私はマッカーサーに関して、程々に読んできたが、
先程、フリー百科事典としてして名高い『ウィキペディア(Wikipedia)』に於いて、
『ダグラス・マッカーサー』を読んだのであるが、ほぼ書き尽くされている。
手抜きをして、『ウィキペディア(Wikipedia)』を大半を転載させて頂く。
《・・
ダグラス・マッカーサー(Douglas MacArthur, 1880年1月26日 - 1964年4月5日)は、
アメリカ軍の将軍(元帥)で、GHQ最高司令官であり、名誉勲章の受章者である。
1880年、軍人である父の任地であったアーカンソー州の兵営内の宿舎で生まれ、基地内で育った。
父のアーサー・マッカーサー・ジュニア中将は南北戦争の退役軍人であり、名誉勲章を受章している。
フィリピンでは初代軍政総督も勤めた人物であり、ダグラスは親子2代でフィリピンに縁があった。
母のメアリー・ピンクニー・ハーディ・マッカーサーはヴァージニア州生まれである。
兄のアーサーはアメリカ海軍兵学校に入学し、海軍大尉として1923年に死亡。
弟マルコムは1883年に死亡。
甥のダグラス・マッカーサー2世は日本駐箚アメリカ合衆国大使となる。
フランクリン・ルーズベルト、ウィンストン・チャーチルらとは遠戚関係にある。
これは祖父のアーサー・マッカーサー卿が元々はイギリス貴族からの移民であり、
祖父はサーの称号を持っており、マッカーサー家はイギリス貴族の血筋であるためである。
陸軍入隊
1899年にウェストポイントアメリカ陸軍士官学校にトップ入学し、1903年に陸軍少尉で卒業した。
この時期、マッカーサーの母は学校の近くのホテルに移り住んでいた。
その成績はアメリカ陸軍士官学校史上抜群で、ダグラス以上の成績で卒業した者はこれまで2名しかいない。
卒業後、アメリカ陸軍の工兵隊少尉としてフィリピンに配属された。
1905年に父が駐日アメリカ合衆国大使館付き武官となったため、ダグラスも副官として日本の東京で勤務した。
第一次世界大戦
その後に陸軍省に戻り、第一次世界大戦においては、各州の州兵を徴募して「レインボー師団」を結成、
西部戦線で第42歩兵師団を指揮した。
戦場において2回負傷し、15個の勲章を受章した。
戦後、最年少で少将となる栄進を果たし、士官学校の校長に就いた。
1928年のアムステルダムオリンピックではアメリカ選手団長となったが、
アムステルダムで新聞記者に囲まれた彼は「我々は勝つためにやって来た」と答えた。
陸軍参謀総長
1930年、アメリカ陸軍最年少で参謀総長に就任した。
このポストは大将職であるため、少将から中将を経ずに、一時的に大将に昇進した。
副官には、後の大統領ドワイト・アイゼンハワーが付いた。
1932年に、退役軍人の団体が恩給前払いを求めてワシントンD.C.に居座った事件で、陸軍による武力排除が行われた。
これは、「退役軍人たちは、共産党の支援を受けてデモを起こしたのではないか」
と疑念を抱いた政府がマッカーサーの計画を許可して行われたことである。
マッカーサー自身も共産主義を徹底的に嫌っていた。
フランクリン・ルーズベルト大統領は不況対策と称して軍事予算削減の方針であったが、
マッカーサーは「共産主義者の陰謀である」と考え、大統領をあからさまに批判した事で大統領の怒りを買った。
フィリピン生活
1935年に参謀総長を退任して少将の階級に戻り、フィリピン軍の軍事顧問に就任した。
アメリカはフィリピンを1946年に独立させることを決定した為、フィリピン国民による軍が必要であった。
初代大統領にはマヌエル・ケソンが予定されていたが、
ケソンはマッカーサーの友人であり、軍事顧問の依頼はケソンによるものだった。
マッカーサーがアメリカ陸軍でする仕事はほとんど無くなり、ケソンの求めに応えてフィリピンへ赴いた。
そこで、未来のフィリピン大統領から「フィリピン軍元帥」の称号を与えられたが、
この称号はマッカーサーのために特に設けられたものだった。
なおこの頃マッカーサーの副官を務めたのが、その後大統領となるドワイト・D・アイゼンハワーであった。
マッカーサーはフィリピンの軍事顧問として在任している間、現地の最高級ホテルで、
ケソンがオーナーとなっていたマニラ・ホテルのスイート・ルームを住居として要求し、
