新・徒然煙草の咄嗟日記

つれづれなるまゝに日くらしPCにむかひて心に移りゆくよしなし事をそこはかとなく紫煙に託せばあやしうこそものぐるほしけれ

今年最初の関西旅行記 #2-7

2025-02-08 14:25:47 | 旅行記

「今年最初の関西旅行記 #2-6」のつづきです。

淀屋橋ステキな橋ですが、難波橋も負けず劣らずステキな橋でした。

間隔を置いて何基も設置されている照明灯イイし、みおつくしをあしらった高欄オシャレだし、

こちらは正式みおつくし付きの中柱立派です。

フェスティバルホール近くの錦橋の北詰めに江戸時代につくられたと考えられている「浪華橋々繁栄見立相撲」と題する番付表がありました。

その名のとおり、当時の賑わいのランクづけですが、この難波橋はひとつ上流に架かっている天神橋につぐ「西の大関」No.2 です。

ちなみに、この番付の「行司」は、今は無き「四ツ橋」です。
四ツ橋は既に埋め立てられた長堀川西横堀川が交差する地点に口の字型に架けられた4本の橋(こういう形の歩道橋はあちこちにある)の総称ですから、別格扱いにしたということなのでしょう。
しゃれっ気がありますなぁ
そういえば、「心斎橋」も、長堀川の埋め立てで「橋」ではなくなっています

「難波橋」を語る上で忘れてはならないものがあります。
それは、大阪市のHPによれば『ライオン橋』の愛称でも親しまれている」とあるように、親柱の上に鎮座するライオンです。

Googleマップで確認したところ、土佐堀川・中之島・堂島川を越えた北側の親柱にもライオンが鎮座していて、どちらのライオンペア(牡と牡)も、橋に向かって左が阿形、右が吽形になっているという…。
東京国立博物館表慶館前のライオンも、阿吽のペアで、あ~日本だな と思います。

   

難波橋を渡ると北浜

大阪取引所五代友厚像が角地にど~んとあるのは、いかにも大阪随一の金融街の玄関口ですなぁ。

私がこの界隈に足を踏み入れるのはこれが初めてで、地下鉄に乗る前に、ちょっと見物しました。

まずは五代友厚像

よくよく見ると、ずいぶんと若々しいお顔立ちです
もっとも、五代友厚49歳で亡くなっていますから…。

五代友厚の像は、この大阪取引所前を含めて、大阪商工会議所大阪公立大学(旧大阪市立大学)など大阪だけで少なくとも5体あるのだそうで(ご参考)、大阪での五代友厚の位置づけが察せられます。
私は、大阪商工会議所に銅像があることは知っていましたが、大阪取引所にもあるとは知りませんでした。大阪商工会議所の銅像が1953年に設置されたのに対して、こちらは50年遅れ2004年に(取引所の建物の改装に併せて?)設置されたそうですから、けっこう最近のことなんですな

碑文にこうあります。

この地は 江戸期の金相場会所以来 金融取引の活発な地であり 今日まで大阪経済の発展を担ってきた
薩摩出身の五代友厚は 明治11年 当地で大阪株式取引所の設立に尽力 大阪の発展に多大なる功績を残す
ここに 大阪証券取引所発祥の地として 顕彰する
平成16年12(?)月        大阪市
   寄贈 大阪証券取引所

あれま この銅像は大阪市のものなのか
大阪市ったら、こんな場所のこんなものまで寄贈されて…
設置場所が市有地だったら理解できるのだがな。

せっかくだからと、大阪取引所の1階ロビーに入って、ステンドグラスを見物しました。

   

大阪取引所を出た私は北浜駅に潜りました。

堺筋線のホームで、こんな広告を発見

大林組の旧本店「ルポンドシエルビル」ですと? いつか行ってみたい と、メモ代わりに写真を撮ったのですが、そもそもこの広告の出稿者(広告主)は誰?

調べたところ、「生きた建築ミュージアム 大阪セレクション」大阪市の事業だそうで、また、「ルポンドシエルビル」は、大阪市中央公会堂の展示室(記事) にあった「大大阪時代を彩った近代建築」のリストに入っていました つまり、写真を撮るまでもなかったということです

北浜駅から恵美須町駅までは、4駅、所要時間はたった7分

恵美須町駅改札口の一つがなにやら怪しい

もしかしたら、これは顔認証の改札機か?

と思って調べたら当り でした。

大阪メトロのHPによると、「2024年度に全駅で顔認証によるチケットレス改札の導入を目指」しているのだとか
「2024年度」あと2か月弱しかありませんが、ホントに導入できるのでしょうか?
2025年大阪・関西万博に向けたキャッシュレス・チケットレス改札の取組みの一環」だそうですから、おしりを切られているわけで、大阪メトロ「協力会社」は、それこそ寝食を忘れるような状況最後の追い込みをかけているでしょうねぇ

   

恵美須町駅から地上に出ると、すぐに通天閣が見えました。

通天閣方向にちょっと歩くと、火事の跡

そういえば、最近、通天閣近くで火事があったとニュースで見た記憶があります。
さっそくスマホでググると、ニュースはすぐに見つかりました。
火事はほんの4日前という生々しい現場

火元は、「レトロゲーセン ザリガニ」という店で、なにやらゲーセン好きの間では「聖地」扱いだったらしい

建物がびっしり立ち並ぶ商店街にもかかわらず、延焼が最小限に食い止められたようで、その点では良かったかもしれません

この焼けたゲーセンもそうだったのでしょうが、新世界の魅力の一つは「レトロ」にあると思っています。
例えば、こんな喫茶店、なかなかありませんゾ

今でこそ、国内外の老若男女で賑わう新世界ですが、私が友人に連れられて初めて新世界に来たとき(何十年前だ?)は、猥雑なオッチャンの街でした。
昼間っから大勢の客がディープな酒をかっくらっているような店が並び、碁会所だか将棋クラブでは、道路から窓越しに対局を観戦する人が何人もいたりして、「暇はあるけど金は無い」なのかな? などと思っていました。

そんな思い出のある将棋クラブ悲しいことになっていました
その名も、「いかにも新世界」な将棋クラブ「王将」は、

建物の外装はそのまま、串かつ屋に変身していたし、「囲碁・将棋クラブ 三桂」も、

昨年6月30日で閉店

その名も「産経」の記事によると、「三桂」新世界最後の将棋クラブだったらしい。
通天閣の下には坂田三吉顕彰碑があるような街なのにねぇ

いまどきの観光地ではあたりまえではあるけれど、なんと外国人観光客の多いこと
そして、以前にも増して増えた感のある串かつ屋には、その多くの店の前に長蛇の列
さぁ、昼食はどうする?

というところで「#2-8」につづきます。

【追記】ふと気づいたのですが、獅子・狛犬の配置は、向かって左が吽形の狛犬、右が阿形の獅子(どちらも獅子の場合が多い)が基本のはず(参考記事)なのに、難波橋のライオンです。どうしてなんだろな? (2025/02/11 13:59) 

つづき:2025/02/09 今年最初の関西旅行記 #2-8

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今年最初の関西旅行記 #2-6

2025-02-07 17:01:35 | 旅行記/美術館・博物館・アート

「今年最初の関西旅行記 #2-5」のつづきは、大阪市立東洋陶磁美術館見聞録の完結編です。

「#2-5」に載せた特別展「中国陶磁・至宝の競艶」フライヤーに使われているカラフルな壺、その名前が「緑地粉彩八吉祥文瓶(りょくじ ふんさい はちきっしょうもん へい)と長い

緑地粉彩八吉祥文瓶
清時代・乾隆 (1736-1795)/景徳鎮窯
上海博物館
パステルカラーの緑地に、粉彩によるカラフルな色合いで「八吉祥」と呼ばれるチベット仏教の八宝文や花文などが描かれている。この独特な瓶は清朝の宮廷で崇拝されたチベット仏教の儀礼用とされている。

映画「ラストエンペラー」で、幼い溥儀紫禁城に入城するときと西太后が崩御したとき、大勢のチベット僧が登場します。満州族が建てた清王朝とチベット仏教との関係が良く判らず、Why??? となりましたが、清王朝とチベット仏教とは縁が深かったんですな
それでも、なぜ地理的に遠く離れたチベット仏教? です。
調べたところ、こちらのサイト鳥取大学の柳(ユウ)教授がこんな風に述べていらっしゃいます。

モンゴルはチベット仏教を信じていたので、その最高位にあるダライ・ラマをめぐる諸問題の発生はモンゴルの介入を招き、清朝にとって統合を危うくする大問題だったのです。
多民族国家であるでは、漢民族の皇帝としてだけでなく同時に満州人の首長であり、モンゴル族の「汗(かん)と呼ばれる最高位であり、チベット仏教の保護者である「大施主(だいせしゅ)」でもあるという顔を同時に持っている必要がありました。これによって多民族国家である清という巨大な国を統合できたのです。中でも清帝国をまとめるために重要だったのが、チベット仏教です。チベットとモンゴルに影響を及ぼすために、清朝皇帝はダライ・ラマと同列に位置していなければなりませんでした。

