映画的・絵画的・音楽的

映画を見た後にネタバレOKで映画を、展覧会を見たら絵画を、など様々のことについて気楽に話しましょう。

幻肢

2014年10月15日 | 邦画(14年)
 『幻肢』を新宿のK’s cinemaで見てきました。

(1)谷村美月が出演するというので映画館に行ってきました。



 本作(注1)は、自分が運転する車で交通事故を引き起こし、事故に関する記憶、特に同乗していたはずの恋人谷村美月)に関する記憶を喪失してしまった医大大学院生の雅人吉木遼)が(注2)、友人の亀井遠藤雄弥)や准教授の川端宮川一朗太)などの協力によって、うつ病の治療に使われるTMS(経頭蓋磁気刺激法)を受けながら、徐々に記憶を取り戻していくというお話です。



 はたして雅人はどんな記憶を取り戻していくのでしょうか、そして交通事故の真相は、………?

 本作は、「奇抜な着想、巧妙なトリック、読むものを幻惑させるストーリーテリングで、数多くの話題作を発表し続けている島田荘司の初映画作品」と謳われており期待したところ、サスペンス的な要素よりもむしろラブストーリー的な要素のほうが大きいように思いました。それでも、92分の長さの中に上手く全体をまとめており、さらにはクマネズミの棲家からほど近いところにある井の頭恩賜公園やその周辺(注3)がふんだんに出てきたりもして、最後まで愉しむことが出来ました(注4)。

(2)本作を基本的に支えているのは「幻肢(あるいは幻影肢)」の問題です。
 本作の冒頭では、佐野史郎扮する教授の宮沢が、脳科学者ラマチャンドランの名前を黒板に書きながら、その「幻肢」の説明をしています。



 宮沢教授の話によれば、ラマチャンドランが、患者のジョンに「このカップを掴んでください」と言って、ジョンの失われた左手がカップに届いた瞬間にカップを引くと、ジョンは苦痛に満ちた叫び声を上げ「とても痛い」と言った、とのこと。
 つまり、ジョンの左手の指は幻覚にしても、その痛みは本物ということなのでしょう。
 この幻の手足という「幻肢」はどのように説明できるのか、と言いながら、教授が鏡のついた箱を取り出して中に自分の手を入れたところで(注5)、講義の場面は終了します。

 そして、雅人は、この「幻肢」によって「幽霊」を説明するということを思いつき(注6)、ラストでは、教室の皆の前でその仮説についての論文を発表します。
 こんなところから本作のミステリーも解明されていくのですが、なんといっても本作はサスペンス物ですから、「幽霊」の話がなぜここで飛び出すのかなどについて詳しいことは見てのお楽しみといたしましょう。

 なお、この「幻肢」に関しては、次回のエントリにも関連事項を書き込みましたので、御覧ください。

(3)前田有一氏は、「いったい事故のとき何が起きていたのか。周りのよそよそしい雰囲気はなぜなのか。観客の好奇心を刺激しながら物語は進んでいく。退屈とは無縁だ。私は本作で、久々に作り手と観客のガチのだましあいを堪能した」、「低予算だが、本当によく工夫された、良質なエンターテイメントである」として70点を付けています。
 また相木悟氏は、「ミステリー映画の新境地を切り開かんとする意欲はかいたいのだが、少々物足りない一作であった」と述べています。



(注1)原作は、島田荘司著『幻肢』(文藝春秋社:未読)。
 なお、最初に島田氏の原案に基づいて、本作の藤井道人監督が脚本化し、それから島田氏がノベライズしたという経緯があるようです(なお、原作と映画とでは主人公が入れ替わっているとのこと)。
〔追記:原作については、10月27日の「本よみうり堂」に書評が掲載されています〕

(注2)雅人が「事故の時、遥は俺と一緒にいたはず。そして俺は助かった。遥は死んだのか?」と言うと、友人の亀井は「遥のことは俺の口からはちょっと、………」と言葉を濁し、「とにかく、自分の体だけ心配しろ」と言います。



(注3)雅人と遥の二人は、井の頭池のボートに乗るだけでなく、動物園の方へ行ったり、神田川の起点あたりを前にして置かれているベンチに座ったり、吉祥寺駅と井の頭公園の間にある商店街を散策したり、ハモニカ横丁に入ったりもします。

(注4)俳優陣の内、最近では、谷村美月は『幕末高校生』、佐野史郎は『偉大なる、しゅららぼん』、遠藤雄弥は『永遠の0』、宮川一朗太は『黒執事』で、それぞれ見ました。



(注5)「箱の中に鏡を入れ、虚像のところに実際の手があるように見せかけて、幻肢や幻痛を消滅させる治療法」を、教授は説明しようとしたものと思われます。
 なお、ここらあたりは、この記事を参照しました。

(注6)雅人は、海岸に置かれている大きな岩のところに遥を連れていって、この岩にまつわる伝説から「幻肢」に興味を持った、と話します。
 その伝説というのは、夫が海に出て帰ってこなかった妻が、この岩に雷が落ちた際に祈ったところ、夫の姿が目の前に出現したというもの。落雷によってこの岩が磁場を帯びたことと夫の出現とが関係するとすれば、TMSと幻肢(ひいては幽霊)との間にも関係があるかもしれないと雅夫は考えつき、研究に取りかかったのだ、と話します。



★★★☆☆☆



象のロケット:幻肢

柘榴坂の仇討

2014年10月13日 | 邦画(14年)
 『柘榴坂の仇討』を渋谷シネマパレスで見ました。

(1)中井貴一阿部寛が出演するというので映画館に行ってきました(注)。

 本作(注1)では、1860年に起きた「桜田門外の変」の後日談が描かれます。

 桜田騒動(注2)の際、命にかけても主君・井伊掃部頭中村吉右衛門)を守らなければならなかったところ、生き永らえてしまった近習役の志村金吾中井貴一)は、藩の方から、逃亡した水戸浪士の首を一つでも挙げて主君の墓前に供えよ、と厳命されてしまいます。
 それから13年の月日が流れ(明治6年)、志村は、妻のセツ広末涼子)と長屋で暮らしながら、相変わらず仇を追っているところ、いろいろなつてをたどって(注3)、ただ一人生き残っている仇・佐橋十兵衛阿部寛)の所在を突き止めます。



 はたして志村は佐橋に対してどう立ち向かうのでしょうか、………?

 時代は、まさに『るろうに剣心』と半分重なり、同作では時代に取り残された者らが政府に対して反乱を企てるところ、本作では前の時代の精神の残光が取り出されて描かれます。でも、なんだか「決して死ぬな」という流行りのメッセージばかり全面に出すぎている感じがしますし、時代劇だから仕方がありませんが、中井貴一の演技は歌舞伎の舞台を見ているような感じもしてしまいます。おまけに、ラストは、主人公とその妻が手をつないで冬の星空を見上げながら歩くというのですから、なんだホームドラマだったの?と言いたくもなってしまいます(注4)。

(2)本作は、ほぼ原作(注5)に忠実に描かれているものの、若干異なるところもあります。
 例えば、本作では、井伊掃部頭の墓のある菩提寺(注6)に志村がお参りに行った後に(注7)、人力車を曳く車夫の格好をした佐橋十兵衛が、そのお寺の門の前でお参りをする姿が描かれ、さらには、志村と同じような長屋暮らしをしている様子が映し出されます(注8)。
 ですが、原作では、佐橋の日常については一言も書き込まれておらず、いきなり新橋駅頭の場面となります。
 むろん、映画と原作が違っていても何の問題もありません。
 ですが、車夫をしているのだったら社会の底辺で暮らしていることは容易に想像がつきますし、本作の場合、志村と佐橋の長屋暮らしの様が余りにもソックリに描かれているため、あるいは同じ長屋に住んでいるのではと見る者は思ってしまうのではないでしょうか(注9)?

 また、原作のラストでは、志村の妻・セツが勤める居酒屋において、酌婦となっているセツに志村が、「この先はの、俥でも引こうと思う」などと語る場面が書き込まれていますが、映画では、居酒屋の外で待っている志村がセツの手を握って一緒に歩く場面となっています(注10)。



 原作にも「闇に手を差し伸べながら、金吾は雪上がりの星空を仰ぎ見た」とありますから似たり寄ったりとはいえ(注11)、映画の方ではホームドラマ性がより強く出ているのではと思います。

 さらに挙げれば、原作では、柘榴坂で対決した時、「志村金吾と名乗った侍は、脇差しを抜いた。しかし雪の中に佇んだ姿には、戦う意志がいささかも感じられなかった」とあり、加えて「直吉(佐橋十兵衛の現在の名前)は膝元に置かれた刀を執り、鞘を払った」ものの、「瞬時にとどめられぬ素早さで、喉を掻き切ってしまおうと直吉は思った」とされています。
 ですが、本作における柘榴坂の場面では、本格的なチャンバラシーンが描き出されるのです。

 原作の場合は、司法省の非職警部の秋元和衛にすっかり説得されており、佐橋と会った時に、志村は仇討の無意味さを既に悟っていたように描かれています(注12)。
 これに対し、本作においては、激しいチャンバラの果てに一輪の寒椿を見出すことから、志村は、佐橋の首に当てた刀を止めるのです。まるで志村は、それまでは仇討を成し遂げようとしていたかのようです。これだと、志村は、秋元和衛に十分に説得されず、実際に対決してから悟ったかのように見えます。

 それと、原作もそうなのですが、志村が佐橋に「わしは、掃部頭様のお下知に順うだけじゃ」などと言うところからすると、そもそもの話の始めから仇討など志村の念頭になかったのかもしれないようにもあるいは解釈できます。でも、そうだとしたら、何年もかけてわざわざ佐橋を探し出すまでもなかったのかもしれません(注13)。

 ここで、本作の場合、大きな働きを示すのが一輪の寒椿の花です。
 原作では、「揉みあいながら寒椿の垣の根方に直吉を押しこめ、金吾は仇の胸倉をしめ上げた」としか書かれていませんが、本作では、秋元和衛藤竜也)が庭に咲く一輪の椿の花を指して、「ひたむきに生きよ、あの花を見るとそんな声が聞こえてくる。決して死ぬな」云々と志村を諭し(注14)、また柘榴坂の仇討の際に、ぎりぎりのところでその花のことが志村の念頭に浮かびます。
 ただ、こうしたシーンをわざわざ描き出すのは、「決して死ぬな」という流行りのメッセージをことさら強調したいがためとしかクマネズミには見えません(注15)。
 それに、塀際に終えられている何本もの寒椿の花が一輪だけ咲くということはないのではと思えますし、新しい時代に人々と一緒になって生きろというのであれば、たくさんの花が咲いている方がむしろ適切なのではないでしょうか(注16)?

