朝日新聞の11月19日付朝刊に、「支え合い 土地に生きる」との見出しのもと、「都市の「ムラ」描く映画」として『うつし世の静寂(しじま)に』が紹介されていました(このサイトを参照)。
同記事には、「大都市のベットタウンに、かっての農村そのまま、互助的な「講」を開き、地蔵に手を合わせる人々がいる。その営みの意味を問うドキュメンタリー映画」が公開中とあり、それも、「映画の舞台は川崎市北部の宮前区初山」とあったことから、俄然興味がわきました。なにしろ、クマネズミが住む東京都のすぐ隣にある都市の中の話なのですから!
早速、ネットで調べてみたところ、映画は渋谷のユーロスペースで公開中ながら、19日のモーニングショーで打切りとのこと。これではDVDでも出されない限り無理だなと思っていたら、なんと横浜の黄金町にあるシネマ・ベティで引き続き上映されるとの情報が見つかりました(12月3日まで)。
映画を見にそんな遠くまで行ったことがないので逡巡しましたが、たまには河岸を変えてみるのも一興と思い、23日の休日に出かけてみた次第です。
(1)映画では、川崎市宮前区にある小さな十王堂で、閻魔大王などを掃除する世話人の姿がまず映し出され、それから4つのテーマで、「都市の「ムラ」」が描き出されます。
まず、「講」。「無尽講」は、「講」に集まる人々が出し合ったお金を、籤に当たった人が譲り受ける仕組みで、映画では、5万円ずつ2口が支給されています。
この他に、さらに「念仏講」というのも行われていて、「講」に参加する人々の家(約20軒)を月ごとに巡り、その家の祖先を祈るべく、皆で大きな数珠を回しながら念仏を唱えます(この記事を参照)。
なお、こうした「講」が開かれる際には、祭壇に、お釈迦様などを描いている掛け軸が掛けられますが、初山の場合、掛け軸の上部に、太平洋戦争中に金属を供出したことに対する政府からの感謝状(東條英機首相とか嶋田繁太郎海軍大臣の名前が記載されています!)が現在でも貼り付けられているのが目を引きます〔映画では、戦時中、「講」が戦争遂行の下部組織として機能した面がある、といった説明がなされています〕。
次に、「巡り地蔵」。映画では、川崎市高津区にある茂岳山増福寺の地蔵(延命地蔵尊)が、檀家の家々を巡る様子が描かれます。地蔵を納めた大きな箱をリヤカーに乗せて運ぶ場合と、地蔵の入った厨子を背負って運ぶ場合とがあるようです。いずれにせよ、巡ってきた地蔵を、該当の家では縁側から迎え入れて家の中に安置し、皆が拝むわけです。
この地蔵にはいくつも赤ん坊の涎掛けが取り付けてあることから、乳幼児の死亡率が高かった昔より、生まれた子供の命が長らえるよう、祈ってきたものと思われます。
さらに、「棚田」。映画では、山に挟まれた三角形の形状をしている「谷戸」といわれる斜面(具体的には、宮前区初山の「とんもり谷戸」)に、鋤を使って棚田を作っていく様子が描かれています。鋤の様々な面を使って「畦(くろ)」を作る様が見事です。
ただ、こうして丹精込めて作っても、映画の撮影が行われた年は冷夏だったために、思ったほどの収穫はなかったようです。
なにはともあれ、このような棚田など長野県にでも行かなければ見ることは出来ないと思っていたクマネズミにとっては、こんな近場に見事なものが存在していると分かり、たいそう驚きました〔なお、驚いたことに東京都にも谷戸とか棚田はあり、例えば町田市については、この記事を参照〕。
最後に、「獅子舞」。毎年10月に、川崎市宮前区にある菅生神社において、神社の前に土俵を作り、そこで舞われています。
3人の獅子と天狗との4人で舞うもので、前半と後半に分かれ、それぞれ物語を持っているようです。以前は青年が舞手でしたが、現在は小中学生が舞っていて、映画ではその世代交代の様子が描かれています。
この初山の獅子舞は、元々はあちこちで舞われていたところ、明治になってから付近の神社が菅生神社に合祀されてからは、初山のものだけになったとのこと。
そこで、かって正八幡神社があったところ(上記の「とんもり谷戸」の中)で、100年ぶりに獅子舞を奉納することとなり、以前舞手だった人たちも参加し、随分と賑やかなものになりました(50年ぶりに舞ったという人も現れ、驚きました)。〔なお、この記事を参照〕
映画はまた冒頭の十王堂に戻って、今度は世話人の娘さんでしょうか、同じように閻魔大王などを掃き清める姿で終わります。
