真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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倒幕の理由を示せない歴史教育

2022年01月15日 | 国際・政治

 津田左右吉は「明治維新の研究」(毎日ワンズ)の”はじめに──明治維新史の取扱いについて”で、”今日では維新を一種の社会革命と見なす考え方があって、それが明らかな事実のように思われているらしいが、こういう見方が正しいかどうかは、後にいうところによっておのずからわかろう”と自らの著書の内容を暗示しています。
 
 私は、「明治時代」は、確かに、それまでの封建的な幕藩体制を改め、私たちが暮らす「現代」の礎を築いた時代であるとは思います。現代の私たちにとって当たり前の「制度」や「生活」の多くは、明治時代から始まっているからです。
 でも、それを明治の元勲の功績によるとして、明治の時代を高く評価する一般的な歴史認識は誤りであると、私は思います。津田左右吉が、下記に明らかにしているように、幕府は「新国策」を定め、「開国」をはじめとする諸改革を着々と進めていたのです。それを妨害し、撹乱して権力を奪取したのが、明治の元勲を中心とする尊王攘夷急進派(津田は、「反動勢力」といっています)です。
 
 だから、日本が統一国家として飛躍的な発展を遂げた裏側で、統帥権の独立につながる日本独特の軍制を確立し、”天皇ヲ以テ現御神トシ、且日本国民ヲ以テ他ノ民族ニ優越セル民族ニシテ、延テ世界ヲ支配スベキ運命ヲ有ストノ架空ナル観念”や、”攻むれば必ず取り、戦へば必ず勝ち、遍く皇道を宣布し、敵をして仰いで御稜威の尊厳を感銘せしむる”ような思想教育を徹底して領土拡張の戦争を継続することになったということを見逃してはならないと思います。

 言い換えれば、明治時代の生活や制度の近代化が、人命や人権を尊重する学問や文化の発展に裏づけられた政治体制や軍事体制をもたらさなかったということです。 
 それは、自由民権運動の抑圧や、国際的に評価されるような社会科学や人文科学の分野における研究者の著書の発禁処分などに示されていると思います。したがって、尊王攘夷急進派が、明治維新によって作り上げた日本は、”天皇ヲ以テ現御神トシ、且日本国民ヲ以テ他ノ民族ニ優越セル民族”とする「カルト国家」であり、国際社会に通用する健全な国家であったとは言えないと思うのです。
 そういう意味で、私は津田左右吉の「明治維新の研究」は、貴重だと思います。
 
 日本は、残念ながら敗戦後も、尊王攘夷急進派の流れを汲む戦争指導層の影響を払拭できず、明治時代の近代化は、明治の元勲の功績によるものとされているように思いますが、そういう歴史認識では、「新国策」を定め、「開国」をはじめとする改革を着々と進め、大政を奉還した幕府を、なぜ薩長を中心とする尊王攘夷急進派が倒したのか、倒幕の理由が示せないと思います。また、外国の勢力が日本に及ぶ恐れがあったにもかかわらず、なぜ日本を二分するような戊辰戦争などをやったのか、その理由も、きちんと示すことができないと思います。
 したがって、明治維新に関わる日本の歴史教育は、いまだに論理的にあいまいで、誰もが納得できるものになっていないように思います。薩英戦争四国艦隊下関砲撃事件の敗北で、攘夷が不可能であることを知りながら、なぜ薩長を中心とする尊王攘夷急進派は、「攘夷」を掲げて倒幕に走ったのか、その矛盾も明らかにされてはいないと思います。  

 明治維新を主導した志士や浪人は、みな優秀で新しい時代を切り開こうとしていたことは間違いないと思いますが、元勲とされている人たちも含めて、あまりにも向こう見ずで、了見が狭く、過激な若者集団だったのではないかと思います。だから、倒幕は、決して日本の近代化を目的としたものではなかったこと、また、倒幕後の日本が、”廣ク會議ヲ興シ萬機公論ニ決スベシ”といわれるような体制の国家にならなかったことは、見逃されてはならないと思います。そして、明治維新によってつくりあげられた日本が、敗戦後の日本につながっていることを、しっかり受けとめる必要があると思います。

