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リアル~完全なる首長竜の日~

2013年06月29日 | 邦画(13年)
 『リアル~完全なる首長竜の日~』をTOHOシネマズ渋谷で見ました。

(1)黒沢清監督の作品と聞いて(注1)、映画館に出かけてみました。

 本作の冒頭では、マンションの部屋で、浩市佐藤健)と淳美綾瀬はるか)とが食事をしながら、「どうしてかな、生まれたときから一緒に暮らしている気がする」、「ずっとそうだよ」、「そうだといいね」、「そうにきまっている」と話している光景が映し出され(注2)、続いて、風が吹いて机の上にあった漫画の原画が吹き飛ばされていき、そしてタイトルクレジットが現れます。

 場面は病院に変わって、浩市は、1年前に自殺を図って植物状態でいる淳美の脳にセンシングによって入り込んで会話をし、あわよくば彼女を目覚めさせようとします(注3)。



 担当の精神科医・相原中谷美紀)は、「最初のセンシングは誰でも不安になります、他人の精神に入り込むとどうなるか分かりませんから」などといって、浩市を落ち着かせようとします。



 すると、画面に映し出されるのは、マンションの部屋の中。淳美が大きな机に向っていて、入ってくる浩市に対し「お帰りなさい、スポーツジムのバイトは順調だった?」と言います。
 浩市が、「そうやって一日中ズーッと漫画を描いていたの?」と聞くと、『ルーミィ』という連載漫画(注4)を描いている淳美は、「締め切りが迫っているの」と答え、さらに「首長竜の絵、覚えている?その絵が欲しいというからあげたじゃない?あの絵は完璧だった。探してきてくれないかな?あの絵を見たら自信を取り戻せると思うの」などと言います。

 これに対し浩市は、「そんな絵は覚えていない」と答え、さらに「これは現実じゃない。淳美の意識の中だ」、「淳美は1年前に堤防から海に飛び込み、幸い命は助かったものの、昏睡状態が続いたままだ」などと言い、「教えてくれ、どうしてあんなことをしたの?俺に原因があるならそう言ってくれ」と尋ねますが、淳美は「覚えていない」と答えるばかり。

 それでセンシングは終了し、医師たちは「おめでとうございます、成功です」と言いますが、浩市が目的としたことは達成されないままです。
 はたして自殺の原因は解明され、淳美は覚醒することになるのでしょうか、……?

 クマネズミは黒沢明監督の作品が何となく好きで、これまでもいくつか見ているところ(といって、一番最近でも2008年の『トウキョウソナタ』になってしまいますが)、本作は、彼の作品につきまとっていた訳の分からなさが多少とも薄れ(注5)、随分と娯楽色の強い作品になっているのではと思いました(注6)。
 それでも、前半は、色々面白い仕掛けが施されていて、一体何だろうという気になります。ただ、後半になると謎解き的な部分が多くなって緊張感がやや緩んでしまいましたが。

 出演する俳優については、皆それぞれ好演しているところ、その存在が非常に気になる相原医師を演じた中谷美紀が印象に残りました(注7)。

(2)本作は、その舞台となる時点が近未来でしょうから、SFファンタジー物といえ、今の現実の世界では起こり得ないことがそこでは次々に起こります。
 そういう点からすれば、「リアル」という言葉がタイトルにわざわざ挿入されているのは、酷く挑戦的といえるでしょう。

 とはいえ、ひとたび舞台を受け入れてしまえば、本作の中で起こる出来事はとても「リアル」な感じをもって見る者に迫ってきます(CGで描き出された首長竜でさえも)。

 また、本作の前半部分で、浩市は、自分が植物状態にある淳美の意識に入って彼女と会話していると思い、そこから抜け出したら「リアル」な普通の生活に戻れるものと思っていたところ、事態は逆で、後半部分では、健常なのは淳美の方だったということになります(注8)。
 ということは、前半部分で「リアル」な感じを持っていたものは、その舞台においても実際には「リアル」ではなかったことになります。
 こんなところから、本作は「リアル」の意味を問い直しているのだとも考えられるのではないでしょうか(注9)?

