私は東京郊外の調布市に住む年金生活5年生の65歳の身であるが、
民間会社のサラリーマンを卒業した身であり、
現役時代を振り返る時、どなた様も体験されたと思うが、
その時、それなりにそのお方の人生軌跡に大きく影響を受ける時点がある。
私は東京オリンピックが開催された時に大学を中退し、
映画・文学青年の真似事をし、先行きの見えないような彷徨(ほうこう)した5年を過ごした後、
ある民間の大手企業に何とか中途入社した後、まもなくレコード会社に転籍させられた。
もとよりレコード会社は中小業であり、この音楽業界に35年ばかり勤めたが、
最後の5年間が決まった時、私なりの人生のターニング・ポイントのひとつと成った。
私の勤めていたレコード業界は、業界全体の売上げピークは1998(平成10)年で、
デパート業界と同様にかげりが見え、各社が社内業務の見直し、組織の大幅な改定、グループ会社内の統廃合、
そして資本による合併などが行われたりした。
これに伴ない、正社員のリストラが行われ、人事配置転換による他部門の異動、出向、
早期退職優遇制度により退職が行われた。
私は1970(昭和45)年の中途入社であったが、
この頃の時代の風潮としては、多くのお方と同様にこの会社で定年の60歳まで勤め上げて、
私なりの人生設計を持っていた。
先輩、同僚、後輩の一部の人が、第二の人生を選択し、早期退職優遇制度に申請を出されていたが、
私は定年まで勤め上げる思いが強くあったので、彼等の決断を見送っていた。
その後、私が人事担当の取締役から、出向の話を打診された時、
《何で・・俺が・・》
と思いがあった。
周囲の人事異動が激しく行われていた時期であったので、
ある程度の人事の異動が覚悟していたが、出向とは予測もしていなかったのが本音であったのである・・。
私は出向を受け入れ、取引会社のひとつに勤めはじめた。
出向身分は、会社に直接に貢献できる訳もなく、まぎれなく戦力外として感じたので、
屈辱と無念さが入り混じ、失墜感があったのである。
出向先は神奈川県の東名高速道路に隣接した所にある物流会社の本社であった。
この物流会社は全国の主要基点に物流センターを設置し、
音楽商品のレコード、カセット、CD等、映像商品としてビデオテープ、DVD等を運営管理している。
そしてそれぞれの物流センターは、
販売店からの日毎の受注に応じた出荷や返品を含めた商品の出入り、保管などの業務管理を行っている。
私はこの中のひとつの物流センターに通ったが、
センター長をはじめとする正社員の5名の指示に基づいて、
若手の男性の契約社員、アルバイトの10名、
30代と40代の多い女性のパートの100名前後の職場であった。
それまでの私は、殆ど本社勤めで部門間でもとより男性社員はじめ、多くの女性正社員、契約社員と職場を共にしたが、
こうした物流センターの職場環境には戸惑ったりした。
若手の契約社員、アルバイト、そして女性パート人達と業務上の打ち合わせ、親睦会、そして現場での立ち話したり、
管理部門として立場で、社内の事情を把握するにつれて、
意外と賃金を含め冷遇されていると解かってきた。
そして物流現場で多くの人達に効率よく動いて頂く為に、上に立つ方に様々なタイプがあることを知った。
短絡的に云えば、あたりは柔らかく指示するタイプ、或いは威圧的に形で指示するタイプであった。
私のそれぞれのお方に性格を知る必要があると思い、ともかく私なりに脳裏に刻み、
多くのお方のその人なりの長所と短所を覚えた。
私はあたりは柔らかくタイブで、たとえばミスなど気付いた場合、
その当人の性格を加味し、人前を避けて注意したりした。
もとより再発防止が目的であるので、威圧的に行っても当人が傷つく場合が多いので、
これは私の性格からして避けたのである。
そして物流センターの現場では、出来る限り笑顔で大きな声で接していた。
