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罪の手ざわり

2014年06月17日 | 洋画(14年)
 『罪の手ざわり』を渋谷ル・シネマで見ました。

(1)予告編で面白そうだったので、このところ敬遠気味の中国映画ですが、映画館に行ってきました。

 本作(注1)は、中国社会が現在抱えている社会問題を背景にした事件が描かれる4話からなる作品ながら、4つの話が絶妙なつながりを持って描き出されていること(注2)などもあって、見る前はあまり期待していなかったものの、実際には随分と面白く見ることが出来ました。

 3番目の話を少しだけ紹介すると、はじめに重慶からの夜行バスに乗っている男(注3)が、停留所でもないところでバスを止めさせて降りてしまいます。
 その後、バスが湖北省の宣昌に着くと一人の男がバスから降りて、喫茶店で待つ女性・シャオユーチャオ・タオ)と会います。
 シャオユーとその男との間で、「奥さんに話した?」「少し話した、ほのめかした」「言わなかったのね?」「多分、理解したと思う。広州に来てくれ」「何年も一緒なのに、まだ待つの?私は我慢するけど、親に説明が出来ない。子供がほしい」「ともかく広州に一緒に行こう」などといった会話がなされ、男の方はシャオユーを置いて列車で広州に向かってしまいます(注4)。



 ただ、駅で男が列車に乗る際に行われた荷物検査で、果物ナイフが見つかってしまいます。係官に没収されそうになったため、シャオユーが受け取って自分の鞄の中にしまいます。
 この果物ナイフが、あとでとんだことに使われてしまうのですが、………(注5)?

(2)本作については、劇場用パンフレットが随分と充実しています。
 特に、本作を制作したジャ・ジャンクー監督の話が2つの記事に記載されていますし(注6)、また、現代中国文学者の藤井省三氏によるエッセイ「“天の定め”の罪びとたち」は、本作のあらすじや4つのエピソードの相互の微妙な繋がりのみならず、本作で描かれる4つの事件の背景にある実際の事件についてまで言及していて、余すところがありません。

 それで殊更申し上げることも見当たらないのですが、あえて言うとしたら、本作のような感じを持ったオムニバス形式の映画として思い浮かぶのは、クマネズミの場合、例えば、邦画では『海炭市叙景』ですし、洋画では『WOOD JOB!(ウッジョブ)~神去なあなあ日常~』についての拙エントリの(2)でも触れた『四つのいのち』です。
 特に後者に関しては、本作同様にカンヌ国際映画祭絡み(注7)であることは別にしても、4つの命(牧夫、山羊、樅の木、炭)がそこはかとない繋がりの中で描かれている点で(注8)、本作と通じるものがあるのではと思います。

 そればかりか、本作は、描かれる事件とか登場人物で各エピソード相互に繋がりをつけているだけでなく、藤田氏のエッセイでも抜かりなく指摘されているように、京劇とか旧正月の爆竹や花火の打ち上げ、蛇女の見世物など、庶民に根付いている伝統を各エピソーで描き出しているという点でも繋がりをつけているように思えるところ、『四つのいのち』でも、「ピタの祭り」(注9)とか復活祭(イエスが十字架を背負ってゴルゴタの丘まで歩いたことをなぞって、その当時の服装をした者らが村を練り歩きます)といった伝統的なものが描かれています。

 さらに、本作のタイトルが「罪の手ざわり」(英題が「Touch of Sin」:原題は「天注定」)となっているところ、他の3つのエピソードは殺人事件を取り扱っていながらも、4番目のエピソードが自殺を取り上げている点からすると、この作品は一筋縄では料理できないように思わせますが(注10)、これは『四つのいのち』が3つの命あるもの(人間、動物、植物)のみならず、炭という命のない鉱物を取り扱っていることに類似しているように思われます(注11)。

 とはいえ、『四つのいのち』の大きな特徴は全編にわたって全く台詞がなく(と言って、サイレント映画ではありませんが)、大層もの静かに映像がラストまで流れていきますから、何人もの人の死が沢山の台詞の中で描かれる本作とは雰囲気がまるで違うことは申し上げておかなくてはなりません。

(3)渡まち子氏は、「中国で実際に起こった4つの事件をモチーフに描くオムニバス「罪の手ざわり」。暴力の噴出は中国社会の怒りの現れか」として65点をつけています。
 山根貞男氏は、「激変する中国社会の深部を切開した傑作である。切り口は暴力。荒々しいが切実なドラマが繰り広げられる」と述べています。
 恩田泰子氏は、「社会性と娯楽性。その両方を満たす映画を作るのは容易ではないが、それを見事に両立しているのが本作」と述べています。
 藤原帰一氏は、「政治的な映画じゃありません。むしろ、プロパガンダではないからこそこれが中国だという手応えがある。中国社会に潜むフラストレーションを理解するためには欠かせない傑作です」と述べています。