高等弁務官を兼任して高額の報酬を得ると共に、フィリピン財界の主要メンバーとなった。
また、アメリカ資本の在フィリピン企業に投資を行い、多額の利益を得ていた。
1937年4月にケソンに伴われて、日本を経て一度帰国した。
ここで2度目の結婚をして再度フィリピンを訪れ、それ以後は本土へ戻らなかった。
1937年12月にアメリカ陸軍を退役。
後年、アメリカ陸軍に復帰してからもフィリピン軍元帥の制帽を着用し続けた事はよく知られている。
太平洋戦争
フィリピン国内の基地で演説を行うマッカーサー1941年7月にルーズベルト大統領の要請を受け、
中将として現役に復帰(26日付で少将として召集、翌27日付で中将に昇進)してフィリピン駐屯のアメリカ極東軍司令官となり、
太平洋戦争突入後の12月18日付で大将に昇進した。
ルーズベルトはマッカーサーを嫌っていたが、
当時アメリカにはマッカーサーより東南アジアに詳しく、優秀な人材はいなかった。
ルーズベルトはマッカーサーを中将で復帰させたが、マッカーサーは大変不満であった。
一度は名目上とはいえ「元帥」に就いていたし、自分は中将なのに、
同じくフィリピンを本拠地とするアジア艦隊の司令長官で、知り合いでもあったトーマス・ハートが大将なのも気に入らなかった。
中将になってからも「Small fleet, Big Admiral(=小さな艦隊のくせに海軍大将)」と、
相変わらずハートやアジア艦隊を揶揄していた。
フィリピン撤退
12月8日に、日本軍がイギリス領マレーとハワイ州の真珠湾などに対して攻撃を行い太平洋戦争が始まると、
ルソン島に上陸した日本陸軍と戦い、日本陸軍戦闘機の攻撃で自軍の航空機を破壊されると、
人種差別的発想から日本人を見下していたマッカーサーは、「戦闘機を操縦しているのはドイツ人だ」と信じた。
怒濤の勢いで進軍してくる日本軍に対してマッカーサーは、
マニラを放棄してバターン半島とコレヒドール島で籠城する作戦に持ち込んだ。
2ヶ月に渡って日本陸軍を相手に「善戦」していると、
アメリカ本国では「英雄」として派手に宣伝され、生まれた男の子に「ダグラス」と名付ける親が続出した。
しかし、実際にはアメリカ軍は各地で日本軍に完全に圧倒され、
救援の来ない戦いに苦しみ、このままではマッカーサー自ら捕虜になりかねない状態であった。
一方、ルーズベルト大統領は個人的にはマッカーサーを嫌っていたが、マッカーサーが戦死あるいは捕虜になった場合、
国民の士気に悪い影響が生じかねないと考え、マッカーサーとケソン大統領にオーストラリアへ脱出するよう命じた。
マッカーサーはケソンの脱出には反対だったが、ケソンはマッカーサーの長い功績をたたえて、
マッカーサーの口座に50万ドルを振り込んだ。
実際には脱出させてもらう為の賄賂であったが、マッカーサーは仕方なく賛成した。
コレヒドール島からの脱出を余儀なくされた際「アイ・シャル・リターン (I shall return ; 私は戻って来る) 」
と言い残して家族や幕僚達と共に魚雷艇でミンダナオ島に脱出、
パイナップル畑の秘密飛行場からボーイングB-17でオーストラリアに飛び立った。
この敵前逃亡はマッカーサーの軍歴の数少ない失態となった。
オーストラリアでマッカーサーは南西太平洋方面の連合国軍総司令官に就任した。だが、その後もマッカーサーの軍歴にこの汚点がついてまわり、
マッカーサーの自尊心を大きく傷つける結果となった。
フィリピン反攻
レイテ島に再上陸を果たすマッカーサー南西太平洋方面総司令官時代には、
ビスマルク海海戦の勝利の報を聞き、第5航空軍司令官ジョージ・ケニーによれば、
「彼があれほど喜んだのは、ほかには見たことがない」というぐらいに狂喜乱舞した。
そうかと思えば、同方面の海軍部隊(後の第7艦隊)のトップ交代(マッカーサーの要求による)の際、
「後任としてトーマス・C・キンケイドが就任する」という発表を聞くと、
自分に何の相談もなく勝手に決められた人事だということで激怒した。
1944年のフィリピンへの反攻作戦については、アメリカ陸軍参謀本部では「戦略上必要無し」との判断であったし、
アメリカ海軍もトップのアーネスト・キングをはじめとしてそれに同意する意見が多かったが、
