あられの日記

カテゴリーは場所優先。鶴岡八幡宮は寺院・仏閣ではなく「鎌倉」に。一部検索し易さ優先で、花カテゴリーに入れてる場合も。

起雲閣の洋館

2015年02月19日 00時36分29秒 | レトロ建築
熱海の名邸起雲閣の中の洋館です。
この建物は、2代目の持ち主根津嘉一郎により1931年(昭和6)に着工。1932年(昭和7)に完成しました。根津嘉一郎氏は、青山の根津美術館を造ったのと同じ人。

現在玉姫と呼ばれているこの部屋は、正面に暖炉があるヨーロッパのデザインを基本としていますが、折上格天井など日本の神社仏閣に見られる建築様式が用いられています。

また、「喜」の文字をデザインした中国風の彫刻や、シルクロード沿いで見られる唐草模様の彫刻で飾られています。
サンルーム

「玉姫」の部屋に隣接してあります。大きな窓とステンドグラスの天井。
色鮮やかなタイルの床。

アールデコのデザインを基調に作られてます。

サンルームは日光が部屋に多く入るように屋根もガラスで葺いてあります。
玉渓の間

ちょうどガイドさんが部屋の解説をしてました。
玉渓は中世英国のチューダー様式に名栗仕上げを取り入れたヨーロッパの山荘風の造りになっています。

名栗仕上げは、宮大工が木の表面を手斧(ちょうな)で仕上げる方法。削ってあるのでゴツゴツしてます。
暖炉の覆いはサンスクリット語の飾り。



暖炉には、火除けのサラマンダーが彫刻されています。

ガイドさんの説明を聞く人々。
サンルームのステンドグラス。

サンルームの外観。

起雲閣が斜面に建ってるので、外から見るとこんな感じです。

上の画像の建物右側が玉渓の間。左側がサンルーム。玉姫の間はサンルームの奥にあります。

ちなみに既出のレトロ建築の記事で、折上格天井の部屋はいくつか紹介してます。
その中に一つ。三井財閥の屋敷がなぜ昭島に?(2014年2月4日)の記事こちらに旧三井家拝島別邸の応接室の折上格天井の画像があります。


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大正・昭和浪漫の名邸<起雲閣>

2015年02月18日 00時29分09秒 | レトロ建築
1919年(大正8)に別荘として築かれ、非公開の岩崎別邸、今はなき住友別荘とならび、「熱海の三大別荘」と賞賛された名邸が基となる起雲閣
起雲閣さんの見学料は510円。冒頭の文章は、見学量を支払うといただけるパンフレットからの一文です。
一番有名なのは、ローマ風浴室と迎賓の雰囲気たっぷりの豪華な2つの宿泊室なのですが、その前に2階建ての和館『麒麟・大鳳」を紹介します。

この座敷と玄関を含む建物は、1918年(大正7)年に着工。翌1919年(大正8)に完成しました。
最初の持ち主であった内田信也が実母の静養の場所として建てた別荘で、伝統的な和風建築のたたずまいです。
広い畳廊下は、車椅子生活だった内田氏の母親のためだったとか。

青色の壁は、後年旅館として建物が使われた時に塗り直されたもの。
座敷のとこのまの脇に碁盤が展示してあります。裏をみれば「本因坊」とあり勝負に使われた碁盤のようです。かつて週間少年ジャンプに『ヒカルの碁』という囲碁漫画があったのですが、あれを思い出しました。

2階座敷「大鳳」へ移動。旅館当時太宰治が自殺する3ヶ月前に、共に自殺した女性と2泊この部屋に宿泊したそうです。
「大鳳」の内観。豪華だよね。あの時代の小説家にこんな豪華な部屋に泊れる金があったと思えないんだけども…。やっぱ実家から送金してもらってたのかしら??





畳み廊下をぐるりと巡る窓ガラス。当時の職人が一枚づつ作った浪漫あふれる吹きガラスが現存してます。



起雲閣は中央に庭園を配し、周囲を建物で囲ってあります。画像奥に向って下り坂になってます。
この後他の部屋を順に回りましたが、どの部屋からも庭園が眺められ、しかもどの部屋の窓の風景が全部違ってて素敵でした。

見取図はこんな感じ。見取図の赤色の部屋を見学出来ます。

麒麟・大鳳の間の外観です。

起雲閣の庭は、二代目の持ち主根津嘉一郎がとてもこだわり、立派な石が多く配してあります。庭の様子は後日の記事で。

起雲閣の見学メイン、豪華な部屋は明日紹介しますね。
ちなみに初代内田信也時代1918(大正7)年~1925(大正14)年。
麒麟・大鳳・孔雀の棟を造った。
内田信也は大正・昭和期の政治家。実業家。三井物産を経て内田汽船を設立。第一次世界大戦で財をなし、海運王と呼ばれた。昭和9年には鉄道大臣に就任。

二代目。根津嘉一郎時代1925(大正14)年~1944(昭和19)年
1925(大正14)年、内田信也より土地・建物を所得。根津別荘となる。
1929年(昭和4)、金剛・ローマ風浴室の棟を竣工。
1932年(昭和7)、玉姫・玉渓の棟を竣工。1944(昭和19)根津家が別荘を手放す。
根津嘉一郎は明治・昭和期の政治家。実業家。1905年(めいじ38)に東武鉄道社長。

3代目桜井兵五郎時代1947(昭和22)年~1999年(平成11)。
1947年(昭和22)桜井兵五郎が所得し、旅館起雲閣として開業。
1949(昭和24)年金剛の棟を改築。
1981年(昭和56)現在の音楽サロン(当時は宴会場)を新築。
1999年(平成11)、旅館を廃業。
桜井兵五郎は大正・昭和期の政治家。実業家。

2000年(平成12)熱海市が所得。一般公開へ。
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旧英国七番館

2015年01月03日 01時27分00秒 | レトロ建築
昨日は横浜・山下公園通りのホテル・ニューグランド本館を紹介しましたが、今日紹介する旧英国七番館もまた同じ通りにあります。
現在創価学会戸田平和記念館であるこの建物は、もとはバターフィールド&スワイヤ商会の建物でした。昭和54年、その三分の一ほどが残され現名称となりました。震災前の外国商館の貴重な遺構です。
所在地:中区山下町7-1
構造:RC造2階
建築年代:大正11年(1922)
指定:横浜市認定歴史的建造物 平成13年(2001)3月
設計・施工:不明 以上、建物前の説明板より。

山下公園通りには関東大震災前の建物はこれしか残ってないそうです。ンでもこの建物も既に三分の二は現存してない訳で。
ちなみに観覧無料。
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横浜・ホテルニューグランド