(注1)本作を制作したジャ・ジャンクー監督の作品としては『長江哀歌』をDVDで見たことがあります。
 また、俳優陣では、その『長江哀歌』の主演女優のチャオ・タオと、『さらば復讐の狼たちよ』のチャン・ウーくらいしか知りません。
 なお、この記事によれば、本作は、公開前に、ネットに流れてしまったとのこと。

(注2)この点は、劇場用パンフレット掲載されている川本三郎氏のエッセイ「チェーン・ストーリーの面白さ」で主題的に取り上げられています。

(注3)この男は2番目のエピソードの主人公チョウワン・バオチャン)で、重慶で事件を引き起こした後、この夜行バスに乗り込んでいました。
 実は、チャオは、1番目のエピソードの冒頭(山西省の山あいの村)でも、そのエピソードの主人公のダーハイチャン・ウー)とすれ違っているのです!



 そればかりか、第2話の冒頭でチャオは、ダーハイの同僚と重慶行きのフェリーで隣り合わせに座ったりします。



(注4)男はヨウリャンチャン・ジャイー)で、広州で縫製工場を営んでいます。
 実は、その工場で、第4話の主人公のシャオホイルオ・ランシャン)が働いているのです。ただ、彼は、同僚に怪我をさせたことから工場をやめてしまい、東莞に行ってナイトクラブで働くことになりますが、………?

(注5)シャオユーは、事件の後、山西省に行ってある会社の採用面接試験を受けます。
 実は、その会社は、第1話でダーハイに射殺された男が社長でしたが、事件の後その妻が社長となって面接を行っています。

(注6)「インタビュー」と「来日プレスミーティング」。
 なお、同監督のインタビュー記事は、このサイトにも掲載されています。

(注7)本作は、第66回カンヌ国際映画祭で脚本賞を受賞しているのに対し、同作は、第63回カンヌ国際映画祭監督週間正式出品作品なのです。

(注8)「牧夫」は「山羊」の世話をし、彷徨い出た山羊がその根元で力尽きてしまう大きな「樅の木」が「祭りのために切り出され、ついには「炭」にされてしまうという具合です。

(注9)「ピタの祭り」については、拙エントリの「注9」を参照して下さい。

(注10)本作のラストでは、山西省の町の広場で伝統地方劇「玉堂春」が上演されていて、その劇の中では、ヒロインに対して裁判官が「お前は、自分の罪を認めるか?」と尋問します。
 この劇を、3番目のエピソードのヒロイン・シャオユーが人々に混じって見ているところ、おそらく彼女は罪を認めることでしょう(彼女は、自分から警察に人を殺したことを通報するのですから:本文で触れた藤井省三氏のエッセイ「“天の定め”の罪びとたち」によれば、実際の事件の犯人のトン・ユイチャオは、「有罪だが刑を免除」との判決を受けたとのこと)。
 多分、1番目のエピソードのダーハイにしても、2番目のエピソードのチョウにしても、人を何人も殺しているのですから罪は認めることでしょう(ダーハイのモデルの胡文海は死刑になったようですし、チョウのモデルのチョウ・コーホワは、藤田氏のエッセイによれば、警官隊に射殺されています)。

 でも、4番目のエピソードのシャオホイはどうでしょうか?
 少なくとも、日本では、殺人や殺人未遂は法律上罪になりますが、自殺や自殺未遂は罪になりません(ここらあたりは、Wikipediaの「自殺」の「法律」の項とか、この記事などが参考になるでしょう)。
 まして法律を離れると、キリスト教などに基づいた一定の倫理観がみあたらない日本では、シャオホイのケースをダーハイなどの3つのケースと同列に並べることにやや違和感を覚えてしまうのではないでしょうか?

 ジャ・ジャンクー監督は、上記「注6」で触れた「来日プレスミーティング」において、「最初から3話までのストーリーは中年世代で、彼らは受けた暴力に対して暴力で返しますが、4話目の男の子は暴力が自分に向かってしまいます」、「4話目は、目に見えない、形のない暴力です」、「私自身、この映画を作りながら、暴力というものについて理解しようとしました」などと述べ、映画全体を「暴力」という観点から捉えているようです。

 とはいえ、「受けた暴力に対して暴力で返」すといっても、例えば、第2話のチャオが行う現金強奪は、そのような構図になっていないような感じがしてしまい、果たして本作の全体を「暴力」という視点からのみで捉えきれるのか疑問に思えてきてしまうのですが。

(注11)『四つのいのち』では、3番目に取り上げられる大きな樅の木が炭になる(樅の木は、祭が終わると、切り刻まれてうず高く積まれ焼かれて炭にされます)ということで繋がりが持たれています。
 そして、同作の冒頭がこの炭焼きの場面であることは、本作のラストが冒頭の山西省となっていることに通じているかもしれません。



★★★★☆☆




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