラナはここに引っ越します。
こんなところが本作の初めの方ですが、さあ、これからどんな物語が展開されるのでしょうか、………?
本作は、一応のところサスペンス物であり、国語の教師でありながら小劇場の俳優でもある主人公が、同じ劇場の女優でもある妻を襲った犯人を探し出そうとします。彼らの小劇場では、二人が出演する『セールスマンの死』が上演されます。自ずと、実際の夫婦と舞台の夫婦とがシンクロするように見えてきて、犯人の追求とともに、見ている者の興味を引くことになります。
(2)本作では、急遽引っ越しをしたアパートの浴室にいたラナが、ドアホンの音で夫が帰ってきたものと思い込んで、玄関のドアを開けっ放しにして浴室に引き返したところ、見知らぬ男に襲われてしまいます。
隣の住民が浴室に倒れているラナを発見したりして、一時は大騒動になりますが、ラナの方はできるだけ何もなかったことにしようとします(注5)。他方、エマッドは、妻を襲った男を探し出そうと躍起になり、次第に夫婦の間に亀裂が出来るようになっていきます。
アスガー・ファルハディ監督の作品は、これまで『彼女が消えた浜辺』、『別離』、そして『ある過去の行方』と見てきましたが、本作と同様、サスペンス的な雰囲気がどの作品にも漂っています。
『彼女が消えた浜辺』では、主人公のセピデーが連れてきたエリ(タラネ・アリドゥスティ)が、突然皆の前から姿を決してしまいますし、『別離』でも、家政婦ラジエーは、主人公のシミンの夫・ナデルによって、本当に階段から突き落とされて流産したのかという点が焦点の一つとなります。
また、『ある過去の行方』では、主人公のマリー=アンヌが再婚しようとしている相手のサミールの妻が自殺を図った真の理由は何かが問題になります。
ただ、本作もそうですが、『ある過去の行方』についての拙エントリの「注7」で申し上げましたように、ファルハディ監督の作品におけるサスペンス的な側面は、物語に観客を引き込む要素に過ぎず、いずれの作品においても、そのはっきりとした解決は目指されていないように(あるいは、解決すること自体が作品の狙いとなっているのではないように)思われます。
さらに、本作を含めたファルハディ監督の作品においては、本作に見られるような夫婦間の亀裂の深まりといった点がうかがえるように思われます。
なにしろ、『ある過去の行方』や『別離』では、離婚調停(あるいは離婚裁判)が描かれているのですし、『彼女が消えた浜辺』では、主人公のセピデーは、失踪したエリを離婚した友人のアーマドに紹介しようとしていたのです(ところが、エリには婚約者がいたことが次第にわかってきます)。
以上はこれまでの作品との共通点ですが、逆に、本作の特色といえるのは、全体が、戯曲『セールスマンの死』の上演と関連付けながら描き出されている点であり、大層考えられた構成になっています。
上記(1)に記した場面では、イランでこの戯曲が上演されることの意味合いの一端がうかがわれます(注6)。
また、暴漢に襲われた後に出演したラナの状況も描かれます(注7)。
そして、この戯曲のラストの場面が本作の中で描き出されますが(注8)、エマッドとラナの状況をいかにも暗示しているように読み取れます(注9)。
ただ、本作の主人公は、本作のタイトルである「Forushande(salesman)」(注10)ではなく、俳優であり教師でもある人物で、その意味でここにはズラシがあります。それでも、本作の全体は、戯曲『セールスマンの死』で覆われているように感じるところです。
一方で、その対応関係がいろいろと考えられて興味深いのですが、他方で、やや凝り過ぎなのかな、という気もするところです。
それはともかく、『彼女が消えた浜辺』でその美しさに圧倒されたタラネ・アリドゥスティの、ほぼ10年後の相変わらずきれいな姿を見ることが出来たのは、願ってもないことでした。
(3)渡まち子氏は、「政治的な流れが受賞に大きく影響したのは確かだが、それを差し引いても、社会風刺と人間の深層心理を緻密なドラマで描いた秀作であることに間違いない」として75点を付けています。