マッカーサーは「フィリピン国民との約束」の履行を理由にこれを主張した。
ルーズベルトは1944年の大統領選を控えていたので、国民に人気があるマッカーサーの意をしぶしぶ呑んだと言われている。
マッカーサーは10月23日にセルヒオ・オスメニャとともにフィリピンのレイテ島のレイテ湾に上陸し、
現地の日本軍の戦力が弱体化していたことにも助けられ、翌年には全土の奪還に成功した。
この間、1944年12月に元帥に昇進している(アメリカ陸軍内の先任順位では、参謀総長のジョージ・マーシャル元帥に次ぎ2番目)。
GHQ最高司令官
1945年8月15日に日本は連合国に対し降伏し、9月2日に東京湾上の戦艦ミズーリ艦上で
全権・重光葵(日本政府)がイギリスやアメリカ、中華民国やオーストラリアなどの連合国代表を相手に降伏文書の調印式を行ない、
直ちに日本はアメリカやイギリス、中華民国やフランスを中心とする連合軍の占領下に入った。
マッカーサーは、降伏文書の調印に先立つ1945年8月30日に専用機「バターン号」で厚木海軍飛行場に到着した。
その後横浜の「ホテルニューグランド」に滞在し、降伏文書の調印式にアメリカ代表として立ち会った後
東京に入り、以後連合国軍が接収した第一生命ビル内の執務室で、
1951年4月11日まで連合国軍最高司令官総司令部の総司令官として日本占領に当たった。
1945年9月27日には、昭和天皇を当時宿舎としていた駐日アメリカ大使館公邸に招き、
報道機関に掲載するため昭和天皇と会見写真を撮影した。
この写真では略装でリラックスしているマッカーサーと、礼服に身を包み緊張して直立不動の昭和天皇が写され、
当時の国民にショックを与えた。
なおマッカーサーは略装を好み、重要な場でも略装で臨むことが多かったために、
その後大統領となったハリー・S・トルーマンから批判されたこともある。
これに対して内務省が一時的に検閲を行ったことは、
GHQの反発を招く事になり、東久邇宮内閣の退陣の理由のひとつともなった。
これを切っ掛けとしてGHQは「新聞と言論の自由に関する新措置」(SCAPIN-66)を指令し、
日本政府による検閲を停止させ、自ら行う検閲などを通じて報道を支配下に置いた。
占領下の日本ではGHQ / SCAP、ひいてはマッカーサーの指令は絶対だったため、
サラリーマンの間では「マッカーサー将軍の命により」という言葉等が流行った。
「天皇より偉いマッカーサー」と自虐、あるいは皮肉を込めて呼ばれていた。
また、東條英機が横浜の野戦病院(現・横浜市立大鳥小学校)に入院している際に彼の見舞いに訪れ、
東條は重光葵との会話の中で「米国にも立派な武士道がある」と感激していたという。
マッカーサーは、日本統治を、「政治家、経済学者、産業人、神学者」として行いたいという信条があった。
大統領選
しかし占領期間中、マッカーサー自身は1948年のアメリカ大統領選挙に出馬する事を望んでいた。
しかし現役軍人は大統領になれないため、早く占領行政を終わらせ凱旋帰国を望んでいた。
そのため、1947年からマッカーサーはたびたび、「日本の占領統治は非常にうまく行っている」、
「日本が軍事国家になる心配はない」、などと声明を出し、アメリカ本国へ向かって占領を終わらせるようメッセージを送り続けた。
1948年3月9日、マッカーサーは候補に指名されれば大統領選に出馬する旨を声明した。
この声明にもっとも過敏に反応したのは日本人であった。
町々の商店には「マ元帥を大統領に」という垂れ幕が踊ったり、
日本の新聞は、マッカーサーが大統領に選出されることを期待する文章であふれた。
そして、4月のウィスコンシン州の予備選挙で彼は共和党候補として登録された。
マッカーサーを支持している人物には、軍や政府内の右派を中心に、シカゴ・トリビューン紙の社主や、やはり新聞のハースト社主がいた。
ニューヨーク・タイムズ紙も彼が有力候補であることを示し、
ウィスコンシンでは勝利すると予想していたが、結果はどの州でも1位をとることはできなかった。
6月の共和党大会では、1,094票のうち11票しか取れず、434票を獲得したトーマス・E・デューイが大統領候補に選出された。
しかし、大統領に選ばれたのは現職の民主党ハリー・S・トルーマンであった。
マッカーサーとトルーマンは、戦争当時から占領行政に至るまで、何かと反りが合わなかった。
マッカーサーは大統領への道を閉ざされたが、
それは、もはやアメリカ国民の視線を気にせずに日本統治を行えることを意味しており、
日本の労働争議の弾圧などを推し進めることとなった。
朝鮮戦争
北朝鮮による奇襲攻撃
第二次世界大戦後に南北に分割独立した朝鮮半島において、1950年6月25日に、
ソ連のスターリンの許しを受けた金日成率いる北朝鮮軍が大韓民国に侵攻を開始し、朝鮮戦争が勃発した。
当時マッカーサーは、アメリカ中央情報局(CIA)やマッカーサー麾下の諜報機関(Z機関)から、
北朝鮮の南進準備の報告が再三なされていたのにも関わらず、「朝鮮半島では軍事行動は発生しない」と信じ、
真剣に検討しようとはしていなかったので、北朝鮮軍の侵攻を知らせる電話を受け取った際、
「考えたいから一人にさせてくれ」と言って、平和が5年で破られたことに衝撃を受けていた。
6月27日になると、マッカーサーは朝鮮半島におけるアメリカ軍の全指揮権を国防省から付与され、
直ちに軍需物資の緊急輸送とアメリカの民間人救出のための船舶・飛行機の手配を行った。
28日になるとソウルが北朝鮮軍に占領された。
僅かの期間で韓国の首都が占領されてしまったことに驚き、
事の深刻さを再認識したマッカーサーは本格的軍事行動に乗り出すべくソウル南方の水原飛行場に飛び、
李承晩大統領ら要人との会談を行った。
なお、1948年8月15日に行われた大韓民国の成立式典で、マッカーサーは李承晩に
「貴国とは1882年以来、友人である」と演説し、有事の際の援軍を約束していた。その言葉通り、マッカーサーはすぐに国連軍総司令官として戦争を指揮し、
その後前線視察を行い兵士を鼓舞しすぐさま東京へ戻った。
なおマッカーサーはその後も暮らし慣れた東京を拠点として戦線に向かい、一時滞在しまた東京へ戻るという指揮形態を繰り返したため、
後に判断を誤り中華人民共和国の参戦を招くこととなる。
仁川上陸作戦
7月に入ると北朝鮮軍の電撃的侵攻に対して、
韓国軍と在韓アメリカ軍を中心とした国連軍は絶望的状況に陥った。
マッカーサーは急遽在日アメリカ軍第八軍を援軍として派遣するが、装備が十分に整っていなかったため進撃を阻むことは出来ず、
釜山周辺の地域を確保するので手一杯であった。
そこでマッカーサーはこの状況を打開すべく、ソウル近郊の仁川への上陸作戦を提唱した。
この作戦は本人が「成功率0.02%」と言う程の至難な作戦であり、
軍部の殆どが反対を表明したが、マッカーサーは作戦を強行した。
この作戦は大成功に終わり、戦局は一気に逆転し、国連軍はソウルを奪回することにまで成功した。
これはマッカーサーの名声と人気を大きく高め、9月には早くもソウルを奪還した。
中国人民志願軍の参戦
その後マッカーサーは勝利を重ねて朝鮮半島を北上するものの、
トルーマンからは「中華人民共和国を刺激するので、過度な北上は行わないように」との命令を受けていた。
しかしマッカーサーは「中華人民共和国による参戦はない」と信じていたこともあり、
補給線が伸びるのも構わずに中華人民共和国との国境まで迫った。
その結果、中華人民共和国に過度に警戒心を抱かせることとなり、
中華人民共和国の国軍である中国人民解放軍で結成された「中国人民志願軍」の参戦を招くに至った。
その後「中国人民志願軍」は人海戦術で国連軍を南に押し戻し、戦況は一進一退に陥った。
更迭
1951年になると、北朝鮮軍と「中国人民志願軍」の反抗が本格化し、再び戦線を押し戻すようになった。
このような状況を打開することを目的に、
マッカーサーは中華人民共和国領となった旧満州に対する空爆、
さらには同国への核攻撃の必要性を主張した。
しかしトルーマン大統領は、「核兵器を使用することでソ連を強く刺激し、その結果ソ連の参戦を招きかねない」
としてこの意見を退けた。
マッカーサーが核攻撃を主張するのみならず、自らの命令を駆使して北上を続けたために、
中華人民共和国の参戦を招いたことに激怒していたトルーマン大統領は、
4月11日にマッカーサーに対する更迭を発令した。