2015年01月02日 01時31分00秒 | レトロ建築
横浜の山下公園の目の前、道1本挟んで立ってるホテルです。
1927年開業時に銀座和光などを設計した渡辺仁によるもので、クラシックホテルの代表例です。マッカーサー元帥やチャーリー・チャップリン。ベーブ・ルースをはじめ、多くの著名人が宿泊。1992年に横浜市歴史的建造物に指定。2007年には経済産業省が選んだ近代産業遺産に認定。(ホテルの公式ホームページから抜粋)
ホテルの前は何度も通った事がありますが、中を拝見した事はなかったのです。本館の扉を開けると、ほとんど目の前にどーんと階段がありました。
本館の大階段
ホテルのシンボルです。つーか、最近のホテルならば、入口扉から入るとまずロビーの広い空間があるのが普通なのですが、ニューグランド本館にロビーはない!開けてすぐ階段なんですよ。びっくりです。

でも天井のしっくい装飾は綺麗です。ところで受付ロビーってどこかしら??と。右手の細い廊下を進むと、新館に繋がってました。

こういう空間があるのが普通だよな~。
って!ダンナがトイレに篭ってしまいました…。お腹壊したのか?つーか、ホテルのトイレは使い勝手良さそうだけど…。ダンナを待つ間、本館1階を歩いてみました。

こちらトイレ横の売店です。訪れたのが11月下旬だったので、売店はクリスマステイストです。

階段の裏手を進むと、中庭に出ました。
ヨーロッパの古いホテルの感じに似てますね。夜になると、イルミネーションが輝く模様です。地面にイルミの装置が写ってるからね?
階段周辺には、レトロなものが展示してあったので、いくつか撮影してみました。



今回は1階をちょろりと見て撤収しちゃいましたが、クラシックなホテルを堪能するには、宿泊して中を見てまわるのがベストでしょうねえ。

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強羅公園に残る登録記念物

2014年11月24日 01時24分10秒 | レトロ建築
強羅公園は2014年に開園から100年を迎えました。現在も開園当初の姿が殆ど姿を変えず現存するものがあります。これらが文化庁から「国登録記念物」に指定されました
ってな事で、登録されたあれこれを紹介します。
まずは正門。

開園当初からのもの。戦争中に正門周辺は改修が行われました。「強羅公園」の石板銘は、当時の社長五島慶太によるものです。
続きまして噴水池

開園当初からのもので、フランス式整形庭園の中心になってるそうです。

当日は天候が悪く、噴水周りが暗く写ってしまいました。急坂に公園がある為、正門からの園路・噴水奥に続く園路の階段。あ!公園内の移動は上下移動はだいたい階段が多めです。なにしろ正門(標高574メートル)ー西門(標高611メートル)間の標高差は、37メートルもあるので、園内の中心にある噴水周辺の景観は素敵ですよ。
さて。次は水道口

トップ画像の鳥は蛇口のヒネリ口でして、これもまた開園当初から現存している水道です。まさかの現役。
本当かな?と思わず鳥に手をかけてまわしたら、当たり前ですが水が出ました。出ただけでびつくり!でした。

石碑は園内に3つありまして、上の画像は1955年(昭和30)に建立された「斉藤茂吉歌碑」です。
「おのずから 寂しくもあるか ゆふぐれて 雲は大きく 渓に沈みぬ」
おまけ。
国の登録記念物ではないのですが、熱帯植物館とブーゲンビリア館があります。

国内最古のブーゲンビリアがあるそうで。

こちらは盆栽風に仕立てた株。昭和記念公園の盆栽園にもブーゲンビリアを盆栽に仕立てたものがありますが、この株は更に歳月を経てるように見えます。
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強羅公園・白雲洞茶苑

2014年11月23日 01時47分07秒 | レトロ建築
箱根の強羅公園は、国の登録記念物です。WIKIによりますと、「箱根は明治時代以降、別荘地・避暑地として開発され、主に華族などの上流階級の神木・保養施設として、1914年(大正3)に開園されました。当初は洋風庭園に隣接して和風庭園が設けられていたが、和風庭園はその後第二次世界大戦中に世界教世教団に譲渡され、現在は箱根美術館の庭園として残されている。戦後の1957年に有料公園として一般開放された。」
園内には公園の歴史ある物が現在しています。11月5日に訪問したのですが、紅葉情報を優先して後回しにしてしまったのでいわゆるフラグ回収記事ですね~(何言ってんだか)。
今日は白雲洞茶苑を紹介します。

大正3年、利休以来の茶人と謳われた鈍翁・益田孝によって創案され、大正11年には三渓・原富太郎(横浜の三渓園を創った人)に、昭和15年には耳庵・松永安左衛門に受け継がれてきた名茶室群。これがこれが園内の景勝の地に建つ白雲洞茶苑です。中でも「白雲洞」は、近代数奇者茶人の間に流行した”田舎家の席”の先駆的な作例で貴重。見学だけでなく茶室の利用も可能。









この石垣最高~~っ!!
あ。イカンイカン自重せねばっ。
でも実際強羅公園内には苔生した大きな岩がゴロゴロしてまして、時代を経た感じがあって素敵です。白雲洞の石垣もまた時間の経過を感じられます。なんかね、ドラマの撮影出来そうだよね。時代物のドラマもいけるかもしれん。

寄付です。
白雲洞茶苑は、3つの建物が連なって出来てます。強羅公園は急な坂に立地してまして、白雲洞もまた3つの建物は高低差があります。ドラマを演出するような寄付の奥の階段がいいでしょ?

最後の画像は、茶苑の建物を一番坂の下から見上げたもの。なんか、夏目漱石の『坊ちゃん』が顔を出しそうな気配だ。(何言ってんだ~)
2001年(平成13)11月20日国登録有形文化財に登録。

撮影は2014年11月5日です。今は紅葉がもっと鮮やかでしょうね。

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大佛次郎茶亭一般公開

2014年04月16日 05時36分32秒 | レトロ建築
大佛次郎茶亭も旧華頂宮邸と同じく春・秋年2回公開(公開時間10:00-16:00)されています。
以前、鎌倉幕府所在地巡りをやった事があるのですが、大佛次郎茶亭は、三代目の若宮大路幕府跡の石碑の立っている後ろてになります。 鎌倉幕府所在地(2010年4月4日)の記事
なぜ詳しく書いているか?といえば、大佛次郎茶亭の所在がわからず、ほんの30メートル離れた所で迷ってた年配の方がいらしたからです。
そうなのね。地元民の生活路のこの道はちょっと細いし、クランクに曲がった先だからわかりにくいのね。
ま。何はともあれ、中に入りましょう~。

あれ?思ってたのと違う…。これって、大佛次郎さんの住まいというより、接待のお茶室じゃん~??