なるほど、モンゴル対策か…
でも、満州よりもっと遠いモンゴルチベット仏教が崇拝されたのはなぜなんでしょ?
これまた調べたら、ダライ・ラマ法王日本代表部事務所のサイトによると、

13世紀の中頃、チベットはモンゴル帝国の襲来を受け、軍事的には屈服せざるを得なかった。ところが、宗教面ではモンゴル人をチベット仏教に帰依させる結果となり、チベットはやがて独立を回復することができた。

ですと。
もしも、元寇で日本が屈服してたら、日本にもチベット仏教が広まっていたかもしれませんな

話が壮大に逸れてしまいました

話を元に戻しまして、「緑地粉彩八吉祥文瓶」よりもっと長い名前の作品がありました。
「松石緑釉剔刻蕃蓮唐草文瓶」(しょうせきりょくゆう てきこく ばんれん からくさもん へい)という名前で、一度では覚えきれません

松石緑釉剔刻蕃蓮唐草文瓶
清時代・乾隆 (1736-1795)/景徳鎮窯
上海博物館
松石緑釉は、酸化銅を着色剤として低火度で白磁に二次焼成する色釉で、雍正年間に誕生し、乾隆年間に流行した。
青緑色の釉色トルコ石(緑松石)に似ることから名づけられた。
石の質感や模様を磁器で再現しようとした乾隆官窯の技術の高さをうかがわせる。

この瓶、私には磁器には見えずプラスチックを成形したかのように見えます。
かなり不自然に感じてしまうなぁ

   

「#2-4」に、小さな、野々村仁清「色絵 結文形 香合」尾形乾山「銹絵染付 羊歯文 香合」を載せましたが、上海博物館所蔵品にもこれらに負けず劣らず小さな作品がありました。

どちらも(いんごう)、つまり朱肉入れで、直径は約7cm

左が、「豇豆紅釉印盒 (こうとう こうゆう いんごう)

豇豆紅釉印盒 清時代・康熙 (1662-1722)/景徳鎮窯
上海博物館
康熙年間、景徳鎮官窯では酸化銅を主成分とした多彩な紅釉磁器がつくられた。
なかでも鮮麗な紅色を特色とする「豇豆紅釉」(欧米では“peach bloom”(桃花紅)とも呼ばれる)は、焼成の難易度が高く、希少である。

そして、右が一級文物「蘋果緑釉印盒 (ひんかりょくゆう いんごう)

蘋果緑釉印盒 清時代・康熙 (1662-1722)/景徳鎮窯
上海博物館 一級文物
本作は「豇豆紅釉」が窯の中での窯変により「蘋果緑(青りんごの緑)」と呼ばれる淡い緑色に変じた奇跡の一点である。清末の陳瀏「陶雅」で、蘋果緑の印盒一つが「値千金と記している。

どちらもとてつもなくきれいな色をしていますが、「蘋果緑釉印盒」「豇豆紅釉」を焼こうとしていたのに、「偶然こうなった」んですかぁ
「ふじ」リンゴの木に、なぜか「王林」の実がなったようなものですか? (かなり違う)
冗談はさておき、全体は淡い緑色なのに、左上部分だけ赤いのには、こんな背景があったんですな

   

最後に登場いただくのは、小さな作品ということで、高さ:65.5cm、胴径:56.5cmと、一番デカい作品です。

青花雲龍文壺 明時代・正統 (1436-1449)/景徳鎮窯
上海博物館
胴部に五爪の龍二体火焔宝珠が描かれた大壺。類似の陶片が景徳鎮珠山の御窯遺址から大量に出土している。
正統年間に青花の「龍缸」(龍文の大壺)が焼成されたが、きわめて大型のためうまくいかなかったとの記録がある。
本作は正統官窯を代表する現存最大の完成作例

いかにも中国陶磁 の佇まいです

でも、こんな大壺何に使ったんでしょ?
まさか「五爪の龍」が描かれた壺を、水や穀物の貯蔵、ましてや傘立てに使ったとは考えられず、「置物」くらいしか用途が思いつきません

ということで、大阪市立東洋陶芸美術館の見物を終えました。

陶磁器には疎い私ですが、かなり楽しめました
美術館自体、施設として立派でよくできていましたし…。

満足しながら館外に出た私は、「X」にこんなポストをしました。

こんな立派な美術館ですから、建設費は相当だったのだろう と思った次第ですが、ブログを書くうちに知ったところによると、建設費 18億円は、「#2-3」で書いた住友グループから大阪市の文化振興基金寄付された152億円運用利息でまかなったのだとか
最近上昇傾向にあるとはいえ、今のような低金利では到底不可能な話です

   

さて、時刻はほぼ正午昼食どきです。

昼食は久しぶりの新世界辺りで摂ることにして、そこまで堺筋線で行くべく、北浜駅まで歩きました。

大阪市立東洋陶芸美術館のお隣にある「こども本の森 中之島」は、建築家の安藤忠雄さんが寄付したんだったなぁ

それにしても、大阪府立中之島図書館住友吉左衛門友純(春翠)さんの、大阪市中央公会堂岩本栄之助さんの、大阪市立東洋陶芸美術館の主要コレクションは住友グループの、そして子ども本の森 中之島安藤忠雄さんの寄付で建てられたというのは、その4棟中之島で並んで立っていることと併せて凄いことだと思います。
江戸時代の町民パワー近現代の市民パワー大阪(大坂)の底力を感じます。

これを渡れば北浜、という難波橋もなかなか魅力的でした。
その話は「#2-7」で…。

つづき:2025/02/08 今年最初の関西旅行記 #2-7

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今年最初の関西旅行記 #2-5

2025-02-05 07:50:23 | 旅行記/美術館・博物館・アート

「今年最初の関西旅行記 #2-4」のつづきです。

大阪市立東洋陶磁美術館では、特別展「中国陶磁・至宝の饗艶」が開催中です。

2024年、大阪市と上海市の友好都市提携50周年を記念し、上海博物館から日本初公開作品32件(うち海外初公開19件)を含む計50件の中国陶磁の名品が出品されます。中国陶磁の世界的な殿堂である上海博物館大阪市立東洋陶磁美術館の至極のコレクションが一堂に会し、「競艶(きょうえん)」することで、悠久の歴史を誇る中国陶磁の真髄に触れるとともに、現在においても斬新さや新たな美の発見をもたらすその魅力に迫る機会となれば幸いです。

私は、20年ほど前に出張で上海に行ったとき、上海博物館を見物したような気がするのですが、建物が青銅器でよく見る「鼎」のような形をしていたということ以外、記憶がさっぱりと飛んでいます

それはともかく、会期が 5か月以上長い長い
陶磁器展ならではですな 日本画や浮世絵版画だと到底無理な話です。

さて、「#2-3」で、中国では「時代遅れの遺物」と見なされた天目茶碗日本にやって来た話を書きましたが、上海博物館所蔵の天目茶碗が出陳されていました。

茶碗の内側が何やら変色している、、、と思ったら、

黒釉木葉文茶碗(木葉天目) 南宋時代(1127-1279/吉州窯
南宋時代の吉州窯では鼈甲を彷彿とさせる玳皮(たいひ)天目をはじめとした建窯産天目とは異なる茶碗が生産された。吉州には禅宗寺院が数多くあり、禅に通じるとされた桑の葉を用いたこうした木葉天目は、禅僧の需要と美意識を反映したものである。

葉っぱを載せて焼き上げたのか
安宅コレクションにも木葉天目があって、こちらはもっと桑の葉葉脈まできれいに残って、鮮やかでした。

こちらも南宋時代の吉州窯産で、加賀・前田家伝来の品とか。

   

自然採光展示室(第10室)には、大阪市立東洋陶磁美術館が所蔵する2点の国宝のもう一つ「飛青磁 花生(はないけ)が展示されていました。

飛青磁 花生 元時代・14世紀/龍泉窯
鉄斑を散らした青磁は、日本では「飛青磁」と呼ばれている。優美な形のこうした瓶は中国では「珠壺春(ぎょっこしゅん)」の名で知られ、主として酒器として用いられたが、日本では花器としてとして珍重された。本作は鴻池家伝来品であり、伝世する飛青磁の最高傑作といえる。

私はあまり好みではありませんが(あやうく見落とすところだった)、園芸で斑入りの葉っぱを珍重するようなものなのでしょうねぇ

ところで、大阪市立東洋陶磁美術館ご自慢の一つ「自然採光展示」は、

陶磁器はさまざまに光を反射し、また光の質によって見え方も大きく影響されるので、照明にはたいへん気を使います。当館には、展示ケースのなかに天窓から自然光をとりこんだ世界初、そして世界唯一の自然採光展示室があり、陶磁器本来の色合いと質感を鑑賞することができます。

だそうです。
私が行った日は陽光燦燦良い天気でしたが、曇天雨天だとどのように見えるんだろ?

