あられの日記

カテゴリーは場所優先。鶴岡八幡宮は寺院・仏閣ではなく「鎌倉」に。一部検索し易さ優先で、花カテゴリーに入れてる場合も。

競馬場でお花見

2011年04月23日 04時27分22秒 | ぶらぶら散歩
大国魂神社から武蔵国府跡を散策して次に目指したのは府中競馬場です。

競馬場手前に何やらありました。
塔の左右に石板がいくつか立ててあります。これは…。競馬はその名前の通り馬の競争です。おそらく競馬場で命を落とした馬達のお墓なのでしょう。サラブレットはいかに早く走るかのみに主眼をおいて改良を続けた馬。だからって競馬場で命を終える馬がこんなにあるんですね。競馬場で博打をしてる人達にこちゃんと手を合わせて欲しいよな。

競馬場を取り巻く長い柵。トップには馬の首の飾りがっ!
なかなかいいデザイン~。うきうきと柵の内を覗き込みつつ東へ。
入口が見えて来た。近くに警備員さんの姿があります。

おおっ!!
ラッキーなことに、日本庭園が期間限定で公開中です。私は公開初日に偶然訪れたのですよ。
入って最初に気づくのがトップ画像の馬の像。
トキノミノル号ですって。有名なんですかね?
ん??振り向くとそこには石灯籠が。こりゃまた競馬場には似つかわしくない。

あ。何か書いてある。
「この灯籠は徳川家四代商品家綱公薨去の際、諸大名から供養のため上野の寛永寺に寄進のあったものを同寺の厚意により当場に譲渡されたものです。
材石は静岡地方の小松石で総重量は4トンあります」だそうで。
へえ~。上野の寛永寺にあったんだ…。そりゃまた由緒正しい。でもこの説明文なにやら不思議な表現があるよな。「同寺の厚意により…」って、何故天下の上野寛永寺が厚意で石灯籠を譲るかな?競馬場に。
………。穿った見方をすると、もしや借金の形?お寺が借金とかバレたら聞こえが悪いんで「同寺の厚意」と言い換えたの??う~ん…。何やら突っ込みどころ満載な。先の将軍様の為に寄進した大名も、時代が下ってまさか競馬場に石灯籠が置かれるようになるとはちっとも思わなかったことでしょう。
とか感慨に耽ってると、あれ?何か思い出した。
確か去年だか砧公園に桜を見に出かけた時、帰りのはバスじゃなくて徒歩で駅まで戻ったのです。砧公園に隣接する運動公園にも寛永寺の石灯籠が無造作に置いてあったような…。
う~~ん??ありがちなのか??確かに寛永寺つーか、現在では上野公園の東照宮の前には石灯籠が林立してたから、寛永寺にとって石灯籠の1個や2個たいした問題じゃないのかも??
謎を残したまま日本庭園へ向かう。と。
な、何かあるんですけど~?

これってアレじゃないの?小石川後楽園の石垣の石とか皇居の石垣とかでおなじみの、大名の印つきの石。あ。説明文発見。
やはり…。え~と?
「ここに積まれている石は寛永13年(1636)三代将軍家光が多くの大名の助役によって、江戸城外郭の南側(虎の門の東)を築造するとき使用したもので、昭和40年日本中央競馬会本部の改築工事の際、地下4メートル余りの所から発見されたものであります。
石面の所々に見られる紋章や符号は石材を供出した大名が、この責任を明らかにするために彫りつけたそれぞれの家の印であります。」だって。
それって昭和40年当時の日本中央競馬会本部がかつての江戸城の外郭だった。つまり、これらの石は江戸城の一部ってことだよね。
ん??寛永寺の石灯籠とは関連ないよな。
さて。日本庭園です。何故に競馬場に日本庭園があるのか?山手線内にある公園などに残ってる日本庭園はかつての大名の屋敷跡にあったりして、元からあった日本庭園をそのまま残してある場合が多々あります。が!ここは府中。江戸時代で言えばド田舎です。そして競馬場は古い時代の街道からもそれなりに離れています。推測すると、ここの日本庭園は競馬場を作る時に新たに造ったのではないかしら??
…競馬場に日本庭園を設置した理由が気になるう~~。ああ。何やら私に疑い深い波が来てるのか??

競馬場は日本庭園のある場所より少し高い場所にあり、そちらにいわくありげな胸像が見えた。でも公開されているのは日本庭園のみ。競馬場へはいけません。坂の下から遠望するのみ。
日本庭園には休憩に最適なベンチや机があちこちにあります。時刻を確認すると11時48分。
少し早いけど、こちらでお昼~。

熱いミルクティーとパン。ほっこり日向ぼっこを愉しむ。時折うぐいすの声が聞こえてきて、つい笑みがこぼれた。
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