 さらに、無意識下に隠されているトラウマによって人が精神的な問題を引き起こすのであれば、本作で描かれているようなトラウマも、そしてそれを探索するトリップもまさに「リアル」なのではないか(注10)、と思ったりしました(フロイトの精神分析も、それによって状態が恢復する患者にとっては、リアルな治療法といえるのではないでしょうか)。

 とはいえ、浩市が淳美の意識に入って会話する場合でも、また逆に、淳美が浩一の意識に入って会話する場合でも、必ず二人が揃って画面に登場しますが、なぜそんな人物像が現れることになるのか、そしてその二人が会話する光景を見ているのはいったい誰なのか(2人の背後に監視カメラでも付いているのでしょうか)、とても不思議に思えてきます。

 また、2人は意識下に入り込んで行って、トラウマとなった事象を探し当てるわけですが、そのことによって漫画家の自信が取り戻せることになるにせよ(注11)、なぜそれで昏睡状態に陥っている人物が目覚めることにもなるのか、ちょっと理解が難しいところです(注12)。

 ですが、こんなに見る者に様々考えさせること自体が、本作が大層面白いことの証ともいえるのではないかと思います。

(3)渡まち子氏は、「今が旬の若手スターが共演するが、佐藤健と綾瀬はるかが笑顔を封印して静かに熱演。終盤のVFXのスペクタクルが迫力不足なのは残念だが、最終的に、意識化にある罪へとたどり着きながらも、愛を貫く男女のラブストーリーとして楽しめる」として65点をつけています。



(注1)映画の原作は、2010年の第9回「このミステリーがすごい!」大賞受賞作の乾緑郎著『完全なる首長竜の日』(宝島社文庫)。
 原作で植物状態になっているのは、当初、主人公淳美の弟の浩市だという点などから、本作は原作とかなり違っているようにみえるものの、原作には様々な工夫が凝らされていて、一概に別の物語とはいえないように思いました。

(注2)同じような会話は、映画のラスト近くでも繰り返されます。
 おそらく、こうした会話が示している二人の強い絆があるからこそ、この異色のラブストーリーがうまく仕上がっているのでしょう。

(注3)部屋の中では、センシングの装置の下に二人が横たわっています。担当の脳神経外科医(堀部圭亮)は、二人がインターフェイスを装着して、可能現実の中で数時間会話をすることができると説明します。

(注4)『ルーミィ』というタイトルをローマ字で表すと「ROOMI」となり、これは「MORIO」(二人のトラウマになった事件の少年の名前)のアナグラムではないかと、淳美の漫画のアシスタントである高木染谷将太)が見抜きます。



 ただ、「ルーミィ」のローマ字は「RUUMII」では(英語としたら「ROOMY」)?それに、この「ルーミィ」とは何を意味するのでしょうか(人名でしょうか)?それが曖昧だと酷く出来の悪いアナグラムになってしまいます〔原作の場合、漫画のタイトルは『ルクソール』ですし、アナグラムは別の人名について施されています〕。

(注5)でも、実際には、ヤッパリ分からないことだらけという感じになりますが。
 なお、この点については、雑誌『群像』7月号掲載の「映画時評」(55)において、蓮實重彦氏が、「驚くべきことに」、黒沢清氏は最新作で「律儀に「説明責任」をはたそうとするかのような演出に終始している。いったい、なぜか。初めて原作のある題材を映画化したからなのか。127分という彼にしては比較的長い上映時間は、その「説明責任」をはたすために必要とされたのか。それとも、一度ぐらいは「説明責任」そのものを映画にしてみるとどうなるかという黒沢清ならではの実験精神が、そうさせたのだろうか」と述べています。

(注6)黒沢清作品のもう一つの特色はホラー的な要素ですが、本作においても、連載漫画『ルーミィ』の中で描かれているグロテスクな死体が実写化されたり、またフィロソフィカル・ゾンビが徘徊したりしますが、クマネズミは余り怖さを感じませんでした。
 〔なお、フィロソフィカル・ゾンビについて、Wikipediaには、「物理的化学的電気的反応としては、普通の人間と全く同じであるが、意識(クオリア)を全く持っていない人間」とあります〕

(注7)最近では、佐藤健については、『るろうに剣心』で見ましたし、綾瀬はるかは『プリンセス トヨトミ』で、中谷美紀は『源氏物語』で見ています。

(注8)原作では、当初、自殺を試みて昏睡状態になっているのは淳美の弟の浩市とされていますが、後半になると、自殺未遂を起こしたのは淳美の方で、センシングを受けているのも彼女だということになります。

