
映画「まぼろしの邪馬台国」をDVDで見ました。
この映画は、昨年秋に劇場公開されましたが、そのときはパスし、本年5月にDVD化されたものが最近TSUTAYAで「準新作」としてレンタルできるようになったことから、借りてきたわけです。
作品は、島原鉄道の社長の宮崎康平(竹中直人)と後妻の和子(吉永小百合)とが、一緒になって邪馬台国の場所を九州のあちこち旅行して探し回り、ついには『まぼろしの邪馬台国』という著書を書き上げ(第1回吉川英治賞を受賞)、その後もさらに調査を進めた、という夫婦愛をメインにしたストーリーで、大筋は実話に基づきながら作られています。
評価できる点がないわけではありません。例えば、
イ)吉永小百合が出演する映画は、生真面目で堅苦しい感じが彼女の演技から漂ってくるのではないかとの予感が見る前からしてしまい、このところ敬遠気味でした。
ただ、この作品の場合、相変わらずの演技ながら、わがままきわまりない夫を支える妻の役としては、かえって打って付けなのかもしれないと思わせ、余り違和感なく受け入れることが出来ました。
なお、今も健在な宮崎和子氏によれば〔2008年3月30日放送のRKBインタビュー番組「元気by福岡」〕、竹中直人の演技(素人目には演技過剰に見えるところ)は宮崎康平にそっくりだったとのことです!
また、Wikiによれば、宮崎康平は、映画が描くように島原鉄道の社長ではなく常務であり、さらに、古代史研究にのめり込みすぎ事業を顧みなかったために解任されたわけでもなさそうです。それを今回の映画のように脚色したのは、わがままで一徹な宮崎康平の姿にある程度の説得力を持たせようとしたためではないか、と思われます。
ロ)脳梗塞を患ったせいか台詞回しに若干難が見受けられるにせよ、江守徹の元気な姿が見られたこと、「ディアー・ドクター」で良い演技を見せている余貴美子が、ここでも凄い演技力を発揮していること、宮崎康平の孫娘が和子の少女時代を演じていること、など話題満載の作品になっています。
ハ)宮崎夫妻が、邪馬台国を探しに九州の各地に足を運んだことから、映画では関係各地の光景が映し出され、それがなかなか綺麗な出来映えであり、それだけでも一見の価値があると言えるかもしれません。
とはいえ、ちょっと考えてみれば、問題点が多い映画ではないかと思われます。例えば、
イ)映画のタイトルと同名の原作が出版されたのが昭和42年と、今から40年以上も昔にもかかわらず、なぜ今の時点で映画化するのか、制作者側の意図がうまく汲み取れません。
あるいは、現代では見失われてしまっている真の夫婦愛を実話に基づいて描くことが目的だから、その実話の古さは問題にならないと言うのかもしれません。とはいえ、描き出される夫婦愛それ自体が如何にも古めかしいものですから、今の人には共感を呼びにくいのではと思われるところです。
ロ)映画の原作を書いたのは宮崎康平で、原作の内容も彼の生活記録と自説の展開であるにもかかわらず、映画の主演は妻の吉永小百合の方に替わっており、その内助の功を描き出すことに主眼が置かれています。
そのためと思われますが、あまり十分な説明もなしにいきなり宮崎康平が邪馬台国の位置の探求に乗り出すような具合に描かれることになります。
ですが、学界の中に限られていたとはいえ、それまでに邪馬台国の位置などに関しては熱い議論が積み重ねられており、宮崎康平の研究もそれなくしてはあり得ませんでした。
とにかく、早稲田大学で津田左右吉の授業を受けたこと、島原大水害による線路の復旧工事の際に多数の土器が見つかったこと、こんな事情を背景にするだけで、突然、邪馬台国を探すのだ、と竹中直人に叫ばれても、観客の方は戸惑うばかりです。
なにより、夫の研究の客観的な意味合いが観客に旨く伝われなければ、そんな夫に黙って従う妻の行動に共感を寄せることが難しくなってしまいます。宮崎夫妻ともに、心の奥底にそうした情熱があったことをなにかで説明できなかったのでしょうか。
ハ)やはり一番の問題は、邪馬台国の位置に関することでしょう。