私の出向元のレコード会社、そして勤め先となっている物流会社も、一年後に更にリストラが行われ、
ある程度の正社員がこの業界から去った。
こうした中、私の出向元のレコード会社では、出向先の物流会社に対して、物流コストの削減を要請され、
結果として若手男性の契約社員、アルバイト、そして女性のパートお方達の人件費削減、そして解雇が行われた。
私は内面心の板ばさみとなり、労苦の多い時期でもあったのである。
何とか定年退職を出向先の物流会社で2004(平成16)年の秋に迎え、
出向元のレコード会社の有志が私の為に歓送会を開いてくれた。
その席のひとりのお方は、すでに早期退職優遇制度でお辞めになった二歳ばかり齢上の人であるが、
私のそばに近づいて、
『実は・・俺に物流会社の出向先の話がアンタより先にあったの・・
俺の前に確かひとりいた・・いずれも断わったので・・
人事の取締役・・やむえずアンタにお願いしたと思うよ・・
悪かったけどねぇ・・』
と二歳ばかり齢上の人から私は初めて実情を知ったのである。
この後、私は過ぎ去った5年の出向期間を思い浮かべたりし、
《結果して・・俺は第3の男かょ・・》
と心の中で、呟(つぶや)いた。
後日、出向先の物流会社で私の歓送会を開催して頂き、
女性のパート方達から花束、贈呈品、そして色紙にほぼ全員からの短かなメッセージを見た時、
涙があふれそうになり困ったのは事実である。
私は現場で弱い立場の人達から、限りなく多くの心の勉強をさせて頂いた。
指示する立場であれ、傲慢さをなくし謙虚な言動がいかに大切なのかを、
改めてこの人たちから多々学んだのである。
私は殆どレコード会社の本社で情報畑、管理畑で30年、その後の5年は物流会社に出向で、
サラリーマン生活を終えたのであるが、
今でもこの物流会社で出向したことは確かな心の節度として、かけがえのない貴重な財産と思っている。
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民間会社のサラリーマンを卒業した身であり、
現役時代を振り返る時、どなた様も体験されたと思うが、
その時、それなりにそのお方の人生軌跡に大きく影響を受ける時点がある。
私は東京オリンピックが開催された時に大学を中退し、
映画・文学青年の真似事をし、先行きの見えないような彷徨(ほうこう)した5年を過ごした後、
ある民間の大手企業に何とか中途入社した後、まもなくレコード会社に転籍させられた。
もとよりレコード会社は中小業であり、この音楽業界に35年ばかり勤めたが、
最後の5年間が決まった時、私なりの人生のターニング・ポイントのひとつと成った。
私の勤めていたレコード業界は、業界全体の売上げピークは1998(平成10)年で、
デパート業界と同様にかげりが見え、各社が社内業務の見直し、組織の大幅な改定、グループ会社内の統廃合、
そして資本による合併などが行われたりした。
これに伴ない、正社員のリストラが行われ、人事配置転換による他部門の異動、出向、
早期退職優遇制度により退職が行われた。
私は1970(昭和45)年の中途入社であったが、
この頃の時代の風潮としては、多くのお方と同様にこの会社で定年の60歳まで勤め上げて、
私なりの人生設計を持っていた。
先輩、同僚、後輩の一部の人が、第二の人生を選択し、早期退職優遇制度に申請を出されていたが、
私は定年まで勤め上げる思いが強くあったので、彼等の決断を見送っていた。
その後、私が人事担当の取締役から、出向の話を打診された時、
《何で・・俺が・・》
と思いがあった。
周囲の人事異動が激しく行われていた時期であったので、
ある程度の人事の異動が覚悟していたが、出向とは予測もしていなかったのが本音であったのである・・。
私は出向を受け入れ、取引会社のひとつに勤めはじめた。
出向身分は、会社に直接に貢献できる訳もなく、まぎれなく戦力外として感じたので、