和室の中に炉を切ってますね。
つーか、この建物小ぶりなわりに地味派手な造りだわ~~。
まず。軒裏の天井をば見て下さい。

なんと!網代天井ですよっ!軒裏だから屋外なのね。
んで中の回り廊下の天井は?というと!
桧皮ぶきですわ。
これだけでも大概ですが。和室の天井ときたら。
古代杉だか古代檜ですよ。そこ確認出来なかったんですが。中の部屋で見上げる事出来なかったのが残念でした。
目隠しも素敵かわいい。
お庭では被毛氈を敷いた床几やパイプ椅子がおかれていて、ここでお茶がいただけます。
う…。お作法は知らないが~。ここでお茶をいただくのは正しい気がする。ってな訳で、お茶代300円を支払って一服です。あ~、なんか癒されるう~~。

ところで、大佛次郎って何者!?や~、もう知ってる人少なくなったよなあ~。私はギリギリテレビだか映画だかでやっていた大佛次郎原作の『鞍馬天狗』の番組を見た記憶が残ってます。当時白黒番組だった気が…。
大佛次郎は、明治30年(1897)に横浜市に生まれました。大正10年(1921)から鎌倉に住み、幾度かの引っ越しの後、昭和27年(1952)にこの茶亭を購入しました。



ボランティアさんに聞いてみた。
私「大佛次郎さんはどの部屋で執筆していたのですか?」
ボランティア「ここでは殆ど書かれてなかったようです。先生が書く時は、横浜のニューグランドホテルに篭って書いてらしたようです」
私「あ。だから港の見える丘公園に大佛次郎記念館があるんですかね?」
ボランティア「先生は20代まで横浜で、その後ずっと鎌倉に住まれました。もっとも住居は小径を隔てた向こう側の家にあって、茶亭はもっぱら接待や友人と楽しむ場所として使っていたそうです」
へえ~へえ~へえ~。

確かにお庭に咲くしだれ桜は素晴らしい。
先生が友人を招いて花見の宴を催したい気持ちもわかるわ~。
時刻は早くも14時50分。
イカンなあ~。今日明日限定で公開されるレトロ建築は、あと2つ残ってるんだけど間に合いそうにないわ…。
私「ここで提案があります。4時までにいけるけど、見学時間はないので吉屋信子邸を諦めて、鶴岡八幡宮の源氏池の桜を見に行きませんか?」
実は八幡裏を抜けるとす~ぐなんだよね。鎌倉をウロウロしまくってるので、たとえ地図を落としたか家に忘れたかしても道はもう覚えてるのだ。
ダンナのOK!の出たので早速移動です。
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旧華頂宮邸和館公開

2014年04月14日 06時03分32秒 | レトロ建築
昨日に引き続き鎌倉にある旧華頂宮邸一般公開の紹介です。
まずは洋館部分の紹介続きから。昨日のブログ記事に掲載した写真で紹介しきれなかったのだ。

邸宅内には暖炉が複数ありました。目隠しの模様が面白かったです。これは梅ですかね?



この部屋の暖炉の目隠しも面白かったけれど、暖炉上の照明も素敵でした。

水回りはさすがにオリジナルとはいかないようで、近代的なバスタブに変わってます。

風呂は湿気が篭り易い場所。どうやって空調を確保してるのか?天井部には空気抜きがない。画像奥の換気ダクトしかない。湿気を逃がすのは窓の開閉で補う仕組みのようで、風呂場には小窓が複数つけてあしました。つーか、華頂宮って窓多いな。この建物いつできたんだっけ?あ~と?建設は昭和4年か。あ、ついでなので、建物の特徴も紹介しときますね。
旧華頂宮邸は、神奈川県内の戦前の洋風建築としては鎌倉文学館(旧前田侯爵別邸)に次ぐ大規模なもので、戦前の洋風住宅建築を代表するものとして評価されています。
外観は、西洋民家に見られるハーフティンバースタイル(柱・梁などをそのまま外部に現し、その間の壁を石材、土壁などで充填したもの)で、極めて整然としていて古典的ですらあります。
北側玄関側にファサードは凸凹、壁面模様もあってピクチュアレスク(ロマンチックな題材になりそう)な感じを与え、南側庭園と相まって嘆声で厳然としています。
多くの部屋にはスチーム暖房用の大理石のマントルピースが設置されていて、当時を偲ばせます。また、広い玄関ホール・階段室が、この建物の最も魅力的な空間の一つともいえますが、創建後、いく度か改装が行われており、特に壁などの内装は、当時のものから大分変えられているようです。

邸宅には、和室も設えられています。

こちらは使用人用もしくは普段使い用の階段かな?そう。階段は邸宅に2つあったのね。

庭を眺めた後、和館(無為庵)へ向かいます。こちら、帰りかけた時に見学客の流れがおかしい事に気付きまして、初めて和館も公開されてるのがわかりました!危なかった~。見ずに帰る所でした~。

さて、無為庵は、かつて東京・上大崎にありました。茶室と門を昭和10年に移築したもので、昭和52年には増築が行われています。

無為庵の名前の由来は、棟札に「六十五歳にして浄明寺宅間ケ谷に余生を送らんが為、無為庵主」と記されていることによります。

薬医門の冠木の両端部に獅子の彫刻をもち、寺院のような立派な門構えとなっています。

茶室の天井は中央を八角形とし、16本の棹縁を放射状に通しており、柱などにかりん、南天、皮付きの桜や竹といった奇木を使用するなど、奇抜な趣向を凝らしています。茶室は数寄屋趣味の横溢するのもであり、茶道が社交の重要な要素であった戦前の日本文化を端的に示す貴重な遺構といえます。(以上配布チラシより)





素敵な石橋だわ~。
さて、次行ってみよう~っ!
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旧華頂宮邸一般公開

2014年04月13日 05時56分04秒 | レトロ建築
金沢文庫駅前発12時50分の京急バス『鎌24』に乗車。いつか踏破したいと思って出来てない、朝比奈切り通しの入口を車窓から眺めた後、朝比奈峠にさしかかった辺りでバスは渋滞に巻き込まれてしまいました。こういうのがあるからバスは到着時間が読めないんだ…。
ともあれ、浄明寺バス停に到着。次の目的地は、旧華頂宮邸です。このレトロ建物は以前にも複数回ブログに登場してますが、年2回、建物公開されています。今年は4月5日&6日(公開時刻:10:00-16:00)でした。ンでもって、華頂宮に到着したのは、13時30分を回ったところでした。……ヤバイ…。予定より押してるわ。4つ全部まわれるかな~??

建物外観は後回しにして、つーかいつでも見れるからな。中へ入ろう~。

あれ?この部屋って…。

部屋の天井四隅には、換気のための穴が開けてあります。これは何の形かな~?花かな~?

