駅前糸脈

町医者をしながら世の中最前線の動きを感知、駅前から所見を発信。

俺だよ俺

2008年05月17日 | 世の中
 「どなた?」。「俺だよ、俺」。と力一杯キーボードを叩いても扉は開かない。そういえばアラビアンナイトだったか、どんな動物にも化けられますよとまじないを教えて貰った王様が戯れに大臣とコウノトリに化けたはよいが、何かを食べた拍子に人間に戻るまじないを忘れ、王国を魔法使いに乗っ取られそうになる話があった。頭脳明晰博覧強記の物理学者や高級官僚も金庫の番号や重要書類書庫の暗号は忘れないように覚えやすいものを使うらしく、ファインマンがその人物の特徴から連想して正解を見つけ、次々開けてしまう話を読んだことがある。
 パソコンを使うようになってから、やたらとパスワードを求められるようになった。最初のうちはわかりやすい同じものを使っていたが、そのうち同じで簡単じゃあまずい、一度破られたら全部開けられてしまう。というので、いろいろ工夫しているうちに十二三個くらいになってしまった。しかしこれはまずかった。名前もいくつか使い分けているので、どれがどれだかわからなくなってしまうのだ。すぐ拒否されてしまう。「俺だよ、俺」。と叫んでも、「僕だよ、僕」。とささやいても、「韓流で来たっても駄目よ」。とけんもほろろだ。パスワードの他にもシリアルナンバー、顧客番号などなどたくさんあるので、ノートを作って大切にしまってあるが、大切なものは持ち歩くわけにはゆかず、はたっと困ることが月に一二度ある。腹が立たなければ、ちょっと時間を置いてやり直せばうまくゆくのだが、何で正規ユーザーや会員なのになどと、腹が立ってしまうと焦ってうまくゆかず、後味の悪いことになる。
 それに比べれば家の忠犬は偉い、足音だけで気が付いて誰よりも早く門の所まで迎えに出ている。
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茂木さんへの手紙

2008年05月14日 | 学思
 本屋に溢れる本には食指が動かない質なので、茂木健一郎さんの著書を読了したことはなかった。しかしながら、テレビで御本人を見て親しみを感じたので、一冊くらいはと思い、今回海外旅行の機中用に「脳内現象」を持参した。既視感について触れてあったが、自分はこの本の内容に既読感を持った。どこか岸田秀の壊れた本能に似ているように思ったのだ。文科系と理科系の違い、こういう分け方は粗くて本質を外すようで好まないがお二人の背景とアプローチの差を端的に言えば文系と理系と言えそう、があるが指摘されていることがどこか似ている??と思った。
 それともう一つ、遠い昔35,6年前研修医の時、自分が考えた事を思い出した。意識というのは脳の発振ではないかと考えたことがある、馬鹿なことをと神経内科の医師に一蹴されて、あまりにプリミティブで思い付きに過ぎないとすぐ捨てたのだが。今度は脳内現象を読んで意識はビートではないかと思い付いた。つまり記憶と現情報入力とのずれを脳は意識として捉えているのではないかというわけだ。現時点の情報入力で何らかの刷新があればそれが意識となる?。
 覚醒を最新脳科学がどのように定義あるいは理解しているのか不案内だが、覚醒している時、脳は今までのすべての記憶を常にオンしているのではないかと思う。ちょうど体細胞一つ一つすべてがゲノムを持っているように。旧い記憶を思い起こすと感じるので、どこかに格納されているのを取り出すように思えるのだが、実はすべての記憶は覚醒している時は常にオンの状態にあるのではないか。暗闇で探すのに手間取ることはあるにせよ。
 クオリアというのは詮ずるところ、記憶に由来すると思う。脳に世界の情報が蓄積されてゆけば、それがクオリアの元、クオリアはリファーされて生ずると思う。
 ものの名前というか言語というか概念化というか、これが人間が膨大な情報を蓄積し利用できる鍵だと推測する。まとめる能力の不思議にも脳科学は取り組んでいると思う。もの凄く難しく面白そうだが不勉強でよく知らない。遺憾ながら論文があっても、もはや十分には理解できない気がする。既に理解とは何かもよくわからないくらいだから。
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あなたはどちらへ

2008年05月14日 | 医療
 得手不得手は誰にもある。そして誰にも、いつかは認知(呆け)が忍び寄ってくる。もちろん呆けには大きな個人差があるのだが。どうも人は方向としては得手に呆けて行く。偏った方へと言った方が正確かもしれないが、性格に沿って性格がデフォルメされるように惚けて行くことが多い。中には、今までと全く違った感じになる人もおられるがそれは少数派だ。
 その方が良いというと言い過ぎかもしれないが、傍らに居る者には楽しく呆けてもらえると有り難い気がする。「**さん、おいくつになりますか」。「えーと62かな」。と困ったような顔をしてにっこりする。まあ実年齢より多く言う人は滅多にいない。たいてい20くらい鯖を読む。あんまり呆けないで、世界の不幸を背負ったように額に皺が寄り、怒ったり愚痴ばかり言うようになるとなかなか近寄りがたくなる。
 まあ誰がなんと言おうと、世の中は不公平にできている。せめて、終わりは少しでも楽しければいいなあと願うのだが、そうばかりでもないのはいかんともしがたい。暴力老や陰々滅々よりもなんだかにっこりありがとうの方が気が休まるのだが、相手を選ばない仕事だから同じように診察している。
 漫才のぼけにはかなりの頓知がいるし皮肉屋はたいてい知性派としたものだ。ところがかなり認知が進んだ人でも素晴らしいぼけを言われる人やきつい皮肉を言われる人が居てびっくりすることがある。とてもお襁褓の人とは思えない。
 認知の効用と言えるのか、認知が進んだ方が終わりが楽なのかもしれないと推測する。ものすごく認知が進んだようでも、大事なことはちゃんとわかっていて最後までお礼が言えればなあ。
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十万億土 第二歩