   

中国の陶磁器の窯でまず思い浮かぶ、というか、ほぼこれしか知らない窯は景徳鎮です。
この特別展では、普段は上海と大阪に分かれて所蔵されている景徳鎮産の陶磁器が一堂に会していました。

私が「いいなぁ~と思った作品をいくつか紹介します。

まず、景徳鎮といえば白磁の染付のイメージですが、、、
意表をついて青磁です

青磁暗花蓮唐草文碗 明時代・正統~天順(1436-1464)/景徳鎮窯
上海博物館
全体に淡い青磁釉が施され、釉下の浅い陰刻(「暗花」)による文様は釉がたまり濃く発色している。永楽・宣徳期の景徳鎮官窯ではすでに龍泉窯風の青磁も生産しており、正統から天順期にも引き続き造られていたことが2014年の景徳鎮珠山明代御窯遺址の発掘で明らかになった。

の美しさもさることながら、イイ 口縁無限に感じる、なんて言ったら盛り過ぎかも知れませんが…

次は「景徳鎮らしい」と私は思うこちら。

この「青花蓮唐草文壺」(上海博物館蔵)は「青磁暗花蓮唐草文碗」と同じ明の正統~天順年間だそうな。
堂々としていて、ちょっと肩を張った形イイし、余白を残しつつ壺の側面全体に蔓を張る唐草イイ

一方、こちらの皿はシンプルな幾何学模様で(はない)、現代でも普段使いできそうです。

青花花卉文盤 
明時代・天順~成化(1457-1487)/景徳鎮窯
上海博物館
端正な造形の盤で、見込みには宝相華を中心に、二種の十字状の花卉文が配されている。明の歴代皇帝は仏教も信仰しており、この文様も仏教的なものと思われる。

対称的に、こちらは皇帝専用の文様「五爪の龍」が描かれていて、ちょっと畏れ多い

青花龍蓮唐草文盤
明時代・成化(1465-1487)/景徳鎮窯
上海美術館 一級文物
本作は内面中央に蓮唐草に囲まれた五爪の団龍文、その周囲に団花状の花卉文、さらに外側面には蓮唐草の中をかける二頭の龍が、国産のコバルト顔料により精緻かつ上品に描かれている。

説明にある「蓮唐草の中をかける二頭の龍」は、写真で観るしかなかったのは残念でした。
この作品は「回転台に載せて見せていただきたかったな

白磁染付が続きましたので、カラフルな作品も載せます。

五彩百朝鳳図盤 清時代・康煕(1662-1722)/景徳鎮窯
上海博物館 一級文物
梧桐(アオギリ)、牡丹、太湖石、蓮池のある風景の中央に一対の向かい合った鳳凰が描かれている。空には祥雲がたなびき、孔雀、鶴、燕、鷺等の鳥が鳳凰を祝福している。
名君の遺徳を称える「百鳥朝鳳図」康熙年間に流行し、なかでも本作は景徳鎮民窯の代表作と言える。

いやぁ、なんとも華やかというかにぎやかというか…
なんとなく、伊藤若冲の絵(例えば動植彩絵)と雰囲気が似ているような気がするのは私だけでしょうか?

「五彩百朝鳳図盤」の説明文の中に「太湖石」ということばが出てきますが、私が故宮(紫禁城)の御花園で観たこの穴ボコボコ変な岩がそれかな?

話を戻しまして、更に時代もさかのぼりまして、

 

釉裏紅四季花卉文瓜形壺
明時代・洪武(1368-1398)/景徳鎮窯
上海博物館
明を建国した太祖・朱元璋、すなわち洪武帝は、赤色好んだ
酸化銅による朱紅色の発色を見せる釉裏紅磁器は、景徳鎮では元代にすでに見られるが、明の洪武年間御用磁器として優品が多く見られる。

朱元璋(洪武帝)赤色好きだったと…。
まさか自分の姓・に絡めたゲン担ぎだったりして…
仮にそうだとすれば、この壺のような赤い陶磁器洪武帝の目の前で割ったり欠けさせたりしたら、そうとうにマズいことになったんだろうな

時代が行ったり来たりで申しわけありませんが、清時代一級文物です。

琺瑯彩竹菊鶉図瓶
清時代・乾隆(1736-1795)/景徳鎮窯
上海博物館 一級文物
雪のように白い白磁胎は、つややかな釉色を見せる。胴部には琺瑯彩で太湖石、竹、菊、鶉、花卉などが緻密で瀟洒な絵付けで表されている。
鶉と菊「安居楽業」、すなわち人々が平穏に暮らし、楽しく仕事に励む善政の象徴とされる。

この徳利 じゃない瓶(へい)に入れたら、安酒美味しくなるかもしれませんな

ところで、今さらながらですが、ここまで何点か出てきた「一級文物」、これは、日本でいえば「国宝」に相当する国家による最高のレーティングです。

ふ~ 大阪市立東洋陶磁美術館の見聞録も残りもうわずか
ですが、諸般の事情(文字数が増えるとトラブルが起きがち)により、「#2-6」につづきます。

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今年最初の関西旅行記 #2-4

2025-02-04 15:17:58 | 旅行記/美術館・博物館・アート

「今年最初の関西旅行記」を再開します。
「今年最初の関西旅行記 #2-3」のつづきも、大阪市立東洋陶磁美術館の見聞録です。

もともと陶磁器に疎い私、今回、初めて「粉青(ふんせい)なる言葉を知りました。

朝鮮前期の陶磁器を代表するのは粉青である。粉青は「粉粧灰青沙器」の略称で、日本では「三島(みしま)とも呼ばれ、鉄分を含む胎土に白泥で装飾を施したものである。
高麗青磁の伝統を受け継ぎつつ、白泥を用いて、粉青はまったく新しい生気に満ちた意匠に変貌を遂げた。そのシンプルで力強い造形大胆にデフォルメされた文様は、現代の抽象画にも通じる。個性的な文様や形の上に表現された白化粧の多様な技法は、白色を尊ぶ儒教の美意識への変容を象徴している。

だそうで、「粉青掻落 牡丹文 瓶」(朝鮮時代・15世紀)とか、

「粉青鉄絵 蔓草文 瓶」(朝鮮時代・15後半~16世紀前半)とか、デフォルメされた文様が楽しい

そんな中で、「ん??」と思ったのが、「粉青粉引 瓶」(朝鮮時代・16世紀) でした。

使い古されて、ところどころ釉薬部分が剥がれた、ちょいと不細工な壺としか見えなかったのですが、説明板によると、

全面に白化粧を浸しがけした粉引(こひき)技法だが、長年の使用で所々に生じた「染み」は日本では「雨漏(あまもり)とも呼ばれ、茶人の間では「景色」として珍重された。口のくびれは注ぎやすくするための工夫である。加賀・前田家伝来と伝えられ、粉青粉引瓶の最高傑作である。

ですと
やはり私は陶磁器にも茶道にも疎い「野暮天」です

   

朝鮮・中国の陶磁器コレクションが凄まじい大阪市立東洋陶磁美術館ですが、日本産のものにもド素人の私が見ても素晴らしい作品がありました。

私にも織部と判る「織部 舟形向付」(桃山時代・17世紀初/美濃窯)とか、

志野と判る「鼠志野 草鳥文 額皿」(桃山時代・16世紀末-17世紀初/美濃窯)とか、

乾山(が入ってる)となった「色絵 椿文 輪花向付」(江戸時代・18世紀/尾形乾山) とか、

「これは信楽かな?」と思ったら、ピンポ~ンだった「甕」(室町時代・15-16世紀/信楽窯)とか…。

随所に長石の粒が吹き出した信楽特有の土は、独特の触感を生みだしている。淡緑色の自然秞が窯の中で降りかかった跡が数ヶ所白い斑文のようになり、見事な「景色」となっている。室町時代の信楽甕屈指の優品である。

だそうです。

こんな私でも、東京国立博物館で日本の陶磁器を何度も何度も拝見していますので、この程度は判ります

そんな中に、再び「染み」「景色」になっている作品がありました。

これは古くて、奈良時代の作品。

重要文化財「三彩 壺」(奈良時代・8世紀)
本作は薬壺(やっこ)と呼ばれる形の「奈良三彩」で、蔵骨器として出土した類例も知られる。緑釉に白秞と黄秞(褐秞)が点じられ、随所に秞の剥落や銀化が見られる。江戸時代の安政年間(1854-60)に奈良県生駒郡で出土したと伝えられ、大阪・平瀬家伝来品である。

とのこと。
なお、「薬壺」というのは文字どおり「薬を入れる壺」のことで、薬師如来像のシンボル(左手に載せている)とも言える持ち物です。

野々村仁清尾形乾山師弟が造った香合が、二人の個性が際だっていて面白かったなぁ。
まず、華やかでかつなんともかわいらしい 仁清「色絵 結文形 香合」

つづいて、「いかにも乾山な、乾山「銹絵染付 羊歯文 香合」

小さな作品だし、2個まとめてお持ち帰りしたかった

   

大阪市立東洋陶磁美術館マスコットキャラクターのこれ、何に見えますか?

