高尾山などの「寅太の山野草」

中越地震で被災した小千谷市と長岡市にある戊辰史跡の復興を応援しています。
山野草を中心にしたブログです。

歴史の宝庫かしわざき(その2)

2008-10-19 08:10:48 | 四季
心に爽やかに響き、いかにも宮人が好みそうな名前の“佐橋荘”(さはしのしょう)である。この美しい里が第51代平城天皇に繋がる毛利家のふるさとである。
源朝頼は鎌倉幕府の創設にあたり、朝廷に仕えていた大江広元を政所の別当(まんどころのべっとう:今の総理大臣)として鎌倉に迎えた。
広元の幕府への貢献は絶大で、その一つの領地として相模国愛甲郡に毛利荘(現厚木市毛利)を賜り、4男季光(すえみつ)をおき毛利を名乗ったのが毛利氏の始まりである。

時は移り、北条時宗の父時頼が第5代執権についた翌年に、三浦泰村の乱が勃発し、季光は娘婿の時頼に付かず、敗戦を覚悟で妻(泰村の妹)の三浦一族に義を通して戦った。
一日にして決着し、三浦一族5百余名として、季光と長男、二男、三男はことごとく源朝頼ゆかりの鎌倉法華堂で自刃した。

滅びたかにみえた毛利氏であるが、運よく遠国の佐橋荘にあった四男経光は三浦一族の乱に加担せず、毛利荘は没収されたが佐橋荘2千貫と飛地の安芸国吉田荘千貫は安堵された。
北条の郷土史研究家平原順二氏によれば、2千貫は石高では9千石いわれる。
ところで鎌倉幕府の北条は“ほうじょう”と読み、佐橋荘の北条は“きたじょう”である。
この一帯は来年のNHK大河ドラマ「天地人」の御館の乱(おたてのらん)で、大きな転機を迎えることになるが別の機会にしよう。

北条で誰に聞いても佐橋荘の名前はわからず幻である。「おめぇさん わ~るいろぉも おらぁ わかんねぇて かんべんのぉ」。伝説の里人はみんな優しく親切である。
佐橋荘の謎を知りたければ、村(町?)おこしをしている「ぬくもりの里 北条」に聞くと、ここには全て知っている人がいると見た。

群生しているアキノキリンソウ(秋の麒麟草)が綺麗である。群生地を生む環境だけに葉まで緑でみずみずしい。


(北条で見たアキノキリンソウの群生地)

 
(幻の佐橋荘と「ぬくもりの里 北条」)

コメント (7)
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