 津田左右吉の ”わたくしの考えは、日本の国家経営の一大転機に立っていたいわゆる幕末の十余年間において、当時の日本の政府であった幕府当局者が、日本の国家の進んでゆく針路を如何なる方向にとらせようとして努力したか、そうしてそれがどれだけの効果を収めその後の日本にどういうはたらきをしたか、を見るとともに、幕府のこの方針に対立して断えずそれを妨害する力、歴史的意義においては一種の反動勢力があったこと、また、後に維新の元勲などといわれた人物の思想や行動もこの反動的勢力に属するものであって、それが明治の日本にいろいろの暗い影を投げかけたことを明らかにし、カツをその間に立たせてみようとしたのである。”という考えに基づく、下記の論稿は、日本の歴史教育にとって重要だと、私は思います。
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             第二章 幕末における政府とそれに対する反動勢力

    一
 わたくしは他日機を見てカツ・アワの人物とその行動とに関する卑見を述べてみたいといっておいた。
 わたくしの考えは、日本の国家経営の一大転機に立っていたいわゆる幕末の十余年間において、当時の日本の政府であった幕府当局者が、日本の国家の進んでゆく針路を如何なる方向にとらせようとして努力したか、そうしてそれがどれだけの効果を収めその後の日本にどういうはたらきをしたか、を見るとともに、幕府のこの方針に対立して断えずそれを妨害する力、歴史的意義においては一種の反動勢力があったこと、また、後に維新の元勲などといわれた人物の思想や行動もこの反動的勢力に属するものであって、それが明治の日本にいろいろの暗い影を投げかけたことを明らかにし、カツをその間に立たせてみようとしたのである。カツをあまりにも大きく見せ過ぎることにもなるし、いまさら百余年も前の幕末時代を回顧することに何ほどの意味があるかと思われるかもしれぬが、わたくし自身には、興味深い問題なのである。
 これまでの幕末の政治の根幹は、治安を維持することによってトクガワ家の権力を固めるところにあった。いわゆる禁教の政策だけは、世界に対して日本の国家の独立と平和とを確立するためのものであったが、それすらも上記の意味での治安の維持と絡み合っていた。ところが、嘉永・安政の交(変わり目)に至り、アメリカおよびヨーロッパ諸国の開国の要求に接し、親しく列国と交渉を開くようになると、交渉を重ねるそのことによって、幕府の当局者は初めて幕府が世界における独立国としての日本の政府であることを新しく認識し、おのれらが世界における日本人であることの明らかな自覚に導かれた。幕府の政治はこれまでの如くトクガワ家の権力を維持しまたはそれを固めることにあるのではなく、世界列国に対して独立国日本を立派に打ち立ててゆくこと、列国の一員として進んでその間に立ち交わり、彼らとともに盛んな活動をしてゆくことである、という根本方針が、かくして決定せられた。アベ(阿部正弘)・ホッタ(堀田正睦)の二閣老によって指導せられ、新たに登用せられた幾多の優秀なる事務官によって翼賛せられ助成せられた開国政策は、この根本方針から割り出されたものであり、それによって幕府政治の一大転換が行われたのである。