[

私はてっきりだと思ったのですが、

吾輩は虎である。名前はなかったが、このたび「mocoちゃん」となった。
生まれは18世紀の朝鮮半島。王室専用の白磁の官営工房・広州官窯において、優れた「画青匠」(画工)の手によって誕生した。
遠くに見える山並みの上に満月がかかる夜、断崖の上を闊歩する堂々たる姿には我ながらほれぼれとして、思わず笑みがこぼれる。
ツートンカラーの毛並みにスマートな胴と尻尾が自慢だ。は朝鮮半島では霊獣として信仰され、崇められてきた。幸せをつげる鵲(カササギ)と一緒に描かれることも多い。
壺の裏側では猫のように丸まっている。猫に似ているとよく言われる。吾輩はもしかして虎ではなく、猫なのか?

ですと
この「mocoちゃん」が描かれている「青花虎鵲文壺」(朝鮮時代・18世紀後半/広州官窯) が展示されていました。

裏側も見てみました。

収蔵品をもとにしたマスコットキャラクターを持つ美術館・博物館は少なくありませんけれど、普通はマスコットにふさわしくデフォルメするものですが、「mocoちゃん」はポーズこそ違うものの、ほとんど現作品そのままです
大阪市立東洋陶磁美術館良い作品をお持ちだぁ 
なお、「青花虎鵲文壺」安宅コレクションです。
そういえば、京都国立博物館トラりんも、収蔵品である尾形光琳「竹虎図」のデフォルメされている虎を微修正した感じだった

   

大阪市立東洋陶磁美術館ご自慢の設備として、免震装置を組み込んだ回転台があります。館内には全部で3か所に設置されているそうですが、その一つに乗ってクルクル回っていたのは、「加彩 婦女俑」(唐時代・8世紀)でした。

8世紀の盛唐ふっくらと豊満なスタイルの女性像が主流となった。左手には本来小鳥が止まっていたようで、そのさえずりに耳を傾けるように首をややかしげている。
彩色はほとんど落ちてしまったが、かえって造形の美しさが際立つ。

とする説明板には、作品のひと言解説のように、

  盛唐女性はぽっちゃりがお好み

と書かれていました。

ほんとにぽっちゃりです
そして、そのポーズかわいい

この作品を観て思い出した、正倉院宝物「鳥毛立女屏風」に描かれた女性もぽっちゃり系でしたなぁ「鳥毛立女屏風」は国産品(中国にはいないヤマドリの羽毛が使われている)ですが、時は8世紀唐の流行を取り入れて制作されたのでしょう。天平時代の日本人ぽっちゃり系がお好みだったのかどうかは判りません

こんなところで「#2-5」につづきます。

つづき:2025/02/05 今年最初の関西旅行記 #2-5

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THE TOUR OF MISIA 2025の横浜 2 daysのこと

2025-02-03 14:13:53 | MISIA

「今年最初の関西旅行記」シリーズの途中ですが、ここで一昨日&昨日行ってきた「THE TOUR OF MISIA 2025 LOVE NEVER DIES」横浜 2 daysのことを書きます。例によって、ネタバレ極小にとどめています。
記憶が新しいうちに、ということで…。

天気予報では、2日目2月2日には「南岸低気圧の影響で関東の平野部でも積雪が予想される」などと言っていて(JRも前日から注意喚起をしていた)、私は、大雪のため電車が広範囲に止まり空席がチラホラあった 2014年2月15日MISIA星空のライヴVII -15th Celebration- Hoshizora Symphony Orchestra横浜公演初日のこと(記事)なんぞを思い出して、緊張を高めていました。
でも、結局は、私の知る限り、平地部では雪は降らず、影響はJR青梅線運休したくらいでした。ほんと、良かった

私にとって、愛知(常滑)初日(記事)大阪 2 days (記事)につづく 4 & 5公演目の参加になった横浜 2 daysは、いかにも横浜アリーナ公演らしい、MISIAをはじめとするキャストと聴衆が一体となった素晴らしい盛り上がりでした

驚いたのは、大阪 2 daysから1週間しか経っていないのに、そして横浜の2日間でも、ちょこちょこと修正や新趣向が加わっていたことでした。
セットリストは大阪とほとんど変わっていませんでしたが (2日目に某曲が初めて追加)、ダンサーが増えたり、モニターに新曲の歌詞を入れたり映像を加えたり、エンドロールに写真を追加したりすることで、どんどん「THE TOUR OF MISIA 2025 LOVE NEVER DIES」として、ショーとして成長(成熟)していっているようです。
正直、愛知(常滑)での初日とは「別物といった感じ。

このツアーを映像化(ディスク化)するとすれば、次(約1か月後)の東京(有明アリーナ)公演か、ファイナルの日本武道館公演収録するのでしょうけれど、もし、有明アリーナ公演を収録するとなれば、そこがほぼ完成形になるのかな??? 
でも、5月28日発売NEW ALBUM「LOVE NEVER DIES」に収録される新曲を、これからセットリストに加えていくだろうことを考えれば、有明アリーナで収録するのは早すぎる気もします

ここで話題を変えまして、いつものヤツ、「MISIAのおことば」です。

まず初日(2月1日)が、

でした。
恒例の「MISIAコール」の導入がこうした形になったのは初めてかもしれません。
「次点」は、「東京タワーの上部はロケットになっている」という話を信じてしまったという、いかにもMISIAらしいエピソードです
2日目には、久しぶりに「医学的にはそれを『緊張』といいます」ネタを披露していました

そして、ピックアップに難儀した2日目はこちら。

ライヴの中で、大林さんのピアノに乗ってMISIAがアドリブで歌うコーナー(?)があるのですが、この日は節分ということで、こんな風に聴衆を振りまいてくれました

なお初日には、ある新曲に絡めて、MISIA

自分が正しい、正義だと強く信じる人は、他人を傷つけたり残酷な言葉を発してしまうことがあると聞いたことがあります。
正義を横に置いて、中心に優しさを持って暮らしていきたい。

といった話(大意)をしていて、なかなか深い と思って「MISIAのおことば」にピックアップしようとも考えたものの、細かい表現まで覚えていなかったことから断念しました

   

横浜 2 days私の座席は、両日ともセンター席で、プロットするとこうなります。

初日は通路に面した席で、これはいいかな? と思ったのですが、前になかなか背の高い人たちがいたこともあり、ステージ上のキャストで見えたのはMISIAだけでした (上手[かみて]ならブロックの右端、下手[しもて]ならブロックの左端じゃないとあまり意味がない)
でも、2日目は、参加 5公演目して初めての「上手」側で、かつ、ステージの上手から下手までほぼすべて(吉田サトシさんは見えたり見えなかったり…)がよく見えました(これまでは真ん中から上手側の方々はほぼ見えなかった)。
おかげで、DJ & House Remixタイムでのお楽しみ「踊るホーン隊」(このセクションでは出番が少ない)も堪能できました

しかも「踊るホーン隊」は、小道具(大阪2日目は、小旗をステージ上に持ち込んで、途中、小旗を振り始めたのは良かったものの、早々に明男ちゃん小旗の本体がすっ飛んで柄だけになったという爆笑ハプニングがあった)が変わり、ダンスレパートリーを広げ、さらにコーラス隊ストリングスをも巻き込んで、一糸乱れぬ振り(?) で場内を盛り上げていました。
これから「THE TOUR OF MISIA 2025」への参加を予定してる皆さん、ペンライトを持っていると、ライヴを一層楽しめます

   

最後になってしまいましたが、肝心MISIA、もう倍音出まくり美しく響く歌声、どこまでも続くロングトーン、空気を切り裂くようなホイッスルボイス(MISIA曰くほとんどの場合はホイッスルボイスではなくファルセットらしいけど)、まさしく「高値安定の素晴らしさでした
どの公演でも、拍手がずう~っと長く続く「あの曲」2日目には、MISIAがMCを始めようと「ありがとうございました」と話すと、再び拍手が始まり、それが続く続く… MISIAはしばらくお辞儀をしながら拍手の嵐を受けていましたが、ついには、拍手にかぶせるようにMCを始めましたとさ

