「良弁僧正1250年御遠忌慶賛遠征記 #2-2」のつづきは、東大寺法華堂の南隣りにある手向山八幡宮から始めます。
この神社(実は、私がお参りするのは初めて)は古い歴史を持っています。
説明板を転記しますと、
この手向山八幡宮は、奈良時代、聖武天皇が大仏の造営をされたとき、これに協力のため749(天平感宝元)年に宇佐から八幡宮を迎え大仏殿の近く鏡池(八幡池)の東側に鎮座したのに始まる。そして以降東大寺を鎮守したのである。
鎌倉時代の1250(建長2)年に北条時頼によって現在地に遷座した。
祭神は、応神天皇、姫大神、仲哀天皇、神功皇后、仁徳天皇
ということで、大仏開眼前に創建された神社です。
そういえば、この祭神の顔ぶれ、どこかで聞いたことがある…
と、これだ
福岡の香椎宮の御祭神から住吉大神を除いて、姫大神と仁徳天皇(応神天皇の皇子)を加えたメンバーです。半ば神話の時代の天皇及びその関係者ですな。
聖武天皇は、大仏の造営にあたって、ご先祖様の力をお借りしようと考えたのでしょう
東大寺の境内には、明治初期の神仏分離によって東大寺から切り離された手向山八幡宮のほかにも、いくつもの鳥居と社を見ることができます。
「#2-2」でも登場したNHK「千三百年祈り続ける ~お水取り・東大寺修二会~」によると、修二会では神事も行われるし、全国の神社から神様を勧請する儀式があるし、練行衆は修二会に先立って、二月堂の周りにある社にそろってお参りするしで、神仏習合が生きています。
手向山八幡宮のお祭りの際、御神輿の御旅所になる東大寺転害門には注連縄も張られていますしね。
「明治政府が何を言おうと、こちとら1200年近くこうやってるんだ」という気概が感じられます
ところで、手向山八幡宮境内の石灯籠には、こんな紋を描いた紙が貼られていました。
「対い鳩(むかいばと)」という紋だそうで、お目々ぱっちりの二羽の鳩が向かい合って(「八」を意味しているらしい)、二羽の間にがつくられているという、なかなかcuteな紋です。
武神として武家の崇敬を集める八幡宮の紋が、平和の象徴とされる鳩とかとか、逆のイメージなのがおもしろい
一方で、拝殿の前の提灯に描かれているのは別の紋です。
この紋は何の意匠なんでしょう
また、「対い鳩」紋との関係は?
今後の宿題とさせていただきます
手向山八幡宮の向かい側に、校倉造りの建物が、南北に並んで2棟立っています。
ほぼ同じ大きさ(若干南側の蔵が大きい?)の蔵ですが、上に載せた南側の蔵は手向山八幡宮の宝庫で、下に載せた北側の蔵は東大寺法華堂の経蔵(軒丸瓦に「東大寺」の文字入り)です。
校倉造りの建物は、法隆寺とか唐招提寺とか石山寺とか東京国立博物館でも見たことがありますが、やはり、正倉院正倉のデカさが飛び抜けていますなぁ。
このデカさは生で観ないと判らないだろうなぁ。
正倉院正倉は、年末年始を除く平日と、奈良国立博物館での正倉院展期間中(今年は10月28日から11月13日)なら休日でも外構を見学できますので、機会がありましたら是非
話を東大寺に戻しまして、東大寺法華堂経蔵の隣りに石塔が立っています。
これは「御髪塔」というものだそうですが、東大寺のHPには説明が載っていないし、現地にも説明板がないので、どういう塔なのか判りません
ただ調べると、この塔は鎌倉時代に建てられた十三重石塔らしい。でも、どう見ても「十二重」です。石塔は二重(多宝塔)を除けば三重、五重、七重、九重、十一重、十三重と、奇数ばかりのはずなのに…。
どうやら、地震かなにかで崩れて積み直す際、一つの屋根が失われたようです。てっぺんの法輪の上にあるはずの水煙や宝珠もありませんし…
それにしても、「諸説あります」でもいいので、御髪塔について、何らかの説明が欲しいなぁ。
ここからはこの日午前中の東大寺散策の後半に入りますので、改めて、東大寺上院地区付近の地図を載っけておきます。
国宝 木造良弁僧正坐像が祀られている開山堂を、屋根だけ拝見しました。
良弁僧正坐像は、法華堂の執金剛神立像と同様に、良弁忌の12月16日のみの公開ですが、今年は、1250年御遠忌ということで、10月28日~11月19日、法華堂で特別拝観できるそうです。
上院地区から一段降りると、鐘楼を囲むようにして、いくつかのお堂が立っています。
鐘楼は、屋根の先端が反り返っている(中国っぽい)という日本では珍しい形をしています。
鎌倉時代、南都焼き討ち後の復興に貢献した重源上人のあとを継いで東大寺大勧進を務めた栄西禅師が再興したものですが、梵鐘は東大寺創建当初からのもの。
この梵鐘がデカい
総高3.86m、口径2.71m、重量26.3tですと
梵鐘の真下に入って内側をパチリ
今、この瞬間に梵鐘が落下して閉じ込められたら、救出されるまでどれくらい時間がかかるのだろうか? なんてことを考えたら、私の次に梵鐘の下に入った人が同じことを言っていました
東大寺のHPによると、
延久2年(1070) 10月と永長元年(1096) 10月に地震のため墜落し、又延応元年(1239年) 6月には龍頭が切れて転落したが、すぐに修理されたことが修理銘によって知られている。
だそうです。地震で鐘楼の梁が折れて落下するのはあり得そうな話ですが、竜頭(鐘楼の頂部にある輪っか)が切れるというのはゆゆしき事態ですぞ
鐘楼の向かい側に立っているのが俊乗堂で、
中には、私がここで実際に拝見して(記事)、
唐招提寺の鑑真和上坐像と双璧をなす肖像彫刻の大傑作だと思います
と思った「俊乗房重源上人坐像」が祀られています。
この坐像の作者は明らかになっていないそうですが、運慶ほか慶派の仏師が有力視されているそうな。
なお、俊乗堂の内部公開は、重源上人の命日「俊乗忌」の7月5日と、これまた良弁忌の12月16日の年2回です。
このあと、例の「猫段」を、コケないよう慎重に下って(死後、ネコに転生するのも悪くはないけど…)、大仏殿の裏手に回ったのですが、そのお話は「#2-4」で書きます。
つづき:2023/10/21 良弁僧正1250年御遠忌慶賛遠征記 #2-4
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます