夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

昼下がりのひとときは、セリーヌ・ディオンを視聴し・・。  

2009-10-24 16:48:51 | 音 楽
私は東京郊外の調布市に住む年金生活5年生の65歳の身であるが、
先程、【You Tube】でセリーヌ・ディオンの20数曲を視聴したのであるが、
やはりセリーヌ・ディオンはスタジオ録音、そしてプロモーション・ビデオよりは、
圧倒的に魅了されるのはライブ版かしら、と確信を深めたりしたのである・・。

私はセリーヌ・ディオンに魅せられて、このサイトに於いても幾度か投稿しているが、
この中のひとつの【年金小父さんでも、ときには、セリーヌ・ディオン・・♪】、
今年の4月下旬に投稿した大半を掲載する。

【・・
(略)
私は洋楽は苦手な分野であるが、
ときおり1950年代~2000年の頃までを聴いたりしているが、
街中の洋楽ファンより無知な方である。

昨日の深夜11時過ぎに、たまたまビデオ棚より、セリーヌ・ディオンのライブ版を視聴したりした・・。


1997年に公開された映画の『タイタニック』のテーマ・ソングの『マイ・ハート・ウィル・ゴー・オン』に於き、
音楽ファン以外にも世界的に魅了させ、認知させた歌姫である。


http://www.youtube.com/watch?v=saalGKY7ifU&feature=related
『タイタニック』のテーマ・ソングの『マイ・ハート・ウィル・ゴー・オン』プロモーション・ビデオ


私が視聴したのは、このテーマ・ソングの以前の『セリーヌ・ディオン・コンサート』(メンフィス公演)と、
以降の休業直前、大スターさえもあこがれのニューヨークにあるラジオシティ・ミュージック・ホールに於ける
『HOLY NIGHTU LIVE』である。

短絡的に云えば、世界の頂点のまじか、そして頂点の直後のビデオである。

洋楽に関しては、知らないことが多過ぎるが、
特にアメリカ音楽はプロデューサーの力量いかんで、と周知されている。

今や伝説のひとつとして、セリーヌ・ディオンが12歳の時、
音楽マネジャーをしていたレオ・アンジェリルが彼女の才能と歌声に魅了されて、
自宅を担保としてデビュー・アルバムの資金を調達したことで知られている。

そしてフランス語のアルバムが成功し、ケベック地方のスターとなり、
数多くツアーの勧誘があったが、
この才能をつぶされてしまうのはほしい、
とレオ・アンジェリルは断り、破産の宣告を受けたのである。

これ以降は、セリーヌ・ディオンに英語を習得させ、
著名な音楽演奏、関係者との機会を与えて、ショウ・ビジネスの頂点の一角に導いた、
と私は思ったりしている。

そして何よりセリーヌ・ディオン自身が不断の努力で、ハイトーン・クリアー・ヴォイスの歌声、
そして肝要な歌詞の表現力に磨きをかけたことは云うまでもないことである。

私は未熟でつたない洋楽歴に於いて、
このお2人の二人三脚の成功ぐらい他の例は知らないのである。

全米の音楽市場に於いて、多くの有数な大スターさえも、
一時的に全米の頂点を立てて、
やがて、ある期間が過ぎると、個性がまさり色あせてしまうからである。

私はセリーヌ・ディオンの唄声に酔いしれながら、
『パワー・オブ・ラブ』、『ツゥー・ラブ・ユー・モア』等を聴くたびに、
どなたにも魅了させる普遍性である、と感じたりしている。

http://www.youtube.com/watch?v=YaItPjWo7Ks
『セリーヌ・ディオン・コンサート』(メンフィス公演)『パワー・オブ・ラブ』

http://www.youtube.com/watch?v=Zq17mbj8RHI
『セリーヌ・ディオン・コンサート』(メンフィス公演)『ツゥー・ラブ・ユー・モア』

個性を強く全面に押し出すと、頂点も早いが、飽きられる欠点があるので、
たぐいに稀(まれ)なお2人は、この点は充分ご承知で、
ゆっくりと世界の頂点を目指されたのだろう、
と私は2本のビデオを視聴して深夜のひとときを過ごしたのである。


今朝は少し寝不足でぼんやりとし、
このビデオのライブ版の実感を伝えたくて、無料音楽の【You Tube】サイトで検索していたが、
2時間半ばかりセリーヌ・ディオンの唄声に聴き惚れて、心酔したりしていた。
結果としては、やむえず上記に添付したシーンしかないかしら、
と少し無念さもあるので、微苦笑しているのが本音である・・。
・・】

このように投稿していたのであるが、
先程、『タイタニック』のテーマ・ソングの『マイ・ハート・ウィル・ゴー・オン』の世界的なヒットで、
世界の音楽の頂点に達した後、パヴァロッティが主催となったチャリティ・コンサートで、
1998年のイタリア公演に招待された時のビデオがある。

最後に、私も熱愛者のひとりであるので、所有しているが、
【You Tube】にも幸いにあるので、掲載させて頂く。


http://www.youtube.com/watch?v=DHyJTpDFgc8&feature=related
1998年のイタリア公演 『マイ・ハート・ウィル・ゴー・オン』



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私の朝のひととき、最も聴いているクラシックの珠玉曲は・・。

2009-10-24 07:31:11 | 音 楽
私は東京郊外の調布市に住む年金生活5年生の65歳の身であり、
音楽の楽譜も読めなく楽器もさわれない拙(つたな)い男であるが、
何よりも読書を優先するが、ときには映画を居間で観たり、そして音楽を聴くのも好きである。

このようなに日常生活を過ごしたりしているが、
朝一番に聴いた曲は・・、と先程ぼんやりと振り返ったのである。

私は音楽に関してはオペラとジャズは苦手であるが、
クラシック、ハード・ロックから歌謡曲まで聴いたり、抒情歌も聴いたりしている。
そして、ときにはクラシックの珠玉のような数多くの名曲を聴くこともある。

このような珠玉曲を五分間ばかり思い浮かべと、やはりねぇ、と微苦笑したのである・・。

イギリスの作曲家のひとりでエルガーが『朝のあいさつ』と題した名曲を遺(の)こされているが、
この曲を特にサラリーマンを卒業した定年退職後の生活で最も多かったのである。

私は農家の三男坊として生を受け、小学低学年まで農家の児として育てられたが、
父が病死し、祖父も亡くなったので、生家は衰退し、一時は生活に困窮した時代もあったりした。

この曲を聴くと、イギリスの田園風景の中で、程ほど大きな邸宅の裕福な家で、
朝のひととき優雅な情景を私は重ねてしまうのである。

私は幼年期の劣等感、そして身過ぎ世過ぎの年金生活を過ごしている今、
せめて心の中だけでも優雅な裕福のひととき・・と思っているせいか、
この曲を聴く時が多いのである。


http://www.youtube.com/watch?v=BSv3iApK3DQ
☆EDWARD ELGAR: Salut d'Amour☆

http://www.youtube.com/watch?v=Ch8WwEAV3aI&feature=related
☆ELGAR - "Salut d'Amour"☆ ヴァイオリン

同じ曲があるが、演奏に関してはその日の思いで、聴いている。



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ここ五日間、マッカーサー、GLAYなどに思い馳せて・・。

2009-10-23 08:58:42 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活5年生の65歳の身であるが、
平素は読書をすることが多く、居間で音楽を聴いたり、ときおり居間で映画を観る時間が多い。

先程、主庭のテラスに下り立ち、秋めいた樹木を眺めながら、
ぼんやりと煙草を喫ったりしていた・・。

そして過ぎ去った五日間のあれこれを思い浮かべていたのである。

過日、駅前まで15分ばかり歩き、本屋に寄り、
D.ハルバースタム・著の『ザ・コールデスト・ウィンター 朝鮮戦争(上、下)』(文藝春秋を買い求めた。

http://www.bunshun.co.jp/cgi-bin/book_db/book_detail.cgi?isbn=9784163718101

帰宅後、この厚い本を読みはじめたのであったが、
私は1944(昭和19)年に生を受けたので、朝鮮戦争は小学生低学年の前後に該当し、
これまでは程々に現代史を読んできたが、行間で止まったりし、なかなか次ページに進まないのである。

この本はマッカーサーを主軸に、朝鮮戦争についてのアメリカ、ソ連、中共の大国の思惑、そしてアメリカと中共の参戦、
肝要の当事国の北朝鮮、韓国のこの当時の克明な状況が描かれている。

こうしたことを著作者に導かれて読んでいる最中であるが、
そうだったの、あんな言動をしたんだぁ・・と思いながら、この当時の各国の首脳陣の思惑を考えさせられてしまい、
多々教示させられている。


この間、NHK総合テレビの『SONGS』でGLAYが出演したので視聴したりした。
私の現役サラリーマンの時代は、レコード会社の管理畑に35年ばかり勤め、
たまたまGLAYが所属し、デビューから4大ドームの成功までの軌跡を多少知っているので、
この当時の私の苦楽の思いを重ねて視聴していたのである。

この後、私はNHKで1999(平成11)年5月5日ら放映された『GLAY 奇跡と栄光の向こうに』を収録したビデオを取り出して、
深夜に2回視聴したのである。
この番組はGLAYと命名したロックバンドの結成時の状況、5年後のメジャー・デビューするまでの苦節、
そしてブレイクするまでの実態、その後の4大ドームのライブ・コンサートを成功するまで、
結成から頂点に立つまでの10年間の軌跡を描いたドキメンタリーの良質作品である。

翌日の私は、保有しているメジャー・デビュー作品からアルバム『pure soul』までを取り出して、
聴いたり、手元の3本ばかりのビデオテープも視聴したりした。

http://ja.wikipedia.org/wiki/GLAY
参照: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 GLAY


このように私は、マッカーサー、そしてGLAYのことで大半過ごしたのであるが、
プロ野球のクライマックスシリーズ(CS)のことも気になり、少しはテレビ実況放送を視聴したり、
パソコン用基本ソフト(OS)の新製品「ウィンドウズ7(セブン)」が発売に伴い、
私のパソコンについて改めて思考させられたりしたのである。

そして、いつものように買物、散策をしたり、その上、このサイトの投稿分を綴ったりしているので、
このように年金生活であっても、暇でねぇ、というのは私にとっては死語であり、
のろまの大忙しい、というのが本音である。



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『ウィンドウズ 7』の発売に際し、年金生活の私のパソコンの思惑は・・。

2009-10-22 13:46:06 | 時事【社会】
私は東京郊外の調布市に住む年金生活5年生の65歳の身であるが、
今朝のNHKのニュース、読売新聞の広告などで、
マイクロソフトのパソコン用基本ソフト(OS)の新製品「ウィンドウズ7(セブン)」が本日、世界同時発売された、
と報じられていた。

《・・
セブンは、2007年1月に発売されたビスタの後継OSであり、
情報の処理速度を上げ、起動時間をビスタの40秒から29秒へ短縮したほか、
画面に触れて操作するタッチパネル機能を盛り込むなど、
使いやすさを向上させたのが特徴だ。
・・》
と読売新聞の記事にも掲載されていた。

私の現在使用しているパソコンのOSは、『ウィンドウズ XP』であり、
ネットで地元の天気情報、【読売新聞】、【日本経済新聞】の基幹ネットのニュースを見たり、
ブログのサイトに加入し、文章を綴ることを生きがいとしているので、ほぼ毎日投稿したりしている。、
そして音楽も好きなので、ときたま【YouTube】で聴いたりしている。

電子メールの活用は、月に10数通程度で、
国内旅行は私達夫婦の共通趣味であるので、ときおり出かけた時にデジカメで撮り、
これをバソコンにファイル名を付けて、ハード・ディスクに収納している。
そして、表計算のソフトを使用して、独自の家計簿なども作成している程度である。
その上、パソコンでテレビ番組を視聴することもないのである。

このような活用しかパソコンを利用していないが、
新たなる基本ソフトの『ウィンドウズ7(セブン)』は気になるので、
一昨日、プリンターのインクを購入にパソコン量販店に寄った時、
新たなる『ウィンドウズ7(セブン)』が搭載されたバソコンを観たりしたのである。

そしてCPU、メインメモリ、ハード・ディスクも増加強化されて、
ブルーレイ・デイスクも付加されている機種もあり、画面なども美麗となり、
パソコンの色合いも各色があり、思わず私は微苦笑させられたのである。


私が現在使用しているのは、『ウィンドウズ XP』が搭載された富士通のディスクトップであり、
2006(平成18)年の9月下旬に買い改めた機種である。

ディスプレイはこの当時の流行の20.1型のワイド画面のスーパーファインVXのハイビジョン対応であり、
CPUはインテルのデュアルコア、メモリは1GB、ハードディスクは400GB、ドライブはスーパーマルチ等で、
ある程度最強版となっている。

これ以前に愛用していた機種は、やはり富士通のディスクトップ(『ウィンドウズ XP』)のタワー型であった。
2001(平成13)年の秋、定年退職時が2004(平成16)年の秋であったので、
定年後の生活に備えてパソコンを一新した。

この頃の時代は、液晶ディスプレイが普及し始めたであったが、
迷ったりしたが安定性を配慮し、19型のフルフラットCRTとした。
ドライブもCD-R/RWとDVD-RAM/Rの2ドライブ、そしてフロッピー・ディスクも備えたタワー型であったので、
ある程度10年前後は大丈夫かしら、と思ったりしていた。
そしてプリンターも新調し、机、脇机、そして椅子を買い揃え、定年後に備えたりした。

このディスクトップの自宅専用の前に使用していたのは、富士通のノートパソコン(『ウィンドウズ 98』)を使用していた。
1998(平成10)年の夏に会社と自宅で使うので購入し、それ相応に使い込んでいたが、
下取りとしてこのノートパソコンを手放した。

そして定年後の生活に備えたバソコンは、2006(平成18)9月中旬に、
心臓部のキャッシュメモリ、メインメモリの一部でわずかな磨耗があり、部品の交換すると10万円を超えるので、
やむ得ず新製品の購入としたのが、現行機種なのである。

この間に、インターネットの回線は、地元のケーブルテレビ会社のネットから、
NTT東日本の光ファイバーに改定して、現行となっている。


このようなパソコンに関し10年を得てきた私としては、
程ほど安定したOSの基本ソフト、CPU、メインメモリの処理時間、ある程度の記憶容量のハード・ディスク、
そしてネットの送受信の光ファイバーの回線であれば、
現状で良いかしら、と思ったりしたのである。

しかし、つたない私は、思案している。
①Webの世界はたえず進化しているので、
 この中のひとつブログの世界でも、文字情報だけの時代から写真添付の時代、
 そして動画添付の時代と進化している。
 全般のWebのネット環境で、処理負担と処理速度がどこまで要求されるか。

②肝要のOSの基本ソフトの『ウィンドウズ XP』に関して、
 ウィンドウズ社がこの先いつまでセキュリティの保障して下さる期間なのか。

③そして個人的な範囲として、私のパソコンが故障もせずに、いつまで安定しているか。
 現行の私の使用しているパソコンで、今年の6月に画面が消えてしまい、
 修理に依頼したら、液晶画面の寿命と知り、交換して頂いた体験がある。


私は①から③までひとつでも該当があった時、やむえず国内旅行費を削減して、
新たに『ウィンドウズ 7』が搭載されたパソコンに買い換える決意をしたのである。

このような決断は、1969(昭和44)年にコンピュター専門学校に一年間学び、
これを梃子にして民間会社に中途入社し、その後20年間ばかり情報畑に勤めた体験かしら、
と年金生活の私は、言い訳をしている。



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『日本ハム』、北海道の人々の熱気ある声援にささえられ、奇跡の逆転サヨナラ勝利・・!!

2009-10-22 07:18:26 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活5年生の65歳の身であるが、
プロ野球をテレビ観戦するのは年に10試合前後で、まったくの素人である。

昨夜、パ・リーグのクライマックスシリーズ(CS)第2ステージ第1戦『日本ハム』対『楽天』が札幌ドームで行われ、
私はNHK衛星放送で放映されていたので、途中から視聴したのである。

CSの第1ステージで『楽天』は『ソフトバンク』を投手陣の二本柱の岩隈、田中が完投し、打撃陣も奮闘して連勝した。
この勢いのある野村監督の率いる『楽天』が、投手の要であるダルビュシュを欠く『日本ハム』をどのように形の試合展開になるか、
こうした私の興味があったのである。

結果は、日本ハムは4点差の敗戦濃厚となった土壇場の9回裏、
何とか1点を返し後、更に満塁となり、スレッジがまさかのレフトスタンドへ本塁打を放ち、
絵に描いた以上のまさに奇跡の大逆転で勝利を収めたのは、ニュースなどで大きく報じられている。

今回の試合の詳細経過を下記の通り添付したが、この状況を見ると、
http://baseball.yahoo.co.jp/npb/game/2009102102/top

私が感じたのは、9回表の楽天の攻撃で、ツー・アウト二塁の状況で、
鉄平が2ランホームランを打ち、これで日本ハムを4点差となり、
熱戦となった試合も『ダメ押しホームラン』で楽天の勝利に決した、と私は思ったのである。
その後、日本ハムがまさかの逆転となり、私は想像以上の展開となり、感動させられたのである。

つたない私の日本ハムの野球選手に関して、ダルビュシュ投手、稲葉選手はスーパー・スターであるが、
残りの選手は一流選手程度ぐらいに思え、長距離バッターも少なく、
他球団の多くに見られるスーパー・スターが少ないのである。

しかし、今年もペナントレースを制し、優勝したのである。
塁を進める『つなぐ野球』と評論家の多くは指摘されているので、
私なりに視聴していると、まさに全員が塁を進める攻撃に徹している、
と感じられたのである。
私は札幌ドームを満員にした観客、何よりも各選手へのひとりひとりの声援がすごく、
こうした熱気に支えられて、決して派手でない塁を進めることに徹した結果、
他球団よりも勝利試合が多い、と感じたのである。

もとより各球団がホームグランドで試合すれば、それなりに応援凄いが、
私は『日本ハム』の北海道の人々から圧倒的な熱気を感じたのである。


このサイトで私は、プロ野球について綴ることは稀(まれ)なことであるが、
まさに奇跡の逆転満塁サヨナラホームランの感動、そして何よりの北海道の人々の圧倒的な熱気の声援を感じ、
投稿できたのである。



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今宵11時からの『SONGS』、私は秘かにGLAYに期待し・・。

2009-10-21 17:50:28 | 音 楽
私は東京郊外の調布市に住む年金生活5年生の65歳の身であるが、
昨夜、NHK総合テレビを視聴していたら、
今宵21日の11時からの【SONGS】の番組に於いて、GLAYが出演する予告を報じていた。

今朝、私は読売新聞の朝刊のテレビ番組表で確認したら、
《 グレイ11年ぶりLAでヨシキと再会
            ▽名曲ハウエバーへの思い 》
と記載されていたので、私は微笑んだのである。


先程、ネットでNHK番組表を検索したら、

http://cgi4.nhk.or.jp/hensei/program/p.cgi?area=001&date=2009-10-21&ch=21&eid=12950

30分の番組時間に於いて、四曲のGLAYの曲が判明し、ゲストとしてYOSHIKIが出演することが確認できた。

そして番組HPの【SONGS】を開き、
http://www.nhk.or.jp/songs/

《・・
今年・デビュー15周年を迎えたGLAY。
彼らの原点であるデビュー曲「RAIN」をプロデュースしたYOSHIKI(X JAPAN)さんと、
「SONGS」で、運命の再会を果たしました。
ロサンゼルスで行われたYOSHIKIさんと、TAKUROさん・TERUさんの対談を中心に、
GLAY・4人の15年間の歩みを振り返る「SONGS」、
10月21日(水)夜11時から、NHK総合でお送りします。・・・
・・》

このように紹介されていたのである。


私の現役時代のサラリーマンの時は、あるレコード会社に35年ばかり勤めていた。
音楽を制作する部門でなく、管理畑で情報、経理、営業などの部署であったが、
それなりに音楽を聴く機会が多かったのである。

私が経理畑に所属していた頃、ロビーの掲示板に数多くのポスターが掲載されていたが、
この中のひとつが私には解からなかったのである。
女のような男で長髪の4人が写しだされていたポスターであった。
『GLAY』と明示されていたが、私の心からは、ほど遠い存在であった。

その後、私は異動した後、
GLAYを意識したのは、3枚目のアルバム『BELOVED』であり、
確か1996(平成8)年の11月だったと思うが、
普遍的であるが感覚として私の好みの詞であり、そしてサウンドも抵抗なく溶け込めていった・・。
私が50代の前半の時であった。

その後、シングル盤の『口唇』の後に、
翌年の秋、べスト盤のアルバム『REVIEW』発売され、
この頃の業界として空前の500万枚近い売り上げとなり、私は勢いのあるGLAYに、
ただ驚き、ため息をさせられたのである。

私はこの前後に『BELOVED』、『HOWEVER』、『ずっと2人で・・』、『軌跡の果て』を盛んに聴いたりした。

そして、NHKの『紅白歌合戦』に出場され、
ボーカルのTERUが、『HOWEVER』を唄いあげていた。

この年は最もCD、ビデオ等でセールスに貢献したアーティストに日本レコード協会の主催で、
翌年の1月に第12回『日本ゴールドディスク大賞』のアーティスト・オブ・ザ・イヤーを獲得している。
こうした実績を残されたので、私は年賀状を受け取った中のひとつに、
ある営業所の所長から、昨年はGLAYの年でした、と書かれていた。

その後、1998(平成10)年の4月にシングル盤の『SOUE LOVE』、『誘惑』同時発売され、
相変わらずミリオン・セラーが続き、
確か7月だったと思うが、『pure soul』のアルバムを最後に私はGLAYから離れた・・。

翌年、5月になると、『GLAY 奇跡と栄光の向こうに』
と題されたドキメンタリーの番組がNHKから放映された。

四大ドームのライブ・コンサートを成功するまでの軌跡を描いた良い作品であった。
私は、この映像を観るたびに、GLAYに熱中した曲と時代、
そして熱気帯びた観衆のシーンを想い出している。

私は今、あの最初のベスト盤を聴いているが、
10年数前頃はあのような曲を聴いていたのだ、時の速さに溜息(ためいき)をついたりしている。

このような私なりのささやかな想いがあるので、
今宵は11時からの【SONGS】の番組に於いて、GLAYを視聴する決意でいる。


http://www.youtube.com/watch?v=XCoB5Cf8Qhg
【『HOWEVER』 作詞、作曲・TAKURO  編曲・GLAY、佐久間正英  唄・TERU 】




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『青いバラ』は美麗であるが、私は野花に心を寄せて・・!?

2009-10-21 08:29:52 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活5年生の65歳の身であるが、
昨夕、日本経済新聞社の基幹ネットの【NIKKEI NET】を見ていたが、
『世界初の「青いバラ」』と題されて、若き女性が微笑みをたたえた表情で、
この青いバラの花束を写真が写しだされていた。

私は美麗な『青いバラ』、そして微笑んでいる若き女性にも見惚(みと)れてしまったのである・・。

《 世界初の「青いバラ」11月に発売 サントリーなど 》

と見出しされた記事であり、無断であるが10月20日に配信された記事を転載させて頂く。

《・・
サントリーホールディングスと子会社のサントリーフラワーズ(東京・千代田)は20日、
世界で初めて開発した青いバラ「サントリー ブルーローズ アプローズ」を11月3日に発売すると発表した。
まず首都圏や近畿など8都府県の50~100店で発売し、2011年に全国販売を目指す。

英語で「喝采」を意味する「アプローズ」は、
花びらが淡い青色をしており、みずみずしい香りがするという。
花言葉は「夢 かなう」と決めた。

オープン価格で、店頭想定は1本2000~3000円前後。
記念日などの贈答品需要を見込み、09年末までに6000本、10年に5万本の売り上げを目指す。

バラには元々花びらを青くする色素がなく、他の植物の遺伝子を組み込んで作った。
開発に成功したのは04年で、量産や流通の体制を整え商品化した。(17:14)
・・》
注)記事の原文をあえて改行を多くした。

http://www.nikkei.co.jp/news/main/im20091020AS3K2000Z20102009.html

私はこの美麗な『青いバラ』に見惚れてしまい、
《・・
英語で「喝采」を意味する「アプローズ」は、
花びらが淡い青色をしており、みずみずしい香りがするという。
花言葉は「夢 かなう」と決めた。
・・》

花言葉が『夢 かなう』かと、心の中で呟(つぶや)きながら、
いいよなぁ、とため息をしてしまったのである。

この後、6本前後の花束にすれば、少なくとも一万円は覚悟をしなければならず、
無念ながら年金生活のつたない私は、あこがれの貴女のような天上の花かしら、
と思ったのである。

しかし、このような美麗な『青いバラ』を長年の企業努力で開発され、
販売までに成し遂げたサントリーに敬意を表し、
一部の方たちが購入され愛用して下さり、市場で成功してほしい、と願ったりしたのである。

この後、私の悪い癖が思い立ち、乳児より今日まで生活に困ったことのない人を思い浮かべ、
政権を獲得された民主党の鳩山総理、野党となった自民党の谷垣総裁、
このお2人のご自宅に、毎週に一万本の青いバラを着払いで配達されれば、
全国の国民もサントリーも喜ぶかしら、
と余計な妄想をしたのである。

そしてこの後、私は主庭のテラスに下り立ち、
秋めいた樹木を眺めながら、煙草を喫ったりしたのである。
このような情景で、ぼんやりと日頃から愛してやまない、野花に思いを馳せたのである・・。
福寿草(フクジュソウ)、水仙(スイセン)、菫(スミレ)、蓮華草(レンゲソウ)、
花菖蒲(ハナショウブ)、百合(ユリ)、薊(アザミ)、桔梗(キキョウ)、竜胆(リンドウ)等の花が心の中で浮かび、
我が家の庭、遊歩道の片隅、そして公園などで観ている四季折々の野花に、
つたない私は心を寄せたりしたのである。



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私の定年退職後、クラシックの珠玉曲で最も聴いた曲は・・。

2009-10-20 06:38:05 | 音 楽
私は東京郊外の調布市に住む年金生活5年生の65歳の身であるが、
随筆、現代史などの読書の時間が多いが、ときおり音楽を聴いたりしている。

音楽の分野に於いてオペラとジャズは苦手であるが、
クラシック、ハード・ロックから歌謡曲まで聴いたり、抒情歌も聴いたりしている。
そして、ときにはクラシックの珠玉のような数多くの名曲を聴くこともある。

このような珠玉曲を思い浮かべ、私の定年退職後の年金生活で最も聴いた曲は、
ベートーヴェンのピアノソナタの『悲愴』、『月光』、『熱情』、
アルビノーニの『アダージョ』、ショパンの練習曲の『別れの曲』、『革命』などがあるが、
やはりアルビノーニの『アダージョ』を一番多く聴いたかしら、
と思ったりしたのである。

私はアルビノーニのアダージョを聴くたびに、
この曲の秘めた旋律の美の結晶に心を傾た向け、まぎれない美を感じている。

そして私は遅ればせながら魅了されて10数年となっている。
のちのかたみのひとつとして、私が亡くなった時も家族葬の時に流して下されば、
最上の喜びと感じたりしている。


http://www.youtube.com/watch?v=33J6iupe0SE
☆アダージョ(アルビノーニ/ジャゾット) 天満敦子☆

http://www.youtube.com/watch?v=XMbvcp480Y4&feature=related
☆Adagio in G Minor (Albinoni)☆

同じ曲があるが、演奏に関してはその日の思いで、聴いている。


尚、私が初めて珠玉のような名曲を聴いて感動を覚えたのは、
シューマンの『トロイメライ』で、恥ずかしながら二十歳の時であった。

http://www.youtube.com/watch?v=igTOw3v1mfY
☆トロイメライ シューマン☆



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私なりの『マッカーサー元帥』の想いは・・。 ③

2009-10-19 16:38:29 | 時事【社会】
私はマッカーサーに関して、程々に読んできたが、
先程、フリー百科事典としてして名高い『ウィキペディア(Wikipedia)』に於いて、
『ダグラス・マッカーサー』を読んだのであるが、ほぼ書き尽くされている。

手抜きをして、『ウィキペディア(Wikipedia)』を大半を転載させて頂く。

《・・
ダグラス・マッカーサー(Douglas MacArthur, 1880年1月26日 - 1964年4月5日)は、
アメリカ軍の将軍(元帥)で、GHQ最高司令官であり、名誉勲章の受章者である。

1880年、軍人である父の任地であったアーカンソー州の兵営内の宿舎で生まれ、基地内で育った。
父のアーサー・マッカーサー・ジュニア中将は南北戦争の退役軍人であり、名誉勲章を受章している。
フィリピンでは初代軍政総督も勤めた人物であり、ダグラスは親子2代でフィリピンに縁があった。

母のメアリー・ピンクニー・ハーディ・マッカーサーはヴァージニア州生まれである。
兄のアーサーはアメリカ海軍兵学校に入学し、海軍大尉として1923年に死亡。
弟マルコムは1883年に死亡。
甥のダグラス・マッカーサー2世は日本駐箚アメリカ合衆国大使となる。

フランクリン・ルーズベルト、ウィンストン・チャーチルらとは遠戚関係にある。
これは祖父のアーサー・マッカーサー卿が元々はイギリス貴族からの移民であり、
祖父はサーの称号を持っており、マッカーサー家はイギリス貴族の血筋であるためである。

陸軍入隊
1899年にウェストポイントアメリカ陸軍士官学校にトップ入学し、1903年に陸軍少尉で卒業した。
この時期、マッカーサーの母は学校の近くのホテルに移り住んでいた。
その成績はアメリカ陸軍士官学校史上抜群で、ダグラス以上の成績で卒業した者はこれまで2名しかいない。

卒業後、アメリカ陸軍の工兵隊少尉としてフィリピンに配属された。
1905年に父が駐日アメリカ合衆国大使館付き武官となったため、ダグラスも副官として日本の東京で勤務した。

第一次世界大戦
その後に陸軍省に戻り、第一次世界大戦においては、各州の州兵を徴募して「レインボー師団」を結成、
西部戦線で第42歩兵師団を指揮した。
戦場において2回負傷し、15個の勲章を受章した。

戦後、最年少で少将となる栄進を果たし、士官学校の校長に就いた。
1928年のアムステルダムオリンピックではアメリカ選手団長となったが、
アムステルダムで新聞記者に囲まれた彼は「我々は勝つためにやって来た」と答えた。

陸軍参謀総長
1930年、アメリカ陸軍最年少で参謀総長に就任した。
このポストは大将職であるため、少将から中将を経ずに、一時的に大将に昇進した。
副官には、後の大統領ドワイト・アイゼンハワーが付いた。

1932年に、退役軍人の団体が恩給前払いを求めてワシントンD.C.に居座った事件で、陸軍による武力排除が行われた。
これは、「退役軍人たちは、共産党の支援を受けてデモを起こしたのではないか」
と疑念を抱いた政府がマッカーサーの計画を許可して行われたことである。
マッカーサー自身も共産主義を徹底的に嫌っていた。

フランクリン・ルーズベルト大統領は不況対策と称して軍事予算削減の方針であったが、
マッカーサーは「共産主義者の陰謀である」と考え、大統領をあからさまに批判した事で大統領の怒りを買った。

フィリピン生活
1935年に参謀総長を退任して少将の階級に戻り、フィリピン軍の軍事顧問に就任した。
アメリカはフィリピンを1946年に独立させることを決定した為、フィリピン国民による軍が必要であった。
初代大統領にはマヌエル・ケソンが予定されていたが、
ケソンはマッカーサーの友人であり、軍事顧問の依頼はケソンによるものだった。

マッカーサーがアメリカ陸軍でする仕事はほとんど無くなり、ケソンの求めに応えてフィリピンへ赴いた。
そこで、未来のフィリピン大統領から「フィリピン軍元帥」の称号を与えられたが、
この称号はマッカーサーのために特に設けられたものだった。
なおこの頃マッカーサーの副官を務めたのが、その後大統領となるドワイト・D・アイゼンハワーであった。

マッカーサーはフィリピンの軍事顧問として在任している間、現地の最高級ホテルで、
ケソンがオーナーとなっていたマニラ・ホテルのスイート・ルームを住居として要求し、
高等弁務官を兼任して高額の報酬を得ると共に、フィリピン財界の主要メンバーとなった。
また、アメリカ資本の在フィリピン企業に投資を行い、多額の利益を得ていた。

1937年4月にケソンに伴われて、日本を経て一度帰国した。
ここで2度目の結婚をして再度フィリピンを訪れ、それ以後は本土へ戻らなかった。
1937年12月にアメリカ陸軍を退役。
後年、アメリカ陸軍に復帰してからもフィリピン軍元帥の制帽を着用し続けた事はよく知られている。

太平洋戦争
フィリピン国内の基地で演説を行うマッカーサー1941年7月にルーズベルト大統領の要請を受け、
中将として現役に復帰(26日付で少将として召集、翌27日付で中将に昇進)してフィリピン駐屯のアメリカ極東軍司令官となり、
太平洋戦争突入後の12月18日付で大将に昇進した。

ルーズベルトはマッカーサーを嫌っていたが、
当時アメリカにはマッカーサーより東南アジアに詳しく、優秀な人材はいなかった。
ルーズベルトはマッカーサーを中将で復帰させたが、マッカーサーは大変不満であった。
一度は名目上とはいえ「元帥」に就いていたし、自分は中将なのに、
同じくフィリピンを本拠地とするアジア艦隊の司令長官で、知り合いでもあったトーマス・ハートが大将なのも気に入らなかった。

中将になってからも「Small fleet, Big Admiral(=小さな艦隊のくせに海軍大将)」と、
相変わらずハートやアジア艦隊を揶揄していた。

フィリピン撤退
12月8日に、日本軍がイギリス領マレーとハワイ州の真珠湾などに対して攻撃を行い太平洋戦争が始まると、
ルソン島に上陸した日本陸軍と戦い、日本陸軍戦闘機の攻撃で自軍の航空機を破壊されると、
人種差別的発想から日本人を見下していたマッカーサーは、「戦闘機を操縦しているのはドイツ人だ」と信じた。

怒濤の勢いで進軍してくる日本軍に対してマッカーサーは、
マニラを放棄してバターン半島とコレヒドール島で籠城する作戦に持ち込んだ。
2ヶ月に渡って日本陸軍を相手に「善戦」していると、
アメリカ本国では「英雄」として派手に宣伝され、生まれた男の子に「ダグラス」と名付ける親が続出した。

しかし、実際にはアメリカ軍は各地で日本軍に完全に圧倒され、
救援の来ない戦いに苦しみ、このままではマッカーサー自ら捕虜になりかねない状態であった。

一方、ルーズベルト大統領は個人的にはマッカーサーを嫌っていたが、マッカーサーが戦死あるいは捕虜になった場合、
国民の士気に悪い影響が生じかねないと考え、マッカーサーとケソン大統領にオーストラリアへ脱出するよう命じた。
マッカーサーはケソンの脱出には反対だったが、ケソンはマッカーサーの長い功績をたたえて、
マッカーサーの口座に50万ドルを振り込んだ。
実際には脱出させてもらう為の賄賂であったが、マッカーサーは仕方なく賛成した。

コレヒドール島からの脱出を余儀なくされた際「アイ・シャル・リターン (I shall return ; 私は戻って来る) 」
と言い残して家族や幕僚達と共に魚雷艇でミンダナオ島に脱出、
パイナップル畑の秘密飛行場からボーイングB-17でオーストラリアに飛び立った。

この敵前逃亡はマッカーサーの軍歴の数少ない失態となった。
オーストラリアでマッカーサーは南西太平洋方面の連合国軍総司令官に就任した。だが、その後もマッカーサーの軍歴にこの汚点がついてまわり、
マッカーサーの自尊心を大きく傷つける結果となった。

フィリピン反攻
レイテ島に再上陸を果たすマッカーサー南西太平洋方面総司令官時代には、
ビスマルク海海戦の勝利の報を聞き、第5航空軍司令官ジョージ・ケニーによれば、
「彼があれほど喜んだのは、ほかには見たことがない」というぐらいに狂喜乱舞した。
そうかと思えば、同方面の海軍部隊(後の第7艦隊)のトップ交代(マッカーサーの要求による)の際、
「後任としてトーマス・C・キンケイドが就任する」という発表を聞くと、
自分に何の相談もなく勝手に決められた人事だということで激怒した。

1944年のフィリピンへの反攻作戦については、アメリカ陸軍参謀本部では「戦略上必要無し」との判断であったし、
アメリカ海軍もトップのアーネスト・キングをはじめとしてそれに同意する意見が多かったが、
マッカーサーは「フィリピン国民との約束」の履行を理由にこれを主張した。

ルーズベルトは1944年の大統領選を控えていたので、国民に人気があるマッカーサーの意をしぶしぶ呑んだと言われている。

マッカーサーは10月23日にセルヒオ・オスメニャとともにフィリピンのレイテ島のレイテ湾に上陸し、
現地の日本軍の戦力が弱体化していたことにも助けられ、翌年には全土の奪還に成功した。
この間、1944年12月に元帥に昇進している(アメリカ陸軍内の先任順位では、参謀総長のジョージ・マーシャル元帥に次ぎ2番目)。

GHQ最高司令官
1945年8月15日に日本は連合国に対し降伏し、9月2日に東京湾上の戦艦ミズーリ艦上で
全権・重光葵(日本政府)がイギリスやアメリカ、中華民国やオーストラリアなどの連合国代表を相手に降伏文書の調印式を行ない、
直ちに日本はアメリカやイギリス、中華民国やフランスを中心とする連合軍の占領下に入った。

マッカーサーは、降伏文書の調印に先立つ1945年8月30日に専用機「バターン号」で厚木海軍飛行場に到着した。
その後横浜の「ホテルニューグランド」に滞在し、降伏文書の調印式にアメリカ代表として立ち会った後
東京に入り、以後連合国軍が接収した第一生命ビル内の執務室で、
1951年4月11日まで連合国軍最高司令官総司令部の総司令官として日本占領に当たった。

1945年9月27日には、昭和天皇を当時宿舎としていた駐日アメリカ大使館公邸に招き、
報道機関に掲載するため昭和天皇と会見写真を撮影した。
この写真では略装でリラックスしているマッカーサーと、礼服に身を包み緊張して直立不動の昭和天皇が写され、
当時の国民にショックを与えた。
なおマッカーサーは略装を好み、重要な場でも略装で臨むことが多かったために、
その後大統領となったハリー・S・トルーマンから批判されたこともある。

これに対して内務省が一時的に検閲を行ったことは、
GHQの反発を招く事になり、東久邇宮内閣の退陣の理由のひとつともなった。
これを切っ掛けとしてGHQは「新聞と言論の自由に関する新措置」(SCAPIN-66)を指令し、
日本政府による検閲を停止させ、自ら行う検閲などを通じて報道を支配下に置いた。

占領下の日本ではGHQ / SCAP、ひいてはマッカーサーの指令は絶対だったため、
サラリーマンの間では「マッカーサー将軍の命により」という言葉等が流行った。
「天皇より偉いマッカーサー」と自虐、あるいは皮肉を込めて呼ばれていた。

また、東條英機が横浜の野戦病院(現・横浜市立大鳥小学校)に入院している際に彼の見舞いに訪れ、
東條は重光葵との会話の中で「米国にも立派な武士道がある」と感激していたという。

マッカーサーは、日本統治を、「政治家、経済学者、産業人、神学者」として行いたいという信条があった。


大統領選
しかし占領期間中、マッカーサー自身は1948年のアメリカ大統領選挙に出馬する事を望んでいた。
しかし現役軍人は大統領になれないため、早く占領行政を終わらせ凱旋帰国を望んでいた。
そのため、1947年からマッカーサーはたびたび、「日本の占領統治は非常にうまく行っている」、
「日本が軍事国家になる心配はない」、などと声明を出し、アメリカ本国へ向かって占領を終わらせるようメッセージを送り続けた。

1948年3月9日、マッカーサーは候補に指名されれば大統領選に出馬する旨を声明した。
この声明にもっとも過敏に反応したのは日本人であった。
町々の商店には「マ元帥を大統領に」という垂れ幕が踊ったり、
日本の新聞は、マッカーサーが大統領に選出されることを期待する文章であふれた。
そして、4月のウィスコンシン州の予備選挙で彼は共和党候補として登録された。