宮崎康平の著書『まぼろしの邪馬台国』については、それまで学界の中でしか議論されてこなかった問題を一般の人々に広く開放し世の中の関心を集めたことの意義は高く評価されているものの、彼の見解(邪馬台国は「諫早湾南岸地帯」にあった―『まぼろしの邪馬台国』〔講談社文庫版第2部〕P.328)そのものをサポートする研究者は、現在では見出しがたいようです。
それは、学問には必須の検証・裏付けという過程が宮崎説に欠けているからではないかと思われます。他の諸説でも同様なものがありますが、思いつきや言いっぱなしだけではダメだということです。
にもかかわらず、映画では、結局そのことには触れずに、彼の葬儀のシーンで終わってしまいます。
勿論、この映画は、邪馬台国論争を描いたものでもなく、また宮崎康平の主張を描くことに主眼を置いているわけでもないのでしょうから、これでもかまわないともいえましょう。
でも、そうであれば、なぜ今頃このような映画をわざわざ制作するのか、という最初の疑問に再度ぶつかってしまいます。女性をヒロインにするのなら、多少ともフィクションを入れて、たんなる内助の功だけでなく、亡き夫への情熱も邪馬台国への情熱も、ともに持ち続けて生きる女性に描かれなかったのでしょうか。
この映画は、昨年秋に劇場公開されましたが、そのときはパスし、本年5月にDVD化されたものが最近TSUTAYAで「準新作」としてレンタルできるようになったことから、借りてきたわけです。
作品は、島原鉄道の社長の宮崎康平(竹中直人)と後妻の和子(吉永小百合)とが、一緒になって邪馬台国の場所を九州のあちこち旅行して探し回り、ついには『まぼろしの邪馬台国』という著書を書き上げ(第1回吉川英治賞を受賞)、その後もさらに調査を進めた、という夫婦愛をメインにしたストーリーで、大筋は実話に基づきながら作られています。
評価できる点がないわけではありません。例えば、
イ)吉永小百合が出演する映画は、生真面目で堅苦しい感じが彼女の演技から漂ってくるのではないかとの予感が見る前からしてしまい、このところ敬遠気味でした。
ただ、この作品の場合、相変わらずの演技ながら、わがままきわまりない夫を支える妻の役としては、かえって打って付けなのかもしれないと思わせ、余り違和感なく受け入れることが出来ました。
なお、今も健在な宮崎和子氏によれば〔2008年3月30日放送のRKBインタビュー番組「元気by福岡」〕、竹中直人の演技(素人目には演技過剰に見えるところ)は宮崎康平にそっくりだったとのことです!
また、Wikiによれば、宮崎康平は、映画が描くように島原鉄道の社長ではなく常務であり、さらに、古代史研究にのめり込みすぎ事業を顧みなかったために解任されたわけでもなさそうです。それを今回の映画のように脚色したのは、わがままで一徹な宮崎康平の姿にある程度の説得力を持たせようとしたためではないか、と思われます。
ロ)脳梗塞を患ったせいか台詞回しに若干難が見受けられるにせよ、江守徹の元気な姿が見られたこと、「ディアー・ドクター」で良い演技を見せている余貴美子が、ここでも凄い演技力を発揮していること、宮崎康平の孫娘が和子の少女時代を演じていること、など話題満載の作品になっています。
ハ)宮崎夫妻が、邪馬台国を探しに九州の各地に足を運んだことから、映画では関係各地の光景が映し出され、それがなかなか綺麗な出来映えであり、それだけでも一見の価値があると言えるかもしれません。
とはいえ、ちょっと考えてみれば、問題点が多い映画ではないかと思われます。例えば、
イ)映画のタイトルと同名の原作が出版されたのが昭和42年と、今から40年以上も昔にもかかわらず、なぜ今の時点で映画化するのか、制作者側の意図がうまく汲み取れません。
あるいは、現代では見失われてしまっている真の夫婦愛を実話に基づいて描くことが目的だから、その実話の古さは問題にならないと言うのかもしれません。とはいえ、描き出される夫婦愛それ自体が如何にも古めかしいものですから、今の人には共感を呼びにくいのではと思われるところです。
