真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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津田左右吉「明治維新の研究」 木戸、大久保、岩倉の立憲政体に関する意見

2022年02月12日 | 国際・政治

 津田左右吉は、「明治維新の研究」(毎日ワンズ)の、”はじめに──明治維新史の取扱いについて”で、”維新の変革は民衆の要望から出たことではなく、民衆の力なり行動なりによって実現せられたものでもなく、また民衆を背景にしたり基礎にしたりして行なわれたものでもない。一般の反幕府的空気が背景とも地盤ともなってはいるが、当面のしごとは、主として雄藩の諸侯の家臣のしわざであり、そうしてすべてが朝廷の政令の形において行なわれた。”と書いています。私自身は、津田左右吉のいう、この”雄藩の諸侯の家臣”を、当初から”尊王攘夷急進派”としていろいろ書いてきたように思います。

 今回は、同書の「第六章 明治憲法の成立まで」のなかの、”キド、オオクボ、イワクラ、三人の立憲政体に関する意見”に関する文章の一部を抜萃しましたが、尊王攘夷急進派を主導し、明治の元勲されている木戸、大久保、岩倉らは、民衆の意見を聞こうとはしていなかったこと、言いかえれば、民権の否定論者といえる考え方をしていたことがわかります。
 
 京都守護職として、孝明天皇から厚い信頼を得ていた会津藩が、突然、でっち上げられた理由によって、「朝敵」の汚名を着せられ、戊辰戦争で「賊軍」とされたために、その後の日本では、天皇を戴く薩長が正義の集団であり、幕府を支え、薩長と戦った会津等は、不義の集団であったとする歴史が定着してしまったように思います。
 でも、そうした歴史が事実に反することは、津田左右吉の「明治維新の研究」で、明らかだと思います。

 幕末から明治の初めの頃の歴史に関する本では、よく、当時の京都や江戸では、”テロの嵐”や”攘夷の嵐”が吹き荒れた、というような文章を目にしますが、それは、井伊直弼が桜田門外で水戸の浪士に暗殺されて以降、長州を中心とするいわゆる尊王攘夷急進派の志士や浪人たちが公卿の一派と提携し、尊王攘夷をかかげ、「天誅」と称して要人暗殺を繰り返したことをいっているのだと思います。
 外国との新たな関係を模索し、修好通商条約締結に踏み切った幕府関係者や公武合体派の公卿が暗殺の対象で、時には生首が晒されることもあったため、多くの人々を震撼させたことが、いろいろなかたちで伝えられてきたということだ思います。
 
 でも、実は、当時の尊王攘夷急進派が掲げる「尊王」も「攘夷」も、津田左右吉がいうように、討幕の口実であり、幕府を倒すための手段でした。そして注目すべきは、会津範を信頼し、公武合体を望んでいた孝明天皇の死が、あまりに不自然であり、「毒殺」の可能性がきわめて高いということです。目的達成のために、手段を選ばず、”要人暗殺”というテロを繰り返した尊王攘夷急進派にとっては、孝明天皇の「毒殺」も、幕府を倒すためには必要だったのだろうと、私は推察します。

 そう推察する理由はいろいろありますが、例えば、1862年(文久2年)、イギリスの駐日公使館の通訳として横浜来たイギリスの外交官アーネスト・サトウは、『一外交官の見た明治維新』に、”噂によれば、天皇(ミカド)は天然痘にかかって死んだということだが、数年後に、その間の消息に通じている一日本人が私に確言したところによると、毒殺されたのだという。”と書いていました。

 また、伊藤博文を殺害して処刑された安重根も、殺害理由として「伊藤博文の罪状15ヶ条」を列挙し、その第14で、”伊藤さんは、42年前に、現日本皇帝の御父君に当たられる御方を害しました。そのことはみな、韓国民が知っております”と、孝明天皇が殺されたことについて証言しています。
 
 さらに、佐々木克教授も、孝明天皇の毒殺を取り上げていますが、その根拠として、当時の主治医の日記をあげています。そして、そのことを明らかにしたのは、主治医の子孫である医師伊良子光孝氏であるということです。その他、孝明天皇の死の直後に、ひそかに周辺で「毒殺」の噂が広がっていたということや、当時、天皇のまわりにいた関係者の日記などにも、毒殺を疑わせるものがいくつかあるといいます。