村山匡一郎氏は、「これまでのファルハディ監督の作品同様、脚本が素晴らしい。心理サスペンスをちりばめながら、2人の感情の葛藤と同時にイラン社会の実相を巧みに複合的に織り上げている」として★4つ(「見逃せない」)を付けています。
毎日新聞の木村光則氏は、「経済的に発展しても、潜在意識では古い価値観に縛られ、矛盾の中を生きる現代イラン人の実像をあぶり出す。ファルハディ監督の社会への冷徹な視線が貫かれている」と述べています。
(注1)監督・脚本は、『ある過去の行方』のアスガー・ファルハディ。
原題は「Forushande」。
出演者の内、最近では、シャハブ・ホセイニは『別離』、タラネ・アリドゥスティ(以前の表記はタラネ・アリシュスティ)は『彼女が消えた浜辺』で、それぞれ見ました。
(注2)Gholamhossein Saediが書いた短編集『The Mourners of Bayal』(1964年)に収められている短編「The Cow」のようで、これは、1969年に映画化されています(この記事:本作の後半で描かれる授業において、教室のスクリーンに上映されているのは、その映画なのでしょう←1971年のヴェネチア映画祭でFIPRESCI賞を受賞しています)。
(注3)映画のシナリオ(ペルシャ語)でどうなっているのかわかりませんが、戯曲の台本(このURLで読むことが出来ます)では、第2幕に登場するThe Womanが、「But my clothes, I can’t go out naked in the hall!」と叫びます。
(注4)イランでは検閲が厳しく、台本通りの格好はできないようです(第2幕に登場するThe Womanについては、上記「注3」で触れている台本のト書きでは、「She is in a black slip」とされています)。
なお、映画の中では、『セールスマンの死』の開演に際し、助手がエマッドに「開演後、検閲官が来る。3箇所ほど問題があるので、説得してくれないか」と依頼します。
(注5)ラナは、エマッドがせっかく探し当てた真犯人に対して、何も話を聞かずに、「帰っていいですよ」と言うくらいです。
(注6)イランの検閲制度とか、娼婦役を演じるイラン女優の気持ち、といったものが垣間見られるように思われます。
(注7)ラナは、世間に何も知られることがないように、暴漢に襲われたあとの舞台にすぐに出演します。ですが、ウィリーの妻・リンダを演じているラナは、セリフに詰まってしまいます。「どうした?何か言え」と小声でささやくウィリー役のエマッドに対し、「なんと言って良いのかわからない」と小声で答え、舞台から降りてしまいます。エマッドは、観客に向かって、「すいません。妻が病気で。10分間休憩といたします」と謝ります。楽屋で、ラナはエマッドに、「観客の一人が、じっと私を見るの。あの日の男の目なの」と訴えます。
なお、ここで演じられていたのは、戯曲『セールスマンの死』の第1幕の真ん中ぐらいのところ(「人々が俺を見て笑う」とウィリーが言います)。
(注8)舞台では、戯曲の主人公・ウィリーが棺の中で横たわっています。
そして、棺のそばに跪く妻のリンダが、「家のローンは払い終わった。なのに家には誰もいない」と言うところでこの劇は終わって、暗転し、再び明かりが点くと、出演したエマッドやラナたちが舞台に再登場し、観客の拍手を受けます。
なお、上記「注3」で触れている台本によれば、リンダのセリフは次のようです。
「I made the last payment on the house today. Today, dear. And there’ll be nobody home. We’re free and clear. We’re free. We’re free... We’re free...」。