ロ)映画の原作を書いたのは宮崎康平で、原作の内容も彼の生活記録と自説の展開であるにもかかわらず、映画の主演は妻の吉永小百合の方に替わっており、その内助の功を描き出すことに主眼が置かれています。
そのためと思われますが、あまり十分な説明もなしにいきなり宮崎康平が邪馬台国の位置の探求に乗り出すような具合に描かれることになります。
ですが、学界の中に限られていたとはいえ、それまでに邪馬台国の位置などに関しては熱い議論が積み重ねられており、宮崎康平の研究もそれなくしてはあり得ませんでした。
とにかく、早稲田大学で津田左右吉の授業を受けたこと、島原大水害による線路の復旧工事の際に多数の土器が見つかったこと、こんな事情を背景にするだけで、突然、邪馬台国を探すのだ、と竹中直人に叫ばれても、観客の方は戸惑うばかりです。
なにより、夫の研究の客観的な意味合いが観客に旨く伝われなければ、そんな夫に黙って従う妻の行動に共感を寄せることが難しくなってしまいます。宮崎夫妻ともに、心の奥底にそうした情熱があったことをなにかで説明できなかったのでしょうか。
ハ)やはり一番の問題は、邪馬台国の位置に関することでしょう。
宮崎康平の著書『まぼろしの邪馬台国』については、それまで学界の中でしか議論されてこなかった問題を一般の人々に広く開放し世の中の関心を集めたことの意義は高く評価されているものの、彼の見解(邪馬台国は「諫早湾南岸地帯」にあった―『まぼろしの邪馬台国』〔講談社文庫版第2部〕P.328)そのものをサポートする研究者は、現在では見出しがたいようです。
それは、学問には必須の検証・裏付けという過程が宮崎説に欠けているからではないかと思われます。他の諸説でも同様なものがありますが、思いつきや言いっぱなしだけではダメだということです。
にもかかわらず、映画では、結局そのことには触れずに、彼の葬儀のシーンで終わってしまいます。
勿論、この映画は、邪馬台国論争を描いたものでもなく、また宮崎康平の主張を描くことに主眼を置いているわけでもないのでしょうから、これでもかまわないともいえましょう。
でも、そうであれば、なぜ今頃このような映画をわざわざ制作するのか、という最初の疑問に再度ぶつかってしまいます。女性をヒロインにするのなら、多少ともフィクションを入れて、たんなる内助の功だけでなく、亡き夫への情熱も邪馬台国への情熱も、ともに持ち続けて生きる女性に描かれなかったのでしょうか。

















さて、映画であるが、吉永小百合の良妻賢母ぶりが鼻につく人にとっては、本来の主人公たる宮崎氏のほうが破天荒な動きをする本作では、あまり気にならない。ただ、日本を代表する女優となっている小百合様があまり主体性のない女性の役を演じて、それでよしというのなら、映画製作者の意図を疑わざるをえない。これらについて、クマネズミさんとまったく同感である。むかしの話を現代版に焼き直したのなら、現代女性風の味付けをした颯爽として、いつまでも情熱を失わないヒロインの姿を見たいものである。あ、昔でもヒロインはいつも颯爽としていたか。
邪馬台国については、まだ確たる物証がでていない以上、文献上の国と人にすぎないが、その存在を疑う人はいないと思われる。それは、たしかな実像であって、幻影とは異なるからである。宮崎氏のいう「まぼろしの邪馬台国」の所在地に案内されてもそこに痕跡が残っていないのは、それが宮崎氏の見た「まぼろし」にすぎないからである。しかるべき要点を確実に押さえていけば、三本足のカラスは、古代太陽信仰の中心地、すなわち卑弥呼(日巫女?)の都へと導いてくれるものと思われる。
映画も邪馬台国でも、「まぼろしの」という形容で免罪符を得てはならないものであろう(あまり映画評になっておらず、ごめんなさい)。
それにしても、「まぼろしの邪馬台国」のポスター(竹中直人と吉永小百合とが山道を連れ立って歩く)と、「博士が愛した数式」のポスター(寺尾聡と深津絵里とが連れ立って散歩している)とは、画像の雰囲気はよく似ているものの、ベクトルの方向が全く逆を向いているように思いました!