次の「THE TOUR OF MISIA 2025 LOVE NEVER DIES」東京(有明アリーナ)公演まで1か月と1週間空くことになるわけですが、この間、MISIAは愛知公演で「今、絶賛レコーディング中」と言っていたアルバム制作没頭するんだろうな
一方、バンドメンバーは新しいアドリブの構想を練り、スタッフは「もっと良い、もっと楽しいライヴ構成はないか」と頭をひねるんでしょう
東京(有明アリーナ)公演楽しみです

【追記】記事をアップしたあと、いろいろ間違いを見つけてしまい、ちょこちょこと随時修正しています (2025/02/03 20:47) 

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今年最初の関西旅行記 #2-3

2025-01-31 19:41:59 | 旅行記/美術館・博物館・アート

「今年最初の関西旅行記 #2-2」のつづきです。

大阪市中央公会堂の見学につづいては、今回の大阪観光のメイン(MISIAのライヴ別格)にしていた大阪市立東洋陶磁美術館です。

この大阪市立東洋陶磁美術館とは? については、館内に掲示された「開館に当たって」に頼りましょう。

当館は、東洋陶磁の宝庫として世界に知られた「安宅コレクション」を、住友グループから寄贈を受けたことを記念し、それを収蔵・展示するため、1982年11月、大阪市が設立したものである。
コレクションは、中国陶磁144件、韓国陶磁793件、その他28件、合計965件、総数約1,000点よりなる。中国陶磁は、後漢時代から時代に至る各時代の代表的作品を選りすぐり、世界で最も質の高いコレクションの一つに数えられる。韓国陶磁は、高麗時代と朝鮮時代の作品を編年別・技法別に系統的に集め、世界第一級の質と量を誇っている。

この「安宅コレクション」は、かつて10大商社の一つと言われた安宅産業の二代目・安宅栄一氏が収集したもの、というか、Wikipediaによれば「英一が安宅産業で美術品部を作って購入したもの」とな

安宅産業経営破綻し、1977年伊藤忠商事に吸収合併されて現在に至るのですが、なぜに安宅コレクション住友グループから大阪市に寄贈された? となりますな
簡単に書けば、危機に瀕した安宅産業の救済策として、メインバンクの住友銀行と協和銀行伊藤忠商事との合併案を持ち出し、「この事業はいらない」「いいとこ取りするな」とすったもんだの末、伊藤忠商事は安宅産業(の使える部分)を吸収合併する一方、銀行は住友・協和以外の取引行も含めて不良債権を償却。その残り物として資産管理会社の一時的な所有とされたものの一つが「安宅コレクション」だったわけですが、この体系だったコレクション散逸(=ばら売り)を防ぐよう、文化庁ほか多方面から要望が寄せられたのだそうな。そこで、住友銀行の音頭の下、住友グループ21社が、大阪市の文化振興基金に152億円を寄付し、大阪市はその資金で「安宅コレクション」を資産管理会社から買い取ったという次第。

なお、安宅産業の破綻をドキュメント・ノベルにしたのが、松本清張「空の城」で、私も読みました(別邸にある)。
また、これを原作としたNHKドラマ「ザ・商社」も視ました もう45年も前のことですが、いまだに頭の片隅に焼き付いている作品です。

【追記】別邸の本棚から「空の城」を探し出してきました。帰省中に読み終えるぞ (2025/03/06 21:19) 

   

さて、大阪市立東洋陶磁美術館の展示の冒頭ロビーに鎮座していたのは、なんとなんと、「安宅コレクション」の目玉ともいうべき国宝「油滴天目茶碗」でした

国宝 油滴天目茶碗 
南宋時代・12-13世紀/建窯 高 7.5cm、口径 12.2cm
宋代に流行した点茶法による喫茶文化では、最高級の茶白色とされたことから、色映りのよい黒い茶碗が歓迎され、なかでも建窯黒釉茶碗は皇帝をはじめ宮廷内でも評判となった。そうした中国の喫茶文化とともに日本でも鎌倉時代以降に多くの黒釉茶碗がもたらされ、後に「天目(天目茶碗)」と呼ばれるようになった。南宋時代の建窯曜変天目油滴天目はすでに室町時代に高く評価され、伝世の名品はいずれも日本にあり、国宝や重要文化財に指定されている。
本作は国宝に指定されている伝世の油滴天目最高傑作である。その名の由来とされる茶碗の内外の黒窯にびっしりと生じた油の滴(しずく)のような銀の斑文に、青色や金色など虹色に輝く光彩(虹彩)が加わり幻想的な美しさを見せている。口縁には日本製と考えられる純度の高い金の覆輪がはめられ、一層豪華さを増している。重さ349g、手に持つと心地良い重みが伝わる。かつて関白・豊臣秀次(1568-1595)が所持し、のちに西本願寺京都三井家若狭酒井家に伝来した。なお、南宋時代の天目台3点が付属している。

角度を変えてもう一枚

この説明に「南宋時代の建窯の曜変天目や油滴天目はすでに室町時代に高く評価され、伝世の名品はいずれも日本にありとありますが、館内に日本人よりも多くいた中国系とおぼしき観客はどう感じたんでしょ。
天目茶碗の名品が日本に集まっているのは、日本人が中国から名品ぶんどってきたわけではなく中国でのお茶の飲み方が変わり「天目茶碗は時代遅れの遺物という扱いだったからなのだそうです。
以前、中共国に出張したとき、蓋が付属したマグカップのような容器にお茶っ葉を入れ、それにお湯を注いで、その上澄みを飲むのが一般的だったのには驚きました(たまに茶葉が口に入る)。そして、お替わりは、お湯を追加するだけという…。瀋陽の茶藝館とかいうところで、急須で淹れたお茶を飲んだこともありましたが、これは「台湾式」だと聞きました。
お茶そのものや飲み方が変われば茶器も変わるのは道理ですな

ところで、美術館や博物館で展示されている陶磁器は、転倒・破損防止のため、テグスで固定されているのが普通ですが、大阪市立東洋陶磁美術館ではそうした措置を講じず、単純に展示台に置いているだけ(のように見えます)です。
地震が起こったらどうする?????
と思ったら、説明がありました。

展示ケース内に設置している斜面台は、地震のゆれに反応して内部の免震装置が繊細に作動する免震台です。作品をのせている敷板部分が前後左右に動き、地震のゆれと衝撃を吸収して作品を守ります。作品の安全を保つだけでなく、テグス等で固定する必要がないため鑑賞のさまたげにもならない当館のオリジナル仕様です。

ほぉ~~、さすがは陶磁器の専門美術館です

油滴天目茶碗をしげしげと鑑賞したあと、振り返ると、なにかいます

なんだろ? と説明板を見ると、

  鳩型土器 朝鮮・三国時代 (4-6世紀)

とな。
4-6世紀といえば、日本は古墳時代で、盛んに埴輪が造られていた頃ですな。
アップしてみます。

確かに
体に印刻された模様(○に・)の意味が判らないけれど…

それにしてもこの展示の仕方

「鳩型土器」を細部まで観ることはできないけれど、遊び心があってよろしいと思います

   

いま、大阪市立東洋陶磁美術館では、上海博物館(行ったことがあります)とのコラボレーションで特別展「中国陶磁・至宝の饗艶」が開催中です。

なんですが、前半は大阪市立東洋陶磁美術館のコレクション展です。
その最初は、「翠色幽玄」と題する韓国の青磁の展示。

高麗の人々はみずからの青磁「翠色」と称し、ヒスイのごとき輝きをたたえ、時に金銀器皿よりも尊んだ。白と黒の土によって文様を表す象嵌青磁は高麗で独自に発展した表現技法である。なかでも天空に舞う雲鶴文は繊細な深い神秘性とともに、高麗の人々が求めた自然との調和や心の安らぎを感じさせる。青磁の技術は中国から伝わったが、高麗が育んだ高麗青磁は本場中国でも「天下第一」と高く評価されるまでに至った。
静けさと瑞々しさを見せる「翠色」には幽玄の美が宿る。

だそうです。
私、「書」「茶道」系ほどではありませんが、陶磁苦手(疎い)のですが、青磁にはそこはかとない魅力を感じていましたし、この説明もなんとなく理解できる気がします。
説明に出てくる「象嵌青磁の雲鶴文」の作品は、別室の「李秉昌(イ・ビョンチャン)コレクション」の中にありました。

青磁象嵌 雲鶴文 椀  高麗時代・12世紀
器壁が直線的に広がり、北宋の定窯などにしばしば見られる形状である。内側に三羽の鶴と霊芝雲が施され、灰青緑の釉色が鶴と白雲を包み込む。静寂な本作は雲鶴文腕の中で最も美しく、象嵌技法の頂点と言える。