マッカーサーを支持している人物には、軍や政府内の右派を中心に、シカゴ・トリビューン紙の社主や、やはり新聞のハースト社主がいた。
ニューヨーク・タイムズ紙も彼が有力候補であることを示し、
ウィスコンシンでは勝利すると予想していたが、結果はどの州でも1位をとることはできなかった。

6月の共和党大会では、1,094票のうち11票しか取れず、434票を獲得したトーマス・E・デューイが大統領候補に選出された。

しかし、大統領に選ばれたのは現職の民主党ハリー・S・トルーマンであった。
マッカーサーとトルーマンは、戦争当時から占領行政に至るまで、何かと反りが合わなかった。
マッカーサーは大統領への道を閉ざされたが、
それは、もはやアメリカ国民の視線を気にせずに日本統治を行えることを意味しており、
日本の労働争議の弾圧などを推し進めることとなった。

朝鮮戦争
北朝鮮による奇襲攻撃
第二次世界大戦後に南北に分割独立した朝鮮半島において、1950年6月25日に、
ソ連のスターリンの許しを受けた金日成率いる北朝鮮軍が大韓民国に侵攻を開始し、朝鮮戦争が勃発した。

当時マッカーサーは、アメリカ中央情報局(CIA)やマッカーサー麾下の諜報機関(Z機関)から、
北朝鮮の南進準備の報告が再三なされていたのにも関わらず、「朝鮮半島では軍事行動は発生しない」と信じ、
真剣に検討しようとはしていなかったので、北朝鮮軍の侵攻を知らせる電話を受け取った際、
「考えたいから一人にさせてくれ」と言って、平和が5年で破られたことに衝撃を受けていた。

6月27日になると、マッカーサーは朝鮮半島におけるアメリカ軍の全指揮権を国防省から付与され、
直ちに軍需物資の緊急輸送とアメリカの民間人救出のための船舶・飛行機の手配を行った。

28日になるとソウルが北朝鮮軍に占領された。
僅かの期間で韓国の首都が占領されてしまったことに驚き、
事の深刻さを再認識したマッカーサーは本格的軍事行動に乗り出すべくソウル南方の水原飛行場に飛び、
李承晩大統領ら要人との会談を行った。

なお、1948年8月15日に行われた大韓民国の成立式典で、マッカーサーは李承晩に
「貴国とは1882年以来、友人である」と演説し、有事の際の援軍を約束していた。その言葉通り、マッカーサーはすぐに国連軍総司令官として戦争を指揮し、
その後前線視察を行い兵士を鼓舞しすぐさま東京へ戻った。
なおマッカーサーはその後も暮らし慣れた東京を拠点として戦線に向かい、一時滞在しまた東京へ戻るという指揮形態を繰り返したため、
後に判断を誤り中華人民共和国の参戦を招くこととなる。

仁川上陸作戦
7月に入ると北朝鮮軍の電撃的侵攻に対して、
韓国軍と在韓アメリカ軍を中心とした国連軍は絶望的状況に陥った。
マッカーサーは急遽在日アメリカ軍第八軍を援軍として派遣するが、装備が十分に整っていなかったため進撃を阻むことは出来ず、
釜山周辺の地域を確保するので手一杯であった。

そこでマッカーサーはこの状況を打開すべく、ソウル近郊の仁川への上陸作戦を提唱した。
この作戦は本人が「成功率0.02%」と言う程の至難な作戦であり、
軍部の殆どが反対を表明したが、マッカーサーは作戦を強行した。

この作戦は大成功に終わり、戦局は一気に逆転し、国連軍はソウルを奪回することにまで成功した。
これはマッカーサーの名声と人気を大きく高め、9月には早くもソウルを奪還した。

中国人民志願軍の参戦
その後マッカーサーは勝利を重ねて朝鮮半島を北上するものの、
トルーマンからは「中華人民共和国を刺激するので、過度な北上は行わないように」との命令を受けていた。

しかしマッカーサーは「中華人民共和国による参戦はない」と信じていたこともあり、
補給線が伸びるのも構わずに中華人民共和国との国境まで迫った。

その結果、中華人民共和国に過度に警戒心を抱かせることとなり、
中華人民共和国の国軍である中国人民解放軍で結成された「中国人民志願軍」の参戦を招くに至った。

その後「中国人民志願軍」は人海戦術で国連軍を南に押し戻し、戦況は一進一退に陥った。

更迭
1951年になると、北朝鮮軍と「中国人民志願軍」の反抗が本格化し、再び戦線を押し戻すようになった。

このような状況を打開することを目的に、
マッカーサーは中華人民共和国領となった旧満州に対する空爆、
さらには同国への核攻撃の必要性を主張した。

しかしトルーマン大統領は、「核兵器を使用することでソ連を強く刺激し、その結果ソ連の参戦を招きかねない」
としてこの意見を退けた。

マッカーサーが核攻撃を主張するのみならず、自らの命令を駆使して北上を続けたために、
中華人民共和国の参戦を招いたことに激怒していたトルーマン大統領は、
4月11日にマッカーサーに対する更迭を発令した。

マッカーサーの更迭については、日本の非武装化推進などが当時のアメリカ軍部からも異論が有ったためとも言われている。
オマル・ブラッドリー統合参謀本部議長は「マッカーサー解任は当然である」と主張した。

4月16日にマッカーサーはリッジウェイ中将に業務を引継いで東京国際空港へ向かったが、
その際には沿道に20万人の日本人が詰め掛け、毎日新聞と朝日新聞はマッカーサーに感謝する文章を掲載した。
マッカーサーを乗せた専用機「バターン号」は東京国際空港から離日した。

引退
退任演説を行うマッカーサー1951年4月19日、ワシントンD.C.の上下院の合同会議に出席したマッカーサーは、退任に際しての演説を行った。
マッカーサーは最後に、ウェストポイント陸軍士官学校にマッカーサー自身が在籍していた当時(19世紀末)、
兵士の間で流行していた風刺歌のフレーズを引用して、
「老兵は死なず、ただ消え去るのみ(Old soldiers never die; they just fade away.)」
と言い、有名になった。

議場から出て市内をパレードすると、ワシントン建設以来の50万人の市民が集まり、歓声と拍手を送った。
翌日にはニューヨークをパレードし、アイゼンハワー凱旋の4倍、約700万人が集まって彼を祝福した。

マッカーサーは1952年に再び大統領選出馬を画策するが、すでに高齢で支持を得られず断念し、
1964年4月5日に老衰により陸軍病院にて84歳で死去。
偉人として国葬が執り行われ、日本代表として吉田茂が出席した。

エピソード
昭和天皇との会見
昭和天皇が戦後処理のためマッカーサーを訪問した際に、会談の中で昭和天皇の真摯な対応に感銘を受ける。
当時、連合国のソ連とイギリスを中心としたイギリス連邦諸国は天皇を戦犯リストの筆頭に挙げており、
マッカーサーはもし天皇を処刑した場合、日本に軍政を布かなくてはならなくなり、
ゲリラ戦が始まる可能性を予見していたため、それに反対し、天皇を丁重に扱うつもりだった。

とはいえ天皇が、敗戦国の君主がそうするように戦争犯罪者として起訴されないよう訴えるのではないかと不安に思っていたが、
昭和天皇は命乞いをするどころか
「戦争の全責任は私にある。私は死刑も覚悟しており、私の命はすべて司令部に委ねる。
どうか国民が生活に困らぬよう連合国にお願いしたい」と述べた。

マッカーサーは、天皇が自らに帰すべきではない責任をも引き受けようとする勇気と誠実な態度に
「骨の髄まで」感動し、「日本の最上の紳士」であると敬服した。

マッカーサーは玄関まで出ないつもりだったが、会談が終わったときには昭和天皇を車まで見送り、慌てて戻ったといわれる。
後にも「あんな誠実な人間は見たことがない」と発言している。
・・》
注)原文にあえて改行等をした。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%80%E3%82%B0%E3%83%A9%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%9E%E3%83%83%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%82%B5%E3%83%BC
『ウィキペディア(Wikipedia)』に寄る『ダグラス・マッカーサー』


このように多少マッカーサーに関しては興味のある方は知っているが、
今回、現代史の骨太なテーマでベトナム戦争、日米自動車戦争を描いてきた作家が、
このマッカーサーの実像にせまる大作に10年の執念をかけた作品が、
15日に発売されたD.ハルバースタム・著の『ザ・コールデスト・ウィンター 朝鮮戦争』(上、下巻)(文藝春秋)である。

私は未読であるが、マッカーサーの理性と感情の交差する言動の中で、
果たしてどのようなマッカーサーの心の深淵が読者に感じられるか、
私は期待しているひとりである。


http://www.bunshun.co.jp/cgi-bin/book_db/book_detail.cgi?isbn=9784163718101
D.ハルバースタム・著の『ザ・コールデスト・ウィンター 朝鮮戦争』(文藝春秋)

                              (終り)






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私なりの『マッカーサー元帥』の想いは・・。 ②

2009-10-19 12:49:06 | 時事【社会】
小学校の高学年になると、1葉の写真を見た時は、
その夜は子供ながら、浅い眠りとなった。

この写真は、天皇陛下の横で悠然とたたずむマッカーサー元帥の姿であった。

そして私の生を受けた9月27日の1年後であったので、
なおさら印象深く、私の心に残った。

読売新聞の『編集手帳』に綴られていたこともあるので、無断であるが引用させて頂く。

《・・
昭和天皇が東京・赤坂の米国大使館にマッカーサー元帥を訪問したのは、
1945年(昭和20年)9月27日であった。

2日後に新聞各紙に写真が残った。
モーニング姿で直立する陛下の隣で、開襟シャツの元帥が腰に両の手を当てて悠然とたたずむ。
勝者と敗者の違いを伝えて、余すところがない。
・・》


私は小学校より、アメリカに対して複雑な思いで昭和50年を迎えた。

この頃までは、敗戦の間際にソ連が北海道占領プランがあった、
とおぼろげながら何かの本で読んだりしていた。

昭和50年のなかば、一冊の本に出会った。
『ドキュメント昭和史』(平凡社・発行)の全8巻を購入し、読み耽っていた。

この中で、第6巻目に《占領時代》を読み、この敗戦直後の状況を教示してくれた。

《・・
日本分割占領案が歴然と存在していた。
各国の国益をかけた外交が行なわれ、最終的にはアメリカのトルーマン大統領の国益の基に、
アメリカ人の連合国司令官の下で統治された。
・・》