(注9)あるいは後半も、もしかしたら浩市が思い描いている世界の話なのかもしれません(本作のラストで浩市がベッドで目覚めるまでの映像は、すべて浩一の頭の中のことなのかもしれません)。漫画雑誌の編集長・沢野オダギリジョー)などばかりでなく、センシング関係の医師なども、最後には結局フィロソフィカル・ゾンビになってしまうのですから。

(注10)この場合、トリップといっても、過去そのものにタイムトラベルするわけではなく、無意識下に記憶されている限りでの過去に行き着くことが出来るのでは、と思われます。まして、本作のように、15年後の荒廃した飛古根島にどうやって行き着くことが出来るのかはよく分からないところです。

(注11)自信がなくなって漫画が思うように描けなくなるというのは「うつ病」の兆候といえるかもしれませんが、その精神疾患は、神経症のように、過去のトラウマによって引き起こされるものなのでしょうか?

(注12)患者の植物状態が海に落ちて大量に海水を飲んだことによって引き起こされたとしたら、脳が機能的にダメージを受けているのでしょうから、トラウマを引き起こした事象を患者が知ることによってその状態を脱出することは難しいのではとも思われます。
 それに、そもそも大量の海水を飲んだのが単なる事故(足を滑らせて海に落ちたこと)によるもので、自殺を図ったことによるものではないとしたら、トラウマの克服と患者の覚醒とは一体どんな関係があるのでしょうか?
 原作の場合、淳美は、自然流産したことがトラウマになって自殺を図ったとされているところ、これならばそのトラウマ(生まれてくるはずだった子どもに「岬」と言う名前を与えています)を見つけ出せば覚醒に繋がることに説得力はあるのかもしれません。



★★★★☆



象のロケット:リアル~完全なる首長竜の日~


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11 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
リアル (milou)
2013-06-29 13:19:12
黒沢清の作品は5本ぐらいしか見ていない。そして『CURE』以外は特に印象に残っていないが決して嫌いではないので出来れば見るようにしている。

さてこの作品も特に印象には残らないのだが、最初からずっと気になったのがセンシングを受ける淳美が私服のままだったこと(それも1か2種類)。昏睡状態で長期入院しているのに“ありえない”と思ったのだが…
逆に後半では浩市はずっと患者の服を着ている。つまり見事に“意図されたリアル”だったというわけで感心した。だから後半になると淳美の私服が何度も何度も変わっていく。

一方“リアル”でないほうは相原のヘアスタイル。病院のシーンに登場する女性職員は延べ50人近く居たと思うが、最後のほうで“相原先生”と呼びかけるエキストラだとしても台詞のあった職員は髪の“一部”を束ねただけだが、それ以外は“全員”がポニーテールにして束ねている。恐らく病院で相原のような長髪をたらすことは許されないと思うが“責任者”なら許されるのか、あるいは患者の服同様に“意図的なリアル”を裏読みできるのだろうか…
Unknown (ほし★ママ。)
2013-06-30 22:37:43
「何がリアルやねん・・・」と、ずっと突っ込んでいましたが
逆にそれがテーマなのかもしれませんね。
そして、ラストのみがまさに「リアル」な、気がしてきました。
Unknown (ふじき78)
2013-06-30 23:22:57
こんちは。
ほし★ママさんのコメントに乗るなら

「何がリアルやねん・・・」

「リアルは『裏アル』なんやろね」
Unknown (クマネズミ)
2013-07-01 06:26:25
「milou」さん、コメントをありがとうございます。
服装とかヘアスタイルに注目されるとはさすがですね!
ヘアスタイルについては、病院の医師まで含めて皆フィロソフィカル・ゾンビというかセンシングの中での出来事なのでしょうから、おっしゃるように「“意図的なリアル”を裏読みできる」のではないでしょうか?

Unknown (クマネズミ)
2013-07-01 06:27:20
「ほし★ママ。」さん、TB&コメントをありがとうございます。
登場人物が、「あれっ、これは本当のことではなかったんだ」とか「これが本当のことなのかもしれない」と不思議がるのと同じように、観客の方にも「リアルって何?」と考えさせるように映画が作られているのでは、と思いました。
Unknown (クマネズミ)
2013-07-01 06:29:09
「ふじき78」さん、TB&コメントをありがとうございます。
「何がリアルやねん・・・」、「リアルは『裏アル』なんやろね」、「なに、『裏アナル(神崎優)』って?」(「ふじき78」さんのブログのエントリの冒頭に触発されてネットで調べてみました!)