好きな人にとっては、この「灰青緑」色たまらないんだろうな…
でも、私は「青磁らしい青磁」の方が好みです
例えば安宅コレクションの「青磁 瓶」とか、

「青磁陽刻 菊花文 腕」とか…。

そして、そして、この「青磁陽刻 蓮唐草文 壺」も…

この作品とか「青磁陽刻 菊花文 腕」とかは、貫入(細かいヒビ)がまた美しい

なんともキリがありませんので、ここで一息入れて、「#2-4」につづきます。
諸般の事情、有り体に言えば、明日から「THE TOUR OF MISIA 2025 LOVE NEVER DIES」横浜 2 daysですので、数日空くことになると思います。

つづき:2025/02/04 今年最初の関西旅行記 #2-4

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今年最初の関西旅行記 #2-2

2025-01-30 18:12:31 | 旅行記

「今年最初の関西旅行記 #2-1」のつづきも大阪市中央公会堂から。

東口出入口に掲げられた銘板のフォントが実によろしい
まさしく「大正浪漫」です
大正15(1926)年竣工の旧札幌控訴院(札幌市資料館)の玄関ポーチに掲げられたものと雰囲気が似てる気がします。

大阪市中央公会堂の建物は、正面からの眺めも良いけれど、この角度からもイイ

とても華やかで、宮殿みたいにも見えます。

大阪市中央公会堂の建設にあたっては、当時珍しかった設計コンペが行われ、1等には 28 or 29歳だった岡田信一郎の案が選ばれ、この原案をもとに、辰野金吾建築顧問に、公会堂設計事務所が設計したのだとか。
なお、岡田信一郎は、このコンペでの勝利をスプリングボードに、若くして48歳で亡くなるまでの20年間で、旧鳩山一郎邸(現鳩山会館朝ドラ「虎に翼」では桜川男爵邸として登場)、旧歌舞伎座(三代目)、黒田記念館旧博報堂本社ビル、そして、終戦後にGHQが本拠地としたことで有名な明治生命館など、蒼々たる作品群を残しています。

一方、私が「やはり辰野金吾と思ったのは、煉瓦の目地東京駅丸の内駅舎でも採用されている「覆輪目地」だったことでした。

辰野金吾の代表作、東京駅丸の内駅舎(1914)も、大阪市中央公会堂(1918)と同様に、鉄骨煉瓦造りで、外壁に貼られた化粧煉瓦には覆輪目地が施されています。

   

大阪市中央公会堂の地下には展示室があって、無料で観ることができました。

「大恩人」岩本栄之助さんの胸像があるのは当然としても、なぜか渋沢栄一に関する資料も多い。なぜかと思ったら、岩本さんの略歴の中に、

栄之助は、1906(明治39)年、父・栄蔵の営む株式仲買業を継ぎ、1907年の株式相場の高騰などで大きな利益を上げました。1909年渋沢栄一を団長とする渡米実業団に参加し、アメリカの進んだ産業・文化を視察。渡米中、父の訃報に接した栄之助は、欧米の富豪が公共事業や慈善事業に熱心であることに共感して、帰国度株式相場で得た利益の寄付に動き始めました

とありました。
そして、帰国後、東京や大阪で何度か渋沢と面会し、寄付の実施やその使途(結果は公会堂建設)などをなどを相談、さらに、大阪の政財界の有力者を招いた委員会を開催(渋沢も参加)し、公会堂建設案を示したのだとか。
そんな縁もあり、渋沢は定礎式に参加し、「定礎」の文字を揮毫したんですな。

私、この説明パネルの下に書かれていた

※定礎石は、東正面玄関に向かって左側(南側)のスロープから見ることができます。

をよく読んでおりませんで、定礎石を見逃しました
遠目からのこんな写真しかありませぬ

「渡米実業団」といえば、雑誌「東京人」2010年4月号(特集:美術館をつくった富豪たち)に載っている高階秀爾さんと鹿島茂さんとの対談で、鹿島さんは、渡米実業団の一員だった根津嘉一郎についてこんな発言をしています。

この人(根津)は、初期はひじょうに評判の悪い人だった。ぼろ買いの根津と言われるほどで、とにかく、クズみたいになった会社を買い叩いて再興させることでお金持ちになった人。しかし、渋沢とアメリカに行って、カーネギーワナメーカーといった人々の社会福祉活動を見て、それまで会社と金にしか興味のなかった根津の目が開く。それから、いろいろな社会貢献やコレクションをやったみたいですね。

岩本さんも根津さんも、他人に諭されたり教えられたりすることなく、アメリカの富豪の社会活動目の当たりにすることで「目を開いた」んですな。
既に実業界を引退した渋沢さんがそういう機会を提供したというのが、わたし的に響きます

さて、大阪市中央公会堂が建てられる前(1912年頃)の中之島の写真もありました。2枚の写真をパノラマ風に繋げましたので、ちょっと不自然な写真になってしまいましたが…

真ん中が、現在、大阪市中央公会堂が立っている場所で、それまでは豊国神社があったんだ
一番左が左右翼を増築する前大阪府立図書館、その右、豊国神社との間にあるのが旧公会堂(新公会堂開設に伴い天王寺公園内に移設:現存せず)だとか。大阪府立中之島図書館と大阪中央公会堂との間にこんなにスペースがあったかな?
で、豊国神社の右側、現在、広場と大阪市立東洋陶磁美術館になっている場所に立っているのが大阪ホテル、そのまた右にちらりと写っているのは大阪銀行集会所(大阪銀行協会の前身)だそうな。

現在、大阪府立中之島図書館の左(西側)には大阪市役所(4代目)がど~んと立っていますが、上の写真が撮影されたころは公園だったそうで、1921年5月に竣工した先代(3代目)の市役所の写真がありました。

なかなか威圧感のある建物です
どことなく台湾の総統府(旧台湾総督府)と似た雰囲気だな、と思ったら、設計原案台湾総督府の技師・小川陽吉さん(実施設計は片岡安)ですと

市役所の裏図書館との間にある緑地は、大阪市中央公会堂に追い出された形になった豊国神社で、その後、市庁舎の増築に際して、1961年1月、現在の大阪城二の丸に移転した由。太閤さんを祀る神社なのに、なんだか不憫

さらに、この展示室でもっとも私がときめいたのが、

「大大阪(だいおおさか)時代を彩った近代建築」という展示で、大阪市中心部に現存する日銀大阪支店(1903年)から大阪証券取引所ビル(1935年)まで20棟の一覧と、

各建物の説明パネル

さらには各建物の所在地を示した地図まで

これ、リーフレットにしてもらえないものでしょうか
有料だったとしても、私は欲しい
とりあえず、次回以降、大阪に行くときは、この近代建築マップを印刷して持って行くことにします

とまぁ、こんなところで展示室の見学を終え、最後にちょっと離れたところから大阪市中央公会堂の正面を撮影しました。

建物のてっぺんに何やらあります。
拡大しますと、こんな像が乗っていました。

これは、

ギリシャ・ローマ神話の、商いの神「メルクリウス」科学工業平和等の神「ミネルヴァ」をかたどったもの。第2次世界大戦の金属供出で失われましたが、保存・再生工事の際復元されました。

だそうで(確かに左のメルクリウス商業系の学校の校章で良く見る 2匹の蛇がからんだ翼付きっぽい杖を持っている)、こんな取り外しが大変そうなものまで金属供出の対象になったのかというのも驚きだし、この2神が定位置に再設置されたのが終戦から43年も経った2002年8月だったというのも驚きでした。

こうして、いつか大会議室(ホール)集会室中に入ってみたいものだ と思いながら、大阪市中央公会堂の見学を終えました。

つづき:2025/01/31 今年最初の関西旅行記 #2-3

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今年最初の関西旅行記 #2-1

2025-01-29 18:00:53 | 旅行記

「今年最初の関西旅行記 #1」のつづき、旅行2日目(1月26日)のお話です。

この日は朝から良い天気で、

と、暢気にこんなポストを上げたりしていたのですが、まさか私がその大阪国際女子マラソン影響を蒙ることになろうとは、つゆにも思いませんでした。

なぜかMISIAの大阪公演は、大阪国際女子マラソンと同じ日に開催されることが多くて、調べたところ、2005年、2007年、2008年、2010年、2012年、2014年、2017年、2020年、そして今年と、同日開催はこれがなんと9回目
このうち何度か、私はMISIAのライヴに参加したのですが、ランナーを遠目から見たことはあっても、影響を蒙ったことはありませんでしたので、高をくくっていました
まぁ、この話はまた後ほど…。

   

さて、大阪2日目は、15:00頃大阪城ホールに着くことを絶対条件にして、それまで大阪観光を楽しむことにしていました。
そして、観光のメインに据えたのが、まだ行ったことのない大阪市立東洋陶磁美術館でした。それほど陶磁器に興味を持っているわけではありませんが、世に聞く「安宅コレクション」を拝見してみたかったのです。
その後の行動は「足の向くまま気の向くまま」ということで、新大阪駅から御堂筋線に乗って行動を開始しました。