 だから、自分たちに都合の悪い勅命は「非義の勅命」であるから従う必要はないと主張したり、また、自分たちに都合のよい「偽勅」を発したり、天皇から受け取ったものではない「錦旗」を自ら作って利用したり(偽錦旗問題)したことと考え合わせると、「毒殺」の可能性は極めて高いと思います。

 大久保利通は「非義の勅命」について”謝罪した長州を討つのは、武家たる者のなすべき正義の行動ではない。また長州征討の戦争は、内乱となる危険性が高い。内乱が国家を傾けることは清国の例で明らかで、諸藩も長州征討に反対している。それなのになぜ天皇・朝廷は勅許をするのか”などと主張したようですが、その主張に基づけば、徳川慶喜が大政を奉還し、恭順の姿勢を示していた上に、外圧に備える必要のあった時期の戊辰戦争を正当化できるものではないと思います。
 孝明天皇が、強引に妹の「和宮」を将軍家茂に降嫁させたため、討幕を認めず、「公武一和」を強く望んでおられたということも、無視してはならないことだと思います。

 心にもない「尊王攘夷」をかかげ、様々な謀略によって民衆を欺瞞しつつ、権力を奪い取るため天皇をも手に掛けるような尊王攘夷急進派の指導者、木戸、大久保、岩倉らが、民権の否定論者であることに、不思議はないと思います。 
 
 津田左右吉によると、木戸は”我が国ではまだそこまで進んでいず、人民の会議を設けるまでには時日を要するから、いわゆる君民同治の憲法を立てるわけにはゆかぬ”といい、

 大久保は、”国法の根本は「上君権を定め下民権を限る」という語で表現せられているが、これは民権に対して君主の実権を重くする意味を含んだものであり、こういう考え方による君民共治の制が日本のとるべき定律国法の君主政治である、土地・風俗・人情・時勢の違うところに発達したヨーロッパの君民共治の制は、軽々に学んではならぬ”、と主張し、
 岩倉に至っては、事理を解せざることオオクボよりも一層甚だしい。彼は、”立憲政体を立てることは法治の良法であるが、国民の会議を開くことはその未弊の大なるものがある、明治八年の詔勅によって政を施さば復古の大業は破れ大権は地に墜ちる、といっている。”とのことですが、真実は、民権を受け入れると、せっかく奪い取った権力が危うくなるということではないかと思います。
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             第六章 明治憲法の成立まで

     四
 ここまで考えてきたところで、当時の政府の中心人物であったキド、オオクボ、イワクラ、三人の立憲政体に関する意見を一応見ておくことにしよう。このうちで国憲の制定に最も多く関心をもっていたのはキドであって、それはヨーロッパ巡遊中からのことであると伝えられている。そのキドが明治六年に当局者に提出した意見書及び自記には、ヨーロッパの文明国には政規(憲法)が定まっていて、君主も人民もみなそれによって固有の権利を守り、天賦の自由を得、一致協力して、即ち君民同治によって国政を運営するのであるが、我が国ではまだそこまで進んでいず、人民の会議を設けるまでには時日を要するから、いわゆる君民同治の憲法を立てるわけにはゆかぬ。天皇の叡旨により民意の一致しているところを忖度し、それを政府に下して政務を処理させる他はない、というようなことをいっている。人に固有の権利があり天賦の自由のあることを認め、民選議院の必要をも知り、他日元老院及び下院(民選議院)を開設しなければならぬことを考えてはいるが、政府にも人民にもその用意ができていないから、いまのところは、五箇条の御誓文に現われている如く、「民と斯(ココ)に居り民と之を守」ろうとせられる天皇の叡旨によるべきであるというのらしい。
 天皇の御一存で民意がことごとく政治の上に実現せられ、政規ができればそれがそのままに行なわれる、という意見のように解せられるが、そういうことが果たしてあり得るかどうか。天皇が民意のあるところを知られるのには、その業を補佐するものがなくてはなるまいが、何人がそれに当たるか、またそれに当たるものがすべて透明なガラスの如く一点の曇りもなく民意を天皇に伝えることができるか。いわゆる民意とは直接に関係のないことながら、叡旨によって宣布せられたはずの五箇条の御誓文が、実は真の叡旨から出たものでないことも、またその第一条に掲げられた会議政治・公論政治
の主張がほとんど実行せられずに終わったことも、キドは十分知っているはずではないか。要するにこれは、そうあるべきものと考えたこと、またはそうありたいと思ったことを、現にそうであるかの如く錯覚するところから生じた考え方である。またこういう考えはおのずから、民意を明らかに知悉しまた政府に政務をただしく処理させる責任を天皇に負わせることになるが、日本の政治はそれでよいのか。あるいはまた天皇の忖度せられることが、できるほどに民意の一致するところがあるならば、人民の会議を開いてそれを表明させることもできるはずではないか。人民みずから表明することのできないような民意を、どうして天皇が知られるのか。これらのことを考えると、キドの思想の根本には、みずから知らずしてそのいうところとは別な何ものかが潜んでいるのではなかろうか、と推測せられる。 

