「9年半ぶりの広島旅行記 #1-1」のつづきです。
広島駅前でお好み焼きを食べた私は、ひろでんに乗って平和記念公園に向かいました。
平和記念公園最寄りの電停は「原爆ドーム前」なんですが、そこまで電車に乗っていったんじゃつまらない
せっかくの久しぶりの広島ですから、繁華街をそぞろ歩いてみたい と思った私は八丁堀で電車を降り、新天地や本通(ほんどおり)を通って平和記念公園へ…。
ちなみに私、運転免許をとってうん十年、反則切符を切られた経験が2回ありまして、その記念すべき(?) 最初の反則切符を切られたのが新天地でした。
かなりいいかげんな先輩の口車に乗せられてクルマを停めて近くで昼食を摂ったら、駐車違反の摘発を受けたという「黒歴史の地」であります…
それはさておき、超久しぶりの本通は、うん十年前同様に賑わっていました。
御同慶の至りです。
と、楽しみの一つにしていた広島アンデルセン…
全面を養生壁で覆われて、そして、営業していない…
養生壁には、「広島アンデルセン改装プロジェクト(既存建物解体工事)」と書かれています。
改装? 解体?
そういえば、どこかで広島アンデルセンを改装するという話を聞いたことがあったようななかったような…。
帰ってきてから調べると、毎日新聞の記事によれば、
パン製造販売のアンデルセングループ(中区)は(2018年6月)19日、再オープンに伴い閉店中の本通商店街にある被爆建物「広島アンデルセン」(同)について、被爆外壁の一部を建て替える新店舗に使用すると発表した。東側の被爆壁の一部を切り取り、新店舗2階の外壁にはめ込む形で保存する。このため、引き続き広島市の被爆建物として登録されることになった。
だそうで、ホントに解体&新築でした。
この記事にもちょっとだけ書かれていますが、この広島アンデルセンの建物は、「被爆建物」です。
右に載せた説明板を転記しますと、
帝国銀行広島支店(爆心地から約360m)
この建物は、1925(大正14)年に三井銀行広島支店として建てられました。原爆が投下されたときは、合併により、帝国銀行となっていましたが、猛烈な爆風のため、屋根は抜け落ち、爆心地に近い北西側の壁も崩れ落ちました。戦後、何度か修復され、現在はベーカリーとして利用されています。
というわけで、原爆に遭いながらも、つい最近まで現役の建物として使われてきた貴重な建物です。
私が「広島市民」だった頃、何度かこの店に足を運びましたが、重厚な外観と、中(パン売場のほか、カフェとかレストランがある「食の殿堂」って感じ)の明るさとのコントラストが鮮やかで、原爆ドームとは対照的に、平和な広島を象徴するような建物だった印象がありました。
ちなみに、爆心地は、この広島アンデルセンの北西、ちょうど原爆ドームと結ぶ直線の中間あたりにあります。
つまり、爆心からの距離は、原爆ドームと広島アンデルセンとはほぼ一緒。。
そんな貴重な建物ですが、耐震補強するとなれば、どんがらが古いだけに技術的にも金銭的にも大変なことでしょうから、新築も仕方のないことだと思います。
旧壁を埋め込んだ新ビルのオープンは2020年8月だそうで、リニューアルオープンしたら、是非、再訪したいものです。
そして、原爆ドーム。
この建物は、広島市のサイトから転記すると、
原爆ドームのもとの建物は、チェコ人のヤン・レツルの設計により、大正4年(1915年)4月、広島県物産陳列館として竣工しました。(中略)
館の業務は県内の物産、他府県からの参考品の収集・陳列、商工業に関する調査及び相談、取引の紹介に関する図書・新聞・雑誌の閲覧、図案調製等でした。
同館は、産業奨励だけでなく、会場を提供することで博物館・美術館の役割も果たし、広島の文化振興の場として大きな役割を担っていました。
館の名称は、大正10年(1921年)に広島県立商品陳列所、さらに昭和8年(1933年)からは広島県産業奨励館と改称されています。
しかし、戦争の激化につれて、より産業奨励に重点を置いた運営がなされるようになりました。さらに戦争が激しくなると、館内の展示も次第に縮小の一途をたどり、ついに昭和19年(1944年)3月31日、館業務は廃止され、内務省中国四国土木出張所や広島県地方木材株式会社など、官公庁や統制組合の事務所に使用されることになりました。
元安川を挟んだ対岸には、往時の写真があって、現在の姿とを対比して見ることができました。
東日本大震災後、震災遺構の取り扱いについて、保存するべきだという意見と、一日も早く撤去してほしいという意見とで議論が沸き起こりました。
大惨事を後世に伝えるために保存するべきだという声もあれば、見るたびに悲しみが掘り起こされるという声もあります。土地の有効利用という観点もあるでしょう。
原爆ドームについても同様の議論があって、最終的に広島市議会が原爆ドームを管理する広島市に対して「原爆ドーム保存を要望する決議」を可決することで保存が確定したのは、被爆から21年も経とうする1966年7月11日のこと。
保存賛成派と反対派が折り合うまでにはこれほどの時間を要するということなのでしょう。
東日本大震災の震災遺構についても、結論を急がずに、原爆ドームのときのように時間をかけて話し合うべきではないかという意見を聞いたことがあります。
私のこの考えに賛成なのですが、一日も早く残骸を片付けてほしいと願う遺族の方々にしてみれば、なし崩し的に保存という結論に持ち込まれるのではないかという疑念が残るのだろうなとも思ったりして。
難しい問題です。
さて、保存され続けることになった原爆ドームですが、その保存はこれまた大変なことのようです。
こちらの記事を読むと、
原爆ドームは『必要な劣化対策だけを行い現状のまま保存する』という基本方針によって保存活動が進められている。現状の原爆ドームの視覚上の外観変更は原則行わず、可逆的手法を用いるとともに、原爆ドームのオリジナル部分には可能な限り保存の手を直接入れないことがルールになっているのだ。
だそうで、なんと選択肢の少ない対策を施していかなければならないことか
この記事の中で、「『原爆ドーム』はあと何年保存できるのか?」という質問に対して、広島市の担当技師の和泉さんによれば、
「それは全くわかりません。経年劣化は止められないので、劣化速度をなるべく遅く弱めてあげること。そして、今の姿でより長く保存することが目標になっていますが、100年後もこのままの状態を保存できるかというとそれはとても難しい。今後はドーム全体に覆屋をするなど、保存方法について見直しを検討しなくてはいけない時期が来るでしょうね」
だとか。
原爆ドームは「そこにある」のではないことを痛感して、保存に尽力される方々に声援を送りたい気分です。
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