(3)渡まち子氏は、「過去にも浅井作品に出演している中井貴一が、義と情の世界で生きる最後のサムライを堂々と演じている」などとして60点を付けています。
 前田有一氏は、「どちらも幕末から明治という比較的近い時代を舞台にしながら、次世代感たっぷりの「るろ剣」とは対照的に、こちらはオーソドックスな本格時代劇である」「短編の映像化だからか強引なダイジェスト感もない、無理ない作りの時代劇である」、「いまどき公開される時代劇映画としては、保守的なファンも満足できるレベルには仕上がっている」として60点を付けています。
 相木悟氏は、「誇り高き男の生き様を描いた直球の時代劇であった。ゆえに好感度は高いのだが……」と述べています。



(注1)監督は、『沈まぬ太陽』や『夜明けの街で』の若松節朗

(注)先月20日に放送されたTBSテレビ「ぴったんこカン・カン」では、映画公開を前にして、主演の中井貴一と広末涼子とが、井伊掃部守ゆかりの彦根を訪れています。ですから、彦根に思い入れのあるクマネズミとしては(この拙エントリを御覧ください)、どんな彦根が描かれるのかと期待しましたが、残念ながら本作では彦根は殆ど描き出されませんでした。

(注2)桜田騒動については、『桜田門外ノ変』を以前見たことがあります。

(注3)本作では、志村の親友で司法省の邏卒になっている内藤新之助高嶋政宏)が、以前に幕府の評定所御留役で現在は司法省警部になっている秋元和衛に、調査を頼み込んだことから所在が判明します。

(注4)最近では、中井貴一は『天地明察』で(水戸光圀役)、阿部寛は『テルマエ・ロマエⅡ』で見ました。
 また、広末涼子は『鍵泥棒のメソッド』、高嶋政宏は『RETURN(ハードバージョン)』、藤竜也は『私の男』、真飛聖は『謝罪の王様』(弁護士・箕輪の元妻役)で、それぞれ見ています。

(注5)浅田次郎著『五郎治殿御始末』(新潮文庫)所収の短編「柘榴坂の仇討」。

(注6)この記事によれば、世田谷区にある豪徳寺(ただ、こんな記事もあります)。
 なお、この記事によれば、彦根藩主井伊家の墓所は、豪徳寺を含めて3箇所にあるようです。

(注7)志村は、佐橋と同様に、井伊掃部頭の墓前には行かずに寺を後にします(その寺の住職が「やはり墓前には参られぬか?」と質しますが、志村は黙ってお辞儀をして帰るばかりです)。

(注8)佐橋は、同じ長屋に住む寡婦のマサ真飛聖)と、その娘を通じていい仲になりそうな雰囲気です。
 なお、ラストの方で、佐橋はその娘にコンペイトウを買ってやるのですが、車夫の分際で当時としては高価なお菓子を購入できたのでしょうか(あるいは、明治6年ともなると、かなり普及していたのかもしれませんが)?

(注9)それに、佐橋の長屋では、そこに暮らす女房連中がかしましく井戸端会議をしているところ、志村の妻がそうした井戸端会議に加わっている様は描かれていません。セツは、武家の出という矜持があるので、そういうものに加わらないとでも言うのでしょうか?

(注10)劇場用パンフレット掲載のインタビュー記事の中で、中井貴一は、「ラストではセツと手をつなぎたいと、僕の方からお願いしました、「仇討も死ぬことも放棄した金吾が妻に対して「ありがとう」と言うだけでは、今までの時代劇と変わらない」云々と述べています(若松監督も、別のインタビューの中で、「あのシーンは中井さんのアイデアです」と語っています)。

(注11)でも、原作では、その後に「両手を夜空に泳がせて、志村金吾はにっかりと微笑まれる掃部頭様のお顔を、溢れる星座のどこかしらに探そうとした」とありますから、セツの手を握っていないように思われます。

(注12)原作のここらあたりは、むしろ、佐橋と実際に面と向かうことによって、志村の心の中に井伊掃部頭の言葉が蘇ってきたと受け取るべきなのかもしれませんが。

(注13)志村が、「掃部頭様のお下知に順うだけ」と最初から(秋元和衛と会う前から)考えていたとしたら、例えば、明治3年に出された平民に関する廃刀令(太政官布告第831号)に従い、刀を捨てて車夫にでもなればよかったようにも思います(尤も、明治9年の「廃刀令」によっても、刀を捨てなかった強者が大勢存在したようですが)。

(注14)まるで、『るろうに剣心 伝説の最期編』において、比古(福山雅治)が緋村剣心(佐藤健)に投げかけた言葉のようです(同作に関する拙ブログの「注9」を参照)。

(注15)劇場用パンフレット掲載のインタビューにおいて、インタビュアーが「この映画のテーマは「赦す」ということではないかと思います」と述べて質問し、監督もそれに答えているところ、「赦す」にしても「生きよ」にしても同じことを意味していると考えられる上に、そもそもこうした記事においてどうして「テーマ」などが問題になるのでしょうか?作品には、元々千差万別のテーマが転がっていて、それこそ見る人によって違ったものになるのではないでしょうか?それを、制作側で一つのテーマを受け取るように観客側を引っ張りこんでしまうような記事の書き方、ひいては作品の制作の仕方に問題があるのではないでしょうか?

(注16)志村は、特段、世の中から除け者にされ厳しい目に遭わされて生きてきたわけではなく、自分から世の中の動きに迎合しなかっただけのことでもありますし。



★★☆☆☆☆



象のロケット:柘榴坂の仇討

TOKYO TRIBE

2014年10月10日 | 邦画(14年)
 『TOKYO TRIBE』を渋谷シネクイントで見てきました。

(1)本作は、園子温監督の作品ということで映画館に行ってきました。

 本作(注1)のはじまりはブクロ。
 猥雑な雰囲気の街の中を、どのTRIBEにも所属しないMC SHOW(染谷将太)が歩きながら、「♪誰もが凶暴な街…」とラップを始めます。



 そこへ新米の婦警(佐々木心音)が現れ、「こんなゴミ箱、私が一掃してみせます」とベテランの警官に言って、ドラッグを売っているメラ鈴木亮平)を取り締まろうとしますが、逆にメラに羽交い締めにされてしまいます。なにしろ、メラは、ブクロを仕切るWU-RONZのリーダー、一婦警ごときが手を下せる相手ではありません。

 メラは婦警を押さえ込みながら、TOKYO TRIBEを次々と紹介していきます。
 まずは、シヴヤを仕切るSARU軍団。それから、シンヂュクを仕切るHANDSの三代目武将の大東駿介)や、歌舞伎町を仕切る女性だけで作られているTRIBEのGIRAGIRA Girlsなど。

 そして、メラが、「他のエリアのやつが来たらぶっ殺す。みんなお互いに戦争してんだ。しかし、その掟に従わないのがムサシノだ」と言うと、彼らのアジトであるファミレス・ペニーズが映し出され、ムサシノを仕切るムサシノSARUのYOUNG DAIS)が、ファミレスにやってきたMC SHOWと一緒に、「ムサシノは、今日もLove & Peace」などと歌います。
 そして、リーダーのテラ佐藤隆太)もアジトに登場。

 そんなこんなで本作の序の部分がおしまいとなり、物語の本題に入ります。
 端折って言えば、メラが目の敵とするムサシノSARUを潰そうと、罠を仕掛けます。すなわち、メラは、ムサシノSARUのメンバーのキム石田卓也)を、ブクロのSAGAタウンの奥の部屋に閉じ込め、テラや海たちが救出に来るのを待ちます。
 さあ、テラや海らはキムを上手く救い出すことができるでしょうか、………?

 本作は、漫画を実写化したものながら、全編にラップが流れる中で、池袋や渋谷などを踏まえた様々の繁華街を仕切る「TRIBE(族)」同士の壮絶な戦いぶりを描き出すという、奇想天外で随分と楽しいバトル・ラップ・ミュージカルに仕上がっています。でも、こうした羽目をはずした作品は一般受けしないのでしょう、平日の入りは惨憺たるものがあります。

 主演の鈴木亮平は、最近までNHK連続TV小説『花子とアン』において村岡花子の夫役を演じていたところ、本作ではその雰囲気をガラリと変え、むしろ『H/K 変態仮面』につながるところを全面開花させながら力演しています。
 それに、竹内力窪塚洋介など強者達が加わってハチャメチャぶりを発揮しているのですから、凄まじい限り(注2)。

(2)これまでラップを取り上げている映画としては、『SR サイタマノラッパー』の3部作(注3)を見ましたが、いずれもラッパーを描いている作品であり、そのラッパーがラップするのですから違和感はありません。
 とはいえ、それらにおいて台詞とリリックが完全に分かれているのかというと、必ずしもそうではなく、台詞めいたリリックも登場し、場面が進められます。
 本作ではそれを最大限に推し進め、かなりの台詞を、ラッパーではない登場人物がラップで歌うのですから、もうミュージカル映画そのものといえるでしょう。
 ただ、ラップ特有の制約のせいでしょうか(注4)、リリックの内容が総じて単純になり、そんなことから本作の物語も派手派手しいだけのものなってしまっているのではと思えました。

 ところで本作は、一見、ラップそのものの世界とは遠いように思えるところ、本作で歌われるリリックの中には「Rhyme」とか「Dis」といったラップ用語も使われ、なによりメラの相手役・海を演じるYOUNG DAISはヒップホップ界では著名なラッパーです(注5)。
 それに、ラップの世界では「MCバトル」という催しがあり(注6)、そうであれば、戦って勝負をつけるという点で、本作の世界と元々違和感がないのかもしれません。
 であれば、本作は、TRIBE同士の戦争さながらの激しい戦いが描かれているとはいえ(注7)、実際のところはラップの「MCバトル」ともみなせるのではないでしょうか?銃弾に倒れた者も、刀で斬られた者も、ジ・エンドの声が掛かると皆元気に起きだすように思われます。何しろ、歌の世界なのですから。

(3)その戦争ですが、本作は、なんだかきな臭い匂いが漂っていないわけでもなさそうな日本の現状を、もしかしたら踏まえているのかもしれません。
 無論、ムサシノは日本でしょう。他のTRIBEのようにエリアを守り戦に備えて武装することもなく、来る者は拒まずの姿勢をとって平和主義でやっていこうとしています。
 ですが、メラの方から一方的に介入してくると(注8)、やはり防御せざるを得ず、まずはテラたちが情報収集に敵陣の中に乗り込みます。といっても、海がバットを手にするくらいで、武器は何も持たずに。
 案の定、テラはメラにやられてしまい、それが一つのきっかけとなって、TRIBEの間で戦いが勃発します。



 こんなことからすれば、平和、平和と唱え続けていてもダメで、普段から防御に力を注ぐ必要があるということになりますが、さあどんなものでしょうか?

(4)渡まち子氏は、「若者たちの抗争をラップで綴る異色のバイオレンス・アクション「TOKYO TRIBE(トーキョー・トライブ)」。なんでもありの無国籍ワールドにひたることができれば楽しめる」として55点を付けています。



(注1)本作の原作は、井上三太氏の漫画作品『TOKYO TRIBE2』(なお、井上三太氏は、本作において、シヴヤSARUの重鎮であるレンコン・シェフに扮しています)。
 また、園子温の監督作品は、最近では『地獄でなぜ悪い』を見ました。

(注2)竹内力は、メラの背後でブクロを支配するブッバを演じ、窪塚洋介はその息子役。
 また、ブッバの更に背後の存在である大司祭にはでんでんが扮しています。

 女優陣では、最後には大司祭の娘エリカと分かるスンミ役に清野菜名、ファミレス・ペニーズのウエイトレスに市川由衣(『海を感じる時』で主演)、さらには叶美香がブッバの妻、中川翔子がブッバの娘に扮しています。

(注3)『SRサイタマノラッパー2 女子ラッパー☆傷だらけのライム』と『SR サイタマノラッパー ロードサイドの逃亡者』。
 なお、他にも、『サウダーヂ』ではラッパーのアマノ(田我流)が登場します。

(注4)韻(Rhyme)を踏むことなど。

(注5)この記事を参照してください。

(注6)例えば、この記事が参考になるかもしれません。

(注7)メラは日本刀を振り回しますし、シンヂュクHANDSの三代目・巌は立派な戦車を持っています。 また、ブッバも、最後になるとガトリング銃〔『るろうに剣心』で観柳(香川照之)が使います〕をぶっ放します。

(注8)メラは、一方的にムサシノの海に対して敵愾心を持っていて、それでムサシノを潰そうとするのですが、その理由は性器コンプレックスなのです。



 その挙句、メラは、「もとからケンカに意味はない。世界で起こっている戦争も同じだ。端からくだらない、それが喧嘩だ」と開き直ります。



★★★★☆☆



象のロケット:TOKYO TRIBE

海を感じる時

2014年10月06日 | 邦画(14年)
 『海を感じる時』をテアトル新宿で見てきました。

(1)久しぶりの文芸物というので映画館に行ってきました。

 本作(注1)では、1978年の現在の中に、それより2年前の1976年が入り込んできます。
 映画の冒頭は現在の時点で、散歩する恵美子市川由衣)と池松壮亮)の二人(注2)が、「熊が見たい」という恵美子に促されて、動物園に入ります(注3)。
 次いで、恵美子の部屋の場面となり、外は冷たい雨が降っていて、二人は全裸で体を寄せあって座っています。

 場面は変わって2年前となり、場所は高校(注4)の新聞部の部室。
 部室に入ってきた3年生の洋が、そこで雑誌を読んでいた1年生の恵美子を立たせて、「何もしないよ、口づけだけ」と言い、これに対して、恵美子が「私のこと好きなの?」と尋ねると、洋は「好きじゃないけど、キスがしてみたいんだ」と答えます。
 そして、二人はキスをしますが、ベルが鳴ると離れます。

 その後に喫茶店で再び会います。
 恵美子が、今日の部室でのことを持ち出し、「私、前から好きだったんです」と言うと、洋の方は「僕は、女の人の体に興味があったんだ。君じゃなくてもよかったんだ」と答えるのです。

 結局、二人は部室で関係を持つことになります。そんな過去を持つ二人は現在一緒に暮らしていますが、果たしてその先どうなることでしょうか………?



 映画では、最初、男が、自分を愛してくれる女の体は求めるものの、女を愛しはしません。ところが、逆に男が女を愛するようになると、今度は女の方が男から離れてしまいます。こういった錯綜する関係を市川由衣と池松壮亮とが体当たりで演じています。これに母娘の厳しい関係も重ね合わされて、まさに文芸物の仕上がりになっているのでは、と思いました。

(2)原作は18歳の現役女子高生が書いたもので、発表された時(1978年)随分と評判になりましたが、それを脚本家の荒井晴彦氏が1980年に脚本化し、30年以上経過してからその脚本に基づいて今回映画化されました。
 実のところは、『戦争と一人の女』や『共喰い』を脚色した荒井氏のことですから、本作もかなりエロチックな雰囲気を醸し出し、なおかつ政治色の付いたものになるのかな、と恐れていました。
 ですが、実際に見てみると、確かに性的な場面がかなりあるとはいえ、随分と綺麗に仕上がっており、また政治色はほとんど影を潜めています。

 それに、原作を読んでみると、恵美子と洋にはそれぞれ絡んでくる人物がいたり(恵美子には川名、洋には鈴谷)、ラストは母親と恵美子の争いが描かれたりしているのに対し(注5)、本作では、母親(中村久美)と恵美子の争いは、どちらかと言えば恵美子と洋の関係の脇に置かれていて、むしろ後者の方が全面に押し出されているように思われます。
 これは、脚本の荒井氏が、「同時期に出た中沢さんの第二作目の「女ともだち」(1981年)を重ねあわせて、男のほうが逆に女を追いかけ出す話をカットバックしていく構成」にしたことによるものですが(注6)、それは成功しているように思いました。

 最初のうちは、恵美子が、「私、あなたが欲しいというのなら、それでいいんです。必要としてくれるのなら、体だけでも」と言って洋を放すまいとするのに対し(注7)、洋は「会わない方がいいんだ」と言って離れようとしながらも、ただ恵美子の体だけは求めます。



 ところが、ラストの方になると、一緒に暮らす洋が旺盛な食欲を見せると、恵美子はぐっと引いてしまい、あろうことか「私が他の男と寝たの知ってる?」「これは本当のこと」と言って、洋を傷つける秘密を自分から暴露してしまいます(注8)。
 2年前は恵美子の愛を拒絶した洋が、今や「今はお前を大切に思っている」などと言いながら、安心しきって日常生活を営んでいる姿を見ると、逆に今度は恵美子の方が洋を受け付けなくなるわけですが、このシーンが描かれているからこそ、初めの方の恵美子と洋の関係もぐっと説得力を持ってくるのではないか、と思いました。

 それはともかく、一筋縄ではいかない男女の関係が実に上手く描かれているなと思ったところ、さらに本作では、こうした関係に加えて母娘の関係も描かれます(注9)。
 恵美子の母親は、夫に先立たれ(注10)、恵美子を一人で大切に育ててきたにもかかわらず、恵美子が洋と性的関係を持っていることを、恵美子が出したはずの手紙を盗み見て知り、激怒します(注11)。
 実家のそばの海岸で「お父さんはいいよね、早く死んじゃって」と嘆く母親に対して、「母さん、私も女なのよ」と言う恵美子を見ると、『8月の家族たち』に関する拙エントリの「注6」で触れた斎藤環氏の対談集のことが思い起こされるところです。

 とはいえ、その場面で母親が「お父さん」と大声で叫んだり、ラストで海岸から家を眺めて、父親が下手くそなピアノを弾くのを恵美子が思い出したりするのを見ると(注12)、本作は、もしかすると不在の父親を求める作品なのかもしれないと思えてきます。

 なお、本作の政治色ですが、新聞部の部室で恵美子が「朝日ジャーナル」を読んでいるシーンが目につくくらいながら、あるいは、鎖国によって欧米(=恵美子)の文化を拒否していた日本(=洋)が、維新後に文明開化の過程で欧米に擦り寄っていくものの、最終的には拒否されてしまい太平洋戦争を迎えてしまった、というプロセスなどを本作から読み取るべきなのでしょうか?

(3)渡まち子氏は、「ヒロインが満たされない愛を経て女として成長していく青春ドラマ「海を感じる時」。市川由衣の体当たりの演技が唯一の見どころか」として55点を付けています。

 前田有一氏は、「綺麗な裸をみせてくれた市川の覚悟や演技に文句を言うものではないが、この映画の完成度を上げたいのであれば、絶対にそういう「打算」イメージを主演女優にまとわせてはいけなかった。そこに事前に誰かが気づいていれば、と悔しく思う」として20点しか付けていません。
 ただ、前田氏は、「一時は立て続けに話題作で主演を張っていた彼女がこんな小さな作品でヌードになるというのは、いやおうなしに落ちぶれ感を感じさせる。脱ぎ場に文芸作品を選んで少しでも格調高くプレミアム感を出したいという、戦略的判断を感じさせる点もよろしくない」、「出し惜しみ感を感じさせたら本格女優としてはおしまいである事を、事務所の方々は知るべきである」と述べています。ですが、クマネズミは、主演の市川由衣のみずみずしい演技と、彼女について事前情報をほとんど持たなかったことにより、彼女について「潔くない戦略的思考によってキャスティングされた女優」などという楽屋の裏話めいたことは全く思いもしませんでした!



(注1)原作は、中沢けい氏の『海を感じる時』(講談社学芸文庫版)。監督は安藤尋。

(注2)主演の市川由衣は『罪とか罰とか』に出演していたようですが、印象に残っておりません。また、池松壮亮は、今年公開された『春を背負って』や『ぼくたちの家族』で見ています。

(注3)原作の冒頭は、恵美子と洋が南房総の海岸を歩く場面(「城山公園」とか「大房岬」が出てきますから、千葉県館山市でしょう)。この場面は、ラストの直前の場面(一緒に暮らそうと持ちかける洋に対して、恵美子は「あたし同棲なんかしないわ」と冷たく対応します:P.92)につながっています。

(注4)恵美子らが通う高校は、原作では「T市」(P.41)とされている街にありますが、千葉県館山市のことだと思われます。

(注5)原作のラストでは、「母は私の中の海を見つけてしまったのだ。汚い……けがらわしい……海。/世界中の女達の生理の血をあつめたらこんな暗い海ができるだろう」、「母は驚いているのだ、私が女だったことに。私も、母が女だったことに驚いていた。/海は暗く深い女たちの血にみちている。私は身体の一部として海を感じていた」とあり(P.97)、タイトルの意味合いが積極的に述べられています。

(注6)劇場用パンフレット掲載の「Talks」(荒井晴彦氏と中沢けい氏の対談)より。
 なお、『女ともだち』も講談社学芸文庫に入っていますが、未読です。

(注7)さらに、高校を卒業し東京の下宿に行ってしまった洋に対して、高校2年生の恵美子は、「どんな扱いを受けてもいいから、あなたのそばにいたい」とか「欲求を満たすだけの役割でもいい。私の体なんてどうでもいい」と書いた手紙を送ります(実際には、母親が開封してしまい、洋には届かなかったのですが)。

(注8)映画の中で恵美子は、飲み屋にいた見ず知らずの男(三浦誠己)の部屋へ行き性的関係を持ちます。

(注9)この他、本作では、同僚のとき子阪井まどか)や洋の姉(高尾祥子)との関係も描かれますが、小さなエピソードにとどまっています。

(注10)原作では、恵美子が小学5年生の時に父親が亡くなっているとされ(P.40)、恵美子が高校1年の時からすれば、5、6年前のことになります。

(注11)例えば、母親は恵美子に対して、「夜遅くにバス停に迎えに行ったのは何のためだったの?親の苦労を無にして、何のつもりなの?何考えてるの?」と怒鳴ります。

(注12)さらには、本作の冒頭で、恵美子が死に際の父親の温もりを思い出したりするのを見ても。



★★★★☆☆



象のロケット:海を感じる時

るろうに剣心 伝説の最期編

2014年09月25日 | 邦画(14年)
 『るろうに剣心 伝説の最後編』をTOHOシネマズ渋谷で見ました。

(1)前編の『京都大火編』の出来栄えが素晴らしかったので、後編もと期待して映画館に行ってきました。

 前編の最後で、志々雄藤原竜也)の一味が操る軍艦から突き落とされた武井咲)を追って海に飛び込んだ剣心佐藤健)は、海岸に打ち上げられて比古福山雅治)に助けられます。
 比古は剣心の師匠で、剣心は志々雄を倒すために奥義の伝授を頼み込みます。



 やっとの思いで奥義を会得した剣心は、なおもしつこく剣心に迫る四乃森伊勢谷友介)を蹴散らすと、志々雄らが乗る軍艦が迫る東京に向かいます。



 果たして、剣心は、志々雄を倒すことができるでしょうか、………?

 本作では、主人公の剣心と様々な相手との対決シーンが見せ場になっているところ、いずれも迫力満点で、近来にない切れ味するどいチャンバラの場面の連続となっていて、全体としても期待通りの出来栄えではないかと思いました。ただ、せっかく志々雄の軍艦が浦賀沖まで来ながらも、その出番があまりないままに官側の大砲であっけなく沈められてしまうのは、とても残念な気がしました。

(2)『京都大火編』についてのエントリでも申し上げましたが、自分らを裏切った明治政府を転覆し自分たちが権力の座に着くという志々雄側の狙いは、江戸幕府を倒して権力を奪取した官軍側とそんなに変わりがないように思われます(注1)。
 要は、時代の流れ、時の運(注2)。

 とはいえ、本作は丸ごとフィクションながら、明治初期の歴史的な枠組みに基本的に沿いつつ描き出されているために、いくらなんでも志々雄たちが明治政府の転覆を成し遂げるだろうとは思いませんでした(原作漫画は未読)。
 でも、もう少しくらい彼らの活躍の場が描き出されてもいいのではないでしょうか?

 『京都大火編』では、志々雄は、随分の部下を動員して京都に火を放ちましたし、あの立派な鋼鉄製軍艦「煉獄」を製造するにあたっては、余程の資金と人員を投入したことでしょう。
 ですから、志々雄側は、そうした資金力とか動員力を背景にして集められる精強な陸上部隊と連携し、軍艦から陸に向けて大砲を撃ち放ちながら(本作でも何発か打ち込みますが)、官側を蹴散らしつつ東京に向かって進軍するのではないかな、と密かに期待していました。
 にもかかわらず、実際には軍艦だけ単騎で浦賀に進出するものですから(注3)、陸上の官側としても、大砲を備え付ける時間的余裕さえあれば(注4)、軍艦を沈め、志々雄側を撃破することなどいとも容易な技だったでしょう(注5)。

 あるいは、すべてを軍艦の製造につぎ込んでしまったために、陸上部隊も京都で騒ぎを起こすことくらいがせいぜいであり、志々雄自身は戦の帰趨を度外視していたようにも思われます。
 仮に、志々雄側が明治政府を転覆することに成功したとしても、その後の国づくりになれば明治政府と同じことをせざるを得ないくらいのことは、世界の流れから見て分かっていたのではないでしょうか?
 そんな実利的なことではなく、とにかく、自分らの存在を世に知らしめたい、明治政府の裏側を暴きたいという一点で志々雄は戦いを挑んだのかもしれません(注6)。

 15分という制限時間を抱えながらも4対1の戦いを挑まれ、それを跳ね除けるラストの志々雄の獅子奮迅の戦いぶりは大層感動的です(注7)。



 そして、そんなあれやこれやをすべて一撃で海中に没し去ってしまう官側の大砲は、その後の日本の行く末を暗示すらしているようです(注8)。

 ところで、剣心(注9)は、志々雄のいない世の中、全力で立ち向かわなくてはならない相手のいない世の中で、いったい何を生きがいにしてこれから暮らしていくというのでしょう(注10)?

(3)渡まち子氏は、「大ヒットアクション2部作の完結編「るろうに剣心 伝説の最期編」。邦画のアクションレベルを一気に押し上げる完成度の高さだ」として85点を付けています。
 前田有一氏は、「この完結編はそんな彼ら(スタッフとキャスト)がいよいよ本気を爆裂させたにふさわしい仕上がりで、個々のバトルシーンがきっちりストーリーの起伏に対応し、見た目の完成度も高いからえらい盛り上がりである」として75点を付けています。
 相木悟氏は、「とにもかくにも造り手とキャストのほとばしる熱量に圧倒される力作であった」と述べています。



(注1)伊藤博文・内務卿(小澤征悦)は、「志々雄は力でこの国を奪い取るつもりだ」などと言いますが、それは官軍側が明治維新に際してすでに行ったことではないでしょうか?

(注2)志々雄は、最後に燃え尽きる前に「俺は負けちゃいない、時代がお前を選んだだけだ」と剣心に向かって言います。

(注3)まるで、戦闘機による護衛のない戦艦大和の単騎出撃(「坊ノ岬沖海戦」)のようです。

(注4)映画では、志々雄側が、剣心が捕まるまで何もせずにじっと軍艦を浦賀沖に停泊させていたように描かれています。でもその間に官側が着々と砲台を整えていることを全然把握していなかったのでしょうか(砲台を一から作るのであれば1ヶ月以上は要し、人々の出入りが煩雑にあるでしょうから、そうした陸上の動きはなんらかの形で海上からも察知できるのではないでしょうか)?そうした情報に基づいて軍艦「煉獄」の大砲を砲台建設現場に打ち込んでおきさえすれば、あれほど簡単に沈められなかったのではと思うのですが。

 なお、薩英戦争(1863年)では、「薩摩藩は海岸に射程1300~1400メートルの80ポンド要塞砲、射程2800メートルの24ポンドカノン砲を装備していたが、英国軍艦はアームストロング砲を装備」しており、「薩摩藩は、このアームストロング砲の洗礼を受けて痛手を被っ」たそうです(この記事によります。なお、Wikipediaによれば、英軍の軍艦の方も「大破1隻・中破2隻」等の被害を被っています)。
 それから15年ほども経過していますから、少なくとも志々雄の軍艦に設置されている大砲は、アームストロング砲ではないかと思われます。

 他方、兵器に疎いクマネズミには、映画の中で官側が設置した大砲が何に該当するのかわかりません(あるいは、「お台場」に設置された80ポンド青銅製カノン砲のようなものかもしれません)。
 ただどんな大砲にせよ、そんな大型の武器を警官隊が所有するはずはなく、ここは、伊藤・内務卿が、陸軍に命じてその所有する大砲を海岸に据え付けさせたものと考えられます。
 そうだとすると、日本を取り巻く情勢から軍隊の出動はありえないとして剣心に志々雄打倒を依頼した大久保・内務卿の意向が無視されたことになるのではないでしょうか?

(注5)劇場用パンフレットに掲載の「Special Talk:02」において、原作者の和月伸宏氏は、「本当はもっと原作でも煉獄の中でアクションを展開させたかったのですが、資料がない中でアシスタントさんに描いてもらうなんて無理なので、ろくな活躍もなしに泣く泣く退場させてしまったんです」と述べています。

(注6)もっと言えば、志々雄は、戦いの結果というよりも、むしろ戦いのプロセス自体に価値を見出しているとはいえないでしょうか?

(注7)ただ、志々雄が剣心と争っている時に、駒形由美高橋メアリージュン)が「もう止めて、これ以上苦しめないで」と二人の間に割って入り、にもかかわらず志々雄が剣を突き出すと、その先が彼女の体を突き抜けて剣心にまで達します。剣心は血の気が失せ、彼女は「嬉しい、戦いのお役に立てて」と絶命します。ところが、その後の剣心の戦いぶりには、この傷は一切反映されないのです。 単に剣心の皮膚をかすっただけだったのでしょうか?

(注8)今の時点から言えることに過ぎませんが、その後の日清・日露戦争から太平洋戦争に至る道程で人々が味わった苦難は、志々雄側の暴虐を受けた村人たちの苦難の拡大版とはみなされないでしょうか?

(注9)映画の最初の方で比古に、「命の重さがわかってはじめて奥義への道が開かれる」と諭され、比古の元を立ち去る際に「死ぬなよ」と言われたのを守って、映画のラストでやっとの思いで薫のところに戻ってきた剣心ですが。

(注10)神谷道場の庭の美しい紅葉を見ながら、剣心は「こうやって生きていくでござるよ」「共に見守ってくださらぬか?」と薫に言うのですが、それでは若隠居の心境ではないでしょうか(後者は、薫へのプロポーズの言葉なのかもしれませんが)?



★★★★☆☆



象のロケット:るろうに剣心 最後の伝説編

イン・ザ・ヒーロー

2014年09月17日 | 邦画(14年)
 『イン・ザ・ヒーロー』を渋谷TOEIで見てきました。

(1)日曜日朝のトーク番組「ボクらの時代」に主演の唐沢寿明が出演していたこともあって(注2)、映画館に行ってきました。

 本作(注1)の主役は、ヒーローのスーツを着たり怪獣の着ぐるみを着たりして演じるスーツアクターとして25年活躍している本城唐沢寿明)。
 仕事に夢中の彼は、妻・凛子和久井映見)と娘・杉咲花)と3年前に別れて一人暮らし。
 その部屋の壁には、本城が憧れるブルース・リーの大きな写真が貼ってあったり、「我、ことにおいて後悔せず」と書かれた紙が貼ってあったりします(注3)。

 さて、彼が代表に就いている「下落合ヒーローアクションクラブ」に、日本で撮影が行われているハリウッド映画『ラストブレイド』のオーディションにぜひ受かりたいという一ノ瀬福士蒼汰)が入ってきます。



 さらに、そのハリウッド映画から本城に出演依頼が飛び込んできます。ですが、それは非常に危険なアクションのスタントなのです。
 さあ、一体どうなることでしょう、………?

 これまで映画では取り上げられたことがなかったスーツアクターを主役にし、それも過去にその経験があるという唐沢寿明をもってくるというのですから面白くない訳はないはずながら、やはり邦画特有の人情話が絡んだりして(注4)、せっかくの題材が十分に生かされなかったように感じました(注5)。

(2)本作のクライマックス・シーンを見ると、みなさんが指摘されているとはいえ、やっぱり『蒲田行進曲』(1982年)を思い起こさずにはおれません。
 なにしろ同作では、主役の銀四郎風間杜夫)を憧れる大部屋俳優のヤス平田満)が、結婚相手の女優・小夏松坂慶子)のお産の費用を捻出するために、死の危険が伴う「階段落ち」(高さ数十メートルの階段を落下)に挑むというのですから(注6)。
 本作でも、白忍者の本城が、本能寺2階から「ワイヤーなしCGなし」で8.5m下の地上に落下するシーン(注7)が設けられています。

 本城の白忍者が100人の黒忍者と対決する15分ものアクション場面は、クライマックス・シーンだけあってなかなか見事な出来栄えだと言えるでしょう。
 とはいえ、本城はハリウッド映画に出演できると大喜びながら(注8)、白忍者の装束では顔が白覆面で覆われてしまい、それではこれまでのスーツアクターの仕事と何ら変わりがないのではと思われ、そんなに大喜びする理由が不可解です(注9)。
 それに、このシーンの撮影のために本城は当分ベッドに寝たきりになってしまいましたから、以降の撮影は不可能のはずです。
 本城の出番がこのシーンだけであればそれで構わないものの、でも、劇場用パンフレットに掲載されている「What is Last Blade ?(ラストブレイド設定)」によれば、本作においてスタンリー・チャン監督が制作している映画『ラストブレイド』に登場する「白忍者」は「主人公(マット)の相棒」とされていますから、ワンシーンだけの登場ということはありえないのではないでしょうか?
 あるいは、そうしたシーンはすでに撮影済みかもしれないとはいえ(注10)、本作の中では何も説明されておりません。