 次にはオオクボの意見である。オオクボも明治六年には根本律法(憲法)制定の必要を考えているが、それは政府の基礎を確乎不抜の地位に置くのが主なる目的であった。政体は民主政治(共和政治)も君主専制も、日本ではよくない、定律国法の君主政治(立憲君主制)がよい、その国宝の根本は「上君権を定め下民権を限る」という語で表現せられているが、これは民権に対して君主の実権を重くする意味を含んだものであり、こういう考え方による君民共治の制が日本のとるべき定律国法の君主政治である、土地・風俗・人情・時勢の違うところに発達したヨーロッパの君民共治の制は、軽々に学んではならぬ、という。三権分立の主義は採用するが、立法部たる議政院は、華族の互選によるもの、勅選によるもの、並びに行政諸省の長官を議員とする一院だけであって、民選議員は設けない、ともいう。だから定律国法とはいうけれども、その実、天皇または政府の専制とほとんどことなるところがないではないか。天皇は国政  を行なうに無土の特権を有せられるとともに、政事上の過失に関せず、一般法律の羈束(※拘束)をうけられない、としてあるが、大臣責任の制の立っていない当時の日本で施政上の責任は誰が負うのか。それらが明らかになっていなくては、責任はおのずから天皇に帰することになるではないか。
 明治の初年においては、天皇は民衆を安撫する道徳的責務をもっておられるという考えが政府者の間に存在し、詔勅の形で発布せられるものにもそのことが反覆言明してあり、天皇の権ということはいわれなかったのに、この頃になって君権という語が政府者によって用いられ、しかもそれが民権に対していわれているのは、ヨーロッパの法制上の思想が取り入れられ、それによって明治初年の上記の道徳的思想が変改せられたことを示すものであろう。ヨーロッパのこの法制思想は、君主と民衆との対立抗争から生じたものであって、かかる抗争は、我が国においては、古来いまだかつてなかったことであり、そこに日本の風俗・人情のヨーロッパと違ったところがあるのに、政府者はそれを考えずに君権の思想を取り入れたのである。オオクボが軽々に学んではならないといったことを、オオクボみずから軽々に学んだのである。
 オオクボが学ぶべからずといったのは君民共治の制のことであるが、それは本来君民の抗争から生じたことであるから、起源に遡ってその本質を考えれば、君民共治の制は即ち君権民権対立の思想の一つの現われなのである。勿論オオクボはこういう考え方をしたのではなく、現実の状態としての君民共治の制のことをいっているのであるが、民権を抑えて君権を強めようとする意見には、ただそれだけのこととして見ても、君民の抗争という概念がその根底になくてはならぬのである。
 さてオオクボは、君権と民権とを対立するものとし、従ってまた民権が強くなれば君権は自ずから弱められるから、君権を強くするには民権を弱くしなければならぬ、と考えていたようであるが、こういう意味での君権といい、民権というものはそもそも何を指していうのか。民権と対立する君権は、君権という名から見ても、政治的意義のものとする他はあるまい。さすれば、民権というのは一身を保護し財産を有する権利とか住居の自由とかいうようないわゆる私権を指し、そういう民権を制限したり束縛したりする政治上の権力を君権というのか、とも思われるが、かかる民権の明らかな概念をオオクボがもっていたかどうか。それよりもむしろ、民に参政の権即ちいわゆる公権を与えることがあるにしても、それが最小限にとどめることが君権を強くする所以であるというのかとも思われ、そう解する方が当たっているらしくもある。いずれにしても民権を抑えて君権を強くすることが、国家にとって何の益があるとするのか、あるいはまた民権の意義をどう解するにしても、君権を強くすることは、実際政治の上においては政府の権力を強くすることになるから、政府の基礎を確乎不抜の地位に置くために君権を強くしなければならぬと、いうのであろうか。もしそうとすればこれは天皇と政府とを混同することになり、そこから政府の失政を天皇の責任とする危険が生ずるが、それでよいのか。要するに君権と民権とを対立するもの、根本的には君と民とを対立させてこの二つが相剋するものとするところにこういう考えの基礎がある。オオクボの思想はこういうものではなかろうか。もしそうならば、キドのとは幾分の隔たりがある。
 ところが、民選議院の建白者の思想は、天皇と人民との関係においてオオクボとはまるで違っている。建白の初めに、「方今政権の帰するところを察するに、上帝室に在らず下人民に在らず、独り有司(※薩長出身者)に帰す」といい、そこから、「帝室漸くその尊栄を失」い「言路壅蔽󠄀(ヨウヘイ)」して人民の「困苦告ぐるなし」といっているのを見ると、帝室と人民との中間に介在する有司、即ち政府が政権をもっているために、帝室と人民とが隔離し、帝室も人民も好ましからぬ状態に置かれている、という考え方がその根底にあることが知られる。だからこの状態を改めるには、民選議院を開設して天下の公議を張り人民に天下のことに与る気象を養わせ、天下を分任する義務を弁知させることが必要である、そうすれば、中間の政府の行動がそれによって制約せられるために君主・人民の間が融合して一体となることができる、というのである。この推論の過程にはなお他の思想も混入していて、考え方が複雑になり混乱してもいるが、それを除いてみると、こういうことになる。ここに君主と書いたのは同じことをいっている愛国公党の本誓の語をとったので、建白書にはそれが「政府」となっているが、君主と政府との区別を明らかにしないことは、この頃のものには往々にして見ることがあるので、これは当時の状態では政(マツリゴト)は君主の政であって、それを執行するのが政府であるとせられているためらしく、この混雑が、一方では天皇と政府とを曖昧に結びつけ、政治上の責任がおのずから天皇に帰することになるとともに、他方では政府の権力を強大にすることにもなる、というのである。そこで民選議院が設けられ公議によって政治の基礎が定まり、天皇が自ら政治の局に当られず、議院の意向に従って政府が政務を執行するようになれば、この混雑と曖昧さとがなくなるとともに、政府の権力も強大でなくなり、従って上記の弊害は生じない、そうしてそれによって政治上の責任の天皇に帰することがないようになる、またそれとともに君権と民権との対立もなく、根本的には君と民との対立がないことになる。君民の融合一致はこうして行なわれ、そこに君民同治の政体ができ上る、という。
 以上は、民選議院建白書の意中を忖度していったのであって、彼らはこれほどはっきり考えていたのではないかも知れぬが、建白書を熟読してみれば、その思想の向かうところはほぼ推知し得られよう。