アナグラム (Plesiosaurus)
2013-07-06 20:24:07
疑問符だらけの映画ですよね。

表向きのストーリーとは違う、もっと深い物語が、この映画には仕込まれているように、私は感じました。漫画のタイトルだけでなく、映画全体がアナグラム、ということです。

淳美が浩市の手の甲に描いた丸印(「これが私よ。意識が戻っても忘れないで」)はペンダントのループです。
浩市はそれでペンダントのことを思い出し、海に転落しました。

それから、首長竜と対峙するときの淳美のタイツの模様は首長竜の皮膚そのもの。首長竜は淳美の命令に常に従順です。

最後のシーン。ずっとワンピースだった淳美がアイボリーの七分丈パンツをはいています。最初のシーンの浩市と同じ服装です。

原作では、淳美に相当する登場人物は、子供の時に海で溺れてなくなっています。主人公の目の前で、、、。

なので、映画でも、淳美は子供時代に溺死しており、ずぶぬれの少年の幻影は、淳美を救えなかった浩市自身だととみなすことができます。

子供たちの海辺の事件については、浩一のナレーションで、律儀な「説明責任」がされています。しかし、当事者の証言は必ずしも事実ではありません。黒沢監督は、説明責任を逆手に、配給元や評論家を翻弄しているのではないでしょうか。






様々な解釈 (クマネズミ)
2013-07-07 11:49:12
「Plesiosaurus」さん、興味深い解釈をありがとうございます。
なお、「原作では、淳美に相当する登場人物は、子供の時に海で溺れてなくなっています。主人公の目の前で、、、。なので、映画でも、淳美は子供時代に溺死しており、ずぶぬれの少年の幻影は、淳美を救えなかった浩市自身だととみなすことができます」とお書きになっているところは、「淳美」を「浩市」に、「浩市」を「淳美」に置き換えれば理解できるのですが?
Unknown (Plesiosaurus)
2013-07-07 13:59:47
原作では主人公の漫画家が淳美(姉)、子供時代に亡くなった弟が浩市(弟)ですよね。映画とは、淳美と浩市が逆になっています。

原作のストーリーを映画に当てはめると、溺死した子供は淳美になります。

表向きのストーリーだと、前半部の浩市の体験が無駄になってしまいますが、「裏アル」(!)ストーリーだと、実際に浩市が感じた幻覚や、精神科で受けた治療体験がデフォルメされて、過去の記憶とないまぜになり、意識不明の浩市の夢の中にあらわれた、と解釈されます。

たとえば、冒頭のシーンは子供時代に2人が交わした会話の回想とみなせます。2人とも子供時代と同じ服装をしていますし、映画の中の食事シーンはここと、もう1回、島の淳美の実家だけです。

すぐにはわからないけれど、でも注意深く観察すると浮かび上がってくる断片の数々が、実に巧妙に仕込まれているように思います。
Unknown (クマネズミ)
2013-07-08 21:28:10
「Plesiosaurus」さん、再度のコメントありがとうございます。
なるほど、「原作では、淳美に相当する登場人物は、子供の時に海で溺れてなくなっています。主人公の目の前で、、、」という箇所は、「原作では、映画の淳美に相当する登場人物である浩市は、子供の時に海で溺れてなくなっています。原作の主人公の淳美の目の前で、、、」ということなのですね。
確かに、そう考えれば、その後の「なので、映画でも、淳美は子供時代に溺死しており、ずぶぬれの少年の幻影は、淳美を救えなかった浩市自身だととみなすことができます」に続くのかもしれません。
それは大変興味深い解釈だと思います。
ただ、よくわからないのですが、原作における浩市に関する記述も、センシングの中でのもので、リアルなものでないのかもしれず、リアルなのは、淳美が、杉山との間でできた子供を流産してしまい自殺を図ったことだけのような気がしています。
映画では、そこら辺りのことはカットされているので、原作と映画との繋がりを求めることに余り意味がないような気もするのですが?
映画では、浩市が足を滑らせて海に落ちて人事不省になったことがリアルで、他のことは夢の中、淳美も浩市のそばで静かに本を読みながら見守っているだけ、ということのように思えてしまいます。
むろんこんな程度では浅い見方にすぎず、アナグラムからはほど遠いのでしょうが。

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