2008年05月13日 | 学思
 「もう棺桶に片足突っ込んでますから、はっはっは」。という爺さんが時々おられる。そうねえ、確かにと思いながら「いやまだ、そんな」。とお答えしている。こういうことを言われる方は実はまだまだ体力知力気力に自信をお持ちで、弱ってきたと言うより、片足以外はまだまだ元気だぞというメッセージなのだ。
 医者から見ると、この片足というのはあまり正確ではない。残りの部分が健全のように聞こえるからだ。命尽きるのはやはり蝋燭の火が消えていくようにという方が実態に近いように思う。部分でなく全体が少しづつ衰弱してゆくのが、黄泉への道程に見える。脳死か心停止死かが騒がれたことがあったが、畳の上の大往生では問題にならない。どちらももう向こう岸に着いているのだ。十万億土は絶対の音信不通、不可逆の距離を表現しているようだが、実際の道のりを表わしているような気もする。半分死んでいるなどと言うと、不謹慎なと言われる方がおられると思うが、本当にそう感じることがある。何と言っていいかわからないが、もう生きているのとは違う状態が訪れる。「立派なお庭ですね」。「そうさなあ」。とまるで月からの返事のように僅かな遅れがある。ゆっくり少し他愛もないことをお話しするのだが、どうも何か不思議な感じがつきまとう。意味というか意義が感じにくく内容に厚みがない。ああもっときちんとしたことを話した方が良かったかなと思っても、何を言えばよいのか。そっと手をさすって、二万億土の宙に浮く患者さんのそばから離れる時、僅か数十センチの空気が重く粘っこく感じられることがある。
 生きている者、まして元気で生きている者が死を語ることは難しい。臨終の床を辞する時、生きているお前はどう生を全うするかを考えなさいと言われているように思う。
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真実十路

2008年05月12日 | 診療
 緊急の処置が必要な急性疾患、例えば心筋梗塞や腸捻転などでは、95%医師の指示通り治療が行われる。患者さんは苦しいから受診したので、病名を告げられて、なるほどでは死んでもいいので治療しませんと言う人は経験していない。100%でないのは、数%の患者さんは家族知人などの勧めでもっと良い?医療機関への転院を希望されるからだ。
 ところが自覚症状がなく、むしろ飯が旨くて疲れを知らない健康感のある人に高血圧や糖尿病が見つかった場合はなかなか一直線には行かない。たまたま風邪で受診された患者さんで血圧が高かったり、尿糖が陽性だったりした時は、一通り家庭血圧測定や血液での再検査をお勧めする。一通りというのは医師の義務というか心得としてとゆう意味。というのは風邪を診て貰いにきたのに余計なことを、私を病気にしようというのですかといった反応のこともあるので、自然さりげなく言うようになってしまった。過不足なく医者の言葉を受け取り、反応される方は残念ながら多くはない。これが初診でなく、掛かり付けの患者さんの場合は素直に聞いて頂けることが多く、血圧計を貸し出したり、血糖検査に再受診して頂いたり出来ている。健康診断で異常を指摘されて受診された場合も、うまく治療に入っていけることが多い。非常に希だがお貸しした血圧計が患者さんと共に行方不明になることがある。ま、いいか、そびれるということは誰にも時にあることだからとあきらめている。
 高血圧や糖尿病は生活習慣の是正が治療の第一歩なので、必ず指導している。原則として薬は出さない、重症や病歴が明らかな場合は別。これでどれくらい良くなるか、どれくらい頑張れるか(通院を続けられるか)を慎重に見届けないと、治療に失敗する。失敗するというのは通院されなくなってしまうということ。もちろん他の医院で治療を続けられればそれでいいのだが、そういう人はそうではなくて日常の忙しさ?にかまけてサボってしまうのだと睨んでいる。
 これがよいかどうかわからないが当院は来る者は拒まず去る者は追わずという方針なので、いつの間にか来院されなくなった患者さんに受診するように連絡していない。ただし、通院中の患者さんに検査などで異常値を認めた場合は直ぐ連絡している。
 反応を見極めて必要な場合、薬を出すのだが、ここでまた飲み出すと止められないから薬を飲むのは嫌だという人(ほとんど女性)が出てくる。なんとも不思議な理由なのだが、こう言われる患者さんは結構多い。それでは弱い薬で始めしょう、体重を減らせたり運動を続けて止められることもありますからなどと説明して、なんとか飲んでもらう。
 これは様々な対応の枝分かれを一部紹介したに過ぎない。町医者はどうしてもその人なりに対応して行かざるを得ない、そしてそれはそれぞれに真実と言えるわけで、どうも山本有三のようには行かない。「コブちゃん、おわかりかな」と言ってみたくなる。
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