オカモト(岡本健三郎)、コムロ、フルサワの三人の署名のある民選議院弁に、イギリスの帝室の尊栄は議院の設けが帝室の支柱となっているからだといっていることが、ここにいったのとはやや違った意味を含んだことながら、参考せられよう。オオクボの如き政権を握っている当路者は、当時の政府の地位を固めることに熱心なあまりに、政府を天皇の政を執行するものの如く見るとともに、天皇と人民とを対立するものとして考えたのに、民選議院の建白書はそれの融合一致を目指していたので、それにはイギリスの政体を模範にすることを念頭に置いたからだという事情もある。
 ・・・ 
 …近年のイギリスの国王はみずから政治の衝に当たらず、ただ近代になって養われてきた道徳的情味の饒(ユタ)かな国民的信望を通して、国政におのずからなる暗示を与えるのみであるが、法制の運用も究竟には道徳的なはたらきにまつものがあるのである。そうしてイギリスの王室のこの態度は、遠い昔から政治に対して直接に関与せられなかったために、かえって精神的に民衆と接触し民衆と一つになっておられた我が国の皇室との、類似のあることが考えられる。宮廷と政府とが全く区別せられていたトクガワ氏の幕府時代の状態は、それを示すものである。
 不幸にして幕末に至りいわゆる志士・浪人の声高い宣伝によって誤った勤王論が一世を風靡し、その結果、いわゆる王政復古が行なわれて、皇室を政治の世界に引き下ろし、天皇親政というが如き実現不可能な状態を外観上成立させ、従ってそれがために天皇と政府とを混同させ、そうしてかえって皇室と民衆とを隔離させるに至った。だから民選議院論者が、イギリスの政体を模範として天皇と人民との一致を図ったのは、我が国古来の風習を復活させようとしたのだとも見られる。明治の初年の思想における天皇の民衆に対する態度が、民衆の生活を安泰にする道徳的責務を全うせられるところにあった、と上にいったのも、このことと関連がある。天皇のこの道徳的責務に関する自覚は、一つは天皇が直接に政治に関与せられないところに、それの生じた重要な理由があるからである。民権に対する君権の伸張をいうが如きは、日本の皇室の昔からの民衆に対せられる態度とは正反対である。
 ところが上にいった如く天皇と政府との区別がはっきりせず、曖昧に結びつけられていることは、いわゆる王政復古のときからのことであって、昔から伝えられてきた「朝廷」の概念に既にその一つの由来があり、天皇親政の思想にもそれが現われているが、明治時代になって政府に対し武力的反抗の態度をとったものすべて「賊」と称し、皇室に反抗するものの如く取り扱ったのも、またそれである。エトウ・シンペイ(江藤新平)もサイゴウ・タカモリも政府に反抗したのであって、皇室に対する反逆者ではなかったのに、政府はそう見なしたのである(エトウやサイゴウが武力的な反抗を企てたのは、時勢を洞見するの明がなく、また自己の地位の如何なるものであるかを自覚しないからであって、その行動は愚の至りであるが、それは別の問題である)。薩長政府に対抗せんとしたトクガワ氏の家臣や、アイヅまたゴリョウカクの籠城者を逆賊としたのも同様であって、これは名を皇室にかりた薩長政府の欺瞞政策の現われであり、虚偽の宣伝であって、トクガワ氏の家臣などが武力によって薩長政府に反抗したことにはそれだけの理由があったが、薩長政府はこういう態度をとったのである。天皇と政府との混淆は、時の政府に拠っている権力者が名を天皇にかりてその権力を用いるに恰好な事情である。
 ・・・