この書物のお陰で、アメリカを静観した形で、アメリカを見ることが出来た。

あの敗戦の1年後に近い9月27日は、
陛下と元帥の写真を蘇るたびに、勝者から観た歴史の背景を知り、より一層鮮明な日の想いとなった。


このことと同時に敗戦後の日本の状況が鮮明に、私なりに理解できたのである。

日本の敗戦の1945(昭和20年)年8月15日は、もとより『敗戦記念日』であるが、
国土の大半は戦禍にまみれ、食料、衣料、住宅が国民の大半は困窮していた。

日本は国連軍の名の基にアメリカ軍隊の下で、占領された。
そして、占領軍は連合国最高司令官総司令部(GHQ)の指令に基づいて、
現行公布されている日本国憲法をはじめ、
農地改革、財閥の解体、要人の追放、言論の弾圧などが実施された。
そして、連合国最高司令官総司令部(GHQ)の最高責任者はマッカーサー元帥である。

このような占領軍の最高責任者ともなれば、
アメリカ大統領の意向、そしてアメリカ議会の状況、アメリカ国民の世論さえ配慮すれば、
敗戦国の日本などは自在に裁量できる帝王のような存在である。

こうした日本の中の動乱期の折、
米ソの冷戦、中華人民共和国の建国、そして朝鮮戦争の勃発、と各国の怜悧な国益に基づき、歴史は動いた。

このした中で、『対日講和条約』により占領下から独立でき、
朝鮮戦争の特需も含め日本の経済躍動のはじまりが、『対日講和条約』と私は思っている。

『対日講和条約』に関しては、知識人の藤野邦夫氏の言葉を借りれば、
《・・
第二次大戦の末期、日本が降伏勧告の宣言である『ポツダム宣言』を受け入れたのは、
1945(昭和20年)年8月14日。
これによって戦争は終結したが、この宣言には、幾つかの条件と共に、
日本が民主的で平和な政府が出来れば、
直(ただ)ちに占領軍は引き上げるという条項が明記された。

しかしそのあと、アメリカと旧・ソヴィエト連邦の対立が激しくなり、
またアメリカ国内にも、軍事的な目的から占領状態の継続を望む国防省のような勢力があって、
対日講和は進展しなかった。

ところが、1950(昭和25年)年6月に『朝鮮戦争』が勃発。
アメリカは日本を西側の陣営の一員として再建する為、講和条約を早く結ぶ方針の転換した。

こうして1951(昭和26年)年9月8日、
サンフランシスコで、連合国と日本の間の戦争状態の終結を意味する『講和条約』に署名が行われ、
翌年の1952(昭和27年)年4月28日に発効した。

この時の当事国は、45ヶ国。
幾つかの国とは、個別に講和条約が結ばれた。

これは結局、西側諸国を中心とした講和条約であり、
また連合国との協定によってアメリカ軍が駐留を続けたので、
その後の日本の国際的位置が決定づけられた。
・・》

このような日本が激動する中、朝鮮半島は冷戦の大国の怜悧な国益に基づき、
過酷で悲惨な朝鮮戦争が行われていた。

私は高校生の時から好きで、教科書、雑誌、歴史書などで学び、
同じ民族の北朝鮮と韓国がお互いの半島地域を戦場を大国のもくろみで、
ローラーように南進したり、北進したりする戦争状況を過酷過ぎると思ったりしていたのである。

もとより韓国の強い背景となったのは、国連軍と称したアメリカ軍であり、
最高司令官に任命されたのはマッカーサーである。

そして中華人民共和国の大軍が半島になだれ込み、
結果として劣勢になったマッカーサーは中華人民共和国の本土に原子爆弾を落とす決意をするのであるが、
時のアメリカ大統領からマッカーサーは解任される。

こうしたことは高校生で学んだのであるが、
私は何よりも太平洋戦争のフィリンピンの統治下で日本軍の襲来で撤退、
そして日本の敗戦後の占領軍として、その後の朝鮮戦争の原子爆弾を落とす決意など含め、
マッカーサー自身の軌跡、思い、周辺の状況を知りたくて、
数多くの本を読んだりして、今日に至っている。


                          (つづく)
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私なりの『マッカーサー元帥』の想いは・・。 ①

2009-10-19 10:07:14 | 時事【社会】
私は東京郊外の調布市に住む年金生活5年生の65歳の身であるが、
ここ数日、マッカーサー元帥のことを思い返している・・。

過日の10日に発売された総合月刊雑誌の『文藝春秋』の11月号に於いて、
D.ハルバースタム・著の『ザ・コールデスト・ウィンター』の日本語訳が文藝春秋より15日発売に際して、
この中の一部が抜粋されて『朝鮮戦争 マッカーサー神話の嘘』と題した記事が掲載されていた。
そして解説として、ジャーナリストの萩原遼(はぎはら・りょう)氏の寄稿文も付記されて折、
私は精読したりした。

こうした掲載された記事を読んだりしていたので、
私は改めてマッカーサー元帥のことが脳裏に残影していたのである。


私は東京郊外で昭和19年の秋に農家の三男坊として生を受けた。

朝鮮半島で戦争が始まる前は、私は幼児であった。
いたずら子だったので、父親、祖父から
『そんないたずらばっかしてると、マッカーサーの所にやるからなぁ・・』
と怒られながら云われた。

私にとってのマッカーサーとは、
幼児なりの思いとして、叔母の教科書で見たナポレオンが赤いマントを羽織ったようなイメージを描いていた・・。

小学校4年になった頃、なにかの授業中、
マッカーサーが戦後直後、厚木飛行場でタラップからサングラスでコーンパイプを咥えた人の写真を先生が、
『この人が・・マッカーサー元帥です』
と私達生徒に誇ころがしに云ったのである。

『先生、嘘だぁ~い・・』
と私は先生に向って大きな声で云ったのである。

『何を云うだ、XXくん・・マッカーサー元帥に対して失礼だ・・』
と私は先生から怒られたのである。

私は、その晩の夕食は
『ご飯いらない・・』
と母に云った。

マッカーサーがあんなかっこうだ、と今更教えられても、
あの赤いマントどおしてくれるんだょ、と
私は涙をためて寝付いたのである・・。

このことが私のマッカーサー元帥の思いでのはじまりであった。


                             (つづく)



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民主党の小原舞(おはら・まい)・新人議員に、私は深く魅了され・・。

2009-10-18 17:09:12 | 時事【政治・経済】等
私は東京郊外の調布市に住む年金生活5年生の65歳の身であるが、
ここ数日、風邪気味であるので、平素よりは読書の時間が多く、布団の中で読んだりしていたのである。

昨夜、読み残した今月号の総合雑誌の『文藝春秋』を読んだのであるが、
流し読みのように前回読んだ『「小沢さんは鬼でした」』と題され、副題として『小沢ガールズ座談会』と明記され、
過日の衆議選で当選を果たされた福田衣里子、三宅雪子、小原舞の3女史の
座談会の発言が気になったので精読した。

読み終わった後、私は思わず布団の上に正座し、小原舞・女史の発言を思い返したのである。

《・・
文藝春秋の司会
『国会議員としての第一歩を踏み出してばかりですが、目標とする政治家はいますか?』

小原舞・議員の発言
『政治家ではありませんが、私の思想の拠り所は松下幸之助さんです。
だから松下政経塾にも入りました。
幸之助さんの理想のように、長期的なビジョンを持って物事を考えていきたい。

具体的には、地方の再生なくして日本の再生なしという思いがありますので、
地方の疲弊を解消して、日本を立て直したいのです。』



私は《思想の拠り所・・》という言葉は好きで、瞬時に感覚としてこの新人議員に好感し、
何よりも《地方の再生なくして日本の再生なし・・》という政治家の命題に、
余りにも日本の難題に対する適言に感銘し、このお方に魅了されたのである。



文藝春秋の司会
『今回の総選挙では、皆さんが自民党の大物への”刺客”として、注目されました。
(略)
小原さんも京都五区で谷垣禎一・元財務相と大接戦を繰り広げられ、
選挙区では敗れたものの比例当選を果たされた。
こんなに厳しい政治家の世界に身を投じようと決断された経緯について、改めて教えてください。』

小原舞・議員の発言
『私は京都北部の舞鶴出身で地元から出馬しました。
この地域は、丹後ちりめんの不振などもあって、地方の疲弊を象徴しているような土地なんです。

人口比率で換算すると自殺率は全国ワースト1位ですし、過疎化、高齢化の進んだ「限界集落」も多い。
私も日々その疲弊を実感していました。

実家は植木屋ですが、大学へ進学できる経済状況ではなかったので、
高校卒業後は海上自衛隊に入ったり、社会人として働きながら勉強を続けました。

念願の大学に入学できたものの、卒業して地元へ戻っても働く場所がない。
家業を手伝って植木職人をしたり、クィーン舞鶴として市のPR活動をお手伝いしていましたが、
こんな地元の状況を変えたいという思いが強くなり、
京都大学大学院で公共政策を学び、
その後、松下政経塾で勉強していたところ、声をかけていただきました。
決断したのは昨年の9月でした。』


文藝春秋の司会
『選挙に出るという決断に至るまで逡巡もされたと思いますが、
それを振り払えた最大のきっかけは?
小沢一郎さんの要請でしたか?』

小原舞・議員の発言
『私は直接、小沢さんとの交流がなくて、
声をかけていただいたのは京都選出の参議院議員、福山哲郎さんです。

松下政経塾の先輩で、大学院の指導教授も同じという縁で、以前からお付き合いがありました。

正直、最初は断りました。
相手は谷垣さんという大ベテランですし、自分自身もっと勉強しなければ、
きちんとした訴えができないという不安もあった。

でも「あなたは地方の再生に取り組みたいんでしょう。
今、出ないというのなら、あなたの志は嘘なんだね」と、
私が最も言われたくないことを突きつけられて、
断ることが出来ませんでした。』


文藝春秋の司会
『選挙では、小沢さんからどんな指南を受けましたか』

小原舞・議員の発言
『「辻立ち(街頭演説)50本」は必須なのですが、
私の選挙区は広いので一日30本が限界でした。
それでも合計1000本を目標にして達成しました。』

この後の座談会の発言は、小沢一郎氏の辻立ち(街頭演説)流は、
交差点などの人目につく場所でなく、人のいない所に行き、
家の中で聞いている人を狙うドブ板戦術が、お互いの話題になり、