 列国との通商条約の締結及びその実行としての貿易港の開設、批准交換使のアメリカ派遣、オランダから教師を招聘して行われた海軍伝習、日本の海軍軍人がその伝習の開始から三、四年の短日月を経たのみでありながら、僅々百馬力の小艦咸臨丸を運転してアメリカに渡航し、日本の国旗を初めて海外に翻したこと、西洋の学術の研究と教授とのための国立の学校たる洋書調所の開設、その後における留学生のヨーロッパ派遣、あるいはまた蝦夷地の警備及び拓殖、小笠原島の所属決定、数次にわたってのヨーロッパへの使節の派遣、後には在外公使の任命及び公使館の設置、将軍の特派大使のヨーロッパ列国の宮廷歴訪、フランスに開かれた万国博覧会への参加、なお幕府の最後の事業としてのヨコスカ(横須賀)造船所の開設、実現はできなかったけれども朝鮮の開国を勧誘しようとした新しい外交政策、およそこれらの事業は、上記の如き反動勢力の執拗な妨害のために、あるいは態度の明轍を欠きあるいは行動の渋滞を来たしたことが少なくないにかかわらず、大観すれば、幕府が終始一貫して最初に決定した国策を遂行したことを示すものである。
 この国策は、要約していうと、日本が初めて外国と正常な外交関係をもつようになったことと、ヨーロッパ及びアメリカの文明を学びとろうとしたことがあって、その外交関係は昔からのシナに対するのとは全く違っていたことが注意せられなければならぬ。自国を中国とし他国を夷狄とするようなシナに対しては、正常な外交関係は成り立たず、力に任せて他を圧服せんとするような態度をとったトヨトミ・ヒデヨシ(豊臣秀吉)の行動もまた外交ではない。日本が他国と外交関係を生じたのは、トクガワ幕府のこのときのしごとに始まるのである。
 ただ外に対して国家の独立を保つには内においてその統一を堅固にすることが必要であるのに、戦国時代の遺習による世襲的封建諸侯の存在はそれを妨げるし、新しい国策の遂行には人材を必要とすることが多いのに、世禄を食む武士によってすべての吏療が構成せられ、そうしてそれが一般社会組織の根幹ともなっている従来の制度においては、このことが困難である。この封建の政治制度と武士本位の社会組織とは、トクガワ家の権力の固定をその政策の根本としていた旧来の幕府にとっては、極めて自然でまた極めて重要なものであり、事実それによって幕府が存立し得たのであるが、国策に一大転換を行った以上、それをそのまま維持するのでは、新国策が行い得られぬ。第一、政治的勢力の上からも外国貿易に関する経済上の利益の点からも、封建諸侯が幕府の新国策を賛助するどうかが疑問であり、また武士の制度は当時においては焦眉の急とせられていた兵制の整備にすら大なる障害を与えることになる。この二つの制度は制度自身がそれぞれに大なる矛盾を抱いているのであって、多年にわたる幕府の政弊もそれによるところが多かったが、このことは別の問題としても、差し当ってここにいったような困難がある。しかしそれを改めることは幕府の根幹を揺るがすことであるから、当時の幕府の当局者も軽々しくそれに手を触れるわけにはゆかぬ。そこであるいは一種の政治道徳観から、封建諸侯をして幕府の国策に親しませることによって彼らを思想的に統一せんことを試み、あるいは人知れぬ間に徐々に直参武士の生活と目前の要求(※兵制改革)とを調和させようとした。対外の問題について諸侯の意見を徴した幕府としての空前の処置は前者であるが、その効果には幕府の国策の執行にとって益するところはほとんどなかった。またトクガワ家の直参武士に対する方策としても、それを新しい国策に順応させるには、概していうと彼らの道徳的心情と、その生活に対するある程度の安定感と、また一種の名誉心とに委する他はなかったが、幸いにこの点では幕府の苦心がほぼ酬いられた。上に記した新国策の実現としての種々の事業の企画もその遂行も、みな直参武士から選任せられた諸有司によってなされたのである。けれども封建諸侯の家臣については、少数の例外を除いては、幕府の如何ともする能わざるところであった。要するに、幕府はその新国策を実現するに当り、封建諸侯の存在と武士というものの政治的・社会的な地位によって未曽有の困難に遭遇せざるを得なかったのである。
 