全体を見回してみますと、まず小さなお堂を掃除する一人の世話人の姿から始まり、最後はまた世話人の娘さんらしき少女が同じことをしている姿で終わるという対称性のある構造の中に、次第に拡大するパースペクティブが組み込まれているように思いますて(20人ほどの「講」→もう少し地域的広がりを持った「巡り地蔵」→ヨリ大きな自然との共生が見られる谷戸の「棚田」→谷戸の正八幡跡で「獅子舞」を奉納することで、神と自然と地元民とのつながりへ)。
こうしたよく考えられた構成をとることによって、川崎という大都会の中に古き良きものが残されていることをじっくりと描き出していて、大層感銘を受けました。
逆に言えば、上で記したように、個々のテーマについては、これまでもある程度様々な形で追跡されているように思われます(ネットでも、随分と関連する記事を読むことが出来ます)。ですから、映画『うつし世の静寂に』の意義は、それらを的確な構成の下で綴り合わせたことにある、と言ってみてもいいかもしれません。
ただ、この映画で取り上げられているテーマそれぞれについては、川崎市のものではないにせよ何らかの知識は持っていましたが、「巡り地蔵」だけはクマネズミが初めて目にする風習であり、大層興味が惹かれます。ネットで調べてみても、この風習を直接取り上げているサイトは、これまでのところ見あたりません。もしかしたら、この映画の功績の一つは、この風習をテーマとして大きく取り上げたことにもあると言えるのではないでしょうか?
(2)この映画を見た黄金町に東京から行くのに、クマネズミは東急東横線(→横浜からは京急)を使いましたから、南の方をほんの一瞬ながら川崎を通過したわけで、若干因縁めいた感じを覚えました。
とはいえ、川崎市宮前区初山といきなり言われても、クマネズミを含めて大部分の人にとって、いったいどこらあたりにあるのかはっきりしないことと思います。
こういう初歩的ながら酷く重要なことが映画では省かれてしまっているものの、やはり正確に何処に位置し、周囲はどのようになっているのかを、先ず最初に描き出すべきではないでしょうか(注1)?
ついでに言うと、ドキュメンタリー映画の場合、普通のフィクション作品と違って、ストーリーに面白さがあると言うよりも、映画の中で喋られていること、解説されていること、描き出されていることの方が重要だといえるのではないでしょうか?そうだとすると、こうしたレビューを作成するに際しても、できるだけそられの正確な内容を書き込みたいところです。
その際のよりどころになるのが劇場用パンフレット。
ですが、映画を制作するのが小さなプロダクションだったりすると、普通の映画館でおいてあるような「劇場用パンフレット」など期待すべくもありません。
今回の作品についても、チラシに毛の生えた物が置いてあるだけでした。
以前『しかし、それだけではない。~加藤周一 幽霊と語る』で、記憶だけを頼りにしようとして懲りたことがあったので、手元にあった新書の余白部分に重要と思われる言葉を書き付けておくことにしました。といっても、真っ暗な館内で映画を見ながら適当に手を動かしただけですから、家に帰り着いてから開いてみますと、半分くらいしか読めません(でも、そうして書き付けた語句をヒントに、今度はネットで調べたりすれば、ある程度のことは分かってきます)。
予算面から難しいかも知れませんが、こうしたドキュメンタリー作品こそ、それを様々に解説したパンフレットを作成していただきたいものだと思います。
なお、この点からすると、年初に見た『怒る西行』は、特筆に値します。映画館には、驚いたことに映画のシナリオが完全に採録されているパンフレットが置いてあって、そのお陰で、このドキュメンタリー作品と同じ行程をクマネズミも辿ることが出来(注2)、同時にこの作品に込めた沖島薫監督の思いにも、僅かながらにせよ接近することが出来たのではないかと思いました。
(3)冒頭で触れた朝日新聞記事では、ジェフリー・S・アイリッシュ氏(注3)が、「どこかで見守られ、過去の時間とのつながりを持つと、人は安定感を得る。田舎にあるものを都会で探すのは大切です」と述べています。
それは確かに大切なことかもしれません。
ですが、田舎でなく、この映画のように都会でそれを探すのであれば、それが都会とどのように有機的につながっているのか、という側面を同時に探し出すことも大切ではないでしょうか(注4)?