(注9)夫のエマッドは、戯曲の主人公のウィリーと同じように、自分の意志だけでドンドン先に進んでしまい(ラナが「(真犯人の)家族に事件のことを話したら、私たちはおしまいよ」とエマッドに警告するにもかかわらず)、真犯人を見つけ、その真犯人に復讐するわけながら(エマッドは、真犯人を殴りつけてしまいます)、そのために真犯人が死に瀕してしまう結果を招き、妻・ラナの気持ちも、エマッドからから決定的に離れてしまいます。二人はまさに、棺のウィリーとその前のリンダと似たような状況にあるといえるでしょう。
(注10)エマッドが探し出した真犯人が「行商人」なのです(劇場用パンフレット掲載の山崎和美氏のエッセイ「映画『セールスマン』が映し出す原題イランの家族と女性」の「注釈2」に依れば、「(Forushandeは)「モノを売る人一般」を意味し、「物売り」「行商人」「販売員」「店員」などを指す」とのこと)。
★★★★☆☆
象のロケット:セールスマン
(1)アカデミー賞外国語映画賞を受賞した作品ということで、映画館に行ってきました。
本作(注1)の冒頭は、テヘランの小劇場における戯曲『セールスマンの死』の舞台風景。
あるアパートの一室が前面に広がっていて、寝室や居間が見え、背景には「CASINO」や「BOWLING」などを表示するネオン看板が見えます。舞台には、誰もおりません。
場面は変わって、主人公のエマッド(シャハブ・ホセイニ)とその妻ラナ(タラネ・アリドゥスティ)の夫婦が住むテヘランのアパート。
人々が大声で、「みんな逃げて!」「早く、とにかく逃げて」「アパートが壊れる」と言っています。エマッドが窓を開けて、「何があったんです?」と尋ねると、男が、「わからん。とにかく逃げるんだ!」と答えるものですから、エマッドは「ラナ、ラナ、急げ」と家の中に向かって叫びます。
どうも、このアパートの隣の工事によって、エマッドらが住むアパートが倒壊しそうな様子です。
家の中でエマッドが、「全部は持ち出せない。必要なものだけにしろ」と言うと、ラナは、「ガスの臭がする、ここは危険だわ」と応じます。
次いで、エマッドが国語を教えている学校のクラス。
生徒が教科書の小説を読むと(注2)、他の生徒が「真実の話?」と質問します。エマッドは、「真実ではないが、雰囲気とか人間関係といったものがリアルなのだ」などと答えます。
次いで、生徒がエマッドに、「先生の芝居は?」と質問すると、エマッドは、「来週からだ」と答え、逆に「『セールスマンの死』は読んだか?」と訊いたりします。
さらに生徒が、「先生の役は?」と尋ねると、エマッドは「セールスマンだ」と答えます。
そして、終リの合図があったので、エマッドは「次回までに、小説の内容をまとめてくるように」と言います。
さらに、小劇場における『セールスマンの死』の稽古の場面。
その劇の主人公ウィリー(エマッドが演じます)の情婦役のサナム(ミナ・サダティ)が、ウィリーから「出て行け」と言われると、「裸のままじゃ、出ていけないわ」と返事をしながら(注3)、ウィリーの息子・ビフ役のシヤワシュ(メーディ・クシュキ)の前に、浴室から現れるところを演じています。
ですが、サナムが、「裸」と言っているにもかかわらずコートを着て現れるので(注4)、シヤワシュが我慢しきれずに笑ってしまいます。すると、サナムは猛烈に怒り、劇場に来ていた息子の手を引いて帰ってしまい、稽古は中断してしまいます。
次の場面では、劇団仲間のババク(ババク・カリミ)の案内で、エマッドとラナが、引越し先のアパートを見に来ます。
ババクが「2人には広いだろ」と言うと、エマッドは「もうすぐ3人になるぞ」と返します。
エマッドが「いつから空き家に?」と訊くと、ババクは「3週間前」と答えます。
ババクが「駐車は外に」と言うので、エマッドが「礼金を作るために車は売る」と答えると、ババクは「礼金はいらない」と応じます。
早速、エマッドとラナはここに引っ越します。
こんなところが本作の初めの方ですが、さあ、これからどんな物語が展開されるのでしょうか、………?
