あられの日記

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なぜに西日暮里に道灌の名前が?

2019年03月06日 05時51分12秒 | 歴史散歩
2019.2.24訪問。小田急東京メトロパスを使って巨木散歩。東京メトロ千代田線西日暮里駅で下車。目指すのは延命院さんの大シイの木です。JR線沿いの坂を道なりに登る。角で曲がったら立派な石垣があった。これ、切り込みハギだよな。江戸城とか、あ、さっき浜離宮庭園の大手門でも見たタイプ。ここってどこなの?
取り出したのは根津権現かいわい浪漫ちっくマップです。去年根津神社のつつじまつりで配布してたの。このマップって谷根千界隈の歴史散歩に便利だよな〜。
あれ!?
素敵な石垣だからとワクワクして入り口を探したら、普通の公園だった。その名も西日暮里公園。ダンナが「トイレ」というので待ってたら、なんか見つけた〜。

道灌山。安藤広重作の浮世絵付き。
道灌って特徴的な名前って太田道灌しかいないじゃん!連想ゲームなら「正解」だよね?
先月伊勢原で太田道灌のお墓に参拝してきたばっかりな私。興味深々です。
七人塚と太田道灌の墓(2019年2月11日)の記事 大田道灌は伊勢原の上粕屋神社裏にあった上杉館で主君の裏切りにあい暗殺された。
説明板発見:道灌山は、上野から飛鳥山へと続く台地上に位置します。安政3年(1856)の「根岸谷中日暮里豊島辺図」では、現在の西日暮里4丁目付近にその名があります。この公園を腹部台地上にひろがる寺町あたりは、ひぐらし(日暮し)の里と呼ばれていました。
道灌山の地名の由来として、中世、新堀(日暮里)の土豪、関潼関が屋敷を構えたとか、江戸城を築いた太田道灌が出城を造ったなどの伝承があります。(中略)
道灌山・ひぐらしの里は、江戸時代の中頃になると、人々の憩いの場として親しまれるようになりました。道灌山の大半は秋田藩主佐竹氏の抱屋敷になりますが、東の崖ぎわは人々の行楽地で、筑波・日光の山々などを展望
できたといいます。」
なんか古い絵も展示してあった。

絵の右上に「船つなぎの松」というのが見えますか?松についての解説文もありました。
道灌船繋松
道灌船繋松のことは、『江戸名所図絵』天保7年(1836)、斎藤幸雄、幸孝、幸成(月岑)の三代三人が文章を書き、長谷川雪旦が絵を描く)にくわしく書かれています。
「青雲寺の境内、涯に臨みうっそうとしてそびえたり。往古は二株ありしが、一株は往んじ安永元年の秋大風に吹き折れて、今は一木のみ残れり。(中略)
或る人いわく、昔このふもとは豊島川に続きし入江にで、道灌の城砦ありし頃は、米穀その外すべて運送の船より、この松を目当てにせしものにて、つなぐというもあながき繋ぎとどむるの義にはあらず、これは舟人のことばにして、つなぐといふは目的にするなどいえるに同じ心とぞ。よってその後道灌山の船繋ぎの松と称して、はるかにこの所の松を目当てにせしを誤りて、道灌船繋ぎの松と唱ふるとぞ」
今は公園となったこの地を見回す。説明板の横に背の高い黒松が1本そびえている。過日の松をなぞらえて植栽したものか?
さて、ダンナも戻ったので出発。時刻はもう14時9分になった。マズい〜〜。急がないと!訪問予定を回りきれない。
スピードを上げて日暮里駅方面へ。過ぎ去る神社。
待て!今なんか変なのがいた〜〜〜っ!
過ぎ去れない〜〜。入り口は??参道はどこだぁ〜〜!!

な。これは過ぎ去れんでしょう?これは神社仏閣でなく、久々に狛犬カテゴリー物件です。

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