川崎市のように、東京と横浜という大都会に挟まれた都市であれば、いくら「田舎にあるもの」といえども、「都会的なもの」とのつながりなしに存在しているとは思えないところです。
いうまでもなく、このドキュメンタリー作品に、ソウした繋がりが見いだせないわけではありません。
現に、「谷戸」の棚田の造成に際しては、すべてを昔通りにやるというのではなく、現代の機械文明が生み出した小型自動耕耘機が使われてもいます。
初山の「獅子舞」の舞手は、今や青年ではなく小中学生が担っていますが、踊り方の伝達には、東京や横浜方面で働いているに相違ない青年達が当たっています。
とはいえ、この映画は、「田舎にあるもの」を保存している人たちを取り巻く「都市的なもの」を担っている人たちを、積極的に映し出そうとはしていません。
例えば、この映画の初めの方で、大きな団地のすぐそばで農業をほそぼそと続けている主婦が描かれているところ、この主婦自身は農業が好きで好きでという類い稀な女性ながら、「自分の子供たちは最早こんな作業を続けないだろう」と言っています。世の中の流れから完全に孤立しているように見えますが、でも、そうやって生産した農作物を、主婦は、団地に住む人たちに売りさばいているのではないでしょうか?
さらには、「巡り地蔵」が置かれる茅葺き農家のすぐ背後には、巨大なマンションが聳え立っているところ、そのマンションに住む住民と「巡り地蔵」に参加する人たちとの交流といったものは、実際のところどうなっているのでしょうか?
むろん、大都会のど真ん中で「田舎にあるもの」を保存することは、それだけで大変貴重ですから、この作品の制作方針が間違っているわけではないでしょう。とはいえ、随分と見応えのある素晴らしい出来栄えの作品ながら、はたしてそれだけでおしまいにしていいのかどうか、いささか疑問に思えてきてしまいます。
(注1)これはもう少しよく調べてみなくてはなりませんが、この映画の4つのテーマのうち、「巡り地蔵」を除いた3つのテーマはすべて川崎市宮前区初山にかかわるものです。ところが、「巡り地蔵」は、川崎市高津区にある増福寺に安置されている延命地蔵尊にかかわるようです。
地図で見ると、両者の間にはある程度の距離があるように思われます。あるいは、昔は「初山」という地域の中に両者が入っていて、区政が敷かれた段階で分割されてしまったのかもしれません〔宮前区は、昭和57年に、高津区西部がから分離して作られたようです〕。
いずれにせよ、もう少し詳しい説明が必要なのではと思われます。
としたところ、書店で調べたところでは、大島健彦編『民間の地蔵信仰』(北辰堂、1992年)に収められている白井禄郎氏の「巡行仏」に関する論考には、この「巡り地蔵」について、過不足ない記述がみられます。
立ち読みしただけながら、戦前には、この「巡行仏」は、東京の赤坂や埼玉の入間といった方面まで足を延ばすような広範囲なものであったとのこと。であれば、高津区から宮前区などはすぐ近所だったということでしょう!
また、ネットでは、『多摩川誌』の第7編民俗第5章第1節行事の「1.3仏教行事」の項目の中に、「川崎市高津区末長の増福寺の延命地蔵は毎年8月14日から9月13日までの1カ月間と2月14日から3月13日までの1カ月間を近隣各村を回った」とあります。
(注2)映画『怒る西行』についてのレビューは、1月19日の記事だけですが、20日以降、この作品関連の記事を続けて5本も作成してしまいました!