 イワクラに至っては、事理を解せざることオオクボよりも一層甚だしい。彼は、立憲政体を立てることは法治の良法であるが、国民の会議を開くことはその未弊の大なるものがある、明治八年の詔勅によって政を施さば復古の大業は破れ大権は地に墜ちる、といっている。彼の立憲政体といっていおるのは何を指すのか明らかでないが、推測するに、ただ国家の大本を成文によって定めるというだけのことらしい。明治十一年になっても、同八年の勅命は臣民に公然国政を論議する権利を与えたものであり、固有の国体を変更するものであるから、この際、帝室の典憲を定めて君権を強固にし民権の増大を防がねばならぬといい、同十五年になるとこの態度が一層甚だしくなり、同八年の聖詔は下民の上(カミ)を罔(アミ)する途を開き大権の下に移る端を発し、ニ千五百余年来確然不易の国体を一変するおそれがあるとし、当時ようやく活気を呈してきた府県会(※地方会議)を中止し、陸海軍及び警視の勢威を左右に提(ヒツサ)げ、凛然として下に臨み、民心をして戦慄せしめねばならぬ、といい、さらに政府は皇室の施政のところであるといい、我が国の法として古来皇室が全国の土地を奄有(エンユウ)し、人民は尺寸の土地をも私有することができなかったのを、同五年に土地所有権が人民に与えられ、政府を維持するために租税を収めることになってから、人民が参政権を要求するようになった(これは政府に租税を納める義務のあるものは政治に参与する権利がある、といっている民選議院開設の建白書にも見える思想を捉えていったものであろう)、だから今日はせめて官有地をことごとく皇室の領有とし、陸海軍の費用はことごとくみな皇室財産の収入をもって支弁することにせねばならぬ、とまでいっている。(昔は全国の土地がすべて皇室の有であったということが明治元年~二年の頃しきりに政府によって宣伝せられ、版籍奉還の理由として説かれもしたが、これは財産としての土地の所有と政治的意義での領有とを混同したものであるのみならず、政治的領有の意義においても上代の状態に背いている妄言である)。
 この明治十五年は、かの同十二、三年頃の国会開設の請願運動が盛んであって、言論機関の上には過激な言辞も現われた時期の後であり、政府でオオクマ・シゲノブ(大隈重信)排斥事件を引き起こした同十四年の翌年でもあるから、それに刺激せられてイワクラのいうところもまた甚だしく過激になったという事情もあろうが、彼の素志がやはりここにあったからであろう。彼は本来極度の専制主義者であったらしく、皇室がもたれなべならなぬ政治的権力は絶対のものであり、人民はもともとその皇室の政治に容喙すべきではない、という考えをもっていたと推測せられる。近頃世間でもともすればいわれている天皇絶対主義ということは、この頃のイワクラの主張によく当てはまるものであって、自由民権説が流行し国会開設の要求が強まった時勢に対する反動としていまれた思想なのである。
明治十三、四年の頃には民間の国会開設論に圧せられて国会を開くがよいといったこともあるが、それとても我が国体を本(モト)とすべきだといっているので、その国体というのはここにいったような意義のものであったろう。彼の意見も時とともに動揺したであろうし、場合によっていうことが違っていたでもあろうが、ほぼこう解せられる。ここにいったことはかなり後までのを含んでいるが、彼の意見の全体の傾向を見るためにはそれが必要であるから、こういうことを試みたのである。
 ただ彼について特にいっておきたいこと、キドやオオクボについていったよりも一層強くいわねばならぬことは、天皇が政治の実権をもたれ、みずから政治の衝にあたられることになると、政治上の責任はすべて天皇に帰することになるが、それでよいのか、また天皇の政治といっても、それは天皇御一人でできるはずはなく、政府の補佐が必要であり、また政府によってしっこうせれれねばならぬから、それは天皇と政府とを混同することになるが、其政府には何人が当たりそうしてどういう責任ををもつのか、畢竟天皇と政府との関係をどう規定するのか。
