映画的・絵画的・音楽的

映画を見た後にネタバレOKで映画を、展覧会を見たら絵画を、など様々のことについて気楽に話しましょう。

人間失格

2010年03月28日 | 邦画(10年)
 『人間失格』を渋谷のシネセゾンで見てきました。

 このところ太宰治の作品を原作とする映画がいくつか制作されており、『パンドラの匣』と『ヴィヨンの妻』は見たので、やはりこの作品も見ておこうということになりました。

(1)この映画は随分と配役陣が豪華だというのが、マズもっての感想です。
 なにしろ、葉蔵役の生田斗真こそ映画初出演で初主演ですが、その悪友・堀木を演じる伊勢谷友介はNHKドラマ「白州次郎」での活躍がありますし〔そのときの素晴らしい演技から、今度の堀木役を見ても、白州次郎の感じがしてしまいますが!〕、また後見人の平目は、『今度は愛妻家』でオカマ役を見事に演じた石橋蓮司なのです。

女優陣の見事さも目を見張ります。葉蔵と心中して死んでしまう女給の常子に扮する寺島しのぶは、このほどベルリン映画祭にて最優秀主演女優賞を獲得しており、子持ちの未亡人・静子役の小池栄子は、『接吻』での演技が光ります(昨年は、『わたし出すわ』に出演)。また、葉蔵にモルヒネを教える薬剤師の寿役は室井滋、葉蔵と結婚するものの、出入りの商人と間違いを犯してしまう良子には石原さとみ、下宿先の娘・礼子に坂井真紀(『ノン子36歳(家事手伝い)』)といった布陣です。

さらには、葉蔵がしばしば出入りするバーのマダムで、この映画の狂言回しといえる律子に大楠道代(『ジャージの二人』で、隣人役を演じてました)が、そして映画のラストで葉蔵の面倒を見る老女・鉄に三田佳子が扮しています。

こうした豪華メンバーに取り囲まれると、初々しい生田斗真も色褪せて見えてきます。特に、その役柄が、良子との結婚生活のはじめの方だけを除いて、ほとんどの場面で、ひたすらアルコールを飲んだり、モルヒネを注射したり、またカルモチンを飲んで自殺しようとしたりする自堕落極まりない男なのですから、大変です。

この葉蔵に太宰治を重ね合わせることができ、かつ太宰治の生き方などをよく知っている観客ならばともかく、本作品ではじめて太宰治を知る観客にとっては、こうした行動は、単なるアル中患者の症状としか見えないのではないでしょうか?

 むろん、映画は映画であって、原作とは無関係にそれだけのものとして見る必要があるでしょう。ただ、原作にはない人物(中原中也など)を配したり、年代設定を原作以上に明確にしたりしているところをみると、監督の方も、観客がある程度太宰治に関する知識を持っていることを前提にして映画を製作しているのではないかと思えます。

 要すれば、太宰治の原作を映画化すれば、自分の場合はこうなるよというものを監督は提示しているのであって、原作とは無関係にこの映画を製作したわけでもなく、また観客にもその関係性をわきまえてもらったうえで見てもらいたいと考えているのではないかと思いました。

 なお、映画のラストで、葉蔵が老女・鉄と暮らす家の居間から眺めることのできる岩木山の全貌は素晴らしいものがありました。学生時代に友人と、麓の岩木山神社の裏手から頂上まで登ったことがありますし、その後も何度か津軽平野からこの山を望んだことがありますから、ひとしお感激しました。

(2)この作品も、やはり太宰治の原作との関係が気になってしまいます。
 といっても、映画と原作とは別のものと考えるべきでしょうから、たとえば、映画に登場する中原中也は原作には出てこないとか(無論、井伏鱒二、小林秀雄、檀一雄も!)、映画のラストで大きく取り上げられる鉄という女性(三田佳子が演じています)は、原作では「60に近いひどい赤毛の醜い女中」であり、その「老女虫に数度へんな犯され方をし」たと書いてあるにすぎない、とかいったことは気にするまでもないでしょう。