(注3)ノンフィクション・ライター、翻訳業、民俗学研究者。
詳しい経歴は、このファイルを参照。
(注4)このサイトに掲載されている「短編インタビュー集 2」において、ジェフェリー・アイリッシュ氏は、「コミュニティーがあっていろんな工夫をしてながら伝承しているし、いろんな工夫によってそれぞれのひとが自分の居場所を見つけている」と述べていますが、まさに「いろんな工夫」とはどんな「工夫」なのかが一番知りたいところです。
★★★☆☆
同記事には、「大都市のベットタウンに、かっての農村そのまま、互助的な「講」を開き、地蔵に手を合わせる人々がいる。その営みの意味を問うドキュメンタリー映画」が公開中とあり、それも、「映画の舞台は川崎市北部の宮前区初山」とあったことから、俄然興味がわきました。なにしろ、クマネズミが住む東京都のすぐ隣にある都市の中の話なのですから!
早速、ネットで調べてみたところ、映画は渋谷のユーロスペースで公開中ながら、19日のモーニングショーで打切りとのこと。これではDVDでも出されない限り無理だなと思っていたら、なんと横浜の黄金町にあるシネマ・ベティで引き続き上映されるとの情報が見つかりました(12月3日まで)。
映画を見にそんな遠くまで行ったことがないので逡巡しましたが、たまには河岸を変えてみるのも一興と思い、23日の休日に出かけてみた次第です。
(1)映画では、川崎市宮前区にある小さな十王堂で、閻魔大王などを掃除する世話人の姿がまず映し出され、それから4つのテーマで、「都市の「ムラ」」が描き出されます。
まず、「講」。「無尽講」は、「講」に集まる人々が出し合ったお金を、籤に当たった人が譲り受ける仕組みで、映画では、5万円ずつ2口が支給されています。
この他に、さらに「念仏講」というのも行われていて、「講」に参加する人々の家(約20軒)を月ごとに巡り、その家の祖先を祈るべく、皆で大きな数珠を回しながら念仏を唱えます(この記事を参照)。
なお、こうした「講」が開かれる際には、祭壇に、お釈迦様などを描いている掛け軸が掛けられますが、初山の場合、掛け軸の上部に、太平洋戦争中に金属を供出したことに対する政府からの感謝状(東條英機首相とか嶋田繁太郎海軍大臣の名前が記載されています!)が現在でも貼り付けられているのが目を引きます〔映画では、戦時中、「講」が戦争遂行の下部組織として機能した面がある、といった説明がなされています〕。
次に、「巡り地蔵」。映画では、川崎市高津区にある茂岳山増福寺の地蔵(延命地蔵尊)が、檀家の家々を巡る様子が描かれます。地蔵を納めた大きな箱をリヤカーに乗せて運ぶ場合と、地蔵の入った厨子を背負って運ぶ場合とがあるようです。いずれにせよ、巡ってきた地蔵を、該当の家では縁側から迎え入れて家の中に安置し、皆が拝むわけです。
この地蔵にはいくつも赤ん坊の涎掛けが取り付けてあることから、乳幼児の死亡率が高かった昔より、生まれた子供の命が長らえるよう、祈ってきたものと思われます。
さらに、「棚田」。映画では、山に挟まれた三角形の形状をしている「谷戸」といわれる斜面(具体的には、宮前区初山の「とんもり谷戸」)に、鋤を使って棚田を作っていく様子が描かれています。鋤の様々な面を使って「畦(くろ)」を作る様が見事です。
ただ、こうして丹精込めて作っても、映画の撮影が行われた年は冷夏だったために、思ったほどの収穫はなかったようです。
なにはともあれ、このような棚田など長野県にでも行かなければ見ることは出来ないと思っていたクマネズミにとっては、こんな近場に見事なものが存在していると分かり、たいそう驚きました〔なお、驚いたことに東京都にも谷戸とか棚田はあり、例えば町田市については、この記事を参照〕。
最後に、「獅子舞」。毎年10月に、川崎市宮前区にある菅生神社において、神社の前に土俵を作り、そこで舞われています。
3人の獅子と天狗との4人で舞うもので、前半と後半に分かれ、それぞれ物語を持っているようです。以前は青年が舞手でしたが、現在は小中学生が舞っていて、映画ではその世代交代の様子が描かれています。
この初山の獅子舞は、元々はあちこちで舞われていたところ、明治になってから付近の神社が菅生神社に合祀されてからは、初山のものだけになったとのこと。
そこで、かって正八幡神社があったところ(上記の「とんもり谷戸」の中)で、100年ぶりに獅子舞を奉納することとなり、以前舞手だった人たちも参加し、随分と賑やかなものになりました(50年ぶりに舞ったという人も現れ、驚きました)。〔なお、この記事を参照〕