小原舞・議員の発言
『峠道で「お猿さん、こんにちは」とか。
しかも私、最初は自分で街宣カーの運転もしていました。
食事も時間がもったいないので、おにぎりを食べながらハンドル握ってましたから。』
そして、
『出馬表明から選挙までの一年間、実は父が胃がんにかかっておりまして、
私が物心共に家族を支えなければならない時期だったんです。
でも、選挙はお金がかかりますから、その点で迷惑をかけました。』


文藝春秋の司会
『辻立ちや握手といった選挙運動は抵抗はなかったのですか』

小原舞・議員の発言
『私は当初は、握手して票をいただくことに抵抗感がありましたね。
特に松下政経塾にいたせいか、
政策を理解した上で支持してほしいという思いは強くありました。

でも現実的に考えると、自分の思いを訴えようにも、こんな新人の話なんか聞きにきてもらえない。
それだけに、握手は有権者の方と近くになり、地元の声を聞く上でも大事なんだと痛感しました。

実際の政治活動をしていくなかで、街宣や握手の意味が見えてきました。』


文藝春秋の司会
『相手候補は首相や大臣経験者といった自民党の超大物ばかりでした。』

福田衣里子女史は長崎二区の保守地盤であったので、
集会に来ること、街宣カーに手を振ることさえ、はばかれる状況を話された後、

小原舞・議員の発言
『そうなんですよね。
目立たないようにこっそり手を振ってくださったり。
京都も一緒でした。』

そして群馬四区で三宅雪子女史が福田康夫・元首相を相手に奮闘した時、
自民党の選挙戦術はネガティブ・キャンペーンが多く、
と具体的に披露された後、

小原舞・議員の発言
『批判ばかりでしたね。
私個人への批判と、民主党に対する批判。
逆に私は相手の批判は絶対しませんでした。』

(略)

文藝春秋の司会
『四年前は「小泉チルドレン」の様々な言動が注目と批判を集めましたが、
「小沢ガールズ」でも、さっそく田中美絵子さんが、
映画のヌード出演や風俗ライターといった過去の経歴が話題になっています。

小原舞・議員の発言
『それぞれの人生の中で、みな一生懸命に生きているわけです。
私もパチンコ屋でアルバイトしたり、
レンタルビデオ屋で明け方3時までバイトして、懸命に生きてきました。
それが格差社会の今の実情です。

その現実を政治に届けるという点でも、田中さんには期待しています。
年も近いし、森喜郎・元首相という大物政治家に戦いを挑んだ女性なので、
根性のある方だと思います。』


文藝春秋の司会
『四年前、風に乗って当選した83人の小泉チルドレンは、
今回10人しか国会に残れませんでした。
四年後の自分の姿が想像できますか。』

小原舞・議員の発言
『次の選挙の厳しさは想像できます。
今回は、東京生まれの東京育ちで、あまり地元に戻ってこない谷垣さんに対して、
「一度、お灸をすえなければ」という声をよく耳にしました。

でも次の選挙でそうした票が谷垣さんに戻ってしまえば、
私が比例で復活することも難しいでしょう。、

でも私は小泉チルドレンの多くと違って、この一年間、政治活動をやってきました。
それが強みであり、自信になっている。
地道にコツコツやっていくだけです。』
・・》
注)記事の原文にあえて改行などを多くした。


以上、長々と『小原舞(おはら・まい)・新人議員』の発言を転載させて頂いたが、
私は今回の衆議選の選挙地区は東京22区なので、
今回の衆議選で当選を果たされた福田衣里子、三宅雪子、小原舞の3女史に関しても、
まったくの無知な民主党の新人議員の方たちである。

私が小原舞(おはら・まい)・新人議員に特に感銘を受けたのは、
《・・大学へ進学できる経済状況ではなかったので、
高校卒業後は海上自衛隊に入ったり、社会人として働きながら勉強を続けました。

念願の大学に入学できたものの、卒業して地元へ戻っても働く場所がない。
家業を手伝って植木職人をしたり、クィーン舞鶴として市のPR活動をお手伝いしていましたが、
こんな地元の状況を変えたいという思いが強くなり、
京都大学大学院で公共政策を学び、
その後、松下政経塾で勉強していた・・》

そして、ひたすら《地方の再生なくして日本の再生なし・・》という信念で、
今回の選挙に挑まれたということである。

このお方の選挙地区は京都北部地域で、
文部大臣を務めた谷垣専一のご長男・谷垣禎一氏である。
父の死後、父の地盤を受け継ぐ二世議員であり、最近は野党となった自民党総裁となっている。

私は谷垣禎一氏のように生活の苦労もなく、東京生まれ東京育ちで、父のこの地区の地盤を引き継ぎ、
やがては与党だった自民党の要職に就く人は、私は最も苦手な人である。

小原舞(おはら・まい)氏は、地元生まれ地元育ちで、
経済的に恵まれずに働きながら学業を学び、
《地方の再生なくして日本の再生なし・・》という信念で議員を獲得された方である。
そして昨今のチルドレンと称されている人よりも、
《こんな地元の状況を変えたいという思いが強くなり、京都大学大学院で公共政策を学び、
その後、松下政経塾で勉強していた・・》
こうした強い信念の言動は、私は感動した後、感銘させられたのである。


この後私は、深夜に関わらず、パソコンを開き、ネットでこのお方の詳細を学んだのである。

http://www.oharamai.jp/
【 おはら舞 オフィシャルサイト 】

このサイトの『政治への想い』で理念と想いは、
まぎれなく日本の現状を的確に表現されているので、正鵠である、と共感したのである。

この後、『活動報告Blog』に於いて、
6月、7月の街宣の数多くの情景を私は見たりしたのである。

この選挙地区の京都五区に於いては、もとより選挙前から谷垣禎一・元財務相の当選確実とされている地域であるが、
小原舞(おはら・まい)氏は、ひたすら《地方の再生なくして日本の再生なし・・》という信念で、
私の住む東京郊外の住宅地とは、一変した田畑や里村の情景の中で、
街宣活動として旗を立てて、傍で演説するが人影も少なく、
谷垣禎一・元財務相に挑戦する演説する状況に、私は思わず胸が熱くなったのである。


私はこの選挙区の京都北部地域の情景は、東京オリンピックが開催される前年、
その後は2年前、いずれも周遊観光で観たぐらいである。

私は民主党の新人議員となった小原舞(おはら・まい)の軌跡、
そして熱き想いの政治信条に魅せられて、座談会の発言を転載したり、
この人への心情も記した。

今後も京都北部地域の人々の思いをたえず思考し、揺らぎない信念としたたかな言動をされれば、
たとえ自民党総裁の谷垣禎一氏であろうと、打破できると確信している。

私は東京郊外の無力な年金生活のひとりであるが、
貴女への声援だけは、今後もこのサイトなど表示する。

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『赤い羽根の共同募金』の缶バッチは、私は無知だった・・。

2009-10-18 08:33:27 | 時事【社会】
私は東京郊外の調布市に住む年金生活5年生の65歳の身であるが、
朝の7時過ぎに、NHKニュースの『おはよう日本』をぼんやり見ていた。

この中のニュースのひとつとして、

《 『赤い羽根の共同募金』の缶バッチ 》

と題して放映されていた。

確か三重県津市のNPOの青年の方たちが考案されて、
よく見られる缶バッチに左側の赤い羽根の描かれ、右側にはそれぞれの都道府県の形が表示されていた。

共同募金の低下に伴い、何とか募金を増やし、社会の弱者の社会団体を救済する目的であり、
スーパーの片隅に幼児用のおもちゃ(?)自動販売機のような形で、
百円玉を投じると、缶バッチが出てきて、
できうれば各都道府県の缶バッチを収集して頂ければ、と真摯な思いで街角に置いて、好評である、
と私は少しボケた身であるが、このように解釈したのである。

そして缶バッチだったら、私のような年金生活の方書きがないので、
現役時代の会社の社章バッチの代用として、四季を問わず一年中に胸元に付けられるかしら、と微笑んだりした。

或いは1980年代の少年少女たちが、缶バッチを数多く身に付けた風潮が流行ったので、
こうした方たちが自身の住まわれている都道府県、故郷の都道府県、そして知人の方の都道府県、
それぞれの缶バッチを身に付けられたら、子どもたちにも薦め、
親子ですれば更に普及するかしら、と思ったのである。

そして、このニュースの終わる頃、最近では都心でも、この缶バッチが販売される、
と報じられていた。


私は確か三重県津市のNPOの青年の方たちの真摯な思いで考案された、
『赤い羽根の共同募金』の缶バッチ、
無知であったが、この人生の微笑みを頂けたのである。




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昨夜の私の夢は、鳩山首相、そしてマライア・キャリーにお逢いし・・。

2009-10-17 10:25:10 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活5年生の65歳の身であるが、
今朝は五時に目覚め、薄暗い玄関の軒下で煙草を喫いながら、ぼんやりとしていた。

私は布団にくりまり熟睡している時、夢を見ることが多いのである。
総天然色のカラーの時もあるが、ときにはモノクロの白黒の画面もある。
そして、二本立ての時もあり、三本立ての時のあるのである。

私は齢を重ねても思い込みの激しいひとりで、多感な少年心のようだ、
と目が醒めた後、ぼんやりと独りで苦笑したりしている。

昨夜は何故かしら、鳩山首相に呼ばれてお逢いし後、
しばらくした後にマライア・キャリーに偶然にお逢いしのである。

私はこのおふたりは苦手なタイプなのに、どうしてなの、と煙草を喫っていたのである。


年金生活の無力な私に、鳩山首相から電話があり、
『ホテルオークラ・・ご存知ですよね・・3分間しか時間が取れませんが・・
お逢いしたいです』
と鳩山首相の明るい声で私に云ったのである。

私は不慣れなホテルオークラのロビーの外れで椅子に腰かけていると、
秘書を伴い鳩山首相が現れて、
『あなたでしたか・・初めまして』
と鳩山首相が笑顔を浮かべて、私に云った。