淀屋橋駅から地上に出て、土佐堀川に架かる淀屋橋を渡ると、中之島

この辺りを夜に散歩したことがありまして(記事)淀屋橋自体とか、日銀大阪支店とか大阪市中央公会堂とかのライトアップかなり楽しんだのですが、この日は青空のもと、楽しませていただきました。

御堂筋を挟んで大阪市役所と相対しているのが、日銀大阪支店です。

「陰気だと思う人もいらっしゃるかもしれませんが、辰野金吾さんらしい威風堂々とした建物です。

大阪市役所の横、「みおつくしプロムナード」を東に進むと、市役所の陰に隠れるように佇んでいたのが、これまた威風堂々の建物

建物横のガラスケース内に貼られた大阪府教育委員会による説明文を転記しますと、

重要文化財 大阪府立中之島図書館
        本館左右翼 3棟
この建物は、住友吉左衛門が図書館として本府に寄付されたもので、住友本店技師長野口孫市氏及び技師日高胖(ゆたか)氏の設計監督のもとに明治33(1900)年に着工、同37(1904)年1月に竣工したものである。
建物は、煉瓦及び石造3階建てで中央に円屋根を付けた十字型平面の本館左右翼(大正11(1922)年増築)からなっている。
外観では高い4本の柱の列立する正面ポーチとその後方に挙げられた円屋根が意匠の要であり、内部では、半球形のドームを頂く円形ホールがもっとも特徴的である。全体としてネオ・バロック様式の傾向が見られるが、これをよく消化して独自の造形美を形成しており明治時代の日本人建築家による極めて水準の高い作品である。

と、「作品」と言い切っているのが、ある意味凄い

中に入れるのかな? と思っていたら、一般人にしか見えない人が正面玄関から出てきたので、これ幸いと、さっそく私も中に入ってみました。

おぉ、優雅階段
そして、上を見上げると、

ステンドグラスが鮮やかな円天井です

そして、廊下もなかなかです
なんといっても色づかいイイ
今は普通の蛍光灯(LED灯具?)がぶら下がっていますが、昔はもっと魅惑的な灯具を使っていたんだろな…。

この本館1階には、この建物に関連するパネル展示がありました。
外の説明書きを読んだ時、住友吉左衛門住友家の当主が代々名乗る名前だから、個人を特定できないよな 恐らくあの方だろうけれど…」と思っていたのですが、館内のパネルには、

大阪府知事菊池侃二が府の教育10カ年計画の中で図書館新設を提案したのは明治32(1899)年のことであった。
それを知った住友家15代当主住友吉左衛門友純氏は、明治33年2月、独力で図書館建設費15万円図書購入基金5万円大阪府に寄附することを申し出た。(中略) 明治37年2月25日開館式典が挙行され、3月1日名前も「大阪図書館」として一般公開された。その後明治39(1906)年大阪府立図書館と改称し、現在の中之島図書館となったのは昭和49(1974)年のことである。
開館後、図書館の閲覧者は日に日に増加し、住友吉左衛門氏は、大正6(1917)年12月、再び寄附を願い出左右両翼棟が増築された。設計は技師長日高胖氏が担当し、大正11(1922)年10月21日増築が完成しほぼ今日の図書館の姿となった。

住友吉左衛門さんとは、やはりこの方、住友家15代当主住友吉左衛門友純(ともいと)さんのことだったんだ
住友友純(春翠)さんのことはこちらの記事でさんざっぱら書きましたので、省略させていただきます

大阪府立中之島図書館は観光スポットとして予定していなかったのですが、しっかりと良い建物を見ることができて、幸先良い大阪観光です

   

大阪府立中之島図書館東隣りは、以前、ライトアップを存分に楽しませていただいた美しい建物大阪市中央公会堂です。

大阪市中央公会堂(南西から)

煉瓦造り全般に好きな私ですが、この建物は、大のお気に入りの建物の一つです。

この建物も大阪府立中之島図書館と同じく、民間人の寄付をもとに建てられたもので、建設費100万円を寄付したのは、北浜の相場師・岩本栄之助さん。
岩本さんは、この建物が竣工する前に、相場で失敗して自殺してしまったのですが、そのあたりの話は、こちらの記事大阪市中央公会堂のHPから長々と引用しましたので省略いたします。

代わりに(?)、外にあった大阪市教育委員会による説明板から、建築様式に関するテクニカルターム満載の説明を転記しましょう

建築様式は、当初記述に「復興式中の準パラディヤン式」とあり、ネオ・ルネッサンス様式を基調としたものと解される。
外観は左右対称を基本にコーニス片蓋柱ペディメント付き開口部等による厳格な構成と、正面の壮大な半円アーチジャイアントオーダーなどのバロック的な壮麗さをあわせ持ち、柱頭飾りを幾何学図形化するなど細部にはセセッション様式の浸透も見られる。
外壁表面は地階部分が花崗岩積、地上階は、化粧煉瓦小口貼りに、腰の帯石と窓廻りを花崗岩、蛇腹と片蓋柱、パラペット廻りを擬石モルタル洗い出しとし、屋根は銅板葺きで一部を天然スレート葺き、側面と四隅に屋根窓を配す。平面規模は、間口43.6m、奥行き61.8mで、建築面積2164.17㎡、鉄骨煉瓦造、地上3階、地下1階建。耐震性能強化のため基礎下の新たな構造体と上部構造の補強によって免震レトロフィットを実施。
主要室の構成は、1・2階/大会議室(ホール)。3階/中・小集会室・特別室、地階/会議室(展示室)・レストラン

一生懸命にネットで調べながらテクニカルタームにリンクを貼ったんですが、判ったような判らないような

これだけでも私の頭がオーバーフローしそうなのに、大阪市中央公会堂のために岩本さんが寄付したのが100万円(1911年)で、大阪府立中之島図書館のために住友さんが寄付したのが15万円(1900年)というのが引っ掛かって、なんともなりません
大阪府立中之島図書館の設計者が住友本社の社員だったことを考えれば、寄付額に含まれない住友からの持ち出しがあったのでしょうけれど、金額の差が大きすぎると思うのです。

難しい文章を転記し、また、金銭に関するややこしいことを考えて、頭が疲れしまいましたので「#2-1」はここまでにします。
「#2-2」は、大阪市中央公会堂探訪記のつづきから再開します。

つづき:2025/01/30 今年最初の関西旅行記 #2-2

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今年最初の関西旅行記 #1

2025-01-29 11:26:59 | 旅行記

「今年最初の関西旅行記 #0 & M」のつづき、旅行初日(1月25日)のあれやこれや(MISIAのライヴを除く)です。

月初めの愛知遠征のときより、約1時間遅東海道新幹線なので、朝食を自宅で済ませた上で、大阪に向けて出発しました。

関東圏~静岡県中部はちょっと曇っていて富士山雲の中だったのですが、浜松辺りからは良い天気で、浜名湖が青く輝いていました

そして、なんだか好きな伊吹山ど~ん

伊吹山

今回の新幹線への乗車で楽しみにしていたのは、去年11月放送のNHK「ブラタモリ:東海道“五十七次”の旅▼第一夜 京都・三条大橋から伏見へ」で言っていた『まもなく京都です』のアナウンスが流れるあたりが山科本願寺のあった場所です」を確認すること。
早くも浄土真宗開祖の親鸞上人ゆかりの地でもある比叡山が見える辺りからソワソワして、その時を待ちました。

そして、来たぁ~

知らなきゃ何のへんてつもない車窓の風景ですな
堀や土塁が残っていると聞きますので(ご参考)、いつかはこの辺りを歩いてみたいものです

   

私が乗った新幹線は、名古屋駅での小トラブルの影響で、定刻から5分ほど遅れて終点の新大阪駅に到着しました。

私が大阪遠征するときは、新大阪駅前の某ホテルに泊まることが多い傾向にあります。このホテルは駅から近いし、値段が手頃だし、喫煙可の部屋もとれるし、朝食がなかなかなのです。加えて、チェックインタイムが14:00と早いことも魅力です。
このため、13:00頃に新大阪駅に着く新幹線に乗り、新大阪駅の駅ナカでやや遅めの昼食を摂り、ホテルに向かう…というパターンが多く、今回もこれを踏襲しました。
昼食は、これまた何度目かの串かつ屋さん。

串かつを食すとなれば、昼であろうと、やはりビールが欲しい

「おきまり」に 3本追加して、満足

だったのですが、14:00にはまだ余裕がありました。
そこで、同じフロアにあった「喫茶店」に入り、バニラアイスをいただきました。
串かつ屋さんもそうでしたが、この喫茶店も「全席喫煙可」
入店したとき、店員さんから「全席喫煙可ですがよろしいですか?」の親切なひとことがありましたが、首都圏ではほとんど見られなくなったこういう店が、大阪ではまだまだあるんですな