(3)また、劇場用パンフレットには、本作の脚本を担当した水野敬也氏による別冊「「武士道」のすすめ」が付けられています。
 その最初のページに、主役の本城について、「殺陣の名手でもある彼は武士の生きざまと自分とを重ねており、『武士道』『葉隠』『五輪書』は全文を暗唱できるほど読み込んでいる」とあり、「はじめに」のところでも、「彼の根底に流れる「武士道」を理解することは、「イン・ザ・ヒーロー」を違った角度からも楽しませてくれると思います」として、「武士道とはなにか?」という問に迫っていき」ます。
 特に、その第1章は「「切腹」とは何か?」とのタイトルの下、『葉隠』の有名な「武士道とは、死ぬことと見つけたり」の箇所について説明し、「生か、死か、その二択を問われたとき迷わず死を選ぶこと。これが武士の美学でありました」が、「武士道は、決して命を軽視しているわけではありません。武士道が重視しているのは、他者のために自分の命を捨てられる「勇気」なのです」と述べています。
 その上で、「本城渉は『イン・ザ・ヒーロー』のラストシーンの大立ち回りに向かうとき、鏡の前で自らの身なりを丁寧に整えます。それは単に、映像のためのメイクではなく、死を覚悟し、死した後にも美しさを保とうとする武士の姿勢そのものだったのです」と解説しています。

 こうした「死の美学」的な解釈に対して、経済評論家でブロガーの池田信夫氏は、このサイトの記事で、「(『葉隠』を著した)山本常朝は「私も生きるほうが好きだ」といっている。不本意な生き方をするのは腰抜けだが、不本意に死ぬのは「犬死」だ。生への未練を捨てて死ぬ気になれば仕事も自由にできる、という実務的な心得を説いているのだ」と述べています。

 むろん、古典の解釈は様々なものがあり、どれが正解かという判断は難しいものの、『葉隠』の該当箇所の最後の「一生落度なく、家職を仕果すべきなり」という文章を見ると(注11)、水野氏の解釈が一般的だとはいえ、池田氏の解釈もありえないものではないとも思えます。
 そして、本城は、殺陣をやるときなどに侍の格好はするとはいえ、もとより武士ではありませんから、水野氏のような思い入れはなんだか場違いのようにも感じます。
 それに、本城が香港の俳優に代わってやることになる「8.5mの落下」は、いってみれば『ラストブレイド』を製作するチャン監督の単なる我儘によるものであり(注12)、スタッフがいうように「ワイヤーあり、CGあり」で十分なのではないでしょうか。そんなものになり手がいないからといって本城が引き受けるのは、義侠心の取り違えであり、もしもそれで死んだりしたらそれこそ「犬死」ではないかと思えてしまいます。
 確かに、山本常朝に言わせれば、そんな理屈は「上方風」であり、例え死んでも「気違い」というだけで「恥」ではないのかもしれませんが、実際にそんなことをしたら「一生落度なく家職を仕課(しおお)す」ことができなくなってしまいます(注13)。

(4)渡まち子氏は、「ヒーロー映画の裏方、スーツアクターの生き様を描くヒューマン・アクション「イン・ザ・ヒーロー」。スーツアクター出身の唐沢寿明の気合いがみなぎっている」、「本作は、スクリーンに映らないすべての“映画屋たち”のための応援歌なのだ」として70点をつけています。
 相木悟氏は、「ストーリーを聞いただけで胸が熱くなるも、色々とひっかかり、終始ノレず。実に惜しい一作であった」と述べています。



(注1)監督は武正晴。脚本には、エグゼクティブ・プロデューサーの李鳳宇が加わっています。

(注2)本作で本城の元妻・凛子のお見合い相手の西尾に扮する及川光博も、同じ番組に出演していました。

(注3)劇場用パンフレットに挟み込まれている別冊「「武士道」のすすめ」の「第四章 宮本武蔵の『独行道』と『五輪書』」によれば、『独行道』からの引用。

(注4)本作では、母親が3年前にアメリカに逃げ出してしまったために、一ノ瀬は幼い弟と妹の面倒を見ているという設定になっています。
 そして、彼がハリウッド映画に出演したいというのも、アカデミー賞の授賞式で、アメリカのどこかにいる母親に向かって「あんたのこと恨んでいない」というスピーチをしたいからだと本城に打ち明けます。
 でも、こんな取って付けたような人情話を本作にわざわざ持ってくる必要がどこにあるのでしょうか(そもそも、一の瀬が映画の撮影などで忙しい時に、幼い弟と妹は家でどうしているのでしょう)?

(注5)最近では、唐沢寿明はTVドラマ『ルーズベルト・ゲーム』、和久井映見は『ロボジー』、杉咲花はTVドラマ『MOZU』、寺島進は『清須会議』で、それぞれ見ています。

(注6)『蒲田行進曲』のあらすじは、例えばこちらで。

(注7)本作の劇場用パンフレット掲載の「Production Notes」より。

(注8)本城は、喜び勇んで元妻・凛子に「スタンリー・チャンの映画に出るんだ」と報告しに行きます(尤も、本城が「ワイヤーなしCGなし」と言うと、凛子に「馬鹿じゃないの、いつまで戦国時代を生きているの」と言われてしまいますが)。



(注9)本城がハリウッド映画に出演するという話を聞いた同僚の海野寺島進)は、「俺達は、自分の顔を大スクリーンに映してみたいと思って、この仕事を始めたんだ。いつか夢は叶うとして惚れたんだ」と言って本城の気持ちを理解します。



 また本城自身も一の瀬に「俺も誰かのヒーローになりたい。俺がやらなきゃ、アクションに夢があることを誰も信じなくなる」などと言ったりします。こういうところからすれば、本城も周りの人々も、顔出しがあるものと思っているのではないでしょうか?
 尤も、この場面の最後では付けていた白覆面が半ば脱げてしまい、本城の顔が映し出されますから、それで望みは達せられたのかもしれませんが。



(注10)おそらく、白忍者が登場する他のシーンは、降板した「香港在住の著名なアクション俳優フェン・ロン」を使って既に撮影済みであり、最後の本能寺のシーンだけ本城に代役を努めさせたのではないかと思われます。ただ、そうだとすると、クライマックス・シーンでの本城の顔出し(前記注9)はどういうことになるのでしょうか(著名なアクション俳優が他のシーンでも白覆面のママとは考えられませんから、いったいどのようにつなげるつもりなのでしょうか)?

(注11)『葉隠』の該当箇所の原文はこちら

(注12)チャン監督は、本作の最後にも映像が流れるように、「映画はあくまでも監督のものである」という信念の持ち主で、香港のアクションスターが降板しようと、スタッフがいくら説得しようと、「ワイヤーなし、CGなし」にこだわり続けます。

(注13)あるいは、本城は、「最終章」で水野氏が「武士道とは何か?」という問に対する「一つの明確な解答」だとする「義を見てせざるは勇なきなり」に従って、白忍者の代役を引き受けたのかもしれません。
 でも、『ラストブレイド』で「ワイヤーなし、CGなし」のアクションをすることが、本文でも申し上げましたように、とても「義」とは思えないのですが?



★★★☆☆☆



象のロケット:イン・ザ・ヒーロー

2つ目の窓

2014年08月21日 | 邦画(14年)
 『2つ目の窓』をテアトル新宿で見てきました。

(1)これまでも色々と見ている河瀬直美監督(注1)のカンヌ国際映画祭出品作品ということで映画館に行ってきました(以下、特に「注」において、結末まで触れていますので未見の方はご注意ください)。

 本作の舞台は奄美大島(注2)。
 そこに暮らす16歳のカイト(界人:村上虹郎)とキョウコ(杏子:吉永淳)の二人の高校生の物語。

 カイトは、母親・渡辺真起子)と一緒に暮らしていますが、東京にいる父親・村上淳)と離婚して奔放に生きているように見える母親(注3)に対しわだかまりを持っています(注4)。



 キョウコは、杉本哲太)とイサ松田美由紀)の両親と暮らしていますが、父親・徹は喫茶店を開いているものの、母親・イサは病気で死期が迫っています(注5)。



 そんな二人に愛が芽生えるものの(注6)、なかなか進展しません(注7)。



 こんな関係が、カジュマルやマングローブなどの木々が豊かに生い茂る一方で台風にも襲われる奄美大島を背景に描かれるわけですが、はたしてどんなところに行き着くのでしょうか、………?

 なんだか河瀬監督が頭で思い描く観念的な図式に従って登場人物が動かされ台詞を喋っているような感じがして(注8)、それも常識的な図式(自然と人間との調和的なつながりとでも言えるのでしょうか)と思えるものですから、いつもその作品に感じるアレッなんだろうこれはといった謎めいた感じは余りありませんでした(注9)。その分物足りなさを覚えたものの、奄美大島の類い稀なる自然の景観の素晴らしさがそれを補っているように思えました(注10)。

(2)キョウコは服を着たまま海で泳いだりしますが、カイトはそんな彼女に、「怖くないか?」と訊いたりします。
 また、キョウコがカイトに、「サーフィンを始めてみたら?父さんは「サーフィンをやっていると、海と一体になれる瞬間がある、セックスみたいだ」と言っていた」と言うと、カイトは「海は怖い、海って生きてるじゃん」と答えます。
 全般的に、都会育ちのカイト(注11)と奄美育ちのキョウコが、文明対自然と言った如くに対比的に描かれているように思われます。

 さらには、キョウコの母親のイサは、「お母さんは、神様と人間との入口のところにいる。死ぬことはちっとも怖くない。神様がいるところを知っているから」、「お母さんの命はキョウコにズーッとつながっている。お母さんだけの命じゃない。ずっとキョウコの子どもにもつながっている。だから怖くない」、「内地では、病気になってもズーッと生きてるみたいだから大変だね」とキョウコに言ったりします(注12)。
 ここには、生と死とは対立するものではなくて自然につながっているものというような捉え方が伺えるように思われます。
 そして、どうやら男はこうした人のつながりから弾き出されているようにも感じます(注13)。

 それに、カイトの父親・篤は彫物師でその背中に龍の刺青があります(注14)。母親・岬の愛人とされる男の背中にも龍の刺青があります。奄美の穏やかな自然を荒らす嵐(注15)を刺青は象徴しているのでしょうか?
 もしかしたら男というものは、穏やかな自然を荒らす撹乱要因なのでしょうか?