映画はまた冒頭の十王堂に戻って、今度は世話人の娘さんでしょうか、同じように閻魔大王などを掃き清める姿で終わります。
全体を見回してみますと、まず小さなお堂を掃除する一人の世話人の姿から始まり、最後はまた世話人の娘さんらしき少女が同じことをしている姿で終わるという対称性のある構造の中に、次第に拡大するパースペクティブが組み込まれているように思いますて(20人ほどの「講」→もう少し地域的広がりを持った「巡り地蔵」→ヨリ大きな自然との共生が見られる谷戸の「棚田」→谷戸の正八幡跡で「獅子舞」を奉納することで、神と自然と地元民とのつながりへ)。
こうしたよく考えられた構成をとることによって、川崎という大都会の中に古き良きものが残されていることをじっくりと描き出していて、大層感銘を受けました。
逆に言えば、上で記したように、個々のテーマについては、これまでもある程度様々な形で追跡されているように思われます(ネットでも、随分と関連する記事を読むことが出来ます)。ですから、映画『うつし世の静寂に』の意義は、それらを的確な構成の下で綴り合わせたことにある、と言ってみてもいいかもしれません。
ただ、この映画で取り上げられているテーマそれぞれについては、川崎市のものではないにせよ何らかの知識は持っていましたが、「巡り地蔵」だけはクマネズミが初めて目にする風習であり、大層興味が惹かれます。ネットで調べてみても、この風習を直接取り上げているサイトは、これまでのところ見あたりません。もしかしたら、この映画の功績の一つは、この風習をテーマとして大きく取り上げたことにもあると言えるのではないでしょうか?
(2)この映画を見た黄金町に東京から行くのに、クマネズミは東急東横線(→横浜からは京急)を使いましたから、南の方をほんの一瞬ながら川崎を通過したわけで、若干因縁めいた感じを覚えました。
とはいえ、川崎市宮前区初山といきなり言われても、クマネズミを含めて大部分の人にとって、いったいどこらあたりにあるのかはっきりしないことと思います。
こういう初歩的ながら酷く重要なことが映画では省かれてしまっているものの、やはり正確に何処に位置し、周囲はどのようになっているのかを、先ず最初に描き出すべきではないでしょうか(注1)?
ついでに言うと、ドキュメンタリー映画の場合、普通のフィクション作品と違って、ストーリーに面白さがあると言うよりも、映画の中で喋られていること、解説されていること、描き出されていることの方が重要だといえるのではないでしょうか?そうだとすると、こうしたレビューを作成するに際しても、できるだけそられの正確な内容を書き込みたいところです。
その際のよりどころになるのが劇場用パンフレット。
ですが、映画を制作するのが小さなプロダクションだったりすると、普通の映画館でおいてあるような「劇場用パンフレット」など期待すべくもありません。
今回の作品についても、チラシに毛の生えた物が置いてあるだけでした。
以前『しかし、それだけではない。~加藤周一 幽霊と語る』で、記憶だけを頼りにしようとして懲りたことがあったので、手元にあった新書の余白部分に重要と思われる言葉を書き付けておくことにしました。といっても、真っ暗な館内で映画を見ながら適当に手を動かしただけですから、家に帰り着いてから開いてみますと、半分くらいしか読めません(でも、そうして書き付けた語句をヒントに、今度はネットで調べたりすれば、ある程度のことは分かってきます)。
予算面から難しいかも知れませんが、こうしたドキュメンタリー作品こそ、それを様々に解説したパンフレットを作成していただきたいものだと思います。
なお、この点からすると、年初に見た『怒る西行』は、特筆に値します。映画館には、驚いたことに映画のシナリオが完全に採録されているパンフレットが置いてあって、そのお陰で、このドキュメンタリー作品と同じ行程をクマネズミも辿ることが出来(注2)、同時にこの作品に込めた沖島薫監督の思いにも、僅かながらにせよ接近することが出来たのではないかと思いました。
(3)冒頭で触れた朝日新聞記事では、ジェフリー・S・アイリッシュ氏(注3)が、「どこかで見守られ、過去の時間とのつながりを持つと、人は安定感を得る。田舎にあるものを都会で探すのは大切です」と述べています。
それは確かに大切なことかもしれません。
ですが、田舎でなく、この映画のように都会でそれを探すのであれば、それが都会とどのように有機的につながっているのか、という側面を同時に探し出すことも大切ではないでしょうか(注4)?
