夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

このサイトに、投稿文を綴るとき・・♪

2009-10-28 15:52:23 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活6年生の65歳の身であるが、
2004(平成16)年の秋に民間会社を定年退職してまもない時、
ブログの世界を知ったのである。

そしてブログの中ではポータルサイト系の【Yahoo! ブログ】、【エキサイトブログ】、【gooブログ】、
【livedoor Blog】、【楽天広場ブログ】、【はてなダイアリー】等、
プロバイダ系として【ココログ】、【ブログ人】、【ウェブリブログ】等があり、
或いはブログに準じた簡素なサイトも数多くある。

私が四つばかり彷徨(さまよ)いながら加入した後、
ブログに準じたサイトは【goo簡単ホームページ】と、
一時中断したことがあったがブログサイトとして【gooブログ】とした。

その後、2007(平成19)年の秋に【goo簡単ホームページ】が閉鎖となり、
私はこれまでの投稿分が移動できる【OCN Cafe】に加入させて頂き、
今日に至っている。

このように【gooブログ】に於いては、
《 年金青年のたわむれ記』 ~かりそめ草紙~ 》、と題したタイトルを掲げて、
発信名は『夢逢人』としている。

【OCN Cafe】の方は、
《 風、そして光のように 》、と題したタイトルを掲げて、
発信名は『風と光』としている。


そして私は定年退職後の年金生活を過ごしているので、ともすれば身過ぎ世過ぎの日常となりながら、
日々に感じたこと、思考、或いは思索していることをあふれた思いを心の発露となり、
真摯に、ときには楽しく綴ったりしているが、各分野のさまざまな投稿内容と成っている。

【OCN Cafe】の場合は、音楽、旅、その時の思いなどで、あとで振り返った時、
当人の私さえ戸惑うことがある。

こうした思いもあり、最初の3年間は、完全な二刀流の文章を投稿したのであるが、
体力も衰えたので、一本化としたのである。

そして、昨年の5月前後に、【gooブログ】のブログの特性を利用し、
これまで四つのブログ系に書き散らしてきたが、集約と整理したのである。

カテゴリー別機能を活用して、再設定し、
『定年後の思い』、『食べ物、お酒』、『読書、小説・随筆』、
『真摯に『文学』を思考する時』、『小庭の情景を眺めながら』、『映画・テレビ 』、
『音楽』、『旅』 、『旅のあれこれ』、『我が故郷、徳富蘆花氏に尋ねれば・・。』、
『幼年・少年時代の想いで』、『青年時代の想いで』、『現役サラリーマン時代の想いで』、
『時事【団塊の世代】』、『時事【社会】』、『時事【政治・経済】』、
『『大人の童話』~掌(たなごころ)小説~』の投稿内容に応じて区分としたのである。


こうした背景もさることながら、肝要の投稿文に関しては、
私は旅行などで外出している時、パソコンの故障を例外として、
まもなく丸5年近くになるが、毎日投稿し、朝夕の時もあるので、3000通は超えている。

投稿する時は、なるべく改行を多くしている。
ブログの文体は、論文、小説などと違い、お読み頂く場合は携帯電話は無知であるが、
パソコンの画面を想定して、読みやすさを意識して綴っている。

そして内容としては、日記形式の時もあれば、随筆風に綴ったりしている。

日記形式に綴る時は、案外気楽であるが、文章の質が落ちるので、
なるべく随筆風に綴れるよう注意をしている。

この場合、投稿内容が直ぐに決まることもあれば、中々決まらず苦慮することがある。

ときたま、香気ある文体を綴れた時は好いが、こうしたことは何時も綴れるわけにはいかない。

拙(つたな)い脳裏を働かすが、感性に乏しいせいか、言葉が舞いおりてこなく、
やむえなく修行の積み重ねに頼るしかない。

いずれにしても文を綴ることは、幾つになっても苦慮することがある。

しかしながら、これまでの私の半生は屈折の多い人生であり、
敗者復活戦のような思いもあり、せめて残された人生は、この世に生を受け生きた証(あかし)として、
たったひとつの歴然とした随筆を遺(のこ)したく、散文修行しているので、
今後も苦楽を重ねながら、心の発露を綴ろうと思っている。



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改めて、私の小学生時代の愛唱歌は『越後獅子の唄』 ・・。