屈辱と無念さが入り混じ、失墜感があったのである。
出向先は神奈川県の東名高速道路に隣接した所にある物流会社の本社であった。
この物流会社は全国の主要基点に物流センターを設置し、
音楽商品のレコード、カセット、CD等、映像商品としてビデオテープ、DVD等を運営管理している。
そしてそれぞれの物流センターは、
販売店からの日毎の受注に応じた出荷や返品を含めた商品の出入り、保管などの業務管理を行っている。
私はこの中のひとつの物流センターに通ったが、
センター長をはじめとする正社員の5名の指示に基づいて、
若手の男性の契約社員、アルバイトの10名、
30代と40代の多い女性のパートの100名前後の職場であった。
それまでの私は、殆ど本社勤めで部門間でもとより男性社員はじめ、多くの女性正社員、契約社員と職場を共にしたが、
こうした物流センターの職場環境には戸惑ったりした。
若手の契約社員、アルバイト、そして女性パート人達と業務上の打ち合わせ、親睦会、そして現場での立ち話したり、
管理部門として立場で、社内の事情を把握するにつれて、
意外と賃金を含め冷遇されていると解かってきた。
そして物流現場で多くの人達に効率よく動いて頂く為に、上に立つ方に様々なタイプがあることを知った。
短絡的に云えば、あたりは柔らかく指示するタイプ、或いは威圧的に形で指示するタイプであった。
私のそれぞれのお方に性格を知る必要があると思い、ともかく私なりに脳裏に刻み、
多くのお方のその人なりの長所と短所を覚えた。
私はあたりは柔らかくタイブで、たとえばミスなど気付いた場合、
その当人の性格を加味し、人前を避けて注意したりした。
もとより再発防止が目的であるので、威圧的に行っても当人が傷つく場合が多いので、
これは私の性格からして避けたのである。
そして物流センターの現場では、出来る限り笑顔で大きな声で接していた。
私の出向元のレコード会社、そして勤め先となっている物流会社も、一年後に更にリストラが行われ、
ある程度の正社員がこの業界から去った。
こうした中、私の出向元のレコード会社では、出向先の物流会社に対して、物流コストの削減を要請され、
結果として若手男性の契約社員、アルバイト、そして女性のパートお方達の人件費削減、そして解雇が行われた。
私は内面心の板ばさみとなり、労苦の多い時期でもあったのである。
何とか定年退職を出向先の物流会社で2004(平成16)年の秋に迎え、
出向元のレコード会社の有志が私の為に歓送会を開いてくれた。
その席のひとりのお方は、すでに早期退職優遇制度でお辞めになった二歳ばかり齢上の人であるが、
私のそばに近づいて、
『実は・・俺に物流会社の出向先の話がアンタより先にあったの・・
俺の前に確かひとりいた・・いずれも断わったので・・
人事の取締役・・やむえずアンタにお願いしたと思うよ・・
悪かったけどねぇ・・』
と二歳ばかり齢上の人から私は初めて実情を知ったのである。
この後、私は過ぎ去った5年の出向期間を思い浮かべたりし、
《結果して・・俺は第3の男かょ・・》
と心の中で、呟(つぶや)いた。
後日、出向先の物流会社で私の歓送会を開催して頂き、
女性のパート方達から花束、贈呈品、そして色紙にほぼ全員からの短かなメッセージを見た時、
涙があふれそうになり困ったのは事実である。
私は現場で弱い立場の人達から、限りなく多くの心の勉強をさせて頂いた。
指示する立場であれ、傲慢さをなくし謙虚な言動がいかに大切なのかを、
改めてこの人たちから多々学んだのである。
私は殆どレコード会社の本社で情報畑、管理畑で30年、その後の5年は物流会社に出向で、
サラリーマン生活を終えたのであるが、
今でもこの物流会社で出向したことは確かな心の節度として、かけがえのない貴重な財産と思っている。
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