画像の中のテーブルに乗ってるメニュー表に気つきました?実は公開中に建物の一部を使用して、カフェがオープンしてるのです。

さて、建物の沿革を紹介。

旧華頂宮邸は昭和4春、華頂宮博信侯爵邸として建てられました。華頂家の沿革から、通称「旧華頂宮邸」と呼ばれています。当初から常駐の住宅として用いられたといわれていますが、華頂夫妻が住まわれたのは数年のみで、その後、たびたび所有者が代わり、平成8年5月に市が所得しました。侯爵邸と維持、諸室がどのように使われていたかなどを含めて不明です。
2階へ続くホールは大きくて素敵なのですが、く・暗いんいですう~~~。

ここの壁が変わってます。一見土塀の粗塗り仕上げっぽいんですが、質感がまるでエナメルでした。あちこちのレトロ建物を見学してますが、こんな仕上げをした壁は初見です。

レトロ建物は中ががらんどうの所も多々あります。ここも所有者がどんどん変わってるし、当時のものなんて現存してないよな~?と。予想してましたが、思いがけずこんなん発見しました!
 洗面台です。
HOTとCOLDの表示からして、外国製だよな。まあいつの所有者が設置したのかわかりませんでしたが、レトロです。レトロといえば、照明器具です。
 


画像の数が増えたので、明日に続きます。
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田戸台分庁舎(旧横須賀鎮守司令長官官舎)

2014年04月11日 05時25分59秒 | レトロ建築
田戸台分庁舎は、横須賀鎮守府司令長官官舎として、1913年(大正2)に建設されました。
建設時の横須賀鎮守司令長官官舎じゃアメリカ海軍兵学校を1881年(明治14)に卒業した海軍中将瓜生外吉(『坂の上の雲』に登場してましたね。確か大学の同窓の縁で、アメリカ大統領のセオドア・ルーズベルトに日露戦争の終結の仲介を引き受けてもらえるように交渉にいかされてた人だった気が…。あ。小田原に瓜生外吉の胸像があったハズ。
瓜生外吉の胸像(2011年11月11日)の記事)であり、令夫人は1871年(明治4)日本政府が初めて勉学のためアメリカに送った数名の女子留学生に選ばれ、1881年(明治14)にアメリカの大学を卒業されています。
更に企画設計にあたった桜井小太郎氏は、ロンドン大学で学び、日本人発の英国公認建築士の称号を得た人で、帰国後海軍技師となり、呉の建築科長を経て1908年(明治41)から3年間横須賀海軍経理部建築科長を務めました。呉時代の1905年(明治38)に設計した呉鎮守府司令長官官舎は、国の重要文化財に指定され「入船山記念館」として一般公開されています。

建築当時の様子。
 




洋風館と和風館の接続住宅で、洋風館部分は木造平屋建て、亜鉛葺き切妻屋根で、イギリス住宅の特徴であるハーフティンバー(柱をそのまま見せて、その間の壁を漆喰などで埋めたもの)を基本にした建物で、現在は煉瓦タイル張りになっておりますが、もとは下見板張りでした。
暖炉はリビングルームと、現在は記念館としている応接間の二カ所にあり、基礎部分と同じ石張りの煙突が突き出しています。もっとも美しく特徴的なのは、庭園に面したベランダ側でリビング部分の貼り出した切妻やねと、三連のチューダーアーチを挟んだ位置にあるトンガリ屋根のベイウインドーであり、流れるようなカーブの屋根に設けられた屋根窓と、ベイウィンドーの上部の小窓は、屋根裏部屋の明かり取りになっています。和風館部分は二階建てで、階下には8帖の和室を備えており、いずれも簡素で機能的に作られております。
初代入邸者は海軍中将東伏見宮依仁親王であり、以来1945年(昭和20)の終戦まで34代(31人)の歴代司令長官が居住されました。
終戦後はアメリカに接収され、1964年(昭和39)まで9人の在日米海軍司令官等が居住されました。以上、見学のしおりより転載。
 






ちなみに、公開は1階部分のみ。説明板も設置されていたのですが、撮影に失敗しました。手ブレしちゃいました~~っ。

さて、次に行こう!時刻は既に10時半を過ぎてしまいました…。
あ。マンホールあった!横須賀のマンホールはペリー提督なのか~。

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日本銀行本店の見学は?

2014年02月10日 08時35分37秒 | レトロ建築
見学開始です。とはいえ、建物内は撮影禁止なので画像がない。味気ない文字解説ばかりにならないよう気をつけなくっちゃ~!!

日本銀行は、明治15年(1882)10月10日に開業しました。
当時は、永代橋のたもとで借り物の店舗(旧北海道開拓使東京出張所)で営業していましたが、3代目の川田総裁の時に本館が建設されました。
この土地は「金座」(江戸時代に徳川幕府の金貨の製造所があった場所)の跡地であり、両替商が軒を連ね貨幣に縁の深い土地柄であったことや、金融機関が集中していたことから、現在の土地が移転先となったと言われています。
設計者は、当時建築学界の第一人者で、東京駅のレンガ造り駅舎や旧両国国技館の設計も手がけた辰野金吾博士です。竜野博士は海外を視察した結果、ベルギーの中央銀行をモデルに、ルネッサンス様式を加味したネオバロック様式の西洋式建物を設計しました。工事着工は明治23年9月、完成は明治29年2月。
地下1階、地上3階建ての石積みレンガ造り(外装は1階部分は花崗岩貼り、2階、3階は安山岩貼り)となっています。昭和49年には、国の重要文化財に指定されました。
トップ画像は本館中庭です、
入館前に、外観を少し撮影しました。

こちら、馬車が使われていた当時の馬の水飲み場。
咆哮の獅子像(青銅製)
設計者の辰野金吾が欧米を視察した際に、欧州の宮殿・寺院などに王者のシンボルである獅子をあしらった紋章飾りが多く使われていることを知り、デザインしたと言われています。
2匹の獅子が抱える図柄は、日本の「日」という漢字の古代書体の一種が由来となったもので、現在もお札に印刷されています。」以上パンフレットより。
この咆哮の獅子像は本館正面西門の隣のアーチ上にあります。見学申込せずともすぐ側で観察可能です。
西門をくぐって本館中庭へ。数段階段を上がった所が集合場所。