     二
 日本の政府たる幕府は、列国と種々の交渉を重ねることによって、次第に世界の形勢を知り、そうしてそれによって日本の国家の使命と日本の政府の責務とを覚ってきたので、そのために旧来の因襲を放棄し去って新たに世界に対する日本の国策を立て、またそれに伴って封建諸侯の思想的統一と直参武士の生活の変改とを企図したことは、上にいったとおりである。ところが、儒学思想または神道思想によってその知見を養われてきた当時の知識人の中の一群は、これに反して現実の世界の形勢には眼を塞ぎ、徒らに列国をもって我が「神州」に危害を加えるものと信じ、一面ではそれに対していわれなき恐怖心を抱くとともに、他面では武備することが手軽にでき、従って「夷狄」を撃攘することが容易であるように思い、幕府の明識ある閣僚とそれを翼賛した諸有司とのなみなみならぬ努力と、日本をして初めて一応の国際的地位を占めるを得しめたその大なる功績とをみとめようとせず、かえって外夷の脅嚇に屈服したものとしてひたすらそれを非難し、締結せられた条約の破棄を主張するに至った。
 のみならず、彼らはこれらの主張を、これまで内外ともに認めていた日本の政府としての幕府の地位を否認する思想にまで発展させてゆくことによって、日本の政治形態の問題、政権の所在の問題に転化させ、長い間政府と全く分離していて政治の上に超然たる地位にあった宮廷を、政治の政界に引き下ろした。宮廷には政治に参与するだけの人物もなく機関もないのに、急にこういう地位に置かれたために、それは結局、当時志士とか浪人とかいわれていたこれらの一部の「知識人」の左右するところとなり、彼らによって引き起こされた政治上の紛乱に巻き込まれることになった。勅諚(チョクッジョウ)とか叡慮(エイリョ)とかいう名によって宮廷から発表せられる声明が実は彼らの意向であって、政治上の紛乱はそれによって生ずるのであった。幕府の大老の地位に就いたイイ(井伊直弼)の行動も実はそれに引きずられたのであって、彼がアベやホッタによって定められた新国策を継承しまたは推進するよりも、トクガワ家の権力の維持を根幹とする幕府の旧方針を守ってゆくことに重点を置いたのでも、それは知られる。彼のこの態度はいわゆる志士や浪人の運動を抑圧する点においてそれとは正反対のように見え、事実その間に激しい衝突が起ったが、それは政権の所在を幕府とするか宮廷とするかの違いから来たことであって、問題の中心点はどこまでも国内における政権の所在であった。 
かかる運動を行った志士や浪人の間には、一方では全国的に種々の連絡が作られ、諸侯の家臣にも脱藩して彼らの群れに投ずるものが多かったが、脱藩者も実は主家との関係を持続していて武士としての地位と生活を失わないのがむしろ彼らの常状であり、それによって封建諸侯の勢力の存在が示されるとともに、他方では、彼らはもはや知識人とはいわれない暴徒と化し、暗殺劫略、凶悪の限りを尽くして世の秩序を破壊しながら、政権の根本を動かすような行動をとろうとする場合には、やはり有力な諸侯及びその家臣の力によらなければならなかった。
 そこで彼らは宮廷内の勢力とかかる諸侯またはその家臣とを連結させることを努めた。ところが、諸侯をしてかかる活動をさせることは、おのずから戦国割拠の形勢を誘致するので、それは彼らの間の思想的統一を求めることによって国家の結合を固めようとする幕府の新国策とは一致しないし、またそれが宮廷内の勢力と連結せられると、それは単に思想の上においてのみではなく、実行運動として日本の政府としての幕府を倒壊せんとするようになってゆく。ただ宮廷人の内でも意見は必ずしも一致せず、有力な諸侯とてもまた同様であるから、かかる実行運動は容易に実現せられず、特に従来叡慮の名によって声明せられていたことは、武士や浪人の煽動に基づいた一部の宮廷人の意向であって、真の叡慮ではなかったことが、一般に推測せられているのみならず、その一部分は主上(※孝明天皇)御自身によっても明らかにせられ、キョウト(京都)の守護職アイヅ侯の手によって行われたクーデターによって、かかる宮廷人とそれを支持したチョウシュウ(長州)侯との勢力は宮廷から一掃せられた。名を叡慮にかり勅諚にかりておのれの主張を宣伝し、それによって宮廷を政治上の紛争に巻き込もうとした一部の宮廷人やその煽動者たる志士や浪人やその支持者たる有力な諸侯の、悪辣な運動は、かくして一たび挫折したが、彼らがほしいままに勅諚の名を利用したことは、日本の国家の進展のために新国策を行なおうとする幕府の行動を抑制もしくは妨害したのみならず、今日から見れば、政治上の重大なる責任を皇室に帰したことになるが、当時においても識者のうちにはそのことに思慮の及んだものがあった。    