川崎市のように、東京と横浜という大都会に挟まれた都市であれば、いくら「田舎にあるもの」といえども、「都会的なもの」とのつながりなしに存在しているとは思えないところです。
いうまでもなく、このドキュメンタリー作品に、ソウした繋がりが見いだせないわけではありません。
現に、「谷戸」の棚田の造成に際しては、すべてを昔通りにやるというのではなく、現代の機械文明が生み出した小型自動耕耘機が使われてもいます。
初山の「獅子舞」の舞手は、今や青年ではなく小中学生が担っていますが、踊り方の伝達には、東京や横浜方面で働いているに相違ない青年達が当たっています。
とはいえ、この映画は、「田舎にあるもの」を保存している人たちを取り巻く「都市的なもの」を担っている人たちを、積極的に映し出そうとはしていません。
例えば、この映画の初めの方で、大きな団地のすぐそばで農業をほそぼそと続けている主婦が描かれているところ、この主婦自身は農業が好きで好きでという類い稀な女性ながら、「自分の子供たちは最早こんな作業を続けないだろう」と言っています。世の中の流れから完全に孤立しているように見えますが、でも、そうやって生産した農作物を、主婦は、団地に住む人たちに売りさばいているのではないでしょうか?
さらには、「巡り地蔵」が置かれる茅葺き農家のすぐ背後には、巨大なマンションが聳え立っているところ、そのマンションに住む住民と「巡り地蔵」に参加する人たちとの交流といったものは、実際のところどうなっているのでしょうか?
むろん、大都会のど真ん中で「田舎にあるもの」を保存することは、それだけで大変貴重ですから、この作品の制作方針が間違っているわけではないでしょう。とはいえ、随分と見応えのある素晴らしい出来栄えの作品ながら、はたしてそれだけでおしまいにしていいのかどうか、いささか疑問に思えてきてしまいます。
(注1)これはもう少しよく調べてみなくてはなりませんが、この映画の4つのテーマのうち、「巡り地蔵」を除いた3つのテーマはすべて川崎市宮前区初山にかかわるものです。ところが、「巡り地蔵」は、川崎市高津区にある増福寺に安置されている延命地蔵尊にかかわるようです。
地図で見ると、両者の間にはある程度の距離があるように思われます。あるいは、昔は「初山」という地域の中に両者が入っていて、区政が敷かれた段階で分割されてしまったのかもしれません〔宮前区は、昭和57年に、高津区西部がから分離して作られたようです〕。
いずれにせよ、もう少し詳しい説明が必要なのではと思われます。
としたところ、書店で調べたところでは、大島健彦編『民間の地蔵信仰』(北辰堂、1992年)に収められている白井禄郎氏の「巡行仏」に関する論考には、この「巡り地蔵」について、過不足ない記述がみられます。
立ち読みしただけながら、戦前には、この「巡行仏」は、東京の赤坂や埼玉の入間といった方面まで足を延ばすような広範囲なものであったとのこと。であれば、高津区から宮前区などはすぐ近所だったということでしょう!
また、ネットでは、『多摩川誌』の第7編民俗第5章第1節行事の「1.3仏教行事」の項目の中に、「川崎市高津区末長の増福寺の延命地蔵は毎年8月14日から9月13日までの1カ月間と2月14日から3月13日までの1カ月間を近隣各村を回った」とあります。
(注2)映画『怒る西行』についてのレビューは、1月19日の記事だけですが、20日以降、この作品関連の記事を続けて5本も作成してしまいました!
(注3)ノンフィクション・ライター、翻訳業、民俗学研究者。
詳しい経歴は、このファイルを参照。
(注4)このサイトに掲載されている「短編インタビュー集 2」において、ジェフェリー・アイリッシュ氏は、「コミュニティーがあっていろんな工夫をしてながら伝承しているし、いろんな工夫によってそれぞれのひとが自分の居場所を見つけている」と述べていますが、まさに「いろんな工夫」とはどんな「工夫」なのかが一番知りたいところです。
★★★☆☆