 もっと言えば、本作のラストの方を見ると(注16)、いくら男は撹乱要因であるにしても、所詮は女の掌の上で暴れまわっているにすぎないというようにも監督は考えているのかもしれません。
 男側の観客としてクマネズミは、こうした男の描き方につき少々違和感を覚えたところです。

(3)渡まち子氏は、「奄美大島を舞台に独特の死生観を描く青春映画「2つ目の窓」。命の循環という深淵なテーマと奄美大島の野性的な自然が呼応している」として65点をつけています。
 前田有一氏は、「本作に限らず、彼女の映画は彼女の内面を彼女の好きなやり方で探るものなので、映画の題材ではなく河瀬直美に興味があるかどうかで鑑賞を決めるのがポイントである」などとして40点をつけています。



(注1)河瀬直美監督の作品は、これまで『朱花の月』とか『七夜待』などを見てきました。

(注2)映画の冒頭では、長老の亀次郎常田富士男)が、山羊の足を縛って吊るした上で首をカミソリで切って血を噴出させるシーンが描き出されます。
 同じようなシーンは、もう一度ラストのほうで、カイトやキョウコなどが加わった形で映し出されます。

(注3)カイトが学校が終わって家に帰ると、机の上に「仕事にいってきまーす」との母親・岬の手紙が置いてあります。しばらくすると、電話があり、岬は「今晩遅くなるけど大丈夫?全部仕事だから」とカイトに言います。
 ただ、実際にどの程度岬が奔放に生きているのかは、本作では明示的には描かれていないようにも思われます。すべてはカイトの思い過ごし・妄想かもしれないのです(キョウコの父親・徹はカイトに、「岬さんにとってエネルギーの源はお前だ。だから滅多なことはしない」と言ったりします)。

(注4)カイトは、海岸に打ち上げられた背中に彫り物のある男の死体を目にしますが、母親と付き合いのあった男と思ったからでしょう、あとでキョウコから「見たでしょう?」と尋ねられても「知らない」と答えるだけでした。

(注5)イサは自分で死期が迫っているのを自覚して、病院から自宅に戻ります。
 なお、カイトはキョウコに、「キョウコの母さんて“ユタ神様”なんだろ、“ユタ神様”って死なんよ」と言うのですが、長老・亀次郎は「神様も死ぬんだ」と言いますし、キョウコが父親の徹に「母さん死ぬの?」と尋ねると、徹は「そうやな、あの医者はそう言っていた」と静かに答えます。
 〔奄美大島の民間霊媒師(シャーマン)である「ユタ」については、Wikipediaのこの項を参照してください〕

(注6)カイトもキョウコが好きなのですが、「自転車に乗せて」とか「好き」と言ったり、キスをしたりと、キョウコの方が積極的です。
 果ては、キョウコは「セックスしよう」とまで言うのですが、母親の行状から女性不信にあるカイトは「できないよ」と答えます。

(注7)カイトは東京で暮らしている父親・篤を訪ねて行きます。
 篤が、「岬に出会って運命だなと思った。自分のほうが一方的に好きになった」と言うので、カイトは「だったら、ズーッと一緒にいるんじゃないの?」と尋ねると、篤は、「一緒にいない方が一緒にいる感じがする」「もっと長い意味で運命的だなと感じている」と答え、さらに「東京しかないパワーと温もりとか豊かさを感じて、それを絵にしたい」と言います。
 こうした篤の話で納得するとは思えないものの、カイトは何事もなかったように島に戻ってきます。
 そんなカイトは、母親・岬が男と電話で話しているのを耳にして切れてしまい、「あんた、父さん以外の男と抱き合ったりできんだ。おかしいじゃないか。淫乱っていうんだよ」などと罵しったところ、彼女は家から姿を消してしまいます。

(注8)前作『朱花の月』についても、「この冒頭のコンセプトに従って、登場人物は皆衝き動かされているような感じ」がするように思いました〔同作についての拙エントリの(1)をご覧ください〕。

(注9)前作『朱花の月』についての拙エントリをご覧になっていただければお分かりのように、同作には沢山の謎が転がっています。

(注10)最近では、杉本哲太は『アウトレイジ』(池元組若頭役)、松田美由紀は『モンスターズクラブ』、渡辺真起子は『ヒミズ』、村上淳は『戦争と一人の女』で、それぞれ見ました。
 また、キョウコを演じた吉永淳は、『あぜ道のダンディ』で見ました。

(注11)イサは、「カイトは東京っ子だから泳げないの」、「ただ、プールでは泳ぐ」、「母さん、ああいうのタイプ」と言っています。

(注12)母親と話す前に会った“ユタの親神様”は、「死んでしまったら温もりがなくなってしまうのでは?」と尋ねるキョウコに対して、「そのとおり。でも、お母さんの温もりは、あなたの心の中にある」と答えます。
 なお、島の長老・亀次郎はキョウコに対して、「あんたをひいおばあさんだと思った」などと言いますから、将来彼女は“ユタ神様”になるのかもしれません。

(注13)家に戻ったイサに膝枕をするキョウコを見て、父親の徹は「あんたらええな、気持ちよさそうで」と羨ましがります。
 また、イサは、島の人達がサンシン(三線)を弾いたり、民謡を歌ったり踊ったりする中で、皆に看取られながら死んでいくのに対して、カイトの母親・岬の愛人とされる男は、上記「注4」で触れたように、海岸にその溺死体が打ち上げられる酷さです。

(注14)河瀬監督のドキュメンタリー作品『ぎゃからばあ』(未見)では、「突如として河瀬はひとり父親が命をかけて背負った刺青を自身に施すことで、唯一の絆を見いだせるのではないかと彫師をたずねるのだ」そうです(このサイトの記事によります)。
 なお、刺青に関しては、拙エントリの「最近の刺青事情」をご覧ください。

(注15)河瀬監督の作品では、嵐ではなく自然の風が木々を揺らすシーンが印象的に描かれますが(例えば、『沙羅双樹』)、本作では、イサの死に際して風が庭のカジュマルなどの木々を揺らします。

(注16)上記「注7」で触れたように行方不明だった母親・岬が見つかった後、カイトとキョウコは、マングローブの林の中で抱き合い、体に何も身につけずに海中を泳ぎまわります。
 非常に美しいシーンで感心しましたが、母親に対するカイトのわだかまり、ひいては女性不信といったもの(上記「注6」で触れたように、キョウコが「セックスしよう」と求めたのに対しカイトは「できない」と拒否をするほどなのですから)がいとも簡単に解消されてしまったものだなという印象を持ちました。



★★★☆☆☆



象のロケット:2つ目の窓

るろうに剣心 京都大火編

2014年08月15日 | 邦画(14年)
 『るろうに剣心 京都大火編』をTOHOシネマズ渋谷で見てきました。

(1)これは、2部作の前編に過ぎずどうしようかと思っていたのですが、一昨年に第1作目の『るろうに剣心』を見てなかなか面白かったことと、強力なPR戦術に押されて、映画館に行ってきたものです。

 本作(注1)の冒頭は、1878年(明治11年)の摂津鉱山。
 斎藤江口洋介)が率いる警視局の警官隊が鉄砲を持って鉱山を取り囲みます。
 斎藤が「ほんとうにヤツはここにいるのか?」と尋ねると、部下は「20日前から張り込んでいました」と答えます。
 それで、警官隊は坑道に突入しますが、見えない敵に次々にやられてしまいます。
 かまわず斎藤が進むと、巨大な溶鉱炉(全体が製鉄所になっているようです)が燃えていて、その上から警官が何人も吊り下げられています。
 そして、志々雄真実藤原竜也)の登場です。



 彼は斎藤に対し、「お前も俺と同じように幕末を生き抜いた。しかし、こんなくだらない世になってしまった。お前もこっちにこないか?ここにいれば、誰の指図も受けなくて済む。現世こそが地獄だ」などと言って、炎の中を立ち去ってしまいます。

 場面は変わって、東京・浅草にある芝居小屋。
 舞台には「人斬り抜九斎」が登場し、それを緋村剣心佐藤健)らが面白がって見ています。



 芝居が終わって帰りの人混みの中で、神谷薫武井咲)が「人斬り抜刀斎は過去の伝説なのね」と剣心に言います。

 さらに場面は神谷道場。
 薫が門弟に稽古をつけていると、高荷恵蒼井優)が現れ「お客が」と言って警視総監を案内します。彼は剣心に対して、「あなたにお目にかかりたいという人がいる。内務卿の大久保だ」と告げます。
 そこで、剣心と相楽左之助青木崇高)が大久保利通宮沢和史)に会いに行きます。

 場面は内務省の大久保の部屋。
 大久保は、「志々雄は斬られた上に全身焼かれて殺されたはずだったが、逃れて京都の裏社会に潜伏し、今や大きな勢力を持っている。彼の狙いは維新政府の転覆だ。討伐隊を差し向けたが壊滅した。頼みの綱はお前だけだ。1週間後の5月15日に良い返事を待っている」と剣心に言います。

 第1作目では、悪徳企業家・武田観柳香川照之)を倒して、今や、薫の道場で安穏に居候する剣心。内務卿からの依頼を受けるかどうか悩むものの、その大久保が5月14日に暗殺(注2)されたこともあり、薫らが止めるのを振りきって(注3)、剣心は、志々雄が暗躍する京都に向います。
 志々雄は、剣の腕も頭脳の回転も剣心と互角とされています。果たして、剣心はうまく志々雄を討ち果たすことができるでしょうか、………?

 本作は、漫画を原作とし、139分という長尺でもあり、おまけに前編ですから、見る前はかなり危惧しましたが、実のところは、内容の面白さでその長さを全く感じさせず、かつまた本作は本作で一応のまとまりを付けてもいる優れものであり、ラストの流れがどうなるのか後編をぜひとも見たい気にさせます(注4)。

(2)本作において抜群に面白いのはチャンバラです。
 特に、剣心と瀬田宗次郎神木隆之介)との対決では、瀬田が微笑みながら実に素早い動きをするのに驚かされます(剣心が手にする逆刃刀が折れてしまいます)。



 また、剣心と沢下条張三浦涼介)との対決も、神社の床下までも使った激しい物で圧倒されます(赤ん坊を助けるために人斬りに戻らざるをえないのかどうか、ぎりぎりのところまで剣心は追い詰められます)。

 ところで、剣心が志々雄に戦いを挑む大義ですが、内務卿の大久保は、剣心と会った際、剣心から「大久保さん、随分とやつれましたね」と言われたのに対し、「古い時代を壊すことより、新時代を築く方がはるかに難しい」と応じ(注5)、それに答えるべく剣心は京都行きを決意します(注6)。
 なんだか雰囲気的には、大久保らが率いる明治新政府は時代の流れに沿ったポジティブな方向を向いていて、志々雄らはその方向性に反逆するネガティブのアナクロ的な存在のように思えてしまいます。
 でも、「新時代を築く」という点においては、志々雄たちも負けてはいないのではないでしょうか?たとえその目指すものが、志々雄をトップとする独裁国家だとしても(ヒトラーを総統とするナチス国家が思い浮かびます)、明治天皇をトップとする国家を作った薩長藩閥とやることはあまり違いがないようにも思えます。そして、そういう国家を作るべく、志々雄らは明治新政府を転覆しようとしているわけではないでしょうか?

