高尾山などの「寅太の山野草」

中越地震で被災した小千谷市と長岡市にある戊辰史跡の復興を応援しています。
山野草を中心にしたブログです。

歴史の宝庫かしわざき(その5)

2008-10-22 09:56:27 | 四季
【いざ!出陣鯨波の戦場へ】

中越地震で被災地に駆けつけた寅太の車には、テントと中越地震のボランティアの時に使った毛布が積んである。
久しぶりの柏崎では1時間でも貴重に感じ、朝5時に古戦場の鯨波に向かう。

ここは戊辰戦争で高田に終結した新政府軍(西軍)が、長岡そして会津に向かう途中に通過せねばならない要地にある。
柏崎は会津藩主松平容保の実弟で、京都所司代桑名藩11万石松平定敬(まつだいらさだあき)の飛地であるが、本領の桑名とそれほど大きさは変わらないのが実情であろう。

桑名藩松平(久松)家は、徳川家康の異母弟にあたり、母御大の方が離別したあとに生まれた久松定勝に連なる藩である。11万石ではあるが、松平正信を迎えたことにより、格式は極めて高い家柄である。

西軍は高田から海道と山道の二手に分かれ、山道軍は会津藩陣屋のある小千谷と小出島に向かい、海道軍は桑名藩の柏崎に迫った。一方、東軍は鯨波駅裏の小高い山の松林に潜み、西軍を迎え撃つ備えを固めた。
そして閏4月27日の未明に、山頂の東軍と米山を背景にした集落近くに到達した西軍との間で、激しい銃撃戦が始まった。
一説には鯨波駅の西にある前川を挟んで、西軍2500名、東軍500名の激しい銃撃戦で、付近の集落一帯は炎に包まれたという。

ここに会津征伐の初戦である「鯨波戦争」の火蓋が切られたのである。西軍にとっても苦難の北越戊辰戦争は事実上ここから始まる。
一日続いた戦闘は五分五分に見えたが、夜半に雪峠、小出島の戦いの敗戦が伝わると、西軍は陣地を後ろに引いた。


(戦場跡地に咲くノコンギク)

鯨波で「鯨波戦争」を聞いても誰もわからないが、でもここまできて寅太も引き下がれない。10人目位に訪ねたおじいさんから、鯨波駅の背景にある蒼海ホテルの跡地と米山方向の集落との間で砲撃戦があったという。
それと今は老人ホームになっている小高い丘は、昔はかなりの高さがあり、ここから戦いを物語るような銭の束が出たともいう。
それではいま寅太が立っているところは、戦場の真っ只中ではないかと空を見上げる。まだ明けきってはいないが、越後路の秋の空は青く澄み渡っている。

 
(鯨波駅前に愛車を止めて、背後は鯨波の海)

 
(鯨波周辺地図と美しい鯨波の浜辺)

 
(左が西軍、右東軍の間で戦闘開始)

コメント (4)
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