本作は、一応のところサスペンス物であり、国語の教師でありながら小劇場の俳優でもある主人公が、同じ劇場の女優でもある妻を襲った犯人を探し出そうとします。彼らの小劇場では、二人が出演する『セールスマンの死』が上演されます。自ずと、実際の夫婦と舞台の夫婦とがシンクロするように見えてきて、犯人の追求とともに、見ている者の興味を引くことになります。
(2)本作では、急遽引っ越しをしたアパートの浴室にいたラナが、ドアホンの音で夫が帰ってきたものと思い込んで、玄関のドアを開けっ放しにして浴室に引き返したところ、見知らぬ男に襲われてしまいます。
隣の住民が浴室に倒れているラナを発見したりして、一時は大騒動になりますが、ラナの方はできるだけ何もなかったことにしようとします(注5)。他方、エマッドは、妻を襲った男を探し出そうと躍起になり、次第に夫婦の間に亀裂が出来るようになっていきます。
アスガー・ファルハディ監督の作品は、これまで『彼女が消えた浜辺』、『別離』、そして『ある過去の行方』と見てきましたが、本作と同様、サスペンス的な雰囲気がどの作品にも漂っています。
『彼女が消えた浜辺』では、主人公のセピデーが連れてきたエリ(タラネ・アリドゥスティ)が、突然皆の前から姿を決してしまいますし、『別離』でも、家政婦ラジエーは、主人公のシミンの夫・ナデルによって、本当に階段から突き落とされて流産したのかという点が焦点の一つとなります。
また、『ある過去の行方』では、主人公のマリー=アンヌが再婚しようとしている相手のサミールの妻が自殺を図った真の理由は何かが問題になります。
ただ、本作もそうですが、『ある過去の行方』についての拙エントリの「注7」で申し上げましたように、ファルハディ監督の作品におけるサスペンス的な側面は、物語に観客を引き込む要素に過ぎず、いずれの作品においても、そのはっきりとした解決は目指されていないように(あるいは、解決すること自体が作品の狙いとなっているのではないように)思われます。
さらに、本作を含めたファルハディ監督の作品においては、本作に見られるような夫婦間の亀裂の深まりといった点がうかがえるように思われます。
なにしろ、『ある過去の行方』や『別離』では、離婚調停(あるいは離婚裁判)が描かれているのですし、『彼女が消えた浜辺』では、主人公のセピデーは、失踪したエリを離婚した友人のアーマドに紹介しようとしていたのです(ところが、エリには婚約者がいたことが次第にわかってきます)。
以上はこれまでの作品との共通点ですが、逆に、本作の特色といえるのは、全体が、戯曲『セールスマンの死』の上演と関連付けながら描き出されている点であり、大層考えられた構成になっています。
上記(1)に記した場面では、イランでこの戯曲が上演されることの意味合いの一端がうかがわれます(注6)。
また、暴漢に襲われた後に出演したラナの状況も描かれます(注7)。
そして、この戯曲のラストの場面が本作の中で描き出されますが(注8)、エマッドとラナの状況をいかにも暗示しているように読み取れます(注9)。
ただ、本作の主人公は、本作のタイトルである「Forushande(salesman)」(注10)ではなく、俳優であり教師でもある人物で、その意味でここにはズラシがあります。それでも、本作の全体は、戯曲『セールスマンの死』で覆われているように感じるところです。
一方で、その対応関係がいろいろと考えられて興味深いのですが、他方で、やや凝り過ぎなのかな、という気もするところです。
それはともかく、『彼女が消えた浜辺』でその美しさに圧倒されたタラネ・アリドゥスティの、ほぼ10年後の相変わらずきれいな姿を見ることが出来たのは、願ってもないことでした。
(3)渡まち子氏は、「政治的な流れが受賞に大きく影響したのは確かだが、それを差し引いても、社会風刺と人間の深層心理を緻密なドラマで描いた秀作であることに間違いない」として75点を付けています。
村山匡一郎氏は、「これまでのファルハディ監督の作品同様、脚本が素晴らしい。心理サスペンスをちりばめながら、2人の感情の葛藤と同時にイラン社会の実相を巧みに複合的に織り上げている」として★4つ(「見逃せない」)を付けています。
毎日新聞の木村光則氏は、「経済的に発展しても、潜在意識では古い価値観に縛られ、矛盾の中を生きる現代イラン人の実像をあぶり出す。ファルハディ監督の社会への冷徹な視線が貫かれている」と述べています。