ここで見学許可証が回収。そして手荷物はロッカーへ預けます。

上の画像右に少しロッカーが写ってますね。館内は撮影禁止なので、メモ帳・ペン・財布を除き全部預けちゃいます。
予約申込者はそこそこ多かった!でも半分近くはレクチャー付きの団体見学申込の大学生グループだったので一般見学者は…。20人強でした。
ガイドさんにくっついて移動。まずはビデオ上映視聴ですが、その前にセキュリティーチェックを受けました。
その先で見学資料セットと、服の分かり易い場所につける見学者プレートを受け取りました。
見学資料セットを撮影。
注目は中央のビニールの小袋です。コレ実は痛んだりして使われなくなったお札(日本銀行券)のクズの一部なのです。
日本銀行は日本で唯一の「発券銀行」としてお札を発行しています。痛みの酷いものは取り除き、クズに裁断してお札として使えなくして綺麗なお札だけ流通にさせています。
ちなみに、裁断されたお札のうち半数はエコ利用されていて、住宅の建材やトイレットペーパーに再生されています。
会議室のような大部屋で大画面ビデオ上映会開始。大人の社会科見学です。
ってな事で、日本銀行のお仕事について~。
1)銀行の銀行
2)政府の銀行
3)お札の発行・流通管理
 以上、大きく分けて3つです。ちなみに、硬貨の発行は大蔵省造幣局なので別組織なのだ。
ビデオは日本のお札の歴史を解説。
きっかけは西南戦争。費用を賄うために大量にお札を発行してインフレを招いたから。ちなみにお札はあちこちで発行されてました。
ちなみに、去年平成25年のお札の流通量は、銀行の預入金を除いて90兆円。これは地球55周、富士山の377倍に積上る量なんだって。
すんごく多いんだけど、日本の現在の借金が1000兆円超えとかを知ると、たった90兆しかないの~??ってなものです。
ビデオ上映は最後に偽札対策です。日本のお札は偽札が造れないようにさまざまな対策を立てていて、お札にはホログラムや潜像模様を採用してます。日本銀行は偽札を許しません!でフィニッシュ。ビデオ上映は約20分。会議室には戻りません。後ろに設置してある資料が欲しい人はここでゲットするのを忘れずに。
これから40分かけて建物内を見学します。とはいえ、館内撮影禁止なので見学したものを個別に紹介出来ないのが無念です。なのでいただいた資料を撮影します。

まずは上の画像の左側の旧営業場へ。
窓口本館は昭和44年までここを使用していました。現在は裏の新館にて営業しています。本館は現在は、見学者用・図書資料の保管場所として利用しています。
ガイドさん「明治29年に完成した本館は、今年で117年目。建物は石積みレンガ造りで軽いぶん地震に強く造ってあります。下部から上部へとレンガの数を減らしてありますが、外装を安山岩・花崗岩で覆っているため内部は見られません。
ちなみに、関東大震災でも本館建物は耐えました。しかし、明り取りを上部から取り入れる造りとなっていて、隣の日本橋からの火の粉で内部は丸焼けになりました。
ドームが焼け落ちる被害を受けつつも、震災があった1923年(大正12)9月1日は土曜日。翌日曜に消防に頼み内部を消火作業をしてもらい、翌3日は月曜。地下の金庫は無事だったので1日の営業日も休みませんでした。」
おお~ッ!!素晴らしい~~。旧営業場の通路には、東日本大震災・神戸淡路大震災の時、痛んだお札を新しいお札と引き換えた時の写真が展示してありました。
寒空にズラリと各銀行の出張所が並び、混乱を招くことなく営業を続ける写真には感動します。ちなみに、痛んだお金は面積が2/3以上のこっていれば全額として引き換え、面積が2/5以上2/3未満の場合半額として引き換え。面積が2/5未満の場合はお札として価値がないとして失効するのです。例えば、火事でお札が萌えてしまっても、灰となったお札もお札だと確認出来れば引き換え出来るのだよ。日本って凄い~~。
続いて地下へ移動。移動はかつてお札運搬に使用されていた大きなエレベーターを使用します。1回で見学者全てが移動出来ました。

ガイドさん「地下金庫は明治29年から平成16年まで現役でした。地下金庫の外扉は、アメリカ製のスチール製、ハンドルを2人以上で回し人の手で開け閉めします。地下金庫の外壁扉は90センチの熱さがあります。中は釉薬を塗った防火性を高めたレンガが壁を覆っています」
とはいえ、見学者は中へは入れません。金庫の扉の外から伺うのみ。
ガイドさん「視界の奥が地下金庫ですが、左右にも部屋があります。1パレット40億を積み上げたものや、麻袋に納められた2000枚入りのコインや、1本14キロ・6300グラムの金塊が納められてました。
地下金庫の扉前に、レプリカの現金パレットや麻袋、金塊が積み上げられていて、デモンストレーションとして、1億円分のお札の束のレプリカが置いてありました。
ガイドさん「興味のある方は持ち上げてみて下さい。一束で10キロあります」
同じ旧現金運搬用エレベーターを利用して1階へ戻ります。次は上の画像中央にある昭和初期に設置されたエレベーターを使い2階へ移動。ちなみに、このエレベーターは日本で2番目に出来たエレベーターで、現存するエレベーターとしては日本最古のものです。ちなみに、日本で一番古いエレベーターは、浅草の凌雲閣のものでしたが、関東大震災で崩壊しました。当時としては最新鋭の、防火シャッターや避雷針、水洗トイレが日本銀行には残っています」
2階に到着。ますは上のガゾ右下の赤じゅうたんの通路の両側に架けられた絵画を見学。
ガイドさん「歴代総裁の絵画です。スペースの関係で全ては展示出来ないので一部のみ展示してあります。廊下の奥の左手に、総裁室があり続く廊下はかつて行員の間で『松の廊下』と呼ばれていました」
ちなみに、総裁の絵は現在は描かれていないんだとか。展示してある絵で私が見て一目で名前が分かったのは『高橋是清』さんくらい。『坂の上の雲』で日露戦争の時に戦費調達で欧州で奔走してた映像を覚えてますわ。
続きまして、上の画像の右上。これはドーム屋根内側の八角堂の天井部です。かつてここで重役会議をやっていたんだとか。この周辺には日本銀行の歴史の品を展示してあります。中でも面白かったのはかつて営業開始を告げていた樫製の拍子木です。この音もテープで再生出来るようになってまして、営業場内に鳴り響く感じが味わえて楽しいです。
ガイドさん「よく日本銀行本館は上から見て『円』の字であると言われるのですが…。辰野博士の時代に使用されていたのは『圓』の字なので、偶然の一致だと思われます」
えっ!?そうなのっ!!
はっきり言ってこれが今回の見学の中で一番驚いた事だったりする!日本銀行の建物が上から見ると「円」の字というのは、定着したトリビアだと思っていたのに、偶然の一致なのかよっ!!!
展示品の中に日立製の古っるいパソコンがありました。
ここからは本館から廊下で繋がる本館へ移動。現在の日本銀行の業務を見学です。しかし建物内は静か。というのも、現在は日銀ネットで各地の銀行とのやりとりはほとんどまかなえていて、一部ネットに繋がっていない地方の信金などが窓口に来る意外は直接来店する必要もないからです。
ちなみに、日本銀行の行員は、全世界で総勢4700人いるんですって。多いんだか少ないんだか。って事で見学は終了です。引き続き、日本銀行本館向かいにある貨幣博物館の見学に向かいます。しかしここも内部撮影禁止だったんだよね~。見学はとても楽しかったんだけど、画像がないんだよな~。記事、どうしょっかな~。
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日本銀行本店本館見学

