心に爽やかに響き、いかにも宮人が好みそうな名前の“佐橋荘”(さはしのしょう)である。この美しい里が第51代平城天皇に繋がる毛利家のふるさとである。
源朝頼は鎌倉幕府の創設にあたり、朝廷に仕えていた大江広元を政所の別当(まんどころのべっとう:今の総理大臣)として鎌倉に迎えた。
広元の幕府への貢献は絶大で、その一つの領地として相模国愛甲郡に毛利荘(現厚木市毛利)を賜り、4男季光(すえみつ)をおき毛利を名乗ったのが毛利氏の始まりである。
時は移り、北条時宗の父時頼が第5代執権についた翌年に、三浦泰村の乱が勃発し、季光は娘婿の時頼に付かず、敗戦を覚悟で妻(泰村の妹)の三浦一族に義を通して戦った。
一日にして決着し、三浦一族5百余名として、季光と長男、二男、三男はことごとく源朝頼ゆかりの鎌倉法華堂で自刃した。
滅びたかにみえた毛利氏であるが、運よく遠国の佐橋荘にあった四男経光は三浦一族の乱に加担せず、毛利荘は没収されたが佐橋荘2千貫と飛地の安芸国吉田荘千貫は安堵された。
北条の郷土史研究家平原順二氏によれば、2千貫は石高では9千石いわれる。
ところで鎌倉幕府の北条は“ほうじょう”と読み、佐橋荘の北条は“きたじょう”である。
この一帯は来年のNHK大河ドラマ「天地人」の御館の乱(おたてのらん)で、大きな転機を迎えることになるが別の機会にしよう。
北条で誰に聞いても佐橋荘の名前はわからず幻である。「おめぇさん わ~るいろぉも おらぁ わかんねぇて かんべんのぉ」。伝説の里人はみんな優しく親切である。
佐橋荘の謎を知りたければ、村(町?)おこしをしている「ぬくもりの里 北条」に聞くと、ここには全て知っている人がいると見た。
群生しているアキノキリンソウ(秋の麒麟草)が綺麗である。群生地を生む環境だけに葉まで緑でみずみずしい。
源朝頼は鎌倉幕府の創設にあたり、朝廷に仕えていた大江広元を政所の別当(まんどころのべっとう:今の総理大臣)として鎌倉に迎えた。
広元の幕府への貢献は絶大で、その一つの領地として相模国愛甲郡に毛利荘(現厚木市毛利)を賜り、4男季光(すえみつ)をおき毛利を名乗ったのが毛利氏の始まりである。
時は移り、北条時宗の父時頼が第5代執権についた翌年に、三浦泰村の乱が勃発し、季光は娘婿の時頼に付かず、敗戦を覚悟で妻(泰村の妹)の三浦一族に義を通して戦った。
一日にして決着し、三浦一族5百余名として、季光と長男、二男、三男はことごとく源朝頼ゆかりの鎌倉法華堂で自刃した。
滅びたかにみえた毛利氏であるが、運よく遠国の佐橋荘にあった四男経光は三浦一族の乱に加担せず、毛利荘は没収されたが佐橋荘2千貫と飛地の安芸国吉田荘千貫は安堵された。
北条の郷土史研究家平原順二氏によれば、2千貫は石高では9千石いわれる。
ところで鎌倉幕府の北条は“ほうじょう”と読み、佐橋荘の北条は“きたじょう”である。
この一帯は来年のNHK大河ドラマ「天地人」の御館の乱(おたてのらん)で、大きな転機を迎えることになるが別の機会にしよう。
北条で誰に聞いても佐橋荘の名前はわからず幻である。「おめぇさん わ~るいろぉも おらぁ わかんねぇて かんべんのぉ」。伝説の里人はみんな優しく親切である。
佐橋荘の謎を知りたければ、村(町?)おこしをしている「ぬくもりの里 北条」に聞くと、ここには全て知っている人がいると見た。
群生しているアキノキリンソウ(秋の麒麟草)が綺麗である。群生地を生む環境だけに葉まで緑でみずみずしい。