マッカーサーの更迭については、日本の非武装化推進などが当時のアメリカ軍部からも異論が有ったためとも言われている。
オマル・ブラッドリー統合参謀本部議長は「マッカーサー解任は当然である」と主張した。
4月16日にマッカーサーはリッジウェイ中将に業務を引継いで東京国際空港へ向かったが、
その際には沿道に20万人の日本人が詰め掛け、毎日新聞と朝日新聞はマッカーサーに感謝する文章を掲載した。
マッカーサーを乗せた専用機「バターン号」は東京国際空港から離日した。
引退
退任演説を行うマッカーサー1951年4月19日、ワシントンD.C.の上下院の合同会議に出席したマッカーサーは、退任に際しての演説を行った。
マッカーサーは最後に、ウェストポイント陸軍士官学校にマッカーサー自身が在籍していた当時(19世紀末)、
兵士の間で流行していた風刺歌のフレーズを引用して、
「老兵は死なず、ただ消え去るのみ(Old soldiers never die; they just fade away.)」
と言い、有名になった。
議場から出て市内をパレードすると、ワシントン建設以来の50万人の市民が集まり、歓声と拍手を送った。
翌日にはニューヨークをパレードし、アイゼンハワー凱旋の4倍、約700万人が集まって彼を祝福した。
マッカーサーは1952年に再び大統領選出馬を画策するが、すでに高齢で支持を得られず断念し、
1964年4月5日に老衰により陸軍病院にて84歳で死去。
偉人として国葬が執り行われ、日本代表として吉田茂が出席した。
エピソード
昭和天皇との会見
昭和天皇が戦後処理のためマッカーサーを訪問した際に、会談の中で昭和天皇の真摯な対応に感銘を受ける。
当時、連合国のソ連とイギリスを中心としたイギリス連邦諸国は天皇を戦犯リストの筆頭に挙げており、
マッカーサーはもし天皇を処刑した場合、日本に軍政を布かなくてはならなくなり、
ゲリラ戦が始まる可能性を予見していたため、それに反対し、天皇を丁重に扱うつもりだった。
とはいえ天皇が、敗戦国の君主がそうするように戦争犯罪者として起訴されないよう訴えるのではないかと不安に思っていたが、
昭和天皇は命乞いをするどころか
「戦争の全責任は私にある。私は死刑も覚悟しており、私の命はすべて司令部に委ねる。
どうか国民が生活に困らぬよう連合国にお願いしたい」と述べた。
マッカーサーは、天皇が自らに帰すべきではない責任をも引き受けようとする勇気と誠実な態度に
「骨の髄まで」感動し、「日本の最上の紳士」であると敬服した。
マッカーサーは玄関まで出ないつもりだったが、会談が終わったときには昭和天皇を車まで見送り、慌てて戻ったといわれる。
後にも「あんな誠実な人間は見たことがない」と発言している。
・・》
注)原文にあえて改行等をした。
http
://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%80%E3%82%B0%E3%83%A9%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%9E%E3%83%83%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%82%B5%E3%83%BC
『ウィキペディア(Wikipedia)』に寄る『ダグラス・マッカーサー』
このように多少マッカーサーに関しては興味のある方は知っているが、
今回、現代史の骨太なテーマでベトナム戦争、日米自動車戦争を描いてきた作家が、
このマッカーサーの実像にせまる大作に10年の執念をかけた作品が、
15日に発売されたD.ハルバースタム・著の『ザ・コールデスト・ウィンター 朝鮮戦争』(上、下巻)(文藝春秋)である。
私は未読であるが、マッカーサーの理性と感情の交差する言動の中で、
果たしてどのようなマッカーサーの心の深淵が読者に感じられるか、
私は期待しているひとりである。
http
://www.bunshun.co.jp/cgi-bin/book_db/book_detail.cgi?isbn=9784163718101
D.ハルバースタム・著の『ザ・コールデスト・ウィンター 朝鮮戦争』(文藝春秋)
(終り)