2014年02月09日 05時21分11秒 | レトロ建築
先月、1月29日に日本橋にある日本銀行本店本館を見学してきました。
私のブログを長らく見てる方はまだ行ってなかったんかい!?とも思われるでしょうが、ここってば見学方法が面倒くさいのだ!
まずですね。1)見学希望の3ケ月前から1週間前までに電話にて先着順で見学予約する。
やってみてわかったのですが、タイミングが悪いと電話がなかなか繋がりません。何のタイミングかというと、おそらく見学案内してる人と、申込受付してる人が同じなのです。だから、見学者を案内してる時間に電話しても繋がらないのだ。自分で申込して気付きましたよ。
ちなみに、申込受付時間は、毎週月曜~金曜の9時半から16時半までです。
<一般見学>
見学日:毎週月曜から金曜日。
見学時間:1)9:45-10:45頃。 2)11:00-12:00頃。 3)13:30-14:30頃。 4)15:00-16:00頃。
見学所要時間 約1時間(日本銀行紹介ビデオ上映約20分。店内見学約40分。
対象:小学校5年生以上の方。
*ちなみに、一般見学の他大学生以上10名以上のグループを対象とした、開催日時を特定したレクチャー付き見学もあります。

2)電話が通じたら、見学希望日&見学時間を述べる。ここで見学予約者に余裕があれば見学受付OKとなります。
3)見学者<グループ申込の場合は見学者全ての>の氏名・住所・電話番号を口答で述べる。
4)後日、日本銀行情報サービス局から見学グループ代表者宛に封書が届く。封書には最寄駅から日本銀行までの案内図と見学予約証が届く。
5)当日、見学予約証を持参。見学の前にセキュリティーチェックがあります。

ちなみに、館内の撮影禁止。飲食禁止。喫煙禁止。荷物は無料ロッカーがあるので預ける。
結構大変です。
さて、私はというと。1月22日の見学日の1週間前に申込み、第一希望の11:00-12:00の回の見学回が無事に取れました。尻込みせずに電話してみましょう。
では早速。JR神田駅に10時40分到着。日銀通りを探すのに少し迷いましたが、無事に日銀を発見出来ました。

見えて来たのは増築部分。
足元にはカラーマンホール発見。


日銀通りを挟んで、西側が日本銀行本店。東側は三井本館です。この建物は、1929年(昭和4)竣工、アメリカのジェームズ・スチュワート社が施工しました。三井本館も重要文化財の建物なので、いつか記事にしたいです。

さて入口は…。
本店見学者は、本館西門が入口です。

入口の警備員さんに、見学案内証を見せていよいよ入館します。

た~の~し~み~~っ!!

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神奈川は昨日一日雪でした!今までにない大雪でした!今までにないから、ベランダはもちろん玄関前のローカも雪で埋まりました。さっきみたら、玄関前は誰かが雪かきしてくれてました。ちなみに玄関前のローカというのは、マンションの4階のローカです。しゃれになりません。しゃれにならないと言えば。ベランダに並べてあるプランターと植木鉢です。植木鉢のミニバラの枝がボキッとへし折れてしまいました。このミニバラは生田緑地にまだ向ケ丘遊園が存在していた頃にあそこのバラ園で購入した奴なので、既に年代ものです。毎年咲くので楽しみにしていたのに…。まだ雪に埋もれてるので発掘出来てませんが、雪の隙間からあり得ない方向に枝が見えてるからおそらく太い枝から折れた模様です。泣ける…。

諦めきれないので、バラの植木鉢の上からじょうろに湯を入れてかけてみた!
ダメだった~。全然溶けない~~。
なので手で雪をかき出す事にした。

ゆ・雪って重い~~。こんなん雪国の人毎日やってるの~??
ちりとりでかき出すのを諦めて、手でスーパーの袋に詰めていく。つーか、この雪ってどこに捨てれば…。………。ローカ側の雪かきした雪の上に載っけておこう。つーか、ミニバラ以外のプランターは諦めた!結婚記念で友達からもらったブーゲンビリアの枝もボキボキになってたけど、もう見ない~~。あれは枝が折れても大丈夫。毎年どんなに手荒く扱っても復活して毎年花をつけてるから~~~。(大泣き)
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日野宿脇本陣

2014年02月07日 05時42分47秒 | レトロ建築
日野宿脇本陣は、嘉永2年(1849)正月18日の大火によって古くからの主屋は焼失してしまいました。
現存する建物は、佐藤彦五郎俊正が10年を費やして準備を進め文久3年(1863)4月に上棟し、翌元治元年(1864)12月から住み始めたものです。
日野宿本陣には、佐藤彦五郎が近藤周助に師事して開いた「佐藤道場」がありました。ここでは、後の新選組局長となる近藤勇や、副長の土方歳三、沖田総司、井上源三郎たちが激しい稽古に励んだのです。
長屋門は大正15年の大火で類焼し、現在はありません。
また、明治26年に54軒を焼いた日野大火によって有山家(佐藤彦五郎の四男彦吉の養子先)が焼失したため、「上段の間」と続きの一間は有山家に移されています。(有山家は非公開です)以上入館時に渡されたパンフレットより。

日野宿脇本陣跡の見学料100円を支払いしばし待つ。日野宿本陣は希望すればガイドさんが案内してくれるのだ。
かつての土間は今は資料展示がなされています。これを見てますと、ガイドさんがやってきた。今回のガイドさんは以前ガイドして下さった方とは違う方でした。
そうなの!実はここを訪れるのは2度目です。
前回の記事はこちら。新選組ファン憧れの日野本陣(2011年6月11日)の記事 この時のガイドさんは、「みなさん、新選組ファンの方ですか?」と確認の上、新選組のエピソード中心でガイドして下さったのですが、今回のガイドさんの萌えは新選組ではなく、レトロ建物の鑑賞ポイントである本陣建築にありました。普段ならそれも楽しいんだが、ここは新選組のエピソードを楽しみにしているだろうあっこさんの為にもぜひともそっち押しでガイドして欲しかったんだけど…。まさかの事態です。

ん~、どうすっかなぁ~??悩むう~~。

何に迷ってるかというと、建物萌えのガイドさんに従って日野宿脇本陣解説の記事にするか?
それとも、前回のガイドさんの新選組エピソードを加えての記事にするか?って事。

………。

決めました!どっちも紹介します。

まずは土間を上がると、ある主屋の18畳の広間から。
ガイド「この部屋はかつて周囲の人達の会合の時などに使われてました。ここで紹介したいのがこの素晴らしい桟です。こうね、年輪の出方がね、こっちが町民・農民向け。反対側は本陣用です。綺麗な正目模様でしょ?」
あまりにも嬉しそうに解説するんで、ぜひとも画像を写したかったんだが、木の色が黒くって挫折しました。私の携帯電話では木の年輪の出方まで再現出来ません。無念。
そんで本陣用側にあったのは…。

玄関あがった所にある10畳間です。
以前のガイドさんは「佐藤彦五郎の奥さんは土方歳三の姉でした。姉の家に遊びに来た歳三は、この部屋に寝転がって昼寝していたそうです」
ちなみに、上の画像の額は、『すなわち武。すなわち文』と読みます。