 さてこのクーデターと前後して、チョウシュウの行った外艦砲撃の失敗とイギリス艦隊の来攻によるサツマの敗戦とは、勅諚の名・叡慮の名によってしばしば声明せられた攘夷が実行すべからざる空想であることを、志士や浪人の徒にも有力な諸侯にも覚らせるとともに、外夷は必ずしも「神州」を窺窬(キユ)する(※隙をうかがい狙う)ものでないこと、日本は進んで列国と親好しなければならぬことを、彼らに感知させた。
 しかし志士や浪人の徒の幕府倒壊の計画は消滅せず、チョウシュウ侯の勢力はそれがために宮廷の武力的占領を企てるに至った。この計画もまた失敗に帰したが、幕府の一部にはこの機会においてトクガワ氏の権力の確立を根幹とする伝統的の政策を強行しようとする意向をもつものも生じた。けれども時勢の動きは必ずしもそれに便ならざるものがあったので、サツマを主とする有力諸侯は、一方では列侯会議を設けて幕府を牽制せんとしたが、外交上では諸侯が列国と各別に条約を締結する権能をもつべきだという主張が、サツマの家臣の間に生じていたし、勅命の名をかりて外艦を砲撃しながらそれが失敗すると忽ち外艦に降伏して一種の平和条約ともいうべきものを締結したチョウシュウの行動も、それと通ずるところのあるものであった。サツマ人のこの主張の裏面には、列国と親和することは必要だが、勅諚を奉ぜずして幕府が締結した条約は無効であるという考えがあるので、そこに攘夷論から継承せられたところがある。この思想は現実の情勢としては戦国割拠の状態の復活を来すことになるので、そこにはまた日本の政府としての幕府の存立を否認し、日本の国家の統一を破壊せんとする思想が伏在しる。フランスの万国博覧会におけるサツマの行動(※幕府に対抗し「薩摩琉球国太守政府」の名で独自に物産を展示)は、この主張の実行に移されたものと解し得られよう。諸侯会議によって国政を処理せんとするのとこれとは、矛盾するもののようであるが、諸侯会議とても実は四、五の有力諸侯がそれぞれ自己の勢力を伸長しようとすること、もしくは諸侯の一人がその主導権を握ろうとすること、に他ならず、そうしてその根底には幕府否認の思想が存在するから、この二つは、形を異にして精神を同じくするものなのである。
 サツマとチョウシュウとの連合は斯かる形勢の間に行われ、そうして宮廷の内部に起った新勢力がそれと結びつくに至って、いわゆる王政復古・幕府征討の計画がせられたのである。この計画はかつてチョウシュウの勢力が一たび企てて成功しなかった宮廷の武力占領と、その力により勅命の名をかりた宣伝もしくは声明を行うこととによって成立したものであるが、勅命をかりるのは、前々からいわゆる志士や浪人の煽動によって一部の宮廷人の行ってきたところを踏襲したものである。ただこのときには前主上の崩御が有力な機会となったことが、ほぼ推知せられる。しかしここで注意せられるのは、かねてから勅諚まあたは叡慮として宮廷人によって宣伝せられた「攘夷」が、幕府の締結した条約の勅許という形において全く否定せられたことであって、これは名を勅命にかりることが精神的にその権威を失ったという重大な事実の生じたことを示すものである。かかる明白なる事実が示されたにもかかわらず、王政復古・トクガワ氏の征討を同じく勅命の名をかりることによって行なおうとしたのが、一部の宮廷人やいわゆる薩長の意図であった。
 しかし実はそれよりも、薩長の軍事活動がドバ(鳥羽)・フシミ(伏見)の戦争において勝利を得たことの方が、重要である。この戦争が薩長にとっては、昔のト44444クガワ氏におけるセキガハラ(関ケ原)もしくはオオサカ(大坂)の役のはたらきをしたのである。諸侯の多数は結局勢力の強いものになびいたに過ぎないからである。チョウシュウの勢力がかつて宮廷人を使嗾して勅命の名を用い、それによって幕府倒壊の運動を起しながらそれが失敗したのに、いま薩長勢力が同じことをして成功したのは、このことを証するものでなくて何であろうぞ。
 アベやホッタの指導下にあった日本の政府としての幕府が、日本に国際的地位を得させようとして定めた新しい国策は、種々の紛乱を経た後、条約勅許の名において公式に承認せられ、明治の政府の政府もそれを継承するようになってゆくのであるが、封建諸侯の存在と、その諸侯の家臣たる武士及びそれとともに暴悪の限りを尽くして国家の秩序を壊乱させた志士輩浪人輩の行動とは、事実において戦国割拠の形勢の復活となって現われ、日本の国家の政治的統一はそれによって破られた。これが幕府の国策を妨害し撹乱しようとした反動勢力の活動であったのである。

 


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