 ササキ・タカユキ(佐々木高行)が明治十三年に、今日は至尊(※天皇)と大臣との責任に権限の規定がないから、善事大臣に帰するも悪事の責任は至尊に帰することになる、これは恐るべきことである、といっていることを参考にすべきである。日本人の一般の風習としては、善政はそれを君主の徳に帰し、失政はそれを臣下の過ちとするのが常であるのに、君主の権ということが主張せられるようになると、おのずからこの風習に変化が生ずることも考えられねばならぬ。自由民権論者のうちに、君主を人民に対立するものとし、君主の暴虐ということを叫んでいるもののあるのは、必ずしも日本のことをいっているのではないにしても、理論的には、イワクラのいうところとおのずから対応することになるのではないか。オオクボやイワクラの主張は、その根底に君民闘争の思想が伏在するから、天皇が民衆を安泰にする責務をもっておられるとし、天皇を道徳的の存在と見ていた明治初年の政府者の思想とは、明らかに背反している。オオクボもイワクラもおのれらの関与した重大事を全く忘れていたと見える。
 ところでオオクボやイワクラが政府を確乎不抜の地位に置こうとしたことには、彼らとしては一応の理由がないでもなかった。幕府の顛覆も封建制度・武士制度の廃止も、学制の創始も大学の開設も、陸海軍の整備も鉄道・郵便・電信の施設も、あるいはまた北海道の開拓の進歩も、みな新政府の事業であり、シナ・朝鮮に対する外交上の処置も琉球の内地化もまた同様であって、これらはみな明治政府当局者の治績というべきものであり、彼らの誇りとすべきものである。その上に彼らは幕府を討滅しサイゴウなどの乱を平定したことによって、戦勝者の地歩を占めまたその名声を博し得たので、彼らはそれを思うにつけて大なる自負の念を抱き、かかる政府を永遠に持続させることに堅い自信をもっていたに違いない。これは明治初年の政府者の心理としてはまだもち得なかったことである。
 ところがこの心理には皇室の観念が、いろぴろの程度さまざまの形において伴っているので、幕府を顛覆させたのは皇室の稜威であると考えられ、封建制度が廃せられて国家の統一が成就したのは、政権が皇室に帰したからであることが事実として知られ、その他のことについても直接または間接に、あるいは多かれ少なかれ同じような観察がせられるので、上記の自負または自信には皇室の名または声望が与っていたと感ぜられる。そこで一面では、政府の治績の挙がったのは皇室の力であり、その基礎の固められてきたのもまた同じであると考えられるとともに、たの一面では皇室の権威を強めることによって政府の基礎が固められ、その治績が挙がるとせられ、皇室と政府とがこの意味でも混一市手みられることいなる。オオクボやイワクラの思想にはこういう考えが意識して、またはせずして、存在したと解せられる。
 この間の消息を一言にして覆うと、政府の当局者はおのれらの地位を皇室と一なるものと思っていたようである。皇室の政は衆庶の関与すべきところではないというのも、君民同治を強く否認するのも、その理由はここにあるので、国政に関しては皇室を被治者としての民衆に対立するものと認めるとともに、治者としてのおのれらは皇室と結びついているとすうrのである。こういう考え方は、要するに皇室と国民との間柄を政治的権力関係において認めようとするのであり、直截にいうと皇室は国民に対して強い権力をもたれることになるが、しかし国民の現実の心生活においては、国民が皇室を敬愛しその安泰と永続とを欲するのは、そういう権力関係によるのではない。日本の皇室の如く国民全体が遠い昔から親しい関係を続けてもっている存在に対しては、国民はおのずから深い愛着を感じ、その愛着がまたその関係を長く続かせてゆくのでもあるとともに、長く続いてきたことによってそれに特殊の美しさが生じ、従ってその美しさを傷つけまいとし、またますますそれを美しくしてゆこうとする心情が養われる。歳月の経つにつれて皇室が国民自身の生活に融け込み自身のうちの存在とざるのはこれがためであって、そこからその永続と安泰とを念願することになるのである。
 なお皇室が一系であるために、昔からの文化上の伝統が有力にはあたらいていて一種特異の雰囲気がこに揺曳(ヨウエイ)していることも、この心情と関連するところがある。要するに国民の皇室に対する感情は歴史的のものであり、国民の内生活の表現なのである。政治的の権力関係でそれを律しようとするのは、見当違いの甚だしきものといわねばならぬ。
 ・・・