これはかつての式台です。
玄関でもあります。しかし式台から入れるのは大名のような身分の高い人のみ。
がしかし。以前のガイドさんは「京都・鳥羽伏見の戦いで敗北した新選組は江戸に引き上げてきました。その頃には沖田総司は肺病を患い戦線離脱。江戸で療養していました。沖田総司は日野から甲州勝沼へ向かう新選組を見送りに日野までついてきました。そんな総司を見て彦五郎は尋ねます。『総司、身体大丈夫か?』すると総司は『大丈夫です』と、この式台で四股を踏んでみせました」というナイスな解説を入れてくれましたわ。つーか、数年前の事だったので、ガイドさんの言葉とか記憶からポロポロ抜け落ちてるんだが、土方歳三の昼寝の現場&沖田総司の四股踏みの現場エピソードはバッチリ覚えてます。
しかしガイドさんの萌えは別だった。釘隠しはこんなの。
この部屋の釘隠しのデザインの解説でした。あれ?確かこの部屋の釘隠しは「こうもり」だったような…。この画像は隣の部屋だったかもしれません。
式台つき玄関を上がって正面の10畳間右並びに6畳・6畳の小部屋二つ。

一番奥の6畳間にも新選組のエピソードがあります。
たぶんこの画像の奥が鉄之助くんが匿われていた部屋。
かつてのガイドさん「明治2年(1869)、函館において歳三は戦死しました。歳三は死の直前、小姓を務めていた市村鉄之助に遺髪と写真を渡し、「日野の家族の元に届けてくれ」と命じます。佐藤彦五郎邸に写真を無事届けた鉄之助は、明治政府の逆賊狩りから彦五郎により2年この部屋で匿われました」
まさかのエピソードです。鉄之助くんが歳三に函館で写真を託されたのが16歳の時です。
そんな部屋を歩きつつ、中廊下へ移動です。
建物萌えのガイドさん「上をごらん下さい。欄間に透かし彫りの技が光ります」

「さて、こちらの12、5畳の間が現存する本陣で一番いい部屋です。今に残る職人技をごらん下さい」
さて、歯にものがはさまったような書き方なのは理由がある。この部屋は確かに今一番格が高いけど、かつてはそうではない。以前はこの部屋の左手にまだ2つ部屋があった。大名や公家が休息する「上段の間」です。今現存していない訳は。明治26年(1893)にあった大火事で、彦五郎の4男が養子に入った有山家が類焼。上段の間部分は有山家へ移築されたからです。

「床の間の脇をごらん下さい」
 
「こちら、表と裏で透かし模様が違って見えます!」

建物萌えのガイドさん「この廊下の上を見てください。天井と壁の間の木が凄いんです」
え~と?
建物萌えのガイドさんは「つなぎ目が…云々」と。木の切り出しから詳しく説明を受けたんだけど…。
ゴメン!思い出せないっ!これ去年の11月14日に訪問したのだけど、さすがに3か月近く前だからな~。所々思い出せないんです。
こちら、かつての彦五郎さんと奥さん、土方歳三の姉の夫婦の部屋です。
この部屋の釘隠しは多産のウサギがモチーフです。
この部屋でもかつてのガイドさんは新選組のエピソードを語ってくれました。
「京都から戻り、甲州へ向かう時に歳三は姉に『この後どうなってしまうのか?』とこの部屋で心情を吐露したそうです」
歳三、姉ちゃん子だったんや~。

上の画像は夫婦の寝室の隣の四畳半から眺める庭です。
彦五郎と歳三の姉とは仲のいい夫婦でした。しかし姉の方が先になくなってしまいます。
俳句も嗜んだ彦五郎は「この庭を共に楽しんだ貴女はもういない」という主旨の俳句を残しているそうです。

しか~し、建物萌えのガイドさんはそんなの全く紹介してくれなくて、建物の説明ばかりですわ。
「天井をごらん下さい。並びの3部屋で違いがあります。分かりますか?」
ン~~??何だろう?
「現在はこの先にもう一つ6畳の畳敷きですが、かつてはこの先がお勝手でした」

天井を見比べると、お勝手に近い部屋程黒いんです。煮炊きの火でいぶされていた事が見て取れるんですよ」

「柱の上に釘が並んでるのが見えますか?」と。以後のあれこれとどう使われていたか熱心に語って下さいました。普段ならそれも嬉しいんだけどね。ガイドさんは『新選組』をかすりもしないままガイドを終了しちゃいました。なんだろう?このやり残し感は??あっこさんに聞いてみる。
「新選組の羽織を羽織って記念撮影出来るみたいだよ?」
ンでも、あっこさんの答えはNO!だった…。やっぱりな。
同じ場所へ2度訪れてみて、ガイドさんの萌え方向でガイド内容が全く違うのだと発見出来たのだけ嬉しい。
さて。次に向かうは、佐藤彦五郎夫妻のお墓と新選組六番隊組長、井上源三郎のお墓です。だって、私らは『新選組ゆかりの地めぐり』がメインの日野歴史散歩なんだも~ん。
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旧三井家拝島別邸(北泉寮)見学2階

2014年02月05日 05時12分34秒 | レトロ建築
北泉寮は、明治25年(1892)に永田町の旧首相官邸の所に建てられた鍋島侯爵邸の和館がベースになってます。なぜにベースかといえば、拝島へ移築した後に三井家が増築してるからです。
見学ツアーは建物2階へと進みます。私がまず驚いたのは南に大きく開いたガラス窓です。もう採光たっぷり~~。



広間を取り巻くように廊下があります。上の画像の床をよく見て欲しい。廊下の内側が畳敷きなのです。鍋島侯爵・旧鍋島藩のお殿様は、畳部分を歩くのだ。

こっちの画像の方が畳の廊下部分がもっとよく分かるかな?
「以前案内したお客さんが教えてくれたんですが…」
ン?

「床の間の上にある小さな引き戸は何の為についているか?」
何の為に~??
そういやあ、大概アレ同じ大きさなんだよな~。何でついてるのかしら?
「実は…」
ほうほうほう。
「首検分した首を入れる為だったのです」
フリーズ!!
え~と?ソレって…。
アレだ。戦があったとする。ンで敵方の名のある武将を倒したら、本人かどうか確認する為に戦場から首を本陣とか城へ送る。ンでもって首を納めた櫃を床の間の上の引き戸に収納したーーって事か!?
う~む。まさかの使い道!まさかの目的でアレはつけてあるのだね。

「この化粧台は古いです。オリジナルです」
ごめ~ん。他にも由来とか時代とか説明があったんだけどね。化粧台が置いてある場所は狭くてですね。案内人さんが説明してた時にそこに近づけなかったのね。後から撮影したンで、詳細は分からないままです。これが鍋島時代か?三井になってからか~??
さてさて、2階は大広間・中の間・小広間とか、いわゆる和室がいくつもあるのですが…。
「ここで問題です。一番格式の高い部屋はどこでしょうか?」
ン~~??
「実はこの部屋です」