 興味を惹かれるのは、『パレード』に関する記事の中でも申し上げましたが、小説が書かれている観点と映画が作られている観点との関係です。
 映画では三人称の全体を俯瞰する視点から描き出されているのに対して、原作は一人称の形を取っているのです。それも小説の場合、メインとなる3つの「手記」(一人称で書かれています)をそのまま掲載したと、作者は「あとがき」で述べています。そうすると、『人間失格』の作者は太宰治ですから、彼がそのまま小説の中に掲載した「手記」の作者は、当然太宰治ではありえないことになります。
 映画では、そんなことはうまく表現できませんから、主人公の葉蔵は太宰治に似せて造形されています。

 そうなると、時代設定は、原作ではかなり曖昧にされていたにもかかわらず(注)、映画の方では、当然のごとくに昭和10年代頃とされてしまっています。たとえば、皆がラジオの前に集まって「前畑がんばれ、前畑がんばれ」の放送に熱狂するのを見れば、明確に昭和11年のことだと観客にはわかります(一定の年齢より上の人たちとなるでしょうが)。

 だからなんだというわけではありませんが、以上のことからすると、映画の設定に関して、主人公をなにも太宰治に関連付けることをせずに、また時代も現代としてみる選択肢も十分考えられるのではないかと思った次第です。


(注)葉蔵が喀血するのは「東京に大雪の降った夜でした」としか原作には書いてありませんが、奥野健男の新潮文庫の解説によれば、これは「2・26事件の夜」だとのことです。


(3)映画評論家たちの評価も余り高くはなさそうです。
 小梶勝男氏は、「主人公の葉蔵を演じる生田斗真の印象が薄い。原作では極めて重要な「道化」としてしか生きていけない青年の内に秘めた緊張感が、十分に描かれて」おらず、「あえて近代的自我に逆らい、自滅していく男の悲壮感と、悲愴故の純粋さが、切実に伝わって来ない。荒戸監督の絵作りの上手さは認めるが、心に響くものは少ない」として、氏にしてはかなり低めの66点を、
 渡まち子氏も、「過剰なまでの自意識ゆえに破滅していく主人公・葉蔵を、レトロで幻想的な映像で描ききる。葉蔵を演じる生田斗真は、これが映画初出演で初主演。美形だが何 とも印象が薄いのは、周囲の女優たちがあまりに強烈な印象を残すからだろう」などとして50点を、
 福本次郎氏は、「映画はほぼ原作に忠実だが、そこに斬新な解釈があるわけでもなく、ただ表層をなぞっているに見える。葉蔵の心を支配する虚無感も、日中戦争から太平洋戦争 に突入する時期の日本の空気もあまり感じられず、無感動に生きている葉蔵の命の軽さが引き気味に語られるのみで、結局、堕落の蜜を楽しむまでには至らなかった」として40点を、それぞれ与えています。

 これらの評論は、総じて、映画を映画として見ずに原作を通して見ているような印象を受けますが、こうなってしまうのも、映画の作り自体がそうなっているからなのかもしれません。


