高尾山などの「寅太の山野草」

中越地震で被災した小千谷市と長岡市にある戊辰史跡の復興を応援しています。
山野草を中心にしたブログです。

歴史の宝庫かしわざき(その13)

2008-11-01 04:23:21 | 四季

【いざ!勝海舟のふるさとへ(3)】

きょうから霜月・11月に入った。いよいよ勝海舟の最終回がやってきた。
海舟は号で、
もとの名は勝麟太郎義邦。そして後に2千石で安房守。明治2年には安芳(やすよし)で、自ら賢い(多分)と思いながらも、「あほう」と読むのだと言ったという。海舟の号は、妹が師の佐久間象山に嫁ぎ、象山が持ってきた額の、「海舟書屋」の横書きの文字が気に入ったからと伝わる。

親戚の男谷家の親戚で、大奥に勤める阿茶の局の手引きで江戸城に入り、ここで将軍家斉の目にとまり、家斉の孫の初之丞の遊び相手になったのは、最大の幸運であった。これがなければ、NHKの「篤姫」で、無役の小普請組の父小吉の息子が、篤姫の前に登場できるはずがない。そして粘り強い海舟の体には、雪国の越後人の血が流れている。
なお、小普請組とは字の通り、小さな普請がある時に手助けをする組で、ほとんど無役の役目である。

明治政府は海舟を重く用い、やがて華族に列する伯爵を授けた。かって咸臨丸で共にアメリカに渡った福沢諭吉は、晩年に幕臣だった海舟を、「痩我慢の説」の中で非難した。しかし海舟は、「行蔵(こうぞう)は我に存す、毀誉(きよ)は他人の主張、我に与(あずか)らず我に関せず候」と答えた。

アケビ(木通)をくださった区長は、杉平地区の活性化を先頭になり推進しているが、その家の近くに大きなナツハゼ(夏黄櫨)の木があった。この実はジャムによく使われるが、食べることもできる。


(まだ少し紅葉前だったナツハゼ)

道端に咸臨丸、検校塾、検校説明碑、看板が並んでいる。検校塾は長鳥工房、長鳥地区子ども会クラブハウスと併記してあるので、子供の遊び場や教育施設であろう。

 
(大角間から来た方向)     (向こうは佐橋荘の方向)

柏崎の史跡には波型を模した石の説明文が、史跡の各所にあった。ここは米山検校の全文を紹介する。

みちしるべの22
米山検校(1704~1771)
米山検校は東長鳥、杉平の山上家に生まれ、幼くして光を失いましたが、逆境のなか苦労して江戸にでて、杉山流鍼道をきわめました。努力と才能が水戸光圀公に認められ、その後盲人官位最高の「検校」にのぼりつめました。富をたくわえながらも、質素倹約の人で、ふるさと長鳥郷が大飢饉の折には、救援米を送り、当時の御礼塔が今でも残されています。臨終の直前、「我の財産をあてにするな」と証文に火をつけて灰にし、我が子に独立自尊を訴え、その精神は曾孫である勝海舟に受け継がれました。  社団法人 柏崎青年会議所

 
(建物の名は検校塾)      (米山検校の説明碑)

 
(道端に赤いケイトウが咲く)  (今はのどかな杉平集落)

 
(越後毛利の山城への道) (さらば勝海舟のふるさと杉平)

御礼塔はもう1箇所、杉平集落の山上家の墓地にあると言われるが、今回は寄らなかった。長鳥駅の近くから山道に入り、一周する形で杉平にきたが、車は左に八石の山並み、そして前方に柏崎・細越の黒姫山を見ながら、杉平集落を後に佐橋荘の方向に進む。

文献などでは海舟の祖先の出身地を、越後国三島郡長鳥と紹介しているものが多い。古志郡から三島郡(さんとうぐん、山東郡ともいう)が独立した時、従来の三嶋(みしま)郡は、ややこしいので刈羽郡に改名した。
柏崎市剣野にある神社も、古い文献では越後国三嶋郡三嶋神社である。長鳥は三島郡との境に近いが、越後国三嶋郡長鳥が正しいのかも知れない。(おわり)

コメント (6)
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