「この部屋は、桟が全て角を面取りがなされています」
本当だ…。こんな所に職人芸が…。自由鑑賞だったら絶対に気付かなかったわ~。

そして私が密かに萌えたチェックポイントです。この建物って釘隠しが全くないんですよ。って事は、全部組み合わせの組木で建物が造られてるのだね。この建物が出来たのは1892年。1923年に発生した関東大震災を殆ど被害無しで耐えた優れた建物です。日本の技だよなあ…。まあ、旧首相官邸の地に立ってたのであれば、あそこなら地盤はそこそこ硬かったと思うけど。少なくとも液状化とかはなかったんじゃないかな~?とはいえ、同じ敷地にあった鍋島侯爵の洋館は倒壊したとかとか。
ああ…。レトロ建築を見学していっつも思うんだけどね。私にもう少し建築の知識があればもっともっと楽しめると思うんだよね。
こちら廊下の隅っこを写してみました。


2階の廊下から1階を見下ろしてみました。
さて、2階の奥へ進みます。

実はもう三井時代の増築部分になります。
「増築部分と鍋島侯爵の建物の見分け方は、桟の太さです。時代が下ると細い木が使われています」

「こちらが当主の寝室です」
病気で寝てた時とか、看護婦を呼び出しボタンが壁に残ってました。
更に奥へ進みますと、
「浴室です」
  
右の画像は、天井の湯気抜きです。
さて1階へ戻ります。
これ、昨日の記事の最後に紹介した階段ではありません。別の使用人用の階段だそうで。つーか、よくこんな和館を校舎として使っていたよなあ…。子どもなど使い方が洗いだろうにな。
入口には、維持募金の箱が設置してありました。





かつてここに門がありました。土台だけ残されてます。
最後に北泉寮の建物をもう一度振り向いて見学ツアーを終えました。

さて、ここからは…。大勢の見学者はグループ毎に散って行きます。あるグループは近所の拝島大師へ。別のグループは武田つつみと立川堀を見学に向かうようです。私らといえば…。そそくさと拝島駅行きのシャトルバスに乗り込みます。シャトルバスは本数は少ないけど、見学客も利用出来るのです。しかもありがたい事に無料で利用出来るのだ!
拝島駅到着。次に向かう先はJR日野駅。あっこさんの希望で新選組ゆかりの日野本陣を目指します。

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三井財閥の屋敷がなぜ昭島に?

2014年02月04日 05時51分58秒 | レトロ建築
ところで、旧三井家拝島別邸は昭島市の多摩川の側にあるのですが、なぜにこんな所に三井財閥が別邸を建てたのか?まずそこに引っかかっていたのですが…。

いよいよ案内人さんについて北泉寮の建物の中を見学します。
まずは1階から。




食堂だった部屋。






案内人さんは、見学客を集めて説明開始です。それがトップ画像です。ね。見学客多いでしょう?客が多いと同じ部屋に全員は入れないのよ。
案内人「大正12年(1923)、相模湾を震源とした関東大震災が発生しました。三井家も大被害を受けました。三井家11代当主、三井八郎右衛門は大号令をかけます。曰く『地盤が堅い場所を探してこい!』条件に合致したのがここ、拝島でした。八郎右衛門は震災後、千代田区永田町2丁目にあった鍋島侯爵の和館を買い取り移転します」
ちなみに、移転費用は莫大で、一から建てた方が安上がりだったとか。つーか、ぶっちゃけ一から建てるのに比べ倍額かかったんだって!ひえええ~~~!!ですよね。
「拝島周辺は、かつて養蚕がさかんでした。しかし時代が変わり次の産業を模索していた時に三井家がやってきました。結果、昭島市には三井の工場や会社がいくつも出来ました」
やっぱ凄いな三井財閥!
「やがて暗い時代がやってきます。拝島別邸は子ども等の疎開先となりました。北泉寮は校舎となったのです。
三井家が拝島別邸を寄贈。港区赤坂にあった啓明学園が移転し、この地が学校となりました。その後赤坂の校舎が空襲により焼失。終戦後、拝島で授業を再開。
やがて学生も増え、手狭になり日本庭園を潰して新校舎を建設。その頃にはこの北泉寮はぼろぼろになり『おばけ屋敷』と揶揄される程に痛んでました。そこで三井家に「壊していいか?」とお伺いを建てた所、とんでもない!と修覆が始まりました。ちなみに、熱心に修覆に尽力したのは三井英子さんでした。都心の自宅から何度も足を運び指揮をとりました」
う~む。確かかかった費用を聞いたようにも思うんですが、メモを見直しても書いてないの。あれ~?
あ。これは書いとくか。
案内人「先月(10月)、トヨタの名誉会長が見学に訪れました。彼は三井の甥っ子になるんですね。『生きてるうちに見ておきたい』と」
トヨタの名誉会長?誰だろう??
あ。もう一つ抜けてるわ~。
案内人「啓明学園北泉寮の名前の由来は、北が三井北家<三井の総領家>(三井高雄)の北を、泉は住友家(英子夫人の母方の実家)の屋号の泉屋からきています。
三井財閥と住友財閥が縁戚関係になったのはこの縁組みが始めてだったんだって。へえ~へえ~へえ~。
折上げ格天井の応接室です。
折上げ格天井があるのは、格が高い部屋の印。以前にもいくつか見たような…。
神奈川県庁本庁舎の一般公開(2013年6月25日)の記事 こちらの記事に神奈川県庁舎の大会議場の画像があります。思い出したのがここ。あとは…どこだっけな?川越喜多院の徳川家光公誕生の部屋とか?あそこは写真撮影禁止だったんだよな~。
三井財閥の豪邸2階部分(2011年5月17日)の記事 こちらの記事に武蔵小金井市のたてもの園の中にある三井家本邸2階にある二重折上格天井の画像があります。
ちなみに、この部屋はすんごく豪華。現存してるものをいくつか撮影してみた。

マントルピース。和館なのに洋館風味なのね。

布飾りはオリジナルのものだとか。


こちらはモザイクの床。…モザイクで良かったっけか?木の種類の違いで模様がついています。
や~、説明聞きつつ撮影しつつ立ったままメモしてたんですが…。よ・読めないんですっ!自分の字なのに~~。判別不能~~。その上ね。撮影しつつ耳だけ説明を聞いてた場所を後から確認してたりもしたのですが。なぜって。見学者が多過ぎて応接間に全員は入りきらなかったのだ。
この建物は明治25年(1892)に建てられた和館なのですが、その頃にはまだすごい細工の技を持つ大工や職人が一杯のこっていたのね~。



この辺りは指物?とみまごう技があちこちに使ってあります。

こう、どこをとっても素晴らしいんだわ。
「文化財指定出来るかどうか?を見に来た人が、応接室を見て『ここまで現存してる場所はまれ』と評価してくれました」

「念願の指定が取れた時、学園内で指定プロジェクトにかかわった人で大喜びしました」
 
さて、1階はこれにて。2階へ移動です。

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