私は政治に疎いが、ときおりあるブログサイトにたわむれとして投稿し、
たまたま秘書が見た結果、無力の私の戯言(たわごと)を気にされたらしいのである。

『時間がありませんから・・率直に申し上げれば・・
国民の多くの心情として、『公立高校授業料の実質無償化』、『高速道路の無料化』は撤回した方が望ましいのですか・・』
と鳩山首相は私に負担をかけない気配りのしぐさで、私に云ったのである。

『総理・・失礼ながら・・あれは単なる切り口です。
総理のニュースを新聞とかNHKのニュースを見ていると、
総理が衆議選のさなかの会見など発言と最近の総理のお言葉・・
余りにも遊離されていますので・・』
と私は鳩山首相に云ったのである。

『具体的にどのような言葉ですか・・』
鳩山首相は私に笑顔で、私に云ったのである。

『総理は・・選挙前の「政権交代選挙にのぞむ」と題した発表会に於いて、
都心のホテルに報道関係者の300人前後の前で、
《・・
「子ども手当」や農家への戸別所得補償など財源の手当てが不可欠な“バラ色の項目”が並ぶが
「税金の無駄遣いを徹底的になくすことで、(財源を)生み出せる」
・・》
公言されましたよね・・

今日の夕方のニュースを見ていたら、概算要求が95兆円と財務省が発表されましたが・・
税収40兆円としたら、税収より多い国債発行でまかなうことですか・・
このようなことが実施されたら、今でも苦しい財政を更に悪化させますよ・・』
と私は断言したのである。

『政治の世界はいろいろとありますから・・』
と鳩山首相は私にあっけらかんとした無邪気な表情で私に云った。


私は民主党が掲げた政権公約を実施したならば、財政は従来より財源は要するので、
公約の半分ぐらいは実現するかしら、と危惧していたひとりである。
しかし、果敢に与党となった民主党の諸兄姉の議員が奮闘し、政権公約を実施しょうとした結果、
このような空前の概算要求になったと思われる。

しかし、政権交代をめざす代表者だった人が、
『税金の無駄遣いを徹底的になくすことで、(財源を)生み出せる』
と明言されていたが、
単なる生活に苦労したことがない金持ちのお坊ちゃんの発言か、
或いは『人の噂も75日』と古来からの手法を用いて、
美麗な政権公約で有権者をもてあそび、政権獲得後、
財政を根本から精査したら、やはり財源は不足し、国債の増加に頼るのは、有権者の国民に罪は重い、
そして、『赤字国債批判強まれば、公約一部見送りを検討する』ような発言・・総理・・あなたはずるいお人です。
と私は考えながら発言しようとしたら、突然に目の前の鳩山首相が消えてしまったのである。

私は夢だったかょ、と深夜に目覚めたのである。


この後、私は枕元に置いている冷たくなった煎茶を飲みながら、
悪い夢をみたょ、と心の中でこぼしたのである。


そして再び布団にもぐった後、一時間後に眠りについたのである。

世界の音楽業界の中で、1990年代で最も販売セールスの実績あるマライア・キャリーが日本に来日しているが、
宿泊されているホテルのロビーで、私は偶然に見かけたのである。

私はビールを呑みながら、煙草を喫っていたのであるが、
突然のこのお方が近づいてきて、
『あいかわらず・・私の歌・・苦手ですか・・』
と笑顔を浮かべながら、このような意味合いのことを英語で私に云ったのである。

『・・』
私は10数年の現役だった頃は、英語の単語を並べながら、
何とか海外の人たちと談笑できたが、年金生活の今はひとつの単語さえまごつくのである・・。

私はもじもじした状況をマライア・キャリーはすばやく察して、
私に握手を求め、お互いに微笑みあって握手した後、颯爽と立ち去ったのである・・。

私は呆然として、日頃から英会話の勉強をしていないと、
こうした時に、何にも云えなく恥をかくことになるね、
と自戒していた時、目覚めたのである。

この後、苦手なマライア・キャリーがどうして夢にでてくるの、と思ったのである。

昨夜、テレビ朝日の『M.ステーション』に於いて、
来日されているマライア・キャリーがゲスト・スターとして出演されていた。
私は音楽番組も視聴するのが好きであるが、マライア・キャリーかょ、
とためらいながらも好奇心が増さり、観てしまったのである。

私の現役時代はサラリーマンで、たまたまレコード会社に35年ばかり勤務した。
音楽を創る制作畑でなく、管理畑に属していたが、
圧倒的に音楽を聴ける職場であったので、多少は音楽の曲を知っているつもりである。
しかし洋楽は苦手であったが、それなりに好きな歌い手は少なくとも10数人はいる。

1990年代の時、私はセリーヌ・ディオンは好感して良く聴いていた頃、
職場の若い女性でマライア・キャリーの熱烈なファンが、
一度はマライアを聴いて下さい、と私にCDを手渡したのである。

私は日曜日のひととき、2時間ばかり自宅で聴いたのであるが、
残念ながら私の感性と合致しないので、マライア・キャリーに関しては私の世界から消えたのである。
いずれもセリーヌ・ディオンを含めて他社の発売のお2人であったが、
私は魅了されそうなアーティストに関しては、自社・他社に関わらず、退職後の今でも購入している。


私は昨夜の夢を思い浮かべ、苦手な鳩山首相、そしてマライア・キャリーのお2人に夢の中でお逢いしたのであるが、
中年の女性の近所の奥方、中学時代の同級生の女の人、或いは女優だった浜美枝さんと夢の中でお逢いできた方が、
百倍楽しい夢のひとときだったのに、と苦笑したりしている。




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鳩山首相『(政権)公約一部見送りも』に私は賛意・・。

2009-10-16 17:37:53 | 時事【政治・経済】等
私は東京郊外の調布市に住む年金生活5年生の65歳の身であるが、
朝のひととき、ぼんやりと、読売新聞の基幹ネットの【YOMIURI ONLINE】を見ていたら、

《 赤字国債批判強まれば「公約一部見送りも」…首相 》

と見出しを見て、やはりね、と思いながら記事を読んだのである。

無断であるが、記事を転載させて頂く。

《・・
鳩山首相は15日夕、民主党の衆院選のマニフェスト(政権公約)の実現とその財源としての赤字国債増発について、
「『マニフェストの実現より、国債をこれ以上発行してはいけない』
と国民の意思として伝えられたら、そういう(公約を見送る)方向もある」
と述べた。

赤字国債発行への批判が強まれば、
一部の公約の実現を見送ることもあり得るとする考えを示したものだ。
首相官邸で記者団の質問に答えた。

(2009年10月16日00時45分 読売新聞)
・・》
注)記事の原文にあえて改行を多くした。

http://www.yomiuri.co.jp/politics/news/20091016-OYT1T00073.htm


私が衆院選の選挙前に公示された民主党のマニフェスト(政権公約)を新聞で初めて知った時、
美麗すぎて選挙の有権者の心をくすぐるものとして、半分ぐらいは政権与党になった時に実施できれば、
与党として合格点と思ったりしていたのである。

衆院選で自民党は惨敗した理由は、多くのメディアで報じられているが、
数多くの有権者の心情は、
自公民の政権与党の小泉首相の辞任後、官僚を含めた混迷、不祥事が更に多発し、
国民の視線からして、自民党と官僚と自治体、そして業者が、
税金から成り立つ予算の無駄づかい、そして癒着として感じながら、
相変わらず官僚の天下りなどが実質上で放置されてきた。

その上、昨年のリーマン・ショックで世界中が経済の悪化となり、
ますます先行きの見えない日本経済となり、更に雇用の悪化を招き、そして社会の劣化が進み、
やりきれない社会風潮の中で、自民党にあきれかえり、
民主党に清き一票を投じられたと私は思ったりした。


今回、民主党の政権下で、従来の政権の自公民の予算などを、
民主党のそれぞれの議員が精力的に官僚に問いただし洗い作業をされているが、
それなりに大いに有意義である。

しかし経済の悪化で税収入は限られているのであるから、
支出の社会保障費などの削減は困難であるので、
政権公約の概算要求として掲げられた事業を実施の延期、中止、
或いは削減はやむ得ないと私は思っている。

この中で、私は以前からあきれていた『高速道路の無料化』、
『公立高校授業料の実質無償化』のふたつは即刻中止すべきである。

特に『公立高校授業料の実質無償化』については、
現在の義務教育は中学校までであり、どうしても実施するならば、
教育法の定義を議員の諸兄姉で可決してから頂きたいのである。

私は『公立高校授業料の実質無償化』で予算4500億円、
『高速道路の無料化』で予算6000億円と報じられているが、
少なくとも中止して、この代わりに迅速に雇用の対策費などに投入し、
少しでも雇用の安定を図る総合政策とするのが、政治の役割と私は確信している。


私は昭和19年に東京郊外の農家の三男坊として生を受け、
小学二年に父が病死し、小学三年の時に祖父がに死去し、
大黒柱のふたつが亡くなったので、没落しはじめたのである。

この頃も義務教育は中学校までであったが、PTA(授業料)の会費は有償であり、
確か教科書も有償であった。

祖父が亡くなって後、私は担任の先生から母あてに一通の手紙を渡されたのである。
帰宅後の私は母に手渡した後、
『PTA会費・・当分・・免除するって・・』
と母は呟(つぶや)くように小声で云っていた。

そばにいた小学5年の次兄は母の小声の内容を知り、
『いくら貧乏でも・・PTAの会費・・払おうよ・・』
と次兄は怒りの声で母に云った。

次兄は翌日から下校した後、手入れが余り行き届かない我が家の畑で農作物を採り、
程近い電電公社の社宅に売りに行ったのである。
このお陰で、何とか人並みにPTAの会費を支払うことができたのである。


こうした私のささやかな苦渋の体験もあるので、
『子ども手当』2兆2500億円の予算と知った時は、内心は賛意をしなかったが、
社会も大幅に変化し、昨今の社会の劣化も配慮し、
何よりの民主党の政権公約のひとつである上、有権者への政権交代の切り札と思え、
やむえず賛意したのが本音であった。

しかし『子ども手当』は、少なからず収入の多い家庭では、
ご遠慮を願い、制限を設定するのが援助として本来の姿である。


このように思うまま綴ったが、
鳩山首相の『赤字国債批判強まれば「公約一部見送りも」』も賛意であり、
むしろ『公立高校授業料の実質無償化』、『高速道路の無料化』は中止した上で、
迅速に具体的に雇用の安定を図る総合政策を声明すべきである。



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