先日の帰りのクルマの中で、MISIAの「JUST BALLADE」
を聴いていました。
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<nobr>JUST BALLADE</nobr><nobr> 価格:¥ 3,059(税込) 発売日:2009-12-16</nobr> |
そして、「逢いたくていま」を聴きながら、去年10月に「THE TOUR OF MISIA JAPAN SOUL
QUEST」の大阪公演に遠征した時、適塾を見学したっけなぁ(記事はこちらとこちら)、いつもにもまして聴きたかった「逢いたくていま」を歌ってくれなかったなぁ
、なんて思い出していました。
そしてそして連携プレイで思い出したのは、「積み残しから備忘録的に五浦のことを書いておこう(その1)」で、旧岡倉天心邸宅や長屋門、そして六角堂などからなる「天心遺跡」を茨城大学が所有・管理していることについて、
なぜ天心ゆかりの東京藝大や東博ではなく茨城大学?
緒方洪庵の適塾跡を大阪大学が管理しているのは自然な話ですが、なぜに茨城大学???と思ったものの、考えてみれば、天心は石持て追われるがごとく 東京美術学校校長・帝国博物館美術部長を辞したわけで、天心偉績顕彰会の横山会長にしてみれば、「天心遺跡の維持管理を東京芸大や東博に託すのは、絶対にヤダ」という気持ちだったのでしょう。
と書いたこと。
そこで、もう少し「天心遺跡」と茨城大学の関係のことを調べてみよう
ということで、「積み残しから備忘録的に五浦のことを書いておこう(その2)」のつづきです。
「天心遺跡」と茨城大学の関係を探る(?)べく、茨城大学五浦美術文化研究所報の創刊号(1971年)を見ますと、茨城大の元学長、都崎雅之助さんの「五浦美術文化研究所所報刊行によせて」にこうあります。
当研究所の設置由来についての詳細は、茨城大学十年史その他に記されているが、この研究所が当大学の所管となる話は、昭和30年、当時の学長東竜太郎氏と財団法人岡倉天心偉績顕彰会理事長横山大観氏との意見の一致に始まった。東さんの話では、大学が大切に天心遺跡を保存してくれれば、遺跡の近くにある横山大観氏の別荘も差し上げましょうという話もでたそうであるが、それからまもなく大観先生が逝去せられ、別荘移管は行われなかった。しかし、天心遺跡の茨城大学へ移管が大観先生御存命中に行われたことは、それだけで非常にありがたいことであった。
とあります。
どうやら、横山大観が、維持・管理を茨城大学にお願いしたという様相ですな。
都崎さんの文に気になる一節がありました。
以上のようなわけで、この研究所が、茨大の管理下で運営されることになったのであるが、この施設の発祥から考えると東京藝術大学の管下におくのが適当であるという考え方もあり、また、茨大の教授の中にも、費用や人員の負担から、こうした考え方に同調する人もいた。
ですと
やはりそうですよねぇ~。
ところが、
そこで、私は、学長会議の機会に小塚東京芸術大学長に、五浦研究所を引きうける意思はないかと打診した所、大学の規模の小さい芸大では到底引き受けられない
との返事であった。
とな
そんな落ち着かないタイミングで持ち上がったのが、(その2)で書いた平櫛田中さんからの「五浦釣人像」寄贈の話。
結局、茨城大学は「五浦釣人像」を格納するべく記念館を建て、現在に至ることになります。
「五浦釣人像」寄贈の話が、茨城大学に天心遺跡を保有・維持・管理していく腹を固めさせた
ことになった気配です。
めでたし、めでたし。
旧天心邸は、案内板によれば、
明治37年(1904)2月、自らの設計を平潟の棟梁小倉源蔵に託し、天心はボストン美術館の仕事のためアメリカへと旅立った。天心が五浦の地を手に入れた際には。鮑料理の割烹観浦楼の建物がまだ残っていた。仮の住居に使っていたその建物の木材を使ったらしく、新居は豪華ではないが、風雅な趣きとなった。当初は62坪だったが、明治40年にさらに改築して拡張した。天心没後、西側にあった12畳の書斎や東側の浴室など一部が撤去されている。
だそうです。
マンション暮らしをしていると、普通の日本家屋に憧れてしまいます
上の写真、奥の方で女性が縁側に腰掛けている様子が写っていますが、気持ち判るなぁ…
「フローリング」ではなく、歩くとギシギシと軋みそうな「板の間」もよござんす
耐震補強の筋交いが気になりますが、それは仕方のないことでしょう。
縁側から室内を覗き込んでいますと、こんなのが目
に止まりました。
「津波到達点」
旧天心邸は、磯の中のあるかのような六角堂とは違い、崖の上にあります。
それなのに、こんな所にまで津波が押し寄せたんですか
3・11の津波浸水状況の記録が貼られていました。
10mを超える高さにまで津波が押し寄せて、旧天心邸は床下浸水…
3・11の津波の凄まじさは理解していたつもりですが、「普段の海」を見下ろしながら、ここまで到達した津波を想像すると、っつうか、想像できません
いったい、何が何すればこんな高さにまで津波
がやって来るんだ
天心遺跡のすぐ近くに岡倉天心のお墓(染井霊園にある墓から分骨)があります。
このお墓からは、天心が愛した(に違いない)海が見えました。
あの日、白い波頭を立てながら押し寄せる津波も見えたことでしょう。
いろいろと思いを巡らせる五浦へのお出かけとなりました。
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