2009-10-28 07:26:52 | 幼年・少年時代の想いで
私が小学校に入学したのは、昭和26年の春だった。
東京の郊外の調布市であるが、この当時は京王線の各駅の前は商店街があったが、
駅より5分離れると殆ど田畑、雑木林が圧倒的に多く、緑豊かな町村であった。

私の生家は農家で、祖父、父が中心となって程ほど広い田畑を小作人に助けられ耕し、
竹林、雑木林などを維持管理していた。

私は長兄、次兄に続いて生を受けた3男坊で、
祖父と父は女の子を期待していたらしく、私は幼児なりに何となく感じていたのか、
いじけた可愛げのない子の上、無口であった。

兄の2人は学校の成績が良く、私は通信簿を頂くたびに、
お兄さんの2人は優秀だったのに、
と担任の女の先生がため息まじりに云われたりしていた。


音楽の授業は、先生がオルガンを弾いて、
生徒の我々全員が『春の小川』、『夕やけこやけ』等を唄っていた。

学期末の頃に、ひとりの生徒が教室の1番前にある黒板の近くで、
先生のオルガンの伴奏に合わせて、唄うことが定例であった。
私は人前で他愛ないおしゃべりをすることが苦手であったので、
私の順番になると、ドキドキし、出来たら逃げ出したかった。

結果として、通信簿『2』であった。

こうした中で、小学二年の時に父が病死し、祖父も小学三年に亡くなり、
農家の要である大黒柱を失った我が家は没落しはじめた。

私はこの頃、ラジオから流れていた歌をうつろに覚え、私が下校で独りぼっちで歩いて帰る時、
或いは家の留守番をしている時は、

♪笛にうかれて 逆立ちすれば
 山が見えます ふるさとの
 わたしゃ孤児(みなしご) 街道ぐらし

【『越後獅子の唄』 作詞・西條八十、作曲・万城目正、唄・美空ひばり】

私は何となくこの歌に魅了されて、唄っていた。
唄い終わると、何故かしら悲しくなり、涙を浮かべることが多かった。

そして、私が気分が良い時は、
私は街の子、田舎の子・・、
と勝手に『私は街の子』を変更して、唄ったりしていた。

小学校の後年になると、私は映画を観ることが何よりも好きであったので、
母に百円を懇願して、独りで映画館にたびたび通った。
この当時は、電車賃は子どもで往復10円、映画館の入場料は殆ど三本立ちであったが子どもで40円で、
帰路にラーメン屋に寄り35円で、あとの15円は映画館の中にある売店で都こんぶ等を買い求めていた。

こうした折に、たまたま映画の【ビルマの竪琴】で『埴生の宿』、【二等兵物語】』で『ふるさと』を知り、
これこそ私が望んでいた音楽だ、と感銘を受けたりした。

しかし、この名曲の2曲は人前で唄うことはなく、
クラスの仲間からは、私を『三原山』とあだ名を付けていた。
普段無口の癖に、ときたま怒り出すと周囲が驚き退散されたりしたので、
伊豆七島のひとつ伊豆大島のそびえる三原山の活火山からの命名されたのであった。


そして確か私が小学5年になる頃、小学校の音楽室に都心の学校より遅ればせながらピアノが導入されて、
何かしら女の子達はピアノに触れることが、羨望の的となっていた。

我が家でも妹の2人が小学5年、3年で私が中学1年になったばかりの時、
妹達は先生にほめられた、と母は聴いて、有頂天になり、無理してピアノを購入した。

こうして私達兄妹の小学校時代の音楽の成績は、兄2人と妹2人は通信簿『5』であり、
何故かしら私だけが『2』の劣等性であった。


私が25歳を過ぎた時、民間会社に中途入社し、たまたまレコード部門に配置されて数年後、
妹のひとりが母の前で、
『お兄ちゃんがレコード会社で・・
家にいる時はモーツァルトを聴いているなんて・・想像できる・・信じられないわ・・』
と云ったらしく、私は苦笑していた。


今の私達の兄妹は、日常は音楽から遠ざかった普通の人々で、
日常生活で最も音楽をこよなく愛聴しているのは私だけである。

尚、母が苦労して購入したピアノは、10数年後、埃を被り、中古業者に引き取られた。


http://www.youtube.com/watch?v=5bqCBOTBpv0

☆【『越後獅子の唄』 作詞・西條八十、作曲・万城目正、唄・美空ひばり】☆





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