(注1)監督・脚本は、『ある過去の行方』のアスガー・ファルハディ。
原題は「Forushande」。
出演者の内、最近では、シャハブ・ホセイニは『別離』、タラネ・アリドゥスティ(以前の表記はタラネ・アリシュスティ)は『彼女が消えた浜辺』で、それぞれ見ました。
(注2)Gholamhossein Saediが書いた短編集『The Mourners of Bayal』(1964年)に収められている短編「The Cow」のようで、これは、1969年に映画化されています(この記事:本作の後半で描かれる授業において、教室のスクリーンに上映されているのは、その映画なのでしょう←1971年のヴェネチア映画祭でFIPRESCI賞を受賞しています)。
(注3)映画のシナリオ(ペルシャ語)でどうなっているのかわかりませんが、戯曲の台本(このURLで読むことが出来ます)では、第2幕に登場するThe Womanが、「But my clothes, I can’t go out naked in the hall!」と叫びます。
(注4)イランでは検閲が厳しく、台本通りの格好はできないようです(第2幕に登場するThe Womanについては、上記「注3」で触れている台本のト書きでは、「She is in a black slip」とされています)。
なお、映画の中では、『セールスマンの死』の開演に際し、助手がエマッドに「開演後、検閲官が来る。3箇所ほど問題があるので、説得してくれないか」と依頼します。
(注5)ラナは、エマッドがせっかく探し当てた真犯人に対して、何も話を聞かずに、「帰っていいですよ」と言うくらいです。
(注6)イランの検閲制度とか、娼婦役を演じるイラン女優の気持ち、といったものが垣間見られるように思われます。
(注7)ラナは、世間に何も知られることがないように、暴漢に襲われたあとの舞台にすぐに出演します。ですが、ウィリーの妻・リンダを演じているラナは、セリフに詰まってしまいます。「どうした?何か言え」と小声でささやくウィリー役のエマッドに対し、「なんと言って良いのかわからない」と小声で答え、舞台から降りてしまいます。エマッドは、観客に向かって、「すいません。妻が病気で。10分間休憩といたします」と謝ります。楽屋で、ラナはエマッドに、「観客の一人が、じっと私を見るの。あの日の男の目なの」と訴えます。
なお、ここで演じられていたのは、戯曲『セールスマンの死』の第1幕の真ん中ぐらいのところ(「人々が俺を見て笑う」とウィリーが言います)。
(注8)舞台では、戯曲の主人公・ウィリーが棺の中で横たわっています。
そして、棺のそばに跪く妻のリンダが、「家のローンは払い終わった。なのに家には誰もいない」と言うところでこの劇は終わって、暗転し、再び明かりが点くと、出演したエマッドやラナたちが舞台に再登場し、観客の拍手を受けます。
なお、上記「注3」で触れている台本によれば、リンダのセリフは次のようです。
「I made the last payment on the house today. Today, dear. And there’ll be nobody home. We’re free and clear. We’re free. We’re free... We’re free...」。
(注9)夫のエマッドは、戯曲の主人公のウィリーと同じように、自分の意志だけでドンドン先に進んでしまい(ラナが「(真犯人の)家族に事件のことを話したら、私たちはおしまいよ」とエマッドに警告するにもかかわらず)、真犯人を見つけ、その真犯人に復讐するわけながら(エマッドは、真犯人を殴りつけてしまいます)、そのために真犯人が死に瀕してしまう結果を招き、妻・ラナの気持ちも、エマッドからから決定的に離れてしまいます。二人はまさに、棺のウィリーとその前のリンダと似たような状況にあるといえるでしょう。
(注10)エマッドが探し出した真犯人が「行商人」なのです(劇場用パンフレット掲載の山崎和美氏のエッセイ「映画『セールスマン』が映し出す原題イランの家族と女性」の「注釈2」に依れば、「(Forushandeは)「モノを売る人一般」を意味し、「物売り」「行商人」「販売員」「店員」などを指す」とのこと)。
★★★★☆☆
象のロケット:セールスマン