     六
 ・・・
 同じく明治十四年にフクチゲンイチロウ(福地源一郎)の起草したという国憲意見にも、日本を君民同治であるべきものと規定し、天皇は神聖にして法をもって問い奉るべきにあらず、政治に関しては大臣が天皇に代わり国民に対してその責に任ずべきである、といい、今日の政治はすべて勅命によってせられるが故に、大臣は天皇に対しては責任があるけれども国民に対してはそれがなく、国民に対する責任は直ちに天皇に集まり、場合によっては天下の怨府となられる危険があるが、立憲政治が行なわれ君民同治の政体となればそういうことがなくなる、大臣にこの責任があるから天皇のその任免は輿望(ヨボウ)の有無によらねばならぬ、ともいっている。これもまたイギリスの政体を学ぶべきものとしたのである。(※旧幕臣の)フクチにしてなおこう考えているのである。
 ・・・
 前節とこの節とで述べたことは、明治政府の中心人物であり、維新以来引き続いて要路を占めていたキド、オオクボ、及びイワクラの立憲政体についての意見、並びに民間に起こった民選議院開設論及び私擬憲法案の主なるものの大要であるが、オオクボやイワクラの主張の如きは、五箇条の御誓文として宣布せられた維新政府の政体に関する公文の規定を、当時おのれらが関与して定めたものであるにかかわらず、全く無視し、特にイワクラに至っては、その後における一般民衆の土地所有権を認めたり、元老院を開設したりしたことなど、彼のその議に与ったことが当然推測せられねばならぬにかかわらず、それを国家の大本を破壊するものとして甚だしく非難しているのは、奇怪である。
 ・・・

    


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