★★★☆☆


象のロケット:人間失格


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5 コメント

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影響されやすい人なのかな? (通りすがり)
2010-03-28 09:58:37
自分はあまり批評家?とかいう人たちの意見は参考にしないのでアレですが素晴らしい映画だったと思いますよ。
あなたの感想って、批評家の言っている事すべてそれになぞらえたものだったから、ついコメントしてしまいました。
もっと自分自身の目で見た事を大切にすればいいのに。
まあそんな風だからこの映画の隠された意味とか全く見えてないんだろうけど。
表面だけなぞらえた=これがまず違うんだけどね…まあ気づく人は初見で気づく事ですよ。
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自分の目って (クマネズミ)
2010-03-28 22:08:03
 「通りすがり」にでもわざわざコメントをしていただき、心から感謝申し上げる次第です。
 確かに、クマネズミが申し上げていることは、本人はそうは思っておりませんが、批評家の意見にかなり囚われているのかもしれません。
 ただ、クマネズミとしては、コッソリとまるで自分の意見の如くに他人の意見を述べてしまうことはできるだけしないように、自分の意見はそうした意見とは少しは違っているよということを明らかにするために、批評家の意見をわざわざブログの本文に明記しているつもりなのですが。
 例えば、批評家の福本氏が「ただ表層をなぞっているに見える」と書いていたら、早速その言葉「なぞる」を使って、「批評家の言っている事すべてそれになぞらえたもの」などとコメント氏は述べていることを見てもわかるように、よほど注意しないと、コメント氏と同じように、他人の意見をあたかも自分の意見のように述べてしまいがちなのです。
 それに、そもそも「自分自身の目で見た事」とは一体どのような「事」なのでしょうか?他人の意見にまっやく囚われない、まっさらな自分などという怪物的なものを信じている人がこの時代に存在しているなんて、と思ってしまいますが?
 是非、そういう“ご自分の目”だけで何ものにもマッタク囚われない心でご覧になった感想を記している記事を紹介していただきたいと熱望する次第です。としても、〝この映画はすべて葉蔵が見た夢だった〟などと、実も蓋もないことをいうのはナシにしてくださるようお願いいたします。
 なお、さらなる揚げ足取りになってしまい甚だ恐縮ですが、コメント氏が、「表面だけなぞらえた=これがまず違うんだけどね」と述べている箇所については、「表面だけなぞらえた」とはクマネズミは記事本文に書いておりません。これは推測するに、福本次郎氏が「ただ表層をなぞっているに見える」と述べている箇所をクマネズミが引用したに過ぎないにもかかわらず、それをあたかもクマネズミが述べているが如くにコメント氏が取り扱っているだけのことだと思われます。
 ですが、これまでのクマネズミのブログ記事をお読みになっている方にはヨクおわかりだと思いますが、引用したからといってその内容に賛同しているわけではないことは、いまさら言うまでもありません。特に、福本次郎氏の映画評論に関しては、例えば「降ったり晴れたり」というブログなどにおいて、その論評が徹底的に批判されていることくらいはよくわきまえているつもりです。
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映画や文章の受け取り方 (山見八景)
2010-03-31 20:36:43
  映画に対する見方でも文章の受け取り方でも、その人の人生体験や知的水準がよく出てきて、他人の作品を論評しているつもりであっても、結局、自分をさらけ出しているということがよくあります。だから、十人十色でもあり、文章を書くこともこわい面があるのですが、製作者・書き手は受取手に理解されやすいようにつとめるべきであり、受取手のほうも製作者などの真意にできるだけ近づいたうえで、論評などの対応をしたいものです。
  太宰治の作品は、若い頃に一通り読んだのですが、そのときでも人間の弱さ・怖さを感じて、今はあまり近寄りたくないものです。このところ、生誕百年を記念してか、作品の映画化が目立ちました。現代の人々の受け取り方はどうだったのかが、多少気になるところです。
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Unknown (nariyukkiy)
2010-04-22 01:23:40
TBいただいていたようで。

この映画は、映画単体としてみたら正直何がなんだかわからない映画だと思います。

見方によっては、中原中也の「茫洋、茫洋」という台詞だけが印象的に残り、人生とはそのようなはかないものだ、という印象だけ残ってもおかしくないし、それでは太宰の「人間失格」である意味がほぼ何も残っていないし。

映画のつくりとして、原作を逸脱するにしてももう少しうまいやり方があったろうに、と残念な気持ちになりましたね。
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映画と原作 (クマネズミ)
2010-04-22 07:27:02
nariyukkiyさん、コメントをありがとうございます。
nariyukkiyさんが、ブログ「sunday people life」で強調されている点、「この作品が「なぜ「よくわからない」映画になってしまったのか」は、「原作を読んでいないと補完できない部分-特に葉蔵の性格について-が多すぎることと、映画オリジナルのキャラである中原中也の存在感のせいであることは明白だ」という点については、マッタク同感です。
映画は、もちろん原作に基づくことがあるにしても、ある点で原作を離れて、映画として独自のものを作り出すべきではないかと、素人的な考えながら思っています。
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