 それに「古い時代を壊す」という点については、江戸幕府を倒すことは大変に困難でしたし(それで300年近く存続したわけでしょう)、現に明治新政府の転覆だっておいそれとは出来ません。なにしろ、時の体制に食い込んでいる既得権益者は大勢いて、彼らがその体制を支えているわけですから、そんなに簡単に倒れるはずもないのです。逆に、そういったものがひとたび倒れてしまえば、何もない大地に家を建てるのと同じで、新しい制度を樹立することはそんなに難しいことではないようにも考えられます。

 もっといえば、志々雄らは決してアナクロ一点張りというわけでもなさそうです(注7)。
 彼らのアジトで志々雄は駒形由美高橋メアリージュン)とともにソファに座ったりしますし、親衛隊ともいうべき十本刀との会議は洋式の机に向かい椅子に座って行うようです。
 さらには、ラストで少々姿を見せましたが、彼らは、摂津鉱山で製造された鉄を用いて軍艦を作り上げているのです(注8)。
 むしろ、近代的装備を持った軍隊ではなく剣心一人を討手として志々雄に差し向ける明治新政府のほうがアナクロではないかとも思われます(注9)。

 そんなこんなで、剣心が内務卿の要請に従って京都に出向くことを決意するというのに少々引っ掛かりを感じたところですが(注10)、まあどうでもいいことでしょう。
 なにはともあれ、9月に公開される後編では、いったいどんな兵器を繰り出して志々雄たちは新政府に立ち向かおうとするのか(注11)、大いに期待されます。

(3)渡まち子氏は、「大ヒットアクション映画の2部構成の続編の前編「るろうに剣心 京都大火編」。アクションのスピード感とストーリーの面白さがパワーアップしている」として80点をつけています。
 前田有一氏は、「前作の大ヒットをうけての続編ということでさすがの好景気。すごい豪華キャストである。しかし、実にもったいないことであるがそれでも本作が「世界を驚かす」ことはない」として65点をつけています。
 相木悟氏は、「前作よりパワーアップしたアクション満載、全編かっ飛ばす快作ではあるのだが…」と述べています。



(注1)本作の原作は、和月伸宏による漫画『るろうに剣心―明治剣客浪漫譚』、監督・脚本は第1作と同じ大友啓史

(注2)史実としては不平士族6名によって暗殺されますが(Wikipedia)、本作では、志々雄の側近である瀬田宗次郎によって殺されます。その際に瀬田は、「緋村を差し向けるとはよく考えた。だが、この国は俺がいただく」との志々雄の言葉を大久保に伝えます。

(注3)薫は、剣心が以前の人切りに戻ってしまうことを恐れて、「冗談じゃない。絶対に京都なんかに行かせない」と叫ぶのですが。
 なお、その薫は、剣心が京都に行ってしまうと、門下生の明神弥彦大八木凱斗)とともに京都に剣心を追って出向きます。

(注4)最近においては、佐藤健は『カノジョは嘘を愛しすぎてる』、藤原竜也は『サンブンノイチ』、江口洋介は『脳男』、伊勢谷友介は『人間失格』、青木崇高は『渇き。』、神木隆之介は『桐島、部活やめるってよ』、武井咲は第1作目の『るろうに剣心』、蒼井優は『春を背負って』、田中泯は『永遠の0』で、それぞれ見ました。

(注5)大久保の台詞は、本作の公式サイトに掲載の「登場人物Characters」にある「大久保利通」の項によります。

(注6)それに、志々雄たちに殺された何人もの警察官の遺骸を取り囲む家族の泣き叫ぶ様を警視総監に見せられたことも与っているでしょう〔第1作において、剣心によって斬られた清里窪田正孝)の遺骸に許婚者・雪代巴がすがるのを剣心が見てしまったことに対応するのでしょう〕。

(注7)本作で一番のアナクロは、四乃森蒼紫伊勢谷友介)と柏崎念至田中泯)との対決でしょう。なにしろ、四乃森は小太刀二刀流ですし、柏崎はトンファーなのですから。
 それにしても、四乃森は執念深く剣心を付け狙いますが、隠密御庭番衆の最強を示すためだという理由がよく理解できないところです。

(注8)1875年(明治8年)に進水式を挙げた日本初の国産軍艦「清輝」と比べて性能等はどうなのでしょうか?

(注9)前年に起きた明治10年の西南戦争では、「士族を中心にした西郷軍に、徴兵を主体とした政府軍が勝利した」のですから(Wikipediaによります)、大久保は政府軍を志々雄に向けるべきだったのではないでしょうか(警視総監あたりが、諸外国に日本の混乱した様を見せたくないから軍隊を派遣できない、などという理屈を言っていましたが)?

(注10)明治新政府か志々雄一派かと言っても、近代文明対反近代文明ということよりも、むしろ権力闘争とも言えるのではないでしょうか?そうだとしたら、剣心の判断は甘いのではないかという気がします。

(注11)第1作ではガトリングガンが登場しました。



★★★★☆☆



象のロケット:るろうに剣心 京都大火編

思い出のマーニー

2014年08月06日 | 邦画(14年)
 『思い出のマ―ニー』をTOHOシネマズ渋谷で見ました。

(1)『借りぐらしのアリエッティ』を制作した米林宏昌監督によるスタジオジブリ作品(注1)ということで、映画館に行ってきました。

 米林監督の前作は、メアリー・ノートン作『床下の小人たち』を日本の東京郊外に置き換えた作品でしたが、本作も、イギリスが舞台のジョーン・G・ロビンソン作『思い出のマーニー』(高見浩訳、新潮文庫)を日本の北海道に置き換えて作られています。

 本作の最初の方では、子供らが遊ぶ公園が映し出され、学校の絵画の時間なのでしょう、周囲では子どもたちが絵を描いていて、先生が「動きの一瞬を捉えるんだ」などと言っています。
 主人公の杏奈は、他の子とは離れて座って絵を描きながら、「みんなは、目に見えない魔法の輪の内側にいる人たち。私は外側の人間。でもそんなことはどうでもいい」と呟いたりします。
 先生が近づいて「絵を見せてみろ」と言うと、杏奈は「私ちょっと失敗」と言って隠そうとし、更に先生が絵を見ようとしたら、男の子の泣く声がしたために先生はその場を離れてしまいます。
 杏奈は「私は私が嫌い」と呟きます。

 その後に喘息の発作が起きて、家に医者が往診に来ます。
 杏奈は、「またお金がかかってしまった」と独り言を言ったり、医師が母親・頼子に「相変わらず心配症だね、お母さんは」と言うのを耳にすると、「お母さん?」と呟いたりします。
 更に、頼子が「あの子いつも普通の顔(注2)、感情を表に出さないの。やっぱり、血が繋がっていないからかしら」と言うのも聞いてしまいます。
 これに対して、医師は「12歳だし、大変な時。例の療養の件を考えた方がいいかもしれない」と応じます。

 それで杏奈は、一夏、住んでいる札幌を離れて、道東の海辺の村にいる大岩夫妻(頼子の親戚)のところで暮らすことに。



 日がな一日、海辺の風景をスケッチしたりして過ごす杏奈は、入江の向こう岸に見える洋館(「湿っち屋敷」)がひどく気にかかります。
 そして、杏奈の前に、その洋館に住むマーニーという少女が現れるようになります。



 このマーニーは一体どんな少女なのでしょう、杏奈との関係はどうなるのでしょう、………?

 本作の主人公は、両親を亡くし養母の元で暮らしていた12歳の少女。喘息の療養をも兼ねて一夏を過ごすことになった海辺の親戚の家で、忘れられない体験をするのですが、多感な少女の様々の思いが、素晴らしい道東の景色の中などで描かれていて、大層感動的なアニメです。

(2)本作の導入部は、上記(1)でラフに書いたことからも推測されるように、その後の展開につながる伏線が様々に張られていて、なかなか優れたものではないかと思います。

 杏奈は「私は輪の外側の人間」と呟きますが、そしてそういう見方をする「自分が嫌い」と言うのですが(注3)、こういう周囲に心を閉ざしてしまった杏奈が海辺でのマーニーとの交流によってどんなふうに成長するのか、ということが本作の見所となっています。

 さらに、「またお金がかかってしまった」と杏奈が言うのは、自分の養育についてお金がかかっていることについて、杏奈がかなり気にしていることを暗示しているでしょう(注4)。
 それと関係しますが、頼子が「血が繋がっていないからかしら」と言うのは、杏奈の両親がすでに交通事故で死んでいて、頼子が養母になっていることを表しています。

 そして、この導入部は随分と日本的な感じがし、言うまでもなく原作とは大層違っています(注5)。
 このように巧みに原作を日本に置き換えることができるのであれば、どうして本作は、原作を引きずってアンナやマーニーという名前をそのまま使ったり、マーニーを外国人の少女として描いたりするのでしょう(注6)?
 本作のように、物語のシチュエーションを日本に置き換えるのであれば、すべて丸ごと日本人の登場人物にしてみた方がずっとしっくりと来るのではないかと思えます(注7)。

 それに、本作は、男性の登場人物が殆ど活躍しないという昨今の流れに沿った作品(注8)のようにも思えます。なによりも、少女マーニーとの交流によって杏奈の成長が見られるのですから。

 とはいえ、そんなことに目をつぶれば、大層感動的な作品ではないかと思いました。
 特に、2階の窓に佇むマーニーに向かって、ボートの杏奈が「もちろん、許してあげる。決してあなたを忘れない」と叫ぶシーンは良く出来ていると思います。

 さらに、挿入曲として、クラシック・ギター曲の『アルハンブラの思い出』が使われているのですから(注9)、クマネズミにとってはそれだけでOKです!

(3)渡まち子氏は、「苦悩を抱えた少女が体験するひと夏の不思議な出来事を描く、スタジオ・ジブリの新作「思い出のマーニー」。脱・宮崎路線がスタートしたようだ」として65点をつけています。
 前田有一氏は、「それにしても、ジブリ作品にはもともと原作ものが多いとはいえ、今回はアニメが原作への誘い役にとどまっているのは残念な限り」などとして65点をつけています(注10)。
 相木悟氏は、「自分さがしの感動的なおとぎ話ではあるのだが、いまいちとらえどころが難しい一作であった」と述べています。



(注1)スタジオジブリでは、制作部門を一時解体することとしたそうです(例えばこの記事)。だとすると、この作品が、アニメ映画としてスタジオジブリの最後になるかもしれません。

(注2)推測になりますが、頼子が杏奈について「普通の顔」と言うのは、本作が松野正子訳の岩波少年文庫版に依拠しているためではないでしょうか?
 これに対し、原書で「'ordinary’ look」とされている語句について、高見浩訳の新潮文庫版においては「つまらなそうな顔」と訳されています。
 僭越ながらクマネズミは、アマゾンの同作についてのカスタマーレビューにおける「ウルル」さんの見解に対する「コメント」で「yasu」さんが言うように、「ordinaryを「つまらなさそうな」と翻訳できるところこそが、この翻訳家(高見浩氏)の素晴らしい感性」ではないかと思います(なにより、常識人のプレストン夫人が“wooden”と思ったアンナの顔が「普通の顔」というのはとても奇妙な感じがします)。 

 なお、“ordinary”がこれほど注目される一因として、岩波少年文庫の特装版の巻末に付けられている河合隼雄氏による解説「『思い出のマーニー』を読む」の第1節のタイトルが「ふつうの顔」とされて様々の議論がなされていることが挙げられるのではと思います〔「“ふつうの”顔つき」は「他の誰でもがアンナの内面に触れてくるのを拒む、アンナにとっては大切な防壁だったのである」(岩波現代文庫S254『子どもの本を読む』P.68)〕。

(注3)杏奈は、輪の外側にいるだけでなく、内側にいる人間が自分の方によって来て手を差し伸べてもそれを拒絶してしまうのです。地元の信子に「あんたの眼きれい、ちよっと青が入っていて」と言われると(下記「注6」参照)、「いい加減放っておいてよ、太っちょ豚!」と言ってしまいます〔原作でも、サンドラに対してアンナは「でぶっちょの豚むすめ!」と言います(新潮文庫版P.66)〕。

 なお、信子はまず、七夕祭りの短冊に杏奈が「普通に暮らせますように」と書いたことを見咎めますが(「普通ってどういうこと?」)、この「普通に」というのはもしかしたら上記「注2」で触れた「普通の顔」の「普通に」と通じているかもしれません。
 むろん、この場面に直接対応する原作部分はありませんからなんとも言えません。でも、輪の外側にいると自覚している杏奈が、輪の内側の人間と同じように「普通に」暮らしたいと願うことにも違和感を覚えます(輪の外にいる自分と考える自分が嫌いだとアンナは思ってもいるとはいえ)。
 本作の原作が岩波少年文庫版だとされていることによって、この場面が作られたのではと推測したくなります(と言っても、新潮文庫版の発行は本年の7月ですから、それに依拠してアニメを作ることは土台無理な話ですが!)。

(注4)原作でも、アンナはマーニーに「実はね、あの人たち、あたしの面倒を見ているのはお金のためなの」、「手紙を見つけたのよ。……なんとかの委員会はあたしへの手当を増額する、というようなことが書いてあって、小切手も一緒に入っていたの」と告白します(新潮文庫版P.152)。
 そのことがきっかけとなって、本作と同じように(「本当の子供だと思っていたらそんなお金をもらっているはずがない」と杏奈はマーニーに言います)、アンナと養母のプレストンさん夫婦との関係が微妙にぎくしゃくしたものとなります。

 ちなみに、日本でも里子に対して様々な援助がなされていて、このサイトの記事によれば、「里子1人に対して、総額で年間約2百万もの予算が出て」いるとのこと。

(注5)原作では、いきなり、ロンドンで暮らすアンナがノーフォーク(ロンドンの北東)のペグ夫妻の元へ出発する光景から始まります。

(注6)マーニーが外国人であることによって、杏奈の母親はハーフになり、杏奈にも外国人の血が流れていることになります(あるいはクォーターでしょうか)。そのことがもしかしたら、杏奈の性格形成に大きな影響を及ぼしているのかもしれません(周囲から特別視される要因が、孤児の他にもう一つ加わったことによって)。でも、本作の物語の展開には、そういった要素はむしろ余計なもののように思えるのですが。
 と言っても、マーニーが外国人だからこそ、彼女が歌う子守唄の旋律が『アルハンブラの思い出』となるのでしょうが(下記「注9」参照)!

(注7)『借りぐらしのアリエッティ』についても、全体が日本での話とされているのに、どうして小人たちの名前が原作のママになっているのか不思議に思いました。

(注8)ごく最近では、例えば、『アナと雪の女王』とか『マレフィセント』。
 また、NHK連続TV小説『花子とアン』も、花子や蓮子などの活躍ぶりに比べたら、男性陣の影は大層薄いものとなっています。

(注9)一度目は洋館でのパーティーの際に(「わたしたちも踊りましょう!」)、二度目は杏奈の幼いころに「老婦人」が歌ってくれた子守唄(「思い出のマーニー」)として〔映画の中では森山良子(「老婦人」の声を担当)によるハミングで歌われます。いずれも管弦楽が演奏されて、ギターによるトレモロ演奏はされません。両曲ともこのサイトで試聴できます〕。

(注10)前田氏は、本作は『アナと雪の女王』と同じように、「「でも、いつだって頑張ってるアタシ」──を肯定する話」を描いていると述べています。ですが、魔法の輪の外側にいて、その内側にいる人との交流を拒む本作の主人公・杏奈は、「いつだって頑張ってる」人間とは対極に位置する存在であることは明らかだと思われるます〔新潮文庫版の原作においても、例えば学年担当の教師から、「アンナ、あなたは頑張ろうともしないのね」と言われています(P.9)〕。



★★★★☆☆



象のロケット:思い出のマーニー

幕末高校生

2014年08月01日 | 邦画(14年)
 『幕末高校生』を渋谷TOEIで見てきました。

(1)時代劇コメディというので『超高速!参勤交代』と同じように面白いかもと思って見に行ったところです。 

 本作(注1)の冒頭では、スマホのアプリ「江戸時代」の「入る」をタッチすると、突然、コートを着た石原さとみが、階段や木の橋を走り回る姿が描き出され、でも用水桶の陰に隠れたところで、追手の同心らに捕まってしまいます(注2)。



 次いで、場面は、石原さとみが扮する高校教師・川辺未香子がクラスで日本史の幕末を教えています。
 と、大きなイビキがするので、川辺先生がイビキの主の生徒・高瀬柄本時生)に対して「寝るなら保健室で」と注意すると、彼は素直に立ち上がって教室を出ようとするものですから、彼女は慌ててしまいますが、折よく終業のベルが。
 教室では、生徒の森野川口春奈)がクラスメイトの沼田千葉雄大)に「志望校はどうするの?」と訊くと、沼田は「俺には関係がない」と応じます。

 さらに場面は、川辺先生と生徒の沼田と母親との三者面談に。
 先生が「志望は獣医学部とのことだけど?」と尋ねると、母親は「医学部です」と答え、先生が「医学部に行ける力はある」と付け加えると、沼田は「先生は親の味方ですか」と非難して、その場を立ち去ってしまいます。

 そして、高校の中間テストの場面、高瀬は先生に隠れてアプリの「体感ヒストリー江戸時代」を見たりしています。
 テストが終わって、川辺先生は車に乗って帰ろうとしたところ、車の前に高瀬と沼田と森野が。
 その時、「体感ヒストリー」のアプリが光りだしたので、高瀬が慌ててタッチしてしまいます。
 すると、そこにいた4人と車は一瞬で消え去ってしまい、慶応4年(1868年)3月へとタイムスリップしてしまいます。
 さあ、彼らの運命は果たしてどうなるのでしょうか、………?

 本作は、高校教師と3人の生徒が、幕末にタイムスリップして勝海舟玉木宏)と出会い、江戸城無血開城を巡る事件に巻き込まれるというものですが、こういう単純なタイムトルップ物は色々矛盾が生じてしまうために、それを補って余りあるストーリーの奇想天外さが求められるところ、本作はその辺りを随分と無難な線でまとめてしまっているために、全体として面白さもそれほど感じませんでした(注3)。

(2)本作では、勝海舟とか西郷隆盛佐藤浩市)といった飛びきりの歴史上の人物が描かれています。
 ただ、彼らについて既に定められた枠を超えた遊びができないためでしょう、川辺先生と高瀬は、勝海舟の屋敷という格好の場所にいるにもかかわらず、3月15日の江戸無血開城に至る4日間を、他の森野と沼田を探し出すことに費やしてしまうだけなのです(注4)。



 これは、タイムスリップしても、過去を眺めるだけで過去に参加できないというルールが設けられているためだとしたら、それはそれではかまわないとはいえ、それでは一体何のためにこうした映画を製作するのか、ということになってくるのではないでしょうか?そんなことでは、単なる歴史再現ドラマにすぎないわけですから。

 そればかりか、映画では、実在しなかったとされる柳田・幕府陸軍副総裁(柄本明)が(注5)、勝が推し進める江戸城無血開城の策に反対し、勝から西郷への書状を破り捨てたり(注6)、勝海舟に暗殺団を送ったりするなどといった妨害工作を企てたりします(注7)。
 4人は一体どの江戸時代にタイムスリップしたことになるのでしょうか?
 あるいは、4人は、現在をもたらした過去とは異なる過去を持つパラレルワールドの一つに行ってしまったのかもしれません。
 仮にそうだとしたら、歴史を変えたら自分たちは元の現代に戻ることが出来ないとして川辺先生たちは焦りますが(注8)、既に史実とはいろいろ違っている世界(注9)でそれをおおまかに元に戻したところで(注10)、川辺先生たちの元いた現代に戻れるとは限らないようにも思えるところです。

(3)前田有一氏は、「どうもいろいろとずれを感じる企画である。あんなにかわいらしい歴史教師を出していながら色気ゼロ。ということは、ようするに男性よりも歴女向けということなのだろうが、かといって男性キャラにさほど魅力的な人物が配されているわけでもなく」として45点をつけています。
 柳下毅一郎氏は「太秦映画村狭しと石原さとみが着物姿で駆けまわるバラエティ番組」ではないかと述べています。



(注1)原案は、眉村卓氏の短編『名残の雪』(角川文庫『思いあがりの夏』所収)とされ(未読)、同作は2度ほどTVドラマ化されているようです。

(注2)高瀬もつかまって、川辺先生と一緒に町奉行所のお白州に引き出されます。

(注3)最近では、玉木宏は『大奥』、石原さとみは『カラスの親指』、柄本時生は『超高速!参勤交代』、佐藤浩市は『清須会議』、柄本明は『許されざる者』、谷村美月は『白ゆき姫殺人事件』で、それぞれ見ました。
 また、囚われた川辺先生や高瀬を裁く町奉行役の伊武雅刀は『終戦のエンペラー』で、勝海舟や西郷隆盛などが立ち寄る蕎麦屋の主人役の石橋蓮司は『超高速!参勤交代』で、それぞれ見ています。

(注4)森野と沼田は、川辺先生や高瀬と同時にタイムスリップしたにもかかわらず、映画の中では、別の場所とか別の時点で江戸時代に来ていることになっています!
 すなわち、森野は、幕府の重鎮である柳田の屋敷に潜り込むことになり、沼田については、1年の“時差”が設けられています〔1年も前から江戸で千代(谷村美月)とともに暮らしています〕。

(注5)Wikipediaのこの項目では、陸軍の副総裁は藤沢次謙とされており、また劇場用パンフレットに掲載に「あらすじ」には、「勝の政敵・柳田某などという人物は、その「歴史」に全く登場しないとも………」と書いてあります。

(注6)勝海舟は、辛抱強く西郷隆盛からの返事を待ち続けて毎日をのんべんだらりと過ごしています。その姿を見て、川辺先生は焦ります。

(注7)柳田は「徳川のためにはここで戦をやるしかない」という信念の持ち主ですが、さらにそれを補強したのが、森野から聞いた「徳川家は未来でも存続している」という情報。
 ここで興味深いのは、柳田は、森野の姿を見て、勝海舟と同様に未来から到来した人間であることを信じてしまう点です。これだと、保守派である反勝派の頭目も、勝と同様に柔軟な頭脳を持っていたことになるのですが。

(注8)期限前のぎりぎりのところで、勝海舟と西郷隆盛とは蕎麦屋で顔を合わせることになりますが。

(注9)例えば、史実によれ(Wikipediaによります)ば、勝海舟と西郷隆盛との会談については、山岡鉄舟が下交渉をしていますが、本作においては、勝海舟は「手紙を届けたのは鉄舟ではない」と言っています。また、史実によれば、勝海舟と西郷隆盛との会談は、13日と14日の2回行われていますが、本作では14日の1回だけ。

(注10)映画で描かれる過去においても、結局は江戸城無血開城が達成されるのですが。



★★★☆☆☆



象のロケット:幕末高校生