あ、バニラアイス美味しかったです。

そして、ホテルチェックイン
驚いたことに、ホテルのフロント前には、10人ほどのチェックイン待ちの行列ができていました こんなのは初めてです
そして、床には、チェックイン前 or チェックアウト後のお客さんの大型バッグがズラリと並んでいます
相変わらずインバウンド客が多いのでしょうねぇ
商売繁盛御同慶の至り

で、部屋に入り、カーテンを開けると、

おぉ 大阪名物(?)の梅田スカイビルも見えて、お・お・さ・かぁ~ です。

考えてみると、何度も泊まったこのホテルで、南向きの部屋に泊まるのは初めてです。エレベーターまで遠いのはなんですけど…

さて、PC をセットして(マウスの無線接続端子が無い と一瞬焦ったものの、このマウスはBluetooth接続でした)、一服して…とくつろぐうちに、気がつけば出発予定時刻の14:30をとうに過ぎていました
トートバッグの中を整理(出:デジカメ 入:ペンライト)すると、大阪城ホールに向けて出発しました。

この日なく大阪城ホールまで行けましたが…

   

「THE TOUR OF MISIA 2025 LOVE NEVER DIES」大阪公演初日を至福の中で堪能したあとは、ミー友さんたち飲み会

ライヴ18:30前に終わるというのは、その後でのんびりできてイイ
直帰の遠征組にも優しいし…。

飲み会終了後は京橋駅まで歩いたのですが、かなり寒かった

「京橋駅」で思い出しましたが、地名の読み方(アクセント)は、地域によって違うので、「居住地詐称」はすぐにバレます
「京橋」の場合、東京の京橋平坦に発声しますが、大阪の京橋「京」にアクセントが付きます。
名古屋に行った時も、名鉄の車内アナウンスでは。清水駅森下駅平坦に発声されていて、関東での一般的な読み方(清水は「し」、森下は「り」にアクセントが付く)と違うんだと思いましたっけ…

それはともかく、京橋駅から大阪環状線に乗り、来た道を返して、ホテルに戻りました。

考えてみると、この日は、自宅を出発して以降、一度もTVのスイッチを入れませんでした
Y1000のCMMISIAが言っている「モニターを見ない時間をつくる」までは行きませんでしたが(PCのモニターは視た)、静寂の中でこの日のライヴを振り返るのは乙なものです。

いつものことながら、この夜も、ライヴ興奮をひきずって、寝付けませんでした
とはいえ、「眠れないと焦ることはありませんでした。翌朝に早起きしなければならない理由はありませんから…。

こうして「眠れぬ夜はMISIAのせい」状態で大阪旅行の初日を終えたのでした。

つづき:今年最初の関西旅行記 #2-1

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今年最初の関西旅行記 #0 & M

2025-01-28 13:28:39 | MISIA/旅行記

1月25日(土)~27日(月)の2泊3日で、「THE TOUR OF MISIA 2025 LOVE NEVER DIES」大阪公演に絡めた関西旅行に行ってきました。

まずは、愛知遠征記にならい、「#0 & M」として、3日間の行程と、MISIAのライヴ 2 daysのことから書き始めます。

3日間の行程は以下のとおり。

【初日:1月25日(土)】ライヴと飲み会の日
自宅⇒徒歩最寄り駅埼京線赤羽駅上野東京ライン東京駅東海道新幹線新大阪駅駅ナカで昼食⇒徒歩ホテル(チェックイン)⇒徒歩新大阪駅JR京都線大阪駅大阪環状線大阪城公園駅⇒徒歩大阪城ホール(THE TOUR OF MISIA 2025)⇒徒歩飲み会⇒徒歩京橋駅大阪環状線大阪駅JR京都線新大阪駅⇒徒歩ホテル

【2日目:1月26日(日)】ライヴと大阪観光の日
ホテル⇒徒歩新大阪駅御堂筋線淀屋橋駅⇒徒歩大阪府立中之島図書館大阪市中央公会堂大阪市立東洋陶磁美術館⇒徒歩大阪取引所北浜駅⇒堺筋線恵美須町駅⇒徒歩新世界⇒徒歩新今宮駅大阪環状線森ノ宮駅⇒徒歩(迂回しまくり)大阪城ホール(THE TOUR OF MISIA 2025)⇒徒歩大阪城公園駅大阪環状線大阪駅JR京都線新大阪駅駅ナカで夕食⇒徒歩ホテル

【3日目:1月27日(月)】
京都観光の日

ホテル⇒徒歩新大阪駅JR京都線京都駅改札外コインロッカー京都駅嵯峨野線花園駅⇒徒歩妙心寺⇒徒歩妙心寺駅嵐電北野線帷子ノ辻駅嵐電嵐山本線西院駅⇒徒歩西院駅⇒阪急京都線京都河原町駅⇒徒歩新京極錦市場昼食⇒徒歩四条駅烏丸線京都駅東海道新幹線東京駅上野東京ライン赤羽駅埼京線最寄り駅⇒徒歩自宅

   

ここからは「THE TOUR OF MISIA 2025 LOVE NEVER DIES」大阪 2 daysのこと。

私がこのツアーに参加する(観る)のは愛知(常滑)での初日公演以来でした。
初日公演では、こちらに書いたように、

本編だってぜんぜん悪くない(っつうか、素晴らしいMISIAのボーカルとバックの皆さん)のだけれど、古くからのサポーターが抱く「THE TOUR OF MISIA」とは違う感じ…

違和感を覚えました。
その後、愛知の2日目、福井 2 daysと、いろいろ変わって「THE TOUR OF MISIA」らしくなったらしいと漏れ聞いておりましたが…

で、MISIAが歌った曲は、たった1~2曲の入れ替えだったというのに、曲順(というか数曲からなるユニット)を入れ替えメンバーをちょいと替えた(増やした)ことで、1本のライヴとして劇的に変貌していました
これぞまさしく「THE TOUR OF MISIA」です

愛知での初日から大阪2日目までセットリストを、例によって「見たい人だけ見られる」ように載せましょう。画像をクリック/タップすると、セットリストをご覧いただけます。

「たった1~2曲の入れ替え」なのに、なんとも縦長なリストになってしまいました。もちろん、MISIAが40曲以上も歌ったはずもなく、これこそ「数曲からなるユニット」を入れ替えた結果です。

大阪 2 daysまでで、なんとなくセットリストが落ち着きつつある感じがしますな

それにしても初日なんだったんでしょ
「数曲からなるユニット」をそれぞれポストイットに書いて、それを並べ替えながらライヴの構成を練るつもりが、書いた順番に並べておいたヤツがそのまま本番になってしまった、とか???
いまにして振り返れば、それほど制作者の意図が感じられないセットリストだったと思います

ここで例によって私がピックアップして「X」にポストした「MISIAのおことば」です。

まず初日が、

どうもMISIA昨年のNHK紅白歌合戦紅組が負けたことがよほど悔しかったようです。
MISIAは大トリでもあったけれど、紅組のトリ」という責任感みたいなものが悔しさを長引かせているんじゃなかろうか

そして2日目が、

MISIAのボーカルは、デビュー当時から傑出していたのに今でも進化を続けて、まさに限界知らずなんですが、MISIAのMC(おしゃべり)は、かつてはやきもきするほどたどたどしかったのに今ではなんとも滑らかに次から次へとネタが出てきてボーカルの進化を越える成長っぷりです。
初日は、金曜日になんばグランド花月で観てきたという「やすとも」さんの漫才の話を、ネタの紹介まで含めて熱弁を奮ったMISIAでしたが、2日目は「やすとも」さんの話題は短縮版にして、「ジャグラーのビンビンさんも面白かったとのこと。
場内からはすかさずバンバンビガロだよツッコミが入っていました MISIAらしさ全開ですな

今回のツアーでも、バックバンド/コーラスが素晴らしくて、とくに某曲の「長すぎるアウトロ」というかインストルメンタル曲は、Jazzyで最高 大のお気に入りです

私だけかもしれませんが、最初の曲が始まってダンサーさんたちが出てくると、どうしても映画「翔んで埼玉」の冒頭を思い出してしまって…

と、ネタバレを極力抑えてライヴのことを書くのは大変です
今週末には横浜公演があって、来週、またブログに「THE TOUR OF MISIA 2025」のことを書くのだろうと考えると、書きたいことを小出しにしといた方が良いのだろうな…

ということで、#1以降は、MISIA以外のことを書きますのであしからず。

【追記】NHK「うたコン」こっちのけんとさんが出ているのを見て思い出しました。MISIA曰く紅白歌合戦で他の出演者の方々と一緒にギリギリダンスを踊りたかったのだけれど、自分の出番「歌って踊ろう! KIDS SHOW」がすぐだったのであきらめました」だそうです (2025/01/28 20:08) 

つづき:2025